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仁藤にとう拓馬たくま

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仁藤にとう 拓馬たくま
ぐんサーパス時代じだいの2008ねん9がつ28にちウエスタン・リーグたい阪神はんしんせん阪神はんしん鳴尾浜なるおはま球場きゅうじょう
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 静岡しずおかけん島田しまだ
生年月日せいねんがっぴ (1988-07-13) 1988ねん7がつ13にち(36さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
183 cm
80 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ
プロ 2006ねん 高校生こうこうせいドラフト4じゅん
はつ出場しゅつじょう 2009ねん4がつ7にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 同上どうじょう
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど

仁藤にとう 拓馬たくま(にとう たくま、1988ねん7がつ13にち - )は、静岡しずおかけん島田しまだ出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)で、現在げんざいオリックス・バファローズ球団きゅうだん職員しょくいん

経歴けいれき

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プロまえ

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小学校しょうがっこう3ねんに、少年しょうねん野球やきゅうチームの「島田しまだイースタン」で軟式なんしき野球やきゅうはじめた。当初とうしょ内野ないやしゅだったが、5ねんから投手とうしゅ転向てんこうすると、6ねん静岡しずおかけん大会たいかいじゅん優勝ゆうしょう経験けいけん[1]島田しまだ市立しりつ島田しまだだい中学校ちゅうがっこうへの進学しんがくは、校内こうない軟式なんしき野球やきゅう投手とうしゅ遊撃手ゆうげきしゅつとめた[1]

静岡しずおか県立けんりつ島田しまだ商業しょうぎょう高校こうこうへの進学しんがく硬式こうしき野球やきゅう入部にゅうぶすると、3ねん春季しゅんきけん大会たいかいでチームのはつ優勝ゆうしょう貢献こうけん地区ちく予選よせんから68かい1/3をくとともに、オーバースローから最速さいそく145km/hのストレートで73だつ三振さんしん記録きろくした[1]はるなつつうじて甲子園こうしえん球場きゅうじょう全国ぜんこく大会たいかい無縁むえんであったが、2006ねんのNPB高校生こうこうせいドラフト会議かいぎで、オリックス・バファローズから4じゅん指名しめい契約けいやくきん3,500まんえん年俸ねんぽう500まんえん金額きんがく推定すいてい)という条件じょうけん入団にゅうだんした。背番号せばんごう68

プロ

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高校こうこう時代じだいからみぎひじいためていたため、2007ねん入団にゅうだん直後ちょくごトミー・ジョン手術しゅじゅつけた。このとしいちぐんとも公式こうしきせん登板とうばんせず、患部かんぶのリハビリを優先ゆうせんするかたわら、ぐんサーパス)の主催しゅさい公式こうしきせん投手とうしゅ投球とうきゅうチャートを作成さくせいしていた[2]

2008ねんには、前述ぜんじゅつした手術しゅじゅつ影響えいきょうで、投球とうきゅうフォームをオーバースローからサイドスロー変更へんこう。これをに、シュートかた習得しゅうとくした[3]。サーパスでは、おも中継なかつウエスタン・リーグ公式こうしきせん17試合しあい登板とうばん防御ぼうぎょりつ3.77ながら2しょうげたほか、だつ三振さんしんすう(29)が投球とうきゅうかい(28かい2/3)をわずかに上回うわまわった。8がつ24にちにははじめての出場しゅつじょう選手せんしゅ登録とうろくたしたものの、一軍いちぐん公式こうしきせんへの登板とうばん機会きかいがないまま、短期間たんきかん登録とうろく抹消まっしょうされている。

2009ねんには、春季しゅんきキャンプのスタートこそぐんむかえたものの、キャンプちゅう紅白こうはくせんから一軍いちぐん昇格しょうかく。テクニカルコーチとして一軍いちぐん帯同たいどうしていた野茂のも英雄ひでおテクニカルアドバイザーからのたか評価ひょうか背景はいけいに、オープンせん以降いこう一軍いちぐんへの帯同たいどうつづけたすえに、開幕かいまく一軍いちぐんりをたした。しかし、開幕かいまく直前ちょくぜん体調たいちょうくずしたため、病院びょういん診察しんさつけたところ過敏かびんせいちょう症候群しょうこうぐん診断しんだん実際じっさいには4がつ7にちたい埼玉さいたま西武せいぶライオンズたたかえ西武せいぶドーム)にリリーフで登板とうばんしただけで、ぐんへの降格こうかく余儀よぎなくされた。降格こうかく過敏かびんせいちょう症候群しょうこうぐん影響えいきょう投球とうきゅう支障ししょうきたしていた[2]ため、よく2010ねん10月30にち戦力せんりょくがい通告つうこくけたことを現役げんえき引退いんたい

現役げんえき引退いんたい

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2011ねん以降いこう球団きゅうだん職員しょくいんとしてオリックスに在籍ざいせき2011ねんから先乗さきのスコアラー[4][5]2014ねんにマネージャーをつとめた。2015ねん以降いこうは、チームづけ広報こうほう[6]て、事業じぎょう企画きかく宣伝せんでんグループに所属しょぞく球団きゅうだんSNSうえ開設かいせつしている公式こうしきアカウントけの画像がぞう動画どうが撮影さつえいなどを担当たんとうしている[7]

選手せんしゅとしての特徴とくちょう

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140km/h前後ぜんごのストレートと、スライダーシンカーシュートといった多彩たさい変化球へんかきゅうけていた。オリックスへの入団にゅうだん直後ちょくごまではオーバースローげていたが、トミー・ジョン手術しゅじゅつからのリハビリをて、2ねんからサイドスロー転向てんこう投球とうきゅう身体しんたいよこ方向ほうこう回転かいてんすることを見抜みぬいた酒井さかいつとむぐん投手とうしゅコーチ(当時とうじ)からの提案ていあんによる転向てんこうで、クロスステップでげていたことをかすべく、みぎ打者だしゃ胸元むなもとむシュートのかた習得しゅうとくした[2]

人物じんぶつ

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母校ぼこう島田しまだ商業しょうぎょう高校こうこう県内けんない有数ゆうすう商業しょうぎょう高校こうこうで、自身じしんぜんしょう簿記ぼき検定けんてい1きゅうなどの資格しかく取得しゅとくしている。

サーパス時代じだい2008ねん4がつ26にちにシート打撃だげき清原きよはら和博かずひろ打撃だげき投手とうしゅつとめたところ、仁藤にとう使つかっていたしろ手袋てぶくろに、清原きよはらが「仁藤にとう頑張がんばれよ ナイスボール 清原きよはら和博かずひろ」というメッセージをんだ。仁藤にとういまでもこの手袋てぶくろ宝物ほうもつにしてはげみにしている[6]

2009ねん過敏かびんせいちょう症候群しょうこうぐん診断しんだんされてからは、1にちなんかいもトイレへったり、1ヶ月かげつあいだ体重たいじゅうがおよそ10kgちたりするなどの体調たいちょう不良ふりょうなやまされた[2]。その影響えいきょう投球とうきゅうフォームのまよいにもつながるほど深刻しんこくで、現役げんえき引退いんたいしたのちには、「身体しんたいおもどおりにうごかず、だれかに操縦そうじゅうされているようだった」と述懐じゅっかいしている[6]

詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき

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とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
2009 オリックス 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 6 1.0 3 0 0 0 0 0 0 0 2 2 18.00 3.00
通算つうさん:1ねん 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 6 1.0 3 0 0 0 0 0 0 0 2 2 18.00 3.00

記録きろく

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背番号せばんごう

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  • 68 (2007ねん - 2010ねん

脚注きゃくちゅう

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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