伊東いとう一刀斎いっとうさい

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伊東いとう 一刀斎いっとうさい(いとう いっとうさい、なま没年ぼつねんしょう)は戦国せんごく時代じだいから江戸えど初期しょきにかけての剣客けんかく名字みょうじ伊藤いとうとも。江戸えど時代じだい隆盛りゅうせいした一刀いっとうりゅう剣術けんじゅつであるが、自身じしんが「一刀いっとうりゅう」をしょうしたことはなかったという。いみなけいひさしぜん前原まえはら弥五郎やごろう弟子でし小野おのよしおに藤田ふじた俊直としなお神子かみこうえ吉明よしあきら。

経歴けいれきについて[編集へんしゅう]

一刀斎いっとうさい経歴けいれき異説いせつおおく、どれがただしいかどころがない。なま没年ぼつねんは、1550ねん天文てんもん19ねん生年せいねんせつ1560ねんえいろく3ねん生年せいねん1628ねん寛永かんえい5ねんぼつせつ、また1632ねん寛永かんえい9ねん)に90さいぼつせつ1560ねんえいろく3ねん8がつ5にち (旧暦きゅうれき)まれ1653ねんうけたまわおう2ねん6がつ20日はつか (旧暦きゅうれき)に94さいぼつせつがある。出身しゅっしんは、一般いっぱんには伊豆いずこく伊東いとうひとであり、出身しゅっしんから伊東いとうせい名乗なのったといわれている。(ただし、伊東いとうには伊東いとう一刀斎いっとうさいについての伝承でんしょう伝説でんせつとう一切いっさいつたわっていない)しかし、「びんわりがたな」の逸話いつわによれば、一刀斎いっとうさい伊豆いず大島おおしま出身しゅっしんで、14さいのときに格子こうしいちまいにすがって三島みしまおよき、三島みしま神社じんじゃ富田とみたいち試合しあいしてち、神主かんぬしから宝刀ほうとうあたえられた。このかたな盗賊とうぞく7にんころし、最後さいご1人ひとり大瓶おおびんかくれたところをびんごとふたつにったという。ほかに、『一刀いっとう流傳りゅうでんしょ』によれば西国さいこくまれとし、山田やまだろうきちによれば古藤田ことうだ一刀いっとうりゅう伝書でんしょ近江おうみ堅田かただまれの記述きじゅつがあるという。『絵本えもと英雄ひでお美談びだん』によれば加賀かが金沢かなざわか、越前えちぜん敦賀つるがまれで、敦賀つるがじょうあるじ大谷おおやきちまましけんだったが、大谷おおや関ヶ原せきがはらたたか戦死せんししたために浪人ろうにんし、下総しもうさ小金原こがねはら現在げんざい松戸まつど小金こがね付近ふきんか)に隠棲いんせいして死去しきょしたともいう。また、終焉しゅうえんについても丹波たんば篠山しのやませつもある。

一刀斎いっとうさい剣術けんじゅつ極意ごくい[編集へんしゅう]

一刀いっとうりゅう極意ごくい』(笹森ささもりじゅんづくり)によると「高上たかうえ金剛こんごうがたな極意ごくいとし英名えいめいはしせていた中条ちゅうじょうりゅう達人たつじんかねめくときつうむね江戸えどたずね、いてときから中条ちゅうじょうりゅう小太刀こだちとき工夫くふうになるなか太刀たちまなんだ。弥五郎やごろう一刀斎いっとうさい)は日夜にちや一心不乱いっしんふらん鍛錬たんれんこうんだので(中略ちゅうりゃくときふか感心かんしんして自流じりゅう極意ごくい奥秘おうひかたなたるみょうけん絶妙ぜつみょうけん真剣しんけんきむ翅鳥おうけんどくみょうけんてんことごと弥五郎やごろうさづけた」という。ほかにも、みずかした極意ごくいとして、愛人あいじんあざむかれて刺客しかく寝込ねこみをおそわれ、逆襲ぎゃくしゅうしたときにまれたという太刀だちはらい捨刀」、引・あい小太刀こだちえつ鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう参籠さんろうして無意識むいしきのうちにてきり、さとりをたという「夢想むそうけん」などがある(溝口みぞぐち一刀いっとうりゅう伝書でんしょ流伝りゅうでんしょ)。「けいひさ回國かいこく他流たりゅうせんさんじゅうさんなりと、ぼつななにちなりと。年號ねんごうつまびらかならず」(『一刀いっとうりゅう歴代れきだいりゃく』)とあるようにその一刀斎いっとうさい諸国しょこく遍歴へんれきし、勝負しょうぶすること33、ただのいちやぶれなかったという。

現存げんそんするつて真田さなだ信繁のぶしげ写本しゃほんみなもと家訓かくん閲集』に収録しゅうろくの「夢想むそうけんしんほうしょ」には、1595ねんぶんろく4ねん)7がつのもので署名しょめいが「外田とだ一刀斎いっとうさいめい」とある。外田とだ一刀斎いっとうさいとはかねめくとき別名べつめいでもあり、とき経歴けいれきのよくわからない人物じんぶつである。したがって、出身しゅっしんなど両者りょうしゃ事績じせきかさなっている可能かのうせいもあるとかんがえられる。一方いっぽう柳生やぎゅう記録きろくたまさかえ拾遺しゅうい』の注記ちゅうきには、一刀斎いっとうさいは「山崎やまざきもりげん」とされている。「名人めいじん越後えちご」としょうされた富田とみた重政しげまさ富田とみたりゅう)のおとうとあにとも)に山崎やまざき左近さこん将監しょうげんけいなりがあり、けんめいたかかった。あるいはこの山崎やまざきけいなりが「山崎やまざきもりげん」である可能かのうせいもある。

唐人とうじんとの試合しあい[編集へんしゅう]

天正てんしょう年間ねんかん相模さがみ三浦みうら三崎みさき戸田とだ一刀斎いっとうさい諸国しょこく武者むしゃ修行しゅぎょう途次とじり、おおくの入門にゅうもんしゃがあったとされる。このとき、北条ほうじょう家臣かしん藤田ふじた俊直としなお古藤田ことうだ一刀いっとうりゅう、またはそと一刀いっとうりゅう唯心ゆいしん一刀いっとうりゅう)を高弟こうていとしていることから、この戸田とだ一刀斎いっとうさい伊東いとう一刀斎いっとうさい間違まちがいなさそうである。1578ねん天正てんしょう6ねん)、三浦みうら三崎みさき唐人とうじん来航らいこうしたときにじゅうかんという中国ちゅうごくがたなじゅつ名人めいじんがいて、一刀斎いっとうさいおうぎ一本いっぽん木刀ぼくとうったじゅうかん試合しあいし、ったといわれる。

一刀いっとうりゅう相伝そうでん[編集へんしゅう]

一刀いっとうりゅう口傳くでんしょ』、『撃剣げっけんくさむらだん』によれば、一刀斎いっとうさい弟子でしぜんおにせいしょう。なお一刀斎いっとうさいとの出会であいをえがいた『みみぶくろ写本しゃほんでは船頭せんどうとありめい記述きじゅつされていない。小野おのせいとするのは俗説ぞくせつ)と神子みこじょうてんぜん下総しもうさこく小金原こがねはらげん千葉ちばけん松戸まつど小金原こがねはら付近ふきん。なお『雜話ざつわ筆記ひっき』ではしゅう桔梗ききょうばら乗鞍のりくらたけしきた)とする)で勝負しょうぶさせ、ったてんぜん一刀いっとうりゅう秘伝ひでん相伝そうでんした。てんぜんのち一刀斎いっとうさい徳川とくがわ家康いえやす推薦すいせんされ1593ねんぶんろく2ねん)に徳川とくがわ秀忠ひでただに200せきつかえた小野おの忠明ただあき小野おの次郎じろうみぎ衛門えもん)である。一刀いっとうりゅうは、小野おの忠明ただあきのち小野おの忠常ただつね小野おの一刀いっとうりゅう忠明ただあきおとうと次子じしとも)の伊藤いとうのりぜん忠也ちゅうや(『剣術けんじゅつ系図けいずあきらこうかんほんちゅう修行しゅぎょう時代じだいけいまえ名前なまえ神子みこ神典しんてんぜん名乗なのったとされる)の伊藤いとう一刀いっとうりゅう忠也ちゅうやとも)にかれ、以後いごおおくの道統どうとうまれた。

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]