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河原院かわらのいん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

河原院かわらのいん(かわらのいん)は、京都きょうとろくじょうにあったみなもととおる邸宅ていたくである。

概要がいよう

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みなみろくじょう大路おおじきたろくじょう坊門ぼうもん小路こうじひがし東京とうきょう極大きょくだい西にし萬里小路まりこうじかこまれた4まち一説いっせつには8まち)の広大こうだい敷地しきちで、陸奥みちのくこく塩竈しおがま風景ふうけいして庭園ていえんつくり、尼崎あまがさきから毎月まいつき30せき海水かいすいはこんで塩焼しおやき(製塩せいえん)をたのしんだという。とおる死後しごのぼり相続そうぞくし、のぼり宇多うた上皇じょうこう献上けんじょうして仙洞せんとう御所ごしょとなった。のちとおる三男さんなんじんやすしあたえられてらとなったが、ひとしかん祗陀林寺はやしじ創建そうけんするさい河原院かわらのいん本尊ほんぞんうつされ、そのすう火災かさい荒廃こうはいした。

跡地あとち一部いちぶには江戸えど時代じだいわたるなりえんつくられた。

源氏物語げんじものがたり』の注釈ちゅうしゃくしょかわうみしょう』には、光源氏ひかるげんじ邸宅ていたく六条院ろくじょういん」のモデルのひとつが河原院かわらのいんだとある。また夕顔ゆうがお一夜いちやかしたぼういん河原院かわらのいんがモデルだという。

みなもととおる河原院かわらのいん

現在げんざい下京しもぎょう木屋こやまちどおり五条ごじょうしもルに「河原院かわらのいん」の石碑せきひがある。一帯いったい河原院かわらのいんにわなかしまませしま」が鴨川かもがわ氾濫はんらんによって埋没まいぼつしたものとつたえられた「ませもり」のあとで、石碑せきひとなりにある老木ろうぼくえのきもりにあった最後さいごの1ほんだというが、石碑せきひ位置いち河原院かわらのいん推定すいていよりすこしだけそとにはみている。

説話せつわ

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河原院かわらのいんにはとおる幽霊ゆうれいるということでも有名ゆうめいで、『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』などにいくつかのはなしっている。

  • 今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』27-2 -- 宇多うた上皇じょうこう滞在たいざいちゅうとおるれいあらわれ「ここはわたしいえです」とったので、上皇じょうこうが「おまえ息子むすこからもらったのだ」と一喝いっかつすると、それ以降いこうとおるれいあらわれなくなった。
  • こうだんしょう』 -- 宇多うた上皇じょうこう京極きょうごく御息所みやすんどころ河原院かわらのいんよるごしていると、とおるれいあらわれ「御息所みやすんどころがほしい」とった。上皇じょうこうことわったが、御息所みやすんどころんだようにぐったりとしていた。上皇じょうこういそ宮中きゅうちゅうもどり、そう祈祷きとうさせたところ、御息所みやすんどころかえった。
  • むらさきあきらしょう』 -- 宇多うた上皇じょうこう御息所みやすんどころ河原院かわらのいんつきながめていると、なにぶつかが御息所みやすんどころ建物たてものなかれようとした。上皇じょうこうが「なにぶつか」とうと「とおる」とこたえがあり、御息所みやすんどころはなされたが、すでに御息所みやすんどころいきえていた。
  • 今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』27-17 -- 東国とうごくから上京じょうきょうした夫婦ふうふが、れはてた河原院かわらのいん一夜いちやかそうとしたが、おっとうまつないでいるあいだつま建物たてものなかからされたとらえられた。おっとけようとしてもかたざされてひらかない。こわしてなかはいってみると、そこにはいつくされたつま死体したいるされていた。

関連かんれん項目こうもく

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