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古代こだいローマの通貨つうか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ほんこうでは、共和きょうわせいローママ帝国まていこく西にしはんにおける古代こだいローマの通貨つうかについてべる。おも貨幣かへいとしては、アウレウス金貨きんか)、デナリウス銀貨ぎんか)、セステルティウスあお銅貨どうか)、ドゥポンディウスあお銅貨どうか)、アス銅貨どうか)がある。それらは紀元前きげんぜん3世紀せいきなかごろから紀元きげん3世紀せいきなかごろまで使つかわれた。

ギリシアに影響えいきょうけた地域ちいきではこれらの貨幣かへい流通りゅうつうしたが、同時どうじにその地方ちほう独自どくじ貨幣かへい発行はっこうしており、それらを Roman provincial coins などとぶ。

3世紀せいきになると、デナリウス貨のわりとしてばい価額かがく銀貨ぎんかアントニニアヌス貨が発行はっこうされたが、ディオクレティアヌスみかど通貨つうか改革かいかくおこなったさい廃止はいしされ、あらたにアルゲンテウス銀貨ぎんか)やフォリスぎんぜたあお銅貨どうか)が発行はっこうされた。通貨つうか改革かいかく、ローマの貨幣かへいソリドゥス金貨きんか小額しょうがくあお銅貨どうかおもとなった。この傾向けいこう西にしマ帝国まていこく終焉しゅうえんごろまでつづいた。

硬貨こうか鋳造ちゅうぞう権限けんげん

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マクシミヌスみかど時代じだいデナリウス

現代げんだい硬貨こうかとはことなり、古代こだいローマの硬貨こうかには実態じったい価値かちがあった。貴金属ききんぞくふくんでいるが、硬貨こうか価値かち含有がんゆうする貴金属ききんぞくりょうよりもたかく、たんなる貴金属ききんぞくではなかった。たとえばデナリウス貨の価値かち含有がんゆうする金属きんぞく価値かちの1.6ばいから2.85ばい見積みつもられており、パンワインにく価格かかく比較ひかくすると、マ帝国まていこく初期しょきには現代げんだいの15USドルマ帝国まていこく末期まっきには29USドルに相当そうとうする価値かちがあり、当時とうじ地方ちほう軍人ぐんじん日給にっきゅうはデナリウス貨1まいから3まいだった[1]

硬貨こうかかんする文献ぶんけんおおくは、エジプトの乾燥かんそうした気候きこう保存ほぞんされたパピルスかたち現存げんそんしている。ディオクレティアヌスみかど通貨つうか改革かいかく以前いぜんエジプトでの造幣ぞうへい既存きそんテトラドラクマ(4ドラクマ銀貨ぎんか)を改鋳かいちゅうしておこなわれていた。これらのテトラドラクマ貨はデナリウス貨とおな価値かちとされていたが、その貴金属ききんぞく含有がんゆうりょうはずっとひくかった。あきらかに、これらの硬貨こうか価値かち日常にちじょうものには高額こうがくすぎて不便ふべんだったため、流通りゅうつうしたすべての硬貨こうか貴金属ききんぞく含有がんゆうしていたわけではない。硬貨こうかには、実態じったい価値かちつものと、象徴しょうちょうてき価値かちしかたないものの2種類しゅるい存在そんざいした。このため、共和きょうわせいローマ時代じだいあお銅貨どうか造幣ぞうへいはまれにしかおこなわれず、そのりょう不十分ふじゅうぶんだった。スッラのころからアウグストゥスのころまであお銅貨どうかまった造幣ぞうへいされていない。また、あお銅貨どうか造幣ぞうへいされたとしても、その品質ひんしつはお粗末そまつなものだった。

そのマ帝国まていこく時代じだいになると、特定とくてい金属きんぞく硬貨こうか造幣ぞうへいする部門ぶもんができた。かく地方ちほう役所やくしょあお銅貨どうか造幣ぞうへいゆるされたが、銀貨ぎんか造幣ぞうへいゆるされなかった。硬貨こうか鋳造ちゅうぞう権限けんげんについてカッシウス・ディオは「かく都市とし独自どくじ造幣ぞうへいけん度量衡どりょうこう制定せいていけんつべきではない。かれらは我々われわれのものを使つかうべきだ」としるしている。共和きょうわせいから帝国ていこく前半ぜんはんにおいては、ローマだけで金貨きんか銀貨ぎんか造幣ぞうへいされていた。東部とうぶぞくしゅうでは銀貨ぎんか造幣ぞうへいするところもあったが、それらはあくまでもその地方ちほうでのみ流通りゅうつうする硬貨こうかだった。国家こっか経費けいひ膨大ぼうだいであり、その支払しはらいは高額こうがく硬貨こうかおこなわれたため、ローマの中央ちゅうおう政府せいふにとってはあお銅貨どうかのような小額しょうがく硬貨こうかはほとんどようがなかった。紀元きげん1世紀せいきごろ、1アスえるのは1ポンドのパンや1リットルのやすワインぐらいのものだった(ポンペイのこっている落書らくがきによると、やす売春ばいしゅんのサービスが1アスだった)。小額しょうがく硬貨こうか重要じゅうようせい必要ひつようせいはローマの一般いっぱん市民しみんにとってはおおきかったとおもわれる。その証拠しょうこに、クラウディウスみかど時代じだいあお銅貨どうか模造もぞうひんがローマの許可きょかけずに各地かくち大量たいりょう造幣ぞうへいされていた。政府せいふおもぐん役人やくにんへの給料きゅうりょう支払しはらいに硬貨こうか必要ひつようとしていただけであり、あお銅貨どうか需要じゅようたす必要ひつようせいかんじていなかった。

硬貨こうか役割やくわり

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共和きょうわせい図像ずぞう

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硬貨こうか古代こだいローマの経済けいざいにおいて流通りゅうつうささえるという役目やくめたしたと同時どうじに、そこにえがかれた図像ずぞう文字もじ意味いみかんがかたひろめるという役目やくめっていた。硬貨こうか図像ずぞう解釈かいしゃくあきらかに主観しゅかんてきなもので、細部さいぶ過剰かじょうにこだわることには批判ひはんもある。共和きょうわせい初期しょき硬貨こうか図像ずぞうはあまり多様たようせいがなく、一般いっぱんにローマ国家こっか全体ぜんたいあらわすものがえがかれていた。硬貨こうかにどういう図像ずぞうえがくかを決定けっていするのは tresviri monetalesさんにん造幣ぞうへいしゃ)とばれる委員いいんかいであり、元老げんろういん目指めざわか政治せいじつとめた。この役職やくしょく紀元前きげんぜん289ねんつくられ、すくなくとも紀元きげん3世紀せいきちゅうごろまでつづいた。当初とうしょ名称めいしょうどおり3めいだったが、共和きょうわせい末期まっきユリウス・カエサルが4めい増員ぞういんした。

最初さいしょのデナリウス貨の場合ばあい表面ひょうめんにはローマ胸像きょうぞう裏面りめんには2りんまたは4りんチャリオットかみえがかれている。硬貨こうかには造幣ぞうへいしゃはないが、制御せいぎょようちいさなしるし文字もじやモノグラムがきざまれていることがあり、それによってその硬貨こうかについての責任せきにんしゃしめしている。その、モノグラムやしるし造幣ぞうへい責任せきにんしゃ名前なまえりゃくしたものになっていった。さらに、造幣ぞうへい責任せきにんしゃ自身じしん一族いちぞく歴史れきしまつわる図像ずぞう硬貨こうかえがくようになった。たとえばセクストゥス・ポンペイウス・フォストゥルスは自身じしん先祖せんぞフォストゥルスが、ロームルスとレムスははおおかみから授乳じゅにゅうされている光景こうけいているところをえがいた。すべての硬貨こうか造幣ぞうへい責任せきにんしゃ先祖せんぞえがかれたわけではないが、時代じだいくだるにつれてそのような硬貨こうかえていった。自己じこ宣伝せんでんてき図像ずぞう硬貨こうかえがくことがおおくなっていった背景はいけいには、共和きょうわせいローマにおける支配しはい階級かいきゅう競争きょうそう激化げきかしていったという事実じじつがある。アウルス・ガビニウス提案ていあんした法案ほうあんレックス・ガビニアには、選挙せんきょにおける贈収賄ぞうしゅうわいらすために記名きめい投票とうひょう導入どうにゅうすることもふくまれていたが、これも当時とうじ上流じょうりゅう階級かいきゅうにおける競争きょうそう激化げきか物語ものがたっている。共和きょうわせい時代じだい硬貨こうか図像ずぞう一般いっぱん大衆たいしゅう影響えいきょうあたえようという意図いとはなく、あくまでも上流じょうりゅう階級かいきゅう闘争とうそう道具どうぐでしかなかった。

帝国ていこく図像ずぞう

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ユリウス・カエサル自身じしん肖像しょうぞう硬貨こうかえがかせたとき、硬貨こうか図像ずぞうあらたな重要じゅうよう段階だんかいいたった。それまでの造幣ぞうへいしゃ自身じしん祖先そせん硬貨こうかえがいたのにたいして、カエサルの硬貨こうか存命ぞんめいちゅう人物じんぶつ肖像しょうぞうえがいた最初さいしょ硬貨こうかだった。カエサル暗殺あんさつ自分じぶん肖像しょうぞう硬貨こうかえがかせる習慣しゅうかん存続そんぞくしたが、ローマ皇帝こうてい時折ときおりかつてのようなかみ典型てんけいてき主題しゅだい硬貨こうかえがかせることもあった。マ帝国まていこくにおいては皇帝こうてい国家こっかとその方針ほうしん体現たいげんしゃであり、皇帝こうてい肖像しょうぞう硬貨こうかえがくことには重要じゅうよう意味いみがあった。造幣ぞうへい責任せきにんしゃアウグストゥス治世ちせい途中とちゅうまでは硬貨こうかきざまれていた。造幣ぞうへい責任せきにんしゃ役職やくしょく廃止はいしされなかった。その職務しょくむ内容ないよう詳細しょうさい不明ふめいだが、帝国ていこく時代じだいにも硬貨こうか図像ずぞうにいくらかの影響えいきょうりょくっていたとかんがえられている。

帝国ていこく硬貨こうか図像ずぞう中心ちゅうしん皇帝こうてい肖像しょうぞうだった。硬貨こうか皇帝こうてい肖像しょうぞう帝国ていこくちゅうひろめる重要じゅうよう手段しゅだんだった。硬貨こうかえがかれた皇帝こうてい肖像しょうぞうは、かみのようなえがかたをしたり、特定とくていかみむすびつけるようにえがいたりすることで、皇帝こうていかみのようにせたものがおおい。ポンペイウスとの闘争とうそうなかで、カエサルは自身じしんウェヌスアイネイアース子孫しそんであるかのようにえがいた硬貨こうかをいくつも発行はっこうさせた。とく自身じしんかみのようにえがかせた皇帝こうていとしてはコンモドゥスげられる。192ねんかれ発行はっこうさせた一連いちれん硬貨こうかでは、表面ひょうめんに(ヘールクレースえがかれかたおなじ)ライオンの毛皮けがわをまとった自身じしん胸像きょうぞうえがき、裏面りめんにはかれがローマにあらわれたヘールクレースだというぶんきざまれていた。コンモドゥスのれい極端きょくたんだが、そこには皇帝こうていたちが硬貨こうか自身じしん肖像しょうぞうえがかせた目的もくてきはしてきあらわれている。皇帝こうてい自身じしん肖像しょうぞう硬貨こうか表面ひょうめん図像ずぞうとしてはもっと一般いっぱんてきだったが、同時どうじにその後継こうけいしゃ前任ぜんにんしゃ皇后こうごうなどの家族かぞく一員いちいんもよくえがかれた。皇位こうい継承けいしょうをスムーズにおこなうため、硬貨こうか後継こうけいしゃであることを明記めいきするという方法ほうほう使つかわれた。このような手法しゅほうはアウグストゥスの時代じだいから帝国ていこく終焉しゅうえんまで使つかわれつづけた。

紀元前きげんぜん44ねん個人こじん肖像しょうぞう硬貨こうかえがくことが合法ごうほうされると、硬貨こうかはその個人こじん特性とくせい体現たいげんするようになった。カッシウス・ディオの『ローマ』によれば、カリグラみかど死後しご元老げんろういんはカリグラみかど時代じだい硬貨こうか廃止はいしし、それらをあつめてかしたという。これが事実じじつかどうかは不明ふめいだが、そのようにいいつたえられているということは、当時とうじ硬貨こうか図像ずぞう意味いみとその重要じゅうようせいがどのようなものだったかをしめしている。哲学てつがくしゃエピクテトス冗談じょうだんめかして「そのセステルティウス貨にはだれえがかれている? トラヤヌス? そいつをよこせ。ネロ? そいつはくさっているから使つかえない。だからてろ」としるしている。エピクテトスは特定とくてい肖像しょうぞう硬貨こうか人々ひとびとてることを期待きたいしたわけではないとおもわれるが、この引用いんようからローマじん硬貨こうか肖像しょうぞう道徳どうとくてき価値かちかん付属ふぞくさせていたことをしめしている。帝国ていこくには硬貨こうか表面ひょうめんはほとんどだれかの肖像しょうぞうだったが、裏面りめんにははるかに多様たようなものがえがかれた。共和きょうわせい時代じだいとく内乱ないらんいち世紀せいきには政治せいじてきメッセージがよくえがかれていた。しかし帝国ていこく中期ちゅうきになると、なかには重要じゅうよう声明せいめい政治せいじてきメッセージをえがいたものもあったが、だい多数たすうかみゲニウス図像ずぞうえがかれた。どういうかみやゲニウスをえがくかについては、そのとき皇帝こうてい方針ほうしん関連かんれんしている場合ばあいもあるが、おおくは任意にんいだった。かみやゲニウスはえがかれかた類型るいけいされており、当時とうじ人々ひとびとただけでそれがどのかみあるいはゲニウスかがわかるため、その名前なまえ硬貨こうかしるさないことがおおかった。

このような背景はいけいなかで、裏面りめん例外れいがいてき図像ずぞうえがいた硬貨こうかはよく目立めだっただろうと推測すいそくできる。変則へんそくてき裏面りめん戦争せんそうちゅう戦後せんご発行はっこうされた硬貨こうかおおられ、皇帝こうていなにかを解放かいほうしたとか、鎮圧ちんあつしたとか、講和こうわむすんだといった事績じせきしめしていることがおおい。なかにはあきらかな宣伝せんでんとされる図像ずぞうもある。たとえば244ねんピリップス・アラブスサーサーンあさペルシアとのあいだ和平わへいむすんだことを硬貨こうか裏面りめん宣伝せんでんしたが、実際じっさいにはローマはペルシアにたいして莫大ばくだい賠償金ばいしょうきん支払しはらっていた。

裏面りめん図像ずぞう多様たようすぎ、皇帝こうていごとにもちがうため正確せいかく一般いっぱんすることはむずかしいが、ある傾向けいこう存在そんざいする。たとえば3世紀せいき後半こうはん軍人ぐんじん皇帝こうてい時代じだいには、ほぼすべての硬貨こうか裏面りめんかみやゲニウスをえがいたものだった。この独創どくそうせい欠如けつじょたいして、それらの皇帝こうてい正統せいとうせいいていたため、硬貨こうか裏面りめん保守ほしゅてきなものにすることでみずからの正統せいとうせい演出えんしゅつしようとしたともわれている。

ローマ硬貨こうかのその歴史れきし

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アントニニアヌス貨
1れつ: ヘリオガバルスぎん 218ねん - 222ねん)、デキウスぎん 249ねん - 251ねん)、ガッリエヌスビロン 253ねん - 268ねん しょうアジア造幣ぞうへい
2れつ: ガッリエヌスどう 253ねん - 268ねん)、アウレリアヌスぎんめっき、270ねん - 275ねん)、barbarous radiateどう)、barbarous radiateどう

ディオクレティアヌス通貨つうか改革かいかく発行はっこうされる硬貨こうか種類しゅるいががらりとわり、価値かちはげしく下落げらくしたアントニニアヌス貨にわって様々さまざましん貨幣かへい発行はっこうされた。そして、ことなる観念かんねんつたえようと、まったあらたな図像ずぞうもちいた。ディオクレティアヌスはテトラルキアよんふんせい)を導入どうにゅうし、4にん皇帝こうてい帝国ていこくを4分割ぶんかつして統治とうちした。硬貨こうか図像ずぞう皇帝こうていあらわ威厳いげんのあるおおきな肖像しょうぞうとされた。この肖像しょうぞう特定とくてい皇帝こうていあらわしたものではなく、皇帝こうてい権威けんい象徴しょうちょうてきあらわしたものである。裏面りめんすべローマ(のゲニウス)に統一とういつされた。このしん政府せいふ制度せいど貨幣かへい制度せいど導入どうにゅうは、ぜん世紀せいき戦乱せんらん不安ふあんおおわれたローマにあらたな平和へいわをもたらそうというディオクレティアヌスのこころみだった。ディオクレティアヌスは皇帝こうてい一般いっぱんてきイメージを硬貨こうかえがくことで、交換こうかん可能かのう権威けんいであることをしめした。また裏面りめんにローマをえがくことで、ローマじん団結だんけつ強調きょうちょうしようとした[2]帝国ていこく後期こうき硬貨こうか裏面りめん一般いっぱんてきテーマがおおく、かつてのような特定とくていのゲニウスをえがくことはなくなった。硬貨こうか裏面りめんには、ローマの栄光えいこうぐん栄光えいこう蛮族ばんぞくへの勝利しょうり平和へいわ回復かいふく皇帝こうてい偉大いだいさといったテーマがおおられるようになった。このような図像ずぞうキリスト教きりすときょう国教こっきょうとしたのちにも使つかわれつづけた。ギリシアでキリストのしるしたものなど、キリストきょう暗示あんじする図像ずぞうもまれにえがかれたが、明確めいかくキリスト教きりすときょうてき図像ずぞうまったえがかれなかった。コンスタンティヌス1せいから帝国ていこく終焉しゅうえんまで、硬貨こうか図像ずぞうには特徴とくちょうのない理想りそうされた肖像しょうぞう偉大いだいさをあらわ一般いっぱんてき声明せいめいえがかれた。

デナリウス貨は紀元前きげんぜん211ねん登場とうじょうしてから紀元きげん3世紀せいきちゅうごろまでローマ経済けいざい根幹こんかんささえてきたが、その徐々じょじょぎん含有がんゆうりょうらされていった。そして、それと同時どうじにローマの経済けいざいりょく低下ていかしていき、国力こくりょく低下ていかしていった。これらが同時どうじ進行しんこうした理由りゆうあきらかではないが、一般いっぱん貴金属ききんぞく保有ほゆうりょう低下ていか(インドとの貿易ぼうえきでインドに銀貨ぎんか流出りゅうしゅつした)、国家こっか財政ざいせい縮小しゅくしょう、インフレの進行しんこうなどが要因よういんかんがえられている。現存げんそんするパピルスによれば、ローマ兵士へいし給料きゅうりょうはアウグストゥス治世ちせいでは年間ねんかん900セステルティウスだったものがセプティミウス・セウェルス治世ちせいでは年間ねんかん2000セステルティウスにえているが、そのあいだ穀物こくもつは3ばい値上ねあがりしており、事実じじつじょう賃下ちんさげとなっていた。つまりこのあいだ軽度けいどのインフレがすできていた[3]

硬貨こうかしつ低下ていかしていったもう1つの原因げんいんは、貴金属ききんぞく産出さんしゅつりょう低下ていかである。イタリア半島はんとうには安定あんていして貴金属ききんぞく産出さんしゅつする鉱山こうざんがなく、貴金属ききんぞく帝国ていこくないほか地域ちいき鉱山こうざん依存いぞんしていた。ローマは領土りょうど拡大かくだいすることであらたな鉱山こうざん獲得かくとくし、年貢ねんぐまたはぜいとしてその産物さんぶつげることで貴金属ききんぞく確保かくほしていた。帝国ていこく拡大かくだいまると、ギリシアスペインあらたな銀山ぎんざん開発かいはつしたり、ふる硬貨こうかかすことであらたな造幣ぞうへいのためのぎん確保かくほしていた。あらたに外部がいぶから貴金属ききんぞく流入りゅうにゅうせず、膨大ぼうだい戦費せんぴまかなつづけなければならない状況じょうきょうでは、硬貨こうかしつとして改鋳かいちゅうつづける以外いがい方法ほうほうがなかった。また、穀物こくもつにち用品ようひん輸入ゆにゅうたよっていたため、貿易ぼうえき赤字あかじにより通貨つうかがローマから流出りゅうしゅつしていった。

当初とうしょ、デナリウス貨は重量じゅうりょうやく4.5グラムで、ほぼ純銀じゅんぎんだった。これは理論りろんじょう標準ひょうじゅんであり、現実げんじつかならずしも理論りろんどおりではないが、共和きょうわせい時代じだい戦時せんじちゅうのぞいてほぼこの水準すいじゅん維持いじした。戦時せんじちゅう軍需ぐんじゅひんまかなへい給料きゅうりょう支払しはら必要ひつようがあるため、造幣ぞうへい硬貨こうかしつとすことがおおかった。たとえば、マルクス・アントニウスはオクタウィアヌスとのたたかいでぐんまかなうためしつとしたデナリウス貨を造幣ぞうへいした。そのデナリウス貨は通常つうじょうよりも直径ちょっけい若干じゃっかんちいさく、ぎん含有がんゆうりょうはかなりひくい。表面ひょうめんにはガレーせんとアントニウスのえがかれ、裏面りめんには発行はっこうさき軍団ぐんだんめいえがかれている。興味深きょうみぶかいことにこのデナリウス貨は発行はっこうから200ねんにも流通りゅうつうしていた。これはぎん含有がんゆうりょうひくいためグレシャムの法則ほうそくはたらいたためである。そのデナリウス貨のぎん含有がんゆうりょうは4グラムで安定あんていしていたが、紀元きげん64ねん皇帝こうていネロが改鋳かいちゅうおこない、3.8グラムにらした。これはローマ大火たいかのローマ再建さいけん莫大ばくだい費用ひようがかかったためとおもわれる。

そのもデナリウス貨は徐々じょじょぎん含有がんゆうりょうらされていった。とくセプティミウス・セウェルスおこなった改鋳かいちゅうおおきくらされている。それにつづいて2デナリウスの価値かちとされたあらたな硬貨こうか皇帝こうてい放射状ほうしゃじょうかんむりえがいてデナリウス貨と区別くべつした)を発行はっこうした。この硬貨こうかカラカラみかどが215ねんまでに発行はっこうしたことから、その本名ほんみょうにちなんで貨幣かへい研究けんきゅうらからアントニニアヌス貨とばれている。名目めいもくじょうは2デナリウス相当そうとうとされたが、アントニニアヌス貨のぎん含有がんゆうりょうはデナリウス貨の1.6ばい以下いかしかなかった。おもさをはかればそれがデナリウス貨の1.5ばい程度ていどだということはあきらかだが、これを市民しみんがどうめたかはさだかではない。アントニニアヌス貨の造幣ぞうへいりょうえると同時どうじにデナリウス貨の造幣ぞうへいりょうらされ、3世紀せいきちゅうごろにデナリウス貨の大量たいりょう造幣ぞうへいおこなわれなくなった。ここでも戦乱せんらん時代じだい硬貨こうかしつ低下ていかさせられている。3世紀せいき後半こうはん戦乱せんらんつづき、ぎん産出さんしゅつがほとんどまったため、アントニニアヌス貨のぎん含有がんゆうりょうはわずか2%にまで低下ていかした。このあいだ、アウレウス金貨きんかしつをある程度ていど維持いじしていたが、ディオクレティアヌスの貨幣かへい改革かいかくのころにはそちらもちいさくなりしつわるくなっていた。

ほとんどぎんふくまない状態じょうたいになっていたアントニニアヌス貨にたいして、274ねんアウレリアヌス貨幣かへい改革かいかくおこなった。アントニニアヌス貨の標準ひょうじゅんどう20にたいしてぎん1という含有がんゆうりつさだめ、それをしめ文字もじラテン語らてんごでは XXI、ギリシアでは KA)を硬貨こうか表示ひょうじした。それにもかかわらずぎん含有がんゆうりょうっていき、ディオクレティアヌスがさらなる貨幣かへい改革かいかくおこなうことになった。四分しぶせいくわえてディオクレティアヌスはつぎのような造幣ぞうへい基準きじゅんもうけた。すなわち、金貨きんか重量じゅうりょうを60ぶんの1ポンドとし、ネロみかどのころのデナリウス貨とおなぎん含有がんゆうりつあらたな硬貨こうかアルゲンテウスつくり、さらにあらたに2%のぎん含有がんゆうするおおきな銅貨どうかつくった。ディオクレティアヌスはまた301ねん最高さいこう価格かかくみことのりれい (en) をはっし、商品しょうひんやサービスの上限じょうげん価格かかく法律ほうりつ制限せいげんしようとした。しかしその最高さいこう価格かかく実際じっさいまもらせることは不可能ふかのうであり、インフレを抑制よくせいするこころみは失敗しっぱいわった。このみことのりれいではすべての価格かかくをデナリウス貨の枚数まいすう指定していしていたが、デナリウス貨は50ねん以上いじょうものあいだ造幣ぞうへいされていなかった(あお銅貨どうかであるフォリス貨が12.5デナリウスに相当そうとうしたとわれている)。それ以前いぜん通貨つうか改革かいかく同様どうよう、この場合ばあい金貨きんかあお銅貨どうか中心ちゅうしんとする不確ふたしかな貨幣かへいおも流通りゅうつうするようになっていった。様々さまざまおおきさのあお銅貨どうかについては詳細しょうさい不明ふめいであり、市場いちばおおきく価値かち変動へんどうしたとされている。

各種かくしゅ硬貨こうか相対そうたいてき価値かち

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共和きょうわせい初期しょき価値かち[4] 紀元前きげんぜん211ねん以降いこう
デナリウス セステルティウス ドゥポンディウス アス セミス トリエンス クォドランス クィンクンクス
デナリウス 1 4 5 10 20 30 40 24
セステルティウス 14 1 1 14 2 12 5 7 12 10 6
ドゥポンディウス 15 45 1 2 4 6 8 4 45
アス 110 25 12 1 2 3 4 2 25
セミス 120 15 14 12 1 1 12 2 1 15
トリエンス 130 215 16 13 23 1 1 13 45
クォドランス 140 110 18 14 12 34 1 35
クィンクンクス 124 16 524 512 56 1 14 1 23 1
帝国ていこく前期ぜんき価値かち 紀元前きげんぜん27ねん - 紀元きげん301ねん
アウレウス クィナリウス・アウレウス デナリウス クィナリウス セステルティウス ドゥポンディウス アス セミス クォドランス
アウレウス 1 2 25 50 100 200 400 800 1600
クィナリウス・アウレウス 12 1 12 12 25 50 100 200 400 800
デナリウス 125 225 1 2 4 8 16 32 64
クィナリウス 150 125 12 1 2 4 8 16 32
セステルティウス 1100 150 14 12 1 2 4 8 16
ドゥポンディウス 1200 1100 18 14 12 1 2 4 8
アス 1400 1200 116 18 14 12 1 2 4
セミス 1800 1400 132 116 18 14 12 1 2
クォドランス 11600 1800 164 132 116 18 14 12 1
ディオクレティアヌスみかど時代じだい価値かち[5] (301ねん - 305ねん
ソリドゥス アルゲンテウス ヌムス Radiate Laureate デナリウス
ソリドゥス 1 10 40 200 500 1000
アルゲンテウス 110 1 4 20 50 100
ヌムス 140 14 1 5 12 12 25
Radiate 1200 120 15 1 2 12 5
Laureate 1500 150 225 25 1 2
デナリウス 11000 1100 125 15 12 1
帝国ていこく後期こうき価値かち (337ねん - 476ねん
ソリドゥス ミリアレンセ シリクア フォリス ヌムス
ソリドゥス 1 12 24 180 7200
ミリアレンセ 112 1 2 15 600
シリクア 124 12 1 7 12 300
フォリス 1180 115 215 1 40
ヌムス 17200 1600 1300 140 1

脚注きゃくちゅう出典しゅってん

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  1. ^ Buying Power of Roman Coins Archived 2013ねん2がつ10日とおか, at the Wayback Machine.
  2. ^ Sutherland, C. H. V. Roman Coins. New York: G. P. p254
  3. ^ Roman Economy - Prices in Ancient Rome Ancientcoins.biz
  4. ^ W.G. Sayles, Ancient Coin Collecting III: The Roman World-Politics and Propaganda, Iola, 1997, p. 20.
  5. ^ Edict on Maximum Prices参照さんしょう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Cohen, Henry, Description historiques des monnaies frappées sous l’Empire romain, Paris, 1882, 8 vols. オンラインばん
  • Howgego, Christopher. Ancient History from Coins. London: Routledge, 1995.
  • Jones, A. H. M. The Roman Economy: Studies in Ancient Economic and Administrative History. Oxford: Basil Blackwell, 1974.
  • Melville Jones, John R., 'A Dictionary of Ancient Roman Coins', London, Spink 2003
  • Reece, Richard. Roman Coins. London: Benn, 1970.
  • Salmon, E. Togo. Roman Coins and Public Life under the Empire. Ann Arbor, Michigan: The University of Michigan Press, 1999.
  • Suarez, Rasiel. The Encyclopedia of Roman Imperial Coins. Dirty Old Books, 2005.
  • Sutherland, C. H. V. Roman Coins. New York: G. P. (Also published by Barrie and Jenkins in London in 1974 with ISBN 0 214 66808 8)
  • Van Meter, David. The Handbook of Roman Imperial Coins. Laurion Press, 1990.
  • ケヴィン・グリーン『ローマ経済けいざい考古学こうこがく本村もとむら凌二りょうじ監修かんしゅう池口いけぐちまもる井上いのうえ秀太郎ひでたろうわけ平凡社へいぼんしゃ、1999ねん
  • Modena Altieri, Ascanio. Vis et Mos. A compendium of symbologies and allegorical personifications in the imperial coinage from Augustus to Diocletian. Florence, Porto Seguro Editore, 2022. ISBN 9788855469968

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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