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(ご らい、1297ねん - 1340ねん)は、中国ちゅうごくもとだい文人ぶんじん学者がくしゃ立夫たつお

生涯しょうがい

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婺州浦江うらえけん出身しゅっしんしゅうけん殿どのだい学士がくしだった直方なおかたとしてまれる。4さいときにははは口授くじゅする『こうけい』・『論語ろんご』・『春秋しゅんじゅうこくりょうつたえ』をすぐに暗唱あんしょうできたという。7さいでよく詩作しさくする。ちち友人ゆうじんほうおおとり萊の学才がくさいみとめ、っている学問がくもんすべさづけた。萊の最初さいしょは「」だったのを、もうにある「北山きたやまゆう萊」のによって「萊」とあらためさせたのもほうおおとりであるという。のべゆう7ねん1320ねん)に科挙かきょ試験しけんれい編修へんしゅう推薦すいせんされたが参内さんだいはせずに引退いんたい経書けいしょ研究けんきゅうはげんだ。いたりもと3ねん1337ねん)にかん察御がその博学はくがく才能さいのう評価ひょうかして推薦すいせんし、にょうしゅう浮梁けんにあるちょう薌書いん現在げんざい江西えにししょうけいとく鎮市昌江まさえやまちょう任命にんめいされたが、赴任ふにんするまえぼっした。享年きょうねん44。門人もんじんたちがふち先生せんせいおくりなする。

著書ちょしょ

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  • 尚書しょうしょしるべせつ』6かん
  • 春秋しゅんじゅうへん』2かん
  • 春秋しゅんじゅう伝授でんじゅ
  • いにしえしょくかんろく』8かん
  • 孟子もうし弟子でし列伝れつでん』2かん
  • すわえかんせいこえ』2かん
  • 詩文しぶんしゅう』60かん

日本にっぽんについて

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もとつまり元朝がんちょうによる日本にっぽん侵攻しんこうと、その失敗しっぱい経験けいけん、およびそれ以降いこうやまと前期ぜんきやまと寇)の活動かつどうについて、萊は著書ちょしょである日本にっぽんろんろんやまと」(『となり交徴しょへんまきいち所収しょしゅう)において、「いまやまとやつむかしやまとやつとはおなじではない。むかしいたってよわいと雖も、なおえて中国ちゅうごくへいこばまんとする。いわんやいまけんを恃んで、そのつよさは、まさにむかしじゅうばいたる。さきにけいもとより航海こうかいしてたり、艨艟もうどうすうせんほこほこ剣戟けんげき、畢くそなえている。(中略ちゅうりゃく)そのじゅう貨をし、公然こうぜん貿易ぼうえきする。その欲望よくぼうたされなければ、城郭じょうかくを燔してきょみん略奪りゃくだつする。海道かいどうへいは、猝かに対応たいおうできない。(中略ちゅうりゃく士気しきうしな国体こくたいよわめるのは、これよりおおきなことはない。しかし、そのってもくにえきすることはなく、またそのひとかすめしてもへいつよめることはない[1]」とべ、日本にっぽん征服せいふく無益むえきとしている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 萊『ろんやまと』(『となり交徴しょへんまきいち所収しょしゅう)、おういさむ中国ちゅうごくなか日本にっぽんぞうだいろくしょうだいせつ所収しょしゅう人間にんげん選書せんしょ、2000ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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