善知鳥うとう神社じんじゃ

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善知鳥うとう神社じんじゃ

鳥居とりい拝殿はいでん
所在地しょざいち 青森あおもりけん青森あおもりやすかた2-7-18
位置いち 北緯ほくい4049ふん36.1びょう 東経とうけい14044ふん32.8びょう / 北緯ほくい40.826694 東経とうけい140.742444 / 40.826694; 140.742444座標ざひょう: 北緯ほくい4049ふん36.1びょう 東経とうけい14044ふん32.8びょう / 北緯ほくい40.826694 東経とうけい140.742444 / 40.826694; 140.742444
主祭しゅさいしん 宗像むなかたさん女神めがみ
社格しゃかくひとし きゅうけんしゃ
創建そうけん 不明ふめい
本殿ほんでん様式ようしき 神明しんめいづくり
例祭れいさい 9月15にち
地図ちず
善知鳥神社の位置(青森県内)
善知鳥神社
善知鳥うとう神社じんじゃ
地図
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善知鳥うとう神社じんじゃ(うとうじんじゃ)は、青森あおもりけん青森あおもり安方やすかたにある神社じんじゃである。きゅう社格しゃかくけんしゃ

祭神さいじん[編集へんしゅう]

うみかみ航海こうかい安全あんぜんかみとしてられる市杵島いきしまひめいのち多岐たきひめいのち多紀たきひめいのち宗像むなかたさん女神めがみ主祭しゅさいしんとしてまつる。祭神さいじんとしてくらいねたましいいのちみやいのち猿田さるた彦命、海津かいづ大神おおがみまつられている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

允恭天皇いんぎょうてんのう時代じだい善知鳥うとう中納言ちゅうなごん安方やすかたというもの勅勘ちょっかんけてそとはま蟄居ちっきょしていたとき高倉たかくら明神みょうじん霊夢れいむかんじて干潟ひがたちいさなほこら建設けんせつし、宗像むなかたさんかみまつったのが神社じんじゃこりとつたわる。安方やすかたくなると、見慣みなれない一番いちばんとり小祠しょうしのほとりにんできてゆうはウトウとき、めすはヤスカタとくので、人々ひとびとはこのとり安方やすかた化身けしんとしておそうやまったが、ある猟師りょうしあやまってこの雄鳥おんどり狙撃そげきしてしまい、以後いご雄鳥おんどりによって田畑たはたらされた。狙撃そげきした猟師りょうし変死へんししたため、たたりをおそれた同郷どうきょう人々ひとびと雄鳥おんどり丁重ていちょうとむらった。

そのながれは不明ふめいであるが、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ時代じだいにはどうほこら荒廃こうはいしていたため、大同だいどう年間ねんかん田村たむら麻呂まろにより社殿しゃでん造営ぞうえいされて再興さいこうされた。たてひとしから天正てんしょう1201ねん1592ねん)のあいだ同地どうち支配しはいした領主りょうしゅ南部なんぶによりあつ崇敬すうけいされて庇護ひごされ、南部なんぶ騒動そうどう同地どうち江戸えど時代じだい津軽つがる支配しはいになっても、同氏どうしにより手厚てあつ庇護ひごけた。明治めいじ時代じだいはいり、1873ねん郷社ごうしゃ1876ねんけんしゃ昇格しょうかく1907ねん7がつ稲荷いなり神社じんじゃ同年どうねん9がつ海津かいづ見神けんしんしゃ合祀ごうしし、現在げんざいいたる。

2020ねん12月にバーチャルYouTuber青森あおもりりんことコラボレーションした絵馬えま授与じゅよはじめた[1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ コラボ絵馬えま 授与じゅよ開始かいし 善知鳥うとう神社じんじゃ×「青森あおもりりんこ」”. なびたびきた東北とうほく. 2021ねん1がつ14にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]