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大山おおやま (神奈川かながわけん)

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大山おおやま
渋沢しぶさわ丘陵きゅうりょうから秦野盆地はだのぼんち大山おおやま
標高ひょうこう 1,252 m
所在地しょざいち 神奈川かながわけん伊勢原いせはら秦野はだの厚木あつぎ
位置いち 北緯ほくい3526ふん27びょう 東経とうけい13913ふん52びょう / 北緯ほくい35.44083 東経とうけい139.23111 / 35.44083; 139.23111座標ざひょう: 北緯ほくい3526ふん27びょう 東経とうけい13913ふん52びょう / 北緯ほくい35.44083 東経とうけい139.23111 / 35.44083; 139.23111
山系さんけい 丹沢山地たんざわさんち
大山 (神奈川県)の位置(神奈川県内)
大山 (神奈川県)
大山おおやま (神奈川かながわけん) (神奈川かながわけん)
大山 (神奈川県)の位置(日本内)
大山 (神奈川県)
大山おおやま (神奈川かながわけん) (日本にっぽん)
プロジェクト やま
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三ノ塔さんのとう付近ふきんからのぞあき大山おおやま

大山おおやま(おおやま)は、神奈川かながわけん伊勢原いせはら秦野はだの厚木あつぎさかいにある標高ひょうこう1,252 mやまである。丹沢山たんざわさんなどの丹沢たんざわ山々やまやまとともに丹沢たんざわ大山おおやま国定こくてい公園こうえんぞくし、神奈川かながわけん有数ゆうすう観光かんこうのひとつである。日本にっぽんさん百名山ひゃくめいざん関東かんとう百名山ひゃくめいざんのひとつでもある。

概要がいよう[編集へんしゅう]

大山おおやまは、丹沢たんざわおもて尾根おねひがしはしにあり、富士山ふじさんのような三角形さんかっけいうつくしい山容さんようから、ふるくから庶民しょみん山岳さんがく信仰しんこう対象たいしょうとされた(大山おおやま信仰しんこう)。「大山おおやま」の名称めいしょう由来ゆらいしょうだが、明治めいじ以降いこう山頂さんちょう大山おおやま祇神まつったためとわれるようになった。大山おおやま祇神は江戸えど時代じだいまつまでは「いしみことだい権現ごんげん」とばれていた。大山おおやま山頂さんちょうには巨大きょだい岩石がんせき神体しんたいいわ)としてまつったおもねおっと神社じんじゃ本社ほんしゃ上社かみやしろ)があり、中腹ちゅうふくおもねおっと神社じんじゃしゃ大山寺たいさんじっている。また、大山おおやま別名べつめいを「おもねおっと(あふり)やま」、「あめくだ(あふ)りやま」ともいい、大山おおやまおよびおもねおっと神社じんじゃ雨乞あまごかみともされ、農民のうみん信仰しんこうあつめた。

大山おおやま地形ちけい山頂さんちょう中央ちゅうおうじょう
大山おおやまおもねおっと神社じんじゃ 大山おおやまいただきおくいん

江戸えど時代じだいなかごろ(18世紀せいき後半こうはん)から、大山おおやま明治めいじ以降いこう先導せんどう)の布教ふきょう活動かつどうにより「大山おおやまこう」が組織そしきされ、庶民しょみんさかんに「大山おおやままいり」をおこなった。各地かくちから大山おおやまつうじる大山おおやまみち大山おおやま道標どうひょうひらかれ、大山おおやまふもとには宿坊しゅくぼうとうようする門前もんぜまちさかえることとなった。

大山おおやまでは、天狗てんぐ信仰しんこうさかんであり、おもねおっと神社じんじゃ本社ほんしゃ上社かみやしろ)がいしみこと権現ごんげんしゃ大山寺たいさんじ本宮ほんぐう)だった江戸えど時代じだいまでは、山頂さんちょうおくしゃが「だい天狗てんぐしゃ」、山頂さんちょうまえしゃは「しょう天狗てんぐしゃ」だった。民俗みんぞくがく研究けんきゅう切光せっこうとしは、大山おおやま天狗てんぐ日本にっぽんはち天狗てんぐかぞえられた大山おおやま伯耆ほうきぼうであるというせつとなえている[1]おなじくはち天狗てんぐ香川かがわけん白峰しらみね天狗てんぐ名前なまえが「相模さがみぼう」であることや、よんじゅうはち天狗てんぐ大山おおやま伯耆ほうきぼうわりに伯耆大山ほうきだいせん清光せいこうぼうはいっていることから、相模さがみ大山おおやま相模さがみぼうたかしとく上皇じょうこうれいなぐさめるために四国しこくしろほうってしまったために、もと伯耆大山ほうきだいせん天狗てんぐである伯耆ほうきぼうが、相模さがみ大山おおやまうつったとしている[1]。また、現地げんちった古老ころうから大山寺たいさんじにかつて伯耆ほうきぼうまつった堂宇どううがあったことをいたり、山中さんちゅう伯耆ほうきぼうかれたその堂宇どううちかけてころがっているのを発見はっけんしたともべている[1]。ただし、この伯耆ほうきぼう移住いじゅうせつ国文学こくぶんがくしゃ久留島くるしまはじめ妖怪ようかい研究けんきゅう毛利もうり恵太けいたらによって疑問ぎもんていされている[2]相模さがみ大山おおやま天狗てんぐには元々もともと名前なまえく、伯耆ほうきぼうではないというのである[2]白峰しらみね相模さがみぼう名前なまえ由来ゆらいも、『もと物語ものがたり』に登場とうじょうたかしとく上皇じょうこう味方みかたした相模さがみ阿闍梨あじゃりしょうみことではないかという指摘してきがある[2]。また、地域ちいき伝承でんしょうとうもとかれた『相模さがみ大山おおやま川柳せんりゅう』の著者ちょしゃである根本ねもと行道ぎょうどうも、相模さがみ大山おおやま山頂さんちょうだい天狗てんぐしゃしょう天狗てんぐしゃ天狗てんぐ伯耆ほうきぼうべつだろうと明言めいげんしている[2]久留島くるしまは、かり幕末ばくまつから近代きんだいにかけて相模さがみ大山おおやまにおいて大山おおやま伯耆ほうきぼうまつった天狗てんぐ信仰しんこう存在そんざいしたとしても、表記ひょうきけてはち天狗てんぐしたあたらしい信仰しんこうかんがえるしかないとべている[2]

現代げんだいにおいては、日本経済新聞にほんけいざいしんぶんYAMAP使用しようして集計しゅうけいした「2023ねん登頂とうちょう回数かいすうおおかったやま」ランキングで全国ぜんこく9記録きろくする登山とざんしゃ人気にんきやまでもある[3]

歴史れきし[編集へんしゅう]

平安へいあん時代じだいまで[編集へんしゅう]

大山おおやま信仰しんこうはじまった時期じき不明ふめいだが、発掘はっくつにより、縄文じょうもん時代じだい後期こうき中葉ちゅうよう加曽利かそりBしき土器どきへんや、古墳こふん時代じだい土師器はじきへん須恵すえへん平安へいあん時代じだい経塚きょうづかつぼけいとうなどが発見はっけんされており、信仰しんこう開始かいし時期じきはかなりふる時代じだいにまでさかのぼることができると推定すいていされる。ただし、縄文じょうもん土器どきとうについては、発掘はっくつ担当たんとう代表だいひょうしゃ江戸えど時代じだいはじめにまれたものと断定だんていしている[4]

万葉集まんようしゅう』の東歌あずまうたで、大山おおやまは「相模さがみほうゆう峰見みねみぐしわすいもうとめいびてわれこくくな」とうたわれた。

10世紀せいき前期ぜんきの『延喜えんぎしきかみめいちょうには、相模さがみこくじゅうさんひとつとして、「おもねおっと神社じんじゃ」(アフリノカミノヤシロ)の記載きさいがあり、かみめいちょう原本げんぽんである神祇官じんぎかん台帳だいちょう天平てんぴょう年間ねんかん完成かんせいとされることから、8世紀せいき前半ぜんはんおもねおっと神社じんじゃ創建そうけんされたとすることもできる。つまり、当時とうじ祭神さいじんめいが「アフリノカミ」で[5]古墳こふん時代じだい以降いこう山岳さんがく信仰しんこう大山おおやまそのものへの広域こういき信仰しんこうによるものとかんがえられる。古代こだい仏教ぶっきょうてき山岳さんがく修行しゅぎょうしゃ清浄せいじょう山内さんない修行しゅぎょう場所ばしょ開拓かいたくするにしたが山頂さんちょういわが「いしみこと権現ごんげん」としてまつられるようになったとかんがえられる。大山おおやま大山おおやま祇神が主祭しゅさいしんとなったのは明治めいじ以降いこう近代きんだいおもねおっと神社じんじゃ」(アフリジンジャ)が成立せいりつしてからである[6]

古代こだい不動明王ふどうみょうおうぞう本尊ほんぞんとするだい山寺やまでら建立こんりゅうされ、大山おおやま山頂さんちょういわへの「いしみこと権現ごんげん信仰しんこう大山おおやま全体ぜんたい不動明王ふどうみょうおう霊場れいじょうとする信仰しんこうとが一体化いったいかしていったとされる。なお、『つづけぐんしょ類從るいじゅうだい27輯下釋家しゃっけの『大山寺たいさんじ縁起えんぎ真名まなほん)』(内閣ないかく文庫本ぶんこぼんほかでは一般いっぱんに『大山おおやま縁起えんぎ』)には、天平てんぴょうかちたから7さい755ねん)、東大寺とうだいじ初代しょだい別当べっとう良弁りょうべん僧正そうじょうこく木造もくぞう不動明王ふどうみょうおうぞう本尊ほんぞんだい山寺やまでらひらけそうしたとの記載きさいがある。大山寺たいさんじは、聖武天皇しょうむてんのうにより国家こっか安穏あんのん祈願きがんする勅願ちょくがんてらとされ、天平てんぴょうたから5ねん762ねん)には行基ぎょうきいのちにより、ひかりぞう不動明王ふどうみょうおうぞう製作せいさくして本堂ほんどう奉納ほうのうしたとされる。もとけい2ねん878ねん)のだい地震じしん大火たいかにより大山寺たいさんじ焼失しょうしつしたが、もとけい8ねん884ねん安然あんねん再興さいこうしたなどの伝承でんしょうから、あらわみつけい山岳さんがく寺院じいんとしてさかえていったとかんがえられる。

平安へいあん時代じだいすえに、大山おおやまかす支配しはいする糟屋かすやそう編入へんにゅうされたが、久寿きゅうじゅ元年がんねん1154ねん)12月に糟屋かすやそう安楽寿院あんらくじゅいん寄進きしんされた。その大山おおやま藤原ふじわら得子とくこ(ふじわらのなりこ。鳥羽とば法皇ほうおう皇后こうごう美福門院びふくもんいん)の領地りょうちとなり、さらに、得子とくこである暲子内親王ないしんのう(あきこないしんのう。八条はちじょういん)の領地りょうちとされた。

鎌倉かまくら時代じだいから戦国せんごく時代じだいまで[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代じだいには、糟屋かすやみなもと頼朝よりとも御家人ごけにんとなったため、大山寺たいさんじ鎌倉かまくら幕府ばくふ庇護ひごけることとなった。『吾妻あづまきょう』には、大山寺たいさんじみなもと頼朝よりとも源実朝みなもとのさねともから寄進きしんけたむね記載きさいがある。その一時いちじ荒廃こうはいしただい山寺やまでらだが、京都きょうと東寺とうじ再興さいこう事業じぎょう実績じっせきげた願行がんぎょうぼうけんせい(けんじょう)の復興ふっこうされた。このとき、願行がんぎょうこうむいにしえ降伏ごうぶくさせる秘法ひほう修得しゅうとくするため大山おおやまのぼり、ひゃく日間にちかん苦行くぎょうおこない、師匠ししょうきょうぼうよりゆきけん提供ていきょうした鉄造てつぞう不動明王ふどうみょうおうぞうまえいのつづけると、いかくるった不動明王ふどうみょうおう姿すがたがみえ、その不動明王ふどうみょうおうぞう見開みひらかれたという。願行がんぎょうは、このとき不動明王ふどうみょうおう姿すがたをもとに、たいてつづくり不動明王ふどうみょうおうぞう製作せいさくし、その一体いったい大楽寺だいらくじ不動明王ふどうみょうおうぞう(「こころみの不動ふどう」とばれる。げん覚園寺えんかくじぞう神奈川かながわけん重要じゅうよう文化財ぶんかざい)となり、もう一体いったいだい山寺やまでら不動明王ふどうみょうおうぞうくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい)となったとされる。

室町むろまち時代ときよにおいても、当初とうしょ大山寺たいさんじ室町むろまち幕府ばくふ鎌倉かまくら庇護ひごけていたとかんがえられるが、やがてあらわみつけい地方ちほう山岳さんがく寺院じいん当時とうじ一般いっぱんてき状況じょうきょうとして、地域ちいき領主りょうしゅそう勧進かんじん唱導しょうどう活動かつどうとう一山ひとやま経営けいえいささえるようになった山内やまうち宗教しゅうきょうしゃ集団しゅうだん発言はつげんけんしていったであろうと想像そうぞうされる。文明ぶんめい18ねん1486ねん)のふゆ大山おおやまのぼった聖護院しょうごいん門跡もんぜきみちきょうじゅんきさきは、『廻国かいこく雑記ざっき』にゆき大山おおやま山内さんない宿泊しゅくはくし「そのよる大山おおやまさむくてねむれなかった」などの漢詩かんし和歌わかんでいる。ここから、当時とうじだい山寺やまでらに、近衛このえ摂関せっかん貴種きしゅであり全国ぜんこく山伏やまぶし棟梁とうりょういちぎょうむかえるだけの山伏やまぶし集団しゅうだん存在そんざいしていたとかんがえられる[7]。なお、室町むろまち時代じだい後期こうきのころに、『大山寺たいさんじ縁起えんぎ絵巻えまき』が成立せいりつした。

戦国せんごく時代じだいに、大山おおやま小田原おだわら北条ほうじょう支配しはいはいり、北条ほうじょう大山おおやま宗教しゅうきょう勢力せいりょく利用りようしようとしたことがしょ史料しりょうからわかっている。なお、大山おおやま山伏やまぶし集団しゅうだん本山ほんざんいんかつせんいん(のちのじゅうしんいん)のかすみであったとかんがえられる[8]天正てんしょう18ねん1590ねん)に徳川とくがわ家康いえやすくみする軍勢ぐんぜい小田原おだわら攻略こうりゃくしたさいには、大山おおやま宗教しゅうきょう勢力せいりょく北条ほうじょうくみして、はげしいたたかいをひろげた。

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

大山おおやまみち(主要しゅよう8みち)。

江戸えど時代じだいはいると、徳川とくがわ家康いえやす敵対てきたいしていた大山おおやま勢力せいりょくきびしい姿勢しせいのぞみ、真言宗しんごんしゅう以外いがい勢力せいりょくすべ下山げざんさせ、山内やまうち居住きょじゅうきよしそう学僧がくそう)のみで25くち限定げんていして許可きょかすることとし、さらに山岳さんがく寺院じいん一山ひとやまとしては特定とくてい宗派しゅうはにまとまっていなかっただい山寺やまでら真言宗しんごんしゅう統一とういつし、初代しょだい学頭がくとうなりごとさとしいん住持じゅうじであったじつゆう法師ほうし真言宗しんごんしゅう)を任命にんめいし、定住ていじゅうさせることとした。そのうえで、慶長けいちょう13ねん1608ねん)には御朱印ごしゅいんとう寄進きしんするなどし、経済けいざいてき援助えんじょ関係かんけいつよめた。とく徳川とくがわ家光いえみつは、大山寺たいさんじの「寛永かんえいだい修理しゅうり」のさいに、造営ぞうえいとして1まんりょうあたえ、落成らくせい祝賀しゅくがとう春日局かすがのつぼね代参だいさんとして参詣さんけいさせた。

下山げざんさせられた山伏やまぶし山内やまうち家族かぞくんでいた住人じゅうにんたちは、大山おおやまふもと居住きょじゅうし、として、布教ふきょう活動かつどうおこなうとともに、宿坊しゅくぼう土産物みやげもの経営けいえいをするなどし、その結果けっか大山おおやま門前もんぜまち蓑毛みのげまち坂本さかもと稲荷いなり開山かいさん福永ふくなが別所べっしょ新町しんまち)が成立せいりつした。たちの活動かつどうにより、たかられき年間ねんかん1751ねん - 1764ねん)からおこなわれた信仰しんこうによる登山とざん大山おおやまこうばれ、各地かくちからつうじるみちは「大山おおやまみち」(「大山おおやま街道かいどう」ともいう現在げんざい国道こくどう246ごうふくむ)とばれた。江戸えど庶民しょみんにとっては、大山おおやままい江ノ島えのしままいのセットが娯楽ごらくひとつとなった。古典こてん落語らくご演題えんだいにも『大山おおやままい』が登場とうじょうした。明治めいじ初期しょきの『ひらきしるべ』には、大山おおやまこうそうこうすうは15700であり、そう檀家だんかすうやく70まんけんとの記載きさいがある。このように大山おおやま信仰しんこう流行りゅうこうすることとなった要因よういんとして、『大山寺たいさんじ縁起えんぎ』(正確せいかくには『大山寺たいさんじ縁起えんぎ絵巻えまき』)の内容ないよう民間みんかんつたわったことが指摘してきされている。寛政かんせい4ねん1792ねん)には、『大山おおやま不動ふどう霊験れいけん』が出版しゅっぱんされた。

明治めいじ以後いご[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしん以後いご明治めいじ元年がんねん1868ねん)3がつ神仏しんぶつ分離ぶんりれいと、それにともな廃仏毀釈はいぶつきしゃく運動うんどうにより、大山寺たいさんじこわしとなり、そのあとおもねおっと神社じんじゃ下社しもしゃ建立こんりゅうされた。明治めいじ18ねん1885ねん)に、大山寺たいさんじ現在地げんざいち来迎らいごういん跡地あとち)に明王みょうおういんとして再建さいけんされ、大正たいしょう4ねん1915ねん)に観音寺かんおんじ合併がっぺいし、ふたたび「大山寺たいさんじ」をしょうすることとなった。

史料しりょう[編集へんしゅう]

大山寺たいさんじ縁起えんぎ絵巻えまき[編集へんしゅう]

大山寺たいさんじ縁起えんぎ絵巻えまき』によると、相模さがみこく国司こくしであっただいろう大夫たいふちゅうという人物じんぶつが、子供こどもめぐまれないため、如意輪観音にょいりんかんのんぞう製作せいさくしていのったところ、夫婦ふうふゆめなか高齢こうれいそうあらわれ、「弥勒菩薩みろくぼさつ化身けしん」という法華経ほけきょういちかんあたえて姿すがたした。その夫婦ふうふあいだおとこまれ、ふつ化身けしんとされて、国中くになかから祝福しゅくふくけたが、誕生たんじょうから50にち野外やがいあかぼう湯浴ゆあみしているときに、金色きんいろわしにさらわれてしまった。夫婦ふうふなげかなしんだが、金色きんいろわしられたその子供こども奈良ならさとしあきらというそうられ、「きむわし童子どうじ」と名付なづけられた。童子どうじ出家しゅっけして「良弁りょうべん」を名乗なのり、聖武天皇しょうむてんのうみとめられて東大寺とうだいじきむかねてら)の初代しょだい別当べっとうとなり、華厳宗けごんしゅう確立かくりつしたが、良弁りょうべんうわさいたときちゅう奈良ならき、である良弁りょうべん再会さいかいした。はなしいた聖武天皇しょうむてんのうは、良弁りょうべん相模さがみこく帰国きこくすることをゆるしたが、当地とうち仏法ぶっぽうひろめたらすぐに帰京ききょうすることをめいじた。

相模さがみこくで、良弁りょうべん大山おおやま山頂さんちょうからひかりはなたれているのをみた。なお、ここにみられる「光山こうやま伝説でんせつ」は修験しゅげんどう関連かんれんふか山岳さんがく縁起えんぎによくみられるものであるという。良弁りょうべん大山おおやまのぼり、山頂さんちょう地面じめんって、不動明王ふどうみょうおう石像せきぞう発見はっけんした。そのとき、不動明王ふどうみょうおうが、このやま弥勒菩薩みろくぼさつの「かぶとりつてん浄土じょうど」であるとかたった。良弁りょうべん山中さんちゅうでみいだした霊木れいぼく不動明王ふどうみょうおうぞう製作せいさくし、そのぞうまえで21日間にちかんいのると、弥勒菩薩みろくぼさつ化身けしんである四十九院つるしいんあらわれるなどした。なお、仏像ぶつぞう霊木れいぼく製作せいさくするという部分ぶぶんに、霊木れいぼく信仰しんこう存在そんざい指摘してきされる。

良弁りょうべん山中さんちゅうにある岩窟がんくつしたいけはしで、7日間にちかんいのると、いけなかからふるえへび大王だいおう名乗なの大蛇おろちあらわれ、「自分じぶん大山おおやま守護しゅごしているが、ふつおしえを無視むししていたため、このような姿すがたになってしまった。上人しょうにんのおかげでかぶとりつてんうちいんわることができたので、今後こんご大山おおやま垂迹すいじゃくして大山寺たいさんじ守護しゅごしたい」とかたった。ここには、本地垂迹ほんじすいじゃくせつによる、神仏しんぶつ習合しゅうごう典型てんけいてきなかたちがみいだされる。

良弁りょうべん参拝さんぱいじんのため、みずるようにしてしいと大蛇おろち依頼いらいすると、岩窟がんくつうえからみずがしたたりち、「じゅうたき」となった。ここで、絵巻えまきには、詞書ことばがきには記載きさいがないやく小角おがく鬼神きじんとともにえがかれており、絵巻えまき成立せいりつ背景はいけい修験しゅげんどう影響えいきょうがあることがうかがえる。また、大山おおやま信仰しんこう根幹こんかんひとつとされる、「大山寺たいさんじ」と「みず」との関係かんけい水垢離みずごりをする修行しゅぎょうしゃなど)が鮮明せんめい描写びょうしゃされているとされる。

こうして、大山寺たいさんじ開山かいさんすると、良弁りょうべんは、天皇てんのうとの約束やくそくしたがい、帰京ききょうしていったとされる。

大山おおやま不動ふどう霊験れいけん[編集へんしゅう]

大山おおやま不動ふどう霊験れいけん』はぜん131からり、大山おおやま不動明王ふどうみょうおう霊験れいけんがもたらされるにはどうすればよいか、が説話せつわなかかたられており、ただねがうだけではなく実際じっさい行動こうどうすることをうったえていて、大山おおやま信仰しんこう発展はってん一定いってい役割やくわりたしたと指摘してきされる。

大山おおやま不動ふどう霊験れいけん』には神奈川かながわ県内けんないかんする説話せつわが66あり、全体ぜんたいの50%きょうとなる。とくに、大住おおずみぐん現在げんざい伊勢原いせはら平塚ひらつか秦野はだの)にかんする説話せつわは32あり、県内けんない全体ぜんたいの48%になる。けんがいでは、59のうち江戸えど関連かんれんが21武蔵むさしこく関連かんれんが11下野げやこく関連かんれんが11おおく、僅少きんしょうである。これらの事実じじつは、当時とうじ大山おおやま信仰しんこう分布ぶんぷ考察こうさつするうえで重要じゅうようすべきものとされる。

説話せつわなか登場とうじょうする年代ねんだいについてみると、寛永かんえい年間ねんかん(1624〜1644)から寛政かんせい4ねん(1792ねん)までが128もっとおおく、そのなかでも明和めいわ安永やすなが年間ねんかん(1764〜1781ねん)の説話せつわやく58%になる。とく安永やすなが年間ねんかん説話せつわは44であり、全体ぜんたいやく34%である。このことは、大山おおやま信仰しんこう最盛さいせいたから暦年れきねんあいだ(1751〜1764ねん以降いこうとされることをうらづけているとされる。

また、説話せつわ登場とうじょう人物じんぶつでは、百姓ひゃくしょうが57にんであり、全体ぜんたいやく47.5%となっており、大山おおやま信仰しんこう百姓ひゃくしょう中心ちゅうしんとした庶民しょみん信仰しんこうであったことをしめすとされる。また、人々ひとびと大山おおやま祈願きがんしたこととして、もっとおおいのは、病気びょうき平癒へいゆ(45)で全体ぜんたいの36%であり、ついで災難さいなんけ(34)で、全体ぜんたいの27%である。なお、大山おおやま川柳せんりゅうにみられるような「借金しゃっきんのがれ」の説話せつわはみられない。

登山とざん[編集へんしゅう]

山頂さんちょうは1252mで、れた眺望ちょうぼう新宿しんじゅく高層こうそうビルぐん房総半島ぼうそうはんとうにまでおよ[9]下社しもしゃから山頂さんちょうまでは徒歩とほで1あいだはんほどである[9]山頂さんちょうにはチップせい公衆こうしゅうトイレがあるが、給水きゅうすいかん凍結とうけつ破裂はれつふせぐため冬期とうき閉鎖へいさされている[10]

登山とざんルートはおおきく3つに大別たいべつされ、登山とざんしゃもっとおお登山とざんどう伊勢原いせはらコースである。

伊勢原いせはらコース[編集へんしゅう]

  • 伊勢原いせはらえきからバスで大山おおやまケーブルバス停ばすてい登山とざんこう)→おもねおっと神社じんじゃえき(ケーブルカー終点しゅうてん)→おもねおっと神社じんじゃしゃとうはいもん夫婦ふうふすぎ富士見台ふじみだいヤビツ峠やびつとうげ分岐ぶんき(25丁目ちょうめ)→おもねおっと神社じんじゃ本社ほんしゃ大山おおやま山頂さんちょう

秦野はたのコース[編集へんしゅう]

ルートはさらに3つある

  • 秦野はだのえきからバスで蓑毛みのげバス停ばすてい登山とざんこう)→蓑毛みのげえつ→かごやみち分岐ぶんきおもねおっと神社じんじゃしゃ以下いか伊勢原いせはらコース参照さんしょう
  • 秦野はだのえきからバスで蓑毛みのげバス停ばすてい登山とざんこう)→蓑毛みのげえつ手前てまえ分岐ぶんきてん富士見台ふじみだい(※ほんコースはおもねおっと神社じんじゃしゃ経由けいゆせず富士見台ふじみだいまでのぼる。以下いか伊勢原いせはらコース参照さんしょう
  • 秦野はだのえきからバスでヤビツ峠やびつとうげバス停ばすてい登山とざんこう)→ヤビツ峠やびつとうげレストハウス→イタツミ尾根おねヤビツ峠やびつとうげ分岐ぶんき(25丁目ちょうめ)(※ほんコースはおもねおっと神社じんじゃしゃ経由けいゆしない。以下いか伊勢原いせはらコース参照さんしょう

本厚木ほんあつぎコース[編集へんしゅう]

ルートはさらに2つある

  • ほん厚木あつぎえきからバスで広沢ひろさわてら温泉おんせんバス停ばすてい登山とざんこう)→すべりがん日向ひなた薬師くすしきゅうじゅうきゅうきょく見晴台みはらしだいじゅうたきおもねおっと神社じんじゃしゃ以下いか伊勢原いせはらコース参照さんしょう
  • ほん厚木あつぎえきからバスで広沢ひろさわてら温泉おんせんバス停ばすてい登山とざんこう)→すべりがん日向ひなた薬師くすしきゅうじゅうきゅうきょく見晴台みはらしだい分岐ぶんきどうかみなりみね尾根おね大山おおやま山頂さんちょうへ(※ほんコースはおもねおっと神社じんじゃしゃ経由けいゆしない)

大山おおやま山頂さんちょう周遊しゅうゆう[編集へんしゅう]

おもねおっと神社じんじゃえき大山おおやまおもねおっと神社じんじゃ下社しもしゃ)からのルートは、登山とざんこうにあるとうはいもんを1丁目ちょうめ大山おおやま山頂さんちょうを28丁目ちょうめとしてルートがけられている[9]登山とざんしゃ一部いちぶはケーブルカーを利用りようしておもねおっと神社じんじゃしゃまでき、とうはいもん富士見台ふじみだい大山おおやま山頂さんちょうおもねおっと神社じんじゃ本社ほんしゃ)→かみなりみね尾根おね見晴台みはらしだいじゅうたきおもねおっと神社じんじゃしゃ時計とけいまわり、もしくはおもねおっと神社じんじゃしゃからはん時計とけいまわりでスタート地点ちてん下社しもしゃまで周遊しゅうゆうするものもいる。

  • 28丁目ちょうめ - 大山おおやま山頂さんちょう大山おおやまおもねおっと神社じんじゃ本社ほんしゃがある[9]
  • 20丁目ちょうめ - 富士見台ふじみだい[9]
  • 15丁目ちょうめ - 天狗てんぐはなとっがん[9]
  • 14丁目ちょうめ - 牡丹ぼたんがん[9]
  • 8丁目ちょうめ - 夫婦ふうふすぎ[9]
  • 1丁目ちょうめ - とうはいもんがあり毎年まいとし7がつ27にち夏山なつやまびらきが開催かいさいされる[9]

女坂おんなざか七不思議ななふしぎ[編集へんしゅう]

伊勢原いせはらコースを徒歩とほのぼると、ケーブルえきさき追分おいわけしゃはち意思いしけん神社じんじゃ)で男坂おとこざか女坂おんなざかみちかれる。ひだりすす女坂おんなざか道中どうちゅうには「女坂おんなざか七不思議ななふしぎ」がある[11][12]

弘法ぐほうすい
弘法大師こうぼうだいし金剛杖こんごうづえさき地面じめんいてしたとつたえられるみず
子育こそだ地蔵じぞう
いつからかおさな子供こどものようなかおわったとつたえられる石造せきぞう地蔵じぞう
つま切地きれじぞう
弘法大師こうぼうだいし一夜いちやにしてつめったとつたえられる、2メートルをえる磨崖仏まがいぶつ
菩提樹ぼだいじゅ
釈迦しゃかがそのした瞑想めいそうしてさとりをたというとはことなる品種ひんしゅ菩提樹ぼだいじゅ
無明むみょうきょう
はなしをしながらわたるととしものわすものをするとわれるはし
しおおんほら
みみせると潮騒しおさいおとこえるとわれる、岩盤がんばんひらいた四角しかく洞穴どうけつ
がたせき
びょう効果こうかがあるとわれる、ひとかたちをした自然しぜんせき

観光かんこう[編集へんしゅう]

大山おおやまからのなが

公共こうきょう交通こうつう機関きかんでアクセスする場合ばあい山麓さんろく大山おおやまケーブルえきまでは、小田急おだきゅう小田原おだわらせん伊勢原いせはらえきからバスを利用りようし、終点しゅうてんの「大山おおやまケーブル」バス停ばすていから「こま参道さんどう」をあるくこととなる。ケーブルカー(大山おおやま観光かんこう電鉄でんてつ大山おおやま鋼索線こうさくせん)は大山寺たいさんじ最寄もよりの大山寺たいさんじえきとおっておもねおっと神社じんじゃ下社しもしゃ最寄もよりのおもねおっと神社じんじゃえきまでつうじている。

大山おおやまへのアクセス道路どうろである神奈川かながわけんどう611ごう大山おおやま板戸いたどせん旧道きゅうどう)は、市街地しがいちけてから狭小きょうしょう区間くかんつづき、すれちが困難こんなんであるうえ渋滞じゅうたい要因よういんにもなっていたが、2022ねんまでに並行へいこうして2車線しゃせん県道けんどう611ごう大山おおやまバイパスが整備せいびされ、道路どうろ状況じょうきょうおおきく改善かいぜんされた。また、2020ねんにはしん東名高速道路とうめいこうそくどうろ伊勢原いせはら大山おおやまIC開通かいつうし、自動車じどうしゃでのアクセスが容易よういとなった。ただし、「大山おおやまケーブル」バス停ばすてい周辺しゅうへん駐車ちゅうしゃじょうちいさいこともあり、とく初詣はつもうで紅葉こうようシーズンは混雑こんざついちじるしい(多客たきゃくは、山麓さんろくにある伊勢原いせはら市立しりつ大山おおやま小学校しょうがっこうのグラウンドが臨時りんじ駐車ちゅうしゃじょうとして開放かいほうされる)。

丹沢たんざわ山系さんけいからながれる良質りょうしつみず使つかった豆腐とうふつくり、民芸みんげいひんとしての「大山おおやまこまづくりもおこなわれており、大山おおやまケーブルえきまでの「こま参道さんどう沿いには宿坊しゅくぼう面影おもかげのこ旅館りょかん豆腐とうふ料理りょうりてん民芸みんげいひんてんのきならべる。また、「大山おおやままんじゅう」も名物めいぶつである。

イベントとしては、「大山おおやまとうふまつり」と伊勢原いせはらえきから下社しもしゃまで9 km、高低こうてい650 mを一気いっきがる「大山おおやま登山とざんマラソン」(いずれも3がつ)がある。

FMラジオ放送ほうそう送信そうしん施設しせつ[編集へんしゅう]

放送ほうそうきょくめい 周波数しゅうはすう コールサイン 空中線くうちゅうせん電力でんりょく 実効じっこう輻射ふくしゃ電力でんりょく 放送ほうそう対象たいしょう地域ちいき 放送ほうそう区域くいきうち世帯せたいすう 放送ほうそう開始かいし
FMヨコハマ
横浜よこはまエフエム放送えふえむほうそう[13]
84.7MHz[13] JOTU-FM[13] 5kW[13] 21kW[13] 神奈川かながわけん - 2013ねん平成へいせい25ねん6月24にち

神奈川かながわ県内けんない一部いちぶ地域ちいきなん聴取ちょうしゅ解消かいしょうのため2013ねん6月24にち放送ほうそう開始かいしより、しゅ送信そうしんしょ円海山えんかいざんから移転いてん放送ほうそう開始かいし円海山えんかいざん大山おおやまから送信そうしんできなくなった場合ばあい予備よび送信そうしんしょ移行いこうした[13]送信そうしんしょ大山おおやま山頂さんちょう付近ふきん秦野はだのがわ[13]にある。

大山おおやま風景ふうけい[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 切光せっこうとし天狗てんぐ列伝れつでん西日本にしにほんへん〉』いわせい企画きかく、1977ねん、322,483-486,491-493ぺーじ
  2. ^ a b c d e 久留島くるしまはじめ天狗てんぐ説話せつわこう白澤しらさわしゃ、2023ねん、174-182,199ぺーじ
  3. ^ ていやま人気にんきを「たからやま」に『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん』2024ねんれい6ねん)2がつ10にち土曜どようばん1めん
  4. ^ 赤星あかほしただしちゅう大山おおやまはなし」『かながわ文化財ぶんかざい だい73ごう』(神奈川かながわけん文化財ぶんかざい協会きょうかい 1977)
  5. ^ 池辺いけべわたる古代こだい神社じんじゃ論攷ろんこう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1989ねん
  6. ^ 大山おおやま地誌ちし調書ちょうしょじょう天保てんぽうろくねん
  7. ^ 城川しろかわ隆生たかお丹沢たんざわ山麓さんろく中世ちゅうせい修験しゅげんとその関連かんれん史料しりょう」『郷土きょうど神奈川かながわだい47ごう(2009)
  8. ^ 杉本すぎもとぼうしゅうため雑務ざつむぼうげんはる連署れんしょ書状しょじょう」(『じゅうしんいん文書ぶんしょ思文閣出版しぶんかくしゅっぱん 2014)
  9. ^ a b c d e f g h i 大山おおやまあるこう”. 伊勢原いせはら. 2021ねん12月31にち閲覧えつらん
  10. ^ 大山おおやま山頂さんちょうのトイレ、はるまで閉鎖へいさ 伊勢原いせはら苦渋くじゅう決断けつだん”. 神奈川かながわ新聞しんぶん (2021ねん12月31にち). 2021ねん12月31にち閲覧えつらん
  11. ^ 伊勢原いせはら教育きょういく委員いいんかい史跡しせき文化財ぶんかざいのまち いせはら』(だいさんはん伊勢原いせはら教育きょういく委員いいんかい、2014ねん、69-71ぺーじ 
  12. ^ 川島かわしま敏郎としお大山おおやままいり』有隣堂ゆうりんどう、2017ねん、200-201ぺーじISBN 978-4-89660-223-4 
  13. ^ a b c d e f g 無線むせんきょく免許めんきょじょうとう情報じょうほう総務そうむしょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]