奥 克彦
経歴
[- 1958
年 (昭和 33年 )1月 3日 、兵庫 県 宝塚 市 に生 まれる。 - 1973
年 宝塚 市立 宝塚 中学校 卒業 。 - 1976
年 兵庫 県立 伊丹 高等 学校 卒業 。 - 1981
年 早稲田大学 政治 経済学部 政治 学科 卒業 (外務 公務員 採用 上級 試験 に合格 )。 - 1981
年 4月 外務省 に入省 。 - 1982
年 英語 研修 (在 イギリス日本 国 大使館 外交 官 補 として、オックスフォ ード大学 ハートフォード・カレッジにて在外 研修 )- ラグビー
部 に所属 し、レギュラーとして活躍 。 - 1985
年 関東 ラグビーフットボール協会 ツアーコミッティ委員
- ラグビー
大臣 官房 - アジア
局 南西 アジア課 情報 調査 局 安全 保障 政策 室 - 1990
年 8月 より、在 イラン大使館 二 等 書記官 在 米国 大使館 一等 書記官 在外 公館 課 首席 事務 官 会計 課 首席 事務 官 北米 局 日米 協力 推進 室長 兼 経済 局 アジア欧州 協力 室長 経済 局 国際 経済 第 一 課長 総合 外交 政策 局 国連 政策 課長 等 を歴任 。- 1996
年 日本 ラグビーフットボール協会 国際 委員 会 委員 - 1999
年 日本 ラグビーフットボール協会 総務 委員 会 委員
- 1996
- 2001
年 10月 より、在 イギリス日本 大使館 参事官 。 - 2001
年 12月田中 眞紀子 外務 大臣 により官房 機密 費 をめぐる疑惑 を受 け、懲戒 戒告 処分 (給与 20%1カ月 分 自主 返納 )。 - 2003
年 4月 米国 が復興 人道 支援 室 (ORHA) を設立 した直後 からイラクに長期 出張 。復興 人道 支援 室 (5月 に連合 暫定 施政 当局 に改編 )と日本 政府 とのパイプ役 を務 め、日本 のイラク復興 支援 の先頭 に立 って活動 。 - 2003
年 11月29日 井ノ上 正 盛 三 等 書記官 と共 に北部 イラク支援 会議 に出席 するため、ティクリート(イラク北部 )に四 輪 駆動 の軽 防弾 車 で向 かう途上 を銃撃 され殉職 (イラク日本人 外交 官 射殺 事件 )。45歳 没 。同日 付 で従 四 位 に叙 され旭日 中 綬章 を追贈 、さらに大使 の称号 が付与 された[1]。 - 2003
年 12月6日 青山 葬儀 所 で奥 家 ・井ノ上 家 ・外務省 合同 葬 がとりおこなわれ、小泉 純一郎 総理 以下 、総理 経験 者 、現職 大臣 、また各国 大使 などが参列 した。
同期
[同期 入省
[兼 原信 克 (14年 国家 安全 保障 局 次長 兼務 ・12年 内閣 官房 副 長官 補 )泉 裕泰 (19年 日本 台湾 交流 協会 台北 事務所 長 ・17年 バングラデシュ大使 )上月 豊久 (15年 ロシア大使 )岡村 善文 (19年 OECD大使 ・17年 人権 人道 担当 大使 )山田 彰 (17年 ブラジル大使 ・14年 メキシコ大使 )上村 司 (21年 日本国 政府 代表 (中東 和平 担当 特使 )、17年 サウジアラビア大使 )佐藤 地 (17年 駐 ハンガリー大使 ・15年 ユネスコ大使 )側 嶋 秀 展 (19年 ミクロネシア大使 ・16年 ザンビア大使 )香川 剛 廣 (18年 国際 貿易 ・経済 担当 大使 ・15年 エジプト大使 )石 兼 公博 (19年 国連 大使 ・17年 カナダ大使 )高岡 正人 (19年 クウェート大使 ・16年 モンゴル大使 ・13年 シドニー総領事 ・12年 イラク大使 )高木 昌弘 (21年 駐 ドミニカ共和国 大使 ・20年 クリチバ総領事 )冨田 浩司 (21年 駐米 大使 ・19年 韓国 大使 ・15年 イスラエル大使 )川村 裕 (24年 依願 免職 ・20年 ノルウェー大使 ・18年 沖縄 大使 ・14年 コートジボワール兼 トーゴ兼 ニジェール大使 )川村 泰久 (19年 カナダ大使 )嘉治 美佐子 (19年 クロアチア大使 ・14-17年 ジュネーヴ代表 部 大使 )宮島 昭夫 (20年 ポーランド大使 ・17年 トルコ大使 )重枝 豊英 (15年 リトアニア大使 )石井 哲也 (17年 トンガ大使 )岡田 誠司 (20年 バチカン大使 ・17年 南 スーダン大使 )冨永 純正 (14年 青年 海外 協力 協会 会長 ・11年 コンゴ民主 共和 国 大使 )伊藤 光子 (15年 世界 の子 どもにワクチンを日本 委員 会 事務 局長 )福 嶌 教 輝 (21年 駐 メキシコ大使 ・15年 駐 アルゼンチン大使 )福 嶌 香代子 (19年 ナッシュビル総領事 )
同期 留学
[人物
[実家 は電器 店 であった。小中学 時代 は野球 、高校 以降 はラグビーに打 ち込 むかたわら、学業 にも励 む。兵庫 県立 伊丹 高校 2年生 の時 に第 54回 全国 高等 学校 ラグビーフットボール大会 (於東大阪 花園 ラグビー場 )に出場 。3年生 ではキャプテンとして活躍 した。早稲田大学 政治 経済学部 政治 学科 の2年生 までラグビー部 に在籍 。その時 、宿 沢 広 朗 に指導 を受 ける。1978年 8月 (20歳 )、公務員 試験 (外交 官 志望 )に備 えるためにラグビーを退 部 。本人 は退 部 したことを後々 まで悔 やんでいたという(『ラグビーマガジン』2004年 2月 号 奥 大使 追悼 特集 記事 )。研修 留学 したオックスフォード大 では、日本人 として初 めてのレギュラー選手 (ウィング)として活躍 。英国 で120年 以上 の歴史 を持 つ英国 伝統 の会員 制 紳士 クラブ「ギャリック・クラブ」(ロンドン市内 )における日本人 初 の会員 となった。同 クラブでは2003年 12月8日 奥 をしのぶ会 が開 かれた。主催 したのは、オックスフォード大 で奥 と共 にラグビーをプレイしたレッジ・クラーク(英 政界 第 3党 ・自民党 幹部 職員 、45歳 )。日本 ラグビーフットボール協会 員 。- 2003
年 、イラクへ赴任 。
イラク便 り
[この
8
2004
最期 の同行 者
[井ノ上 正 盛 - ジョルジース・スライマーン・ズーラ
- 25
年間 に渡 って在 イラク日本国 大使館 に運転 手 として勤務 した。イラク北部 モスル北 のカラムレス村 出身 。2003年 11月29日 、奥 大使 、井ノ上 一等 書記官 と共 に銃撃 を受 け殉職 。54歳 没 。日本 政府 より、同日 付 で旭日 単 光章 が授与 された[1]。
奥 ・井ノ上 イラク子 ども基金
[2004
関連 項目
[参考 資料
[- 『
外交 フォーラム』No.184(2003年 11月 号 )寄稿 「イラクの戦後 復興 における国連 の役割 」 - 『
外交 フォーラム』No.187(2004年 2月 号 )特別 追悼 企画 「奥 克彦 大使 ・井ノ上 正 盛 書記官 の志 」 - 『イラク
便 りー復興 人道 支援 221日 の全 記録 ー』扶桑社 ; ISBN 459404333X ; (2004年 1月 30日 ) - 『
日本 を想 い、イラクを翔 けた―ラガー外交 官 ・奥 克彦 の生涯 』松瀬 学 (著 )新潮社 ISBN 4104600024 (2005年 11月) 清宮 克幸 『究極 の勝利 ULTIMATE CRUSH』(講談社 、2006年 2月 ) ISBN 4062132710究極 の勝利 ULTIMATE CRUSH』の英訳 プレビュー (2006年 9月 出版 )- 2004
年 3月 6日 放送 のNHKスペシャル「奧 克彦 大使 イラクでの足跡 」で放送 されたインタビュー[3] - 『ラグビーマガジン』2004
年 2月 号 奥 大使 追悼 特集 記事
脚注
[- ^ a b “イラクでの
殉職 者 に対 する叙位 ・叙勲 について|報道 発表 ”.外務省 (2003年 12月5日 ). 2021年 11月15日 閲覧 。 - ^ 「ニューヨーク
市立 大学 バルーク校 附属 高校 の教育 長 表敬 訪問 について」 - ^ (
書 き起 こし)ジャパン・ハンドラーズと国際 金融 情報 :奥 克彦 氏 の不審 死 の理由 を問 わず、アメリカに隷従 せよと説 く岡本 行夫 氏 (4)