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奥平おくだいら忠政ただまさ

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奥平おくだいら忠政ただまさぞう(光国みつくにてらくら)

奥平おくだいら 忠政ただまさ(おくだいら ただまさ、天正てんしょう8ねん1580ねん) - 慶長けいちょう19ねん10月2にち1614ねん11月3にち))は、江戸えど時代じだい初期しょき武将ぶしょう大名だいみょう上野うえの吉井よしいはんだい2だい藩主はんしゅのち美濃みの加納かのうはんだい2だい藩主はんしゅ加納かのうはん初代はつよ藩主はんしゅ奥平おくだいらしんあきら三男さんなんはは徳川とくがわ家康いえやす長女ちょうじょかめひめおく平家ひらかあきら松平まつだいら家治いえはるおとうと松平まつだいら忠明ただあきあに正室せいしつ里見さとみよしよりゆきむすめ陽春ようしゅんいん殿どの[1]奥平おくだいらただしたかし長男ちょうなん)。幼名ようみょうせん松丸まつまる官位かんいしたがえ侍従じじゅう飛騨ひだもり摂津せっつもり外祖父がいそふ家康いえやす養子ようしとなって松平まつだいらせいゆるされたため、松平まつだいら忠政ただまさともばれている。

三河みかわまれで慶長けいちょう2ねん1597ねん)、菅沼すがぬまじょう養子ようしとなり、菅沼すがぬま忠政ただまさ名乗なのった。しかしてい死去しきょすると養子ようし縁組えんぐみ解消かいしょうされ、慶長けいちょう7ねん1602ねん)のちち隠居いんきょにより、あといで美濃みの加納かのう藩主はんしゅとなった。しかし生来せいらいからの病弱びょうじゃくであったため、ちち実権じっけんにぎって藩政はんせいになった。

大坂おおさかふゆじんへの出陣しゅつじんめいじられる直前ちょくぜん慶長けいちょう19ねん(1614ねん)10がつ1にちにわか腹痛はらいたうったえ、翌日よくじつ2にちうまこく午前ごぜん12ごろちち先立さきだって死去しきょした。享年きょうねん35。あと幼少ようしょうちゅうたかしいだ。法号ほうごう雄山おやま宝永ほうえい光国みつくにいん高野山こうのやまおくいん忠政ただまさ供養くようとう存在そんざいする[1]加納かのうはん美濃みのこくしょ大名だいみょうひきいる予定よていだったが、忠政ただまさちちしんじあきら消沈しょうちんによりおとうと亀山かめやまはん忠明ただあきが、加納かのうはんへい美濃みのこくしょ大名だいみょうひきいてふゆじんまいりじんした。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b 滝川たきがわひさしあきら里見さとみよしよりゆきむすめ陽春ようしゅんいん殿どの」とその周辺しゅうへん」『館山たてやま文化財ぶんかざい』51ごう、2018ねん