そうとい

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そう とい(そう しもん、656ねん? - 712ねん)は、中国ちゅうごくはつとう詩人しじん延清のぶきよ虢州ひろのうけん現在げんざい河南かなんしょう三門さんもんかい霊宝れいほう、『きゅうとうしょ』より)あるいは汾州隰城けん現在げんざい山西さんせいしょうりょやな汾陽、『しんとうしょ』より)のひと沈佺とともにのり天武てんむきさき宮廷きゅうてい詩人しじんとして活躍かつやくし、「沈宋」と併称へいしょうされ、近体きんたい律詩りっし詩型しけい確立かくりつした。

略伝りゃくでん[編集へんしゅう]

675ねん進士しんしとなる。690ねん楊炯とともに習芸かん学士がくしとなる。のり天武てんむきさき寵臣ちょうしんであるちょうえき兄弟きょうだいり、ひさしかたかんすすむとして『さんきょうたまえい』の編集へんしゅう参加さんかした。705ねんちゅうむね復位ふくいしてちょうえきこれ失脚しっきゃくすると、その一味いちみとして沈佺もりしんげんらとともにみねみなみ左遷させんされ、そうといたきしゅうながされた。よく706ねん、ひそかに脱出だっしゅつして洛陽らくようかえった。

洛陽らくようではちょうおきいえかくまわれていたが、ちょうおきこれ朝廷ちょうてい陰謀いんぼうくわだてていることを密告みっこくして、その功績こうせきつみゆるされておおとり臚主簿になる。太平たいへい公主こうしゅ推薦すいせんによりこうこういん外郎ういろう抜擢ばってきされ、おさむぶんかん学士がくしねた。ちゅうむね宮廷きゅうてい詩人しじんとしてふたた活躍かつやくするが、709ねん収賄しゅうわいつみこししゅうちょう左遷させんされた。710ねん睿宗即位そくいすると、さらに欽州ながされ、げんむね即位そくい先天せんてん年間ねんかんに「獪険みつるあく」のつみにより自殺じさつめいじられた。

学問がくもんふか風采ふうさい立派りっぱであったとつたえられるが、品性ひんせい陋劣ろうれつ、パトロンのちょうえきこれいた詩賦しふはすべてそうとい代作だいさくであったという。りゅうのぞみえびすつくった「だい白頭翁はくとうおう」のなかの「年年歳歳ねんねんさいさいはな相似そうじ歳歳さいさい年年ねんねんじん不同ふどう」の所望しょもうしてことわられ、りゅうのぞみえびす暗殺あんさつさせたというはなしもある(もとからしぶんぼうから才子さいしでん』などより)。こししゅうながされていたときには地方ちほうかんとしての評判ひょうばんく、つくった流行りゅうこうし、ひとびとはあらそって愛唱あいしょうしたともいわれる。

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そうといは沈佺とともに近体きんたい韻律いんりつ整形せいけいちかられ、中国ちゅうごく文学ぶんがく史上しじょうにおいて律詩りっし形式けいしき完成かんせいさせた功績こうせきおおきい。七言しちごんすぐれた沈佺たいし、そうとい五言ごごんすぐれていたとされ、あきらえびすおうやぶ』ではその五言ごごんはいりつはつとうだいいちひょうしている。

かんしょくだい黄梅おうばいえきかんしょく黄梅おうばいえきだいす)
馬上もうえ逢寒しょく 馬上もうえ かんしょくに逢ふ
愁中ぞく暮春ぼしゅん 愁中 暮春ぼしゅんぞく
可憐かれん江浦えうらのぞむ 憐むべし 江浦えうらもち
らくきょうじん ず らくきょうひと
北極ほっきょくふところ明主めいしゅ 北極ほっきょく 明主めいしゅなつけ
みなみ溟作逐臣 みなみ溟 逐臣とさく(な)る
えんちょうだんしょ えん ちょうだんしょ
日夜にちややなぎじょうしん 日夜にちや やなぎじょうあらたならん


いたりはししゅうえきみるもり五審言沈三佺期閻五朝隠王二無競題壁慨然成詠(はししゅうえきいたり、もりしんげん・沈佺・閻朝かくれおうきおいかべだいせるをて、慨然がいぜんとしてえいす)
逐臣北地きたじうけたまわいむ 逐臣 北地きたじいむ譴を
調しらべいた南中なんちゅうごとしょう 調しらべせられ南中なんちゅういたれば まい(つね)にあいけんんとす
あに南中なんちゅう歧路おお あに(おもは)んや 南中なんちゅう 歧路おお
せんやままんみず分郷わかれごうけん せんやままんみず ごうけんかたんとは
くもゆらかくこぼし くもさんじ 各々おのおのこぼしとば
うみ闊天ちょう音信いんしんまれ うみ闊(ひろ)くてんながく 音信いんしんまれなり
處處しょしょ山川やまかわどう瘴癘しょうれい 処処ところどころ山川やまかわ おなじく瘴癘しょうれい
憐能とくいくにん みずから憐む のういくにんかえるを

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]