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てらこし昭二しょうじ

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てらこし しょうじ

てらこし 昭二しょうじ
生誕せいたん 1927ねん3月31にち
日本の旗 日本にっぽん 石川いしかわけん 羽咋はくいぐん 志賀しかまち
失踪しっそう 1963ねん5月11にち
日本の旗 日本にっぽん 石川いしかわけん 高浜たかはまこうおき
死没しぼつ (1968-03-30) 1968ねん3月30にち(40さいぼつ朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮きたちょうせん
または
(1963-05-12) 1963ねん5月12にち(36さいぼつ日本の旗 日本にっぽん
職業しょくぎょう 漁師りょうし
おや てらこし嘉太郎かたろうちち
家族かぞく てらこしふとし左衛門さえもんあに
てらこし文雄ふみおおとうと
てらこし外雄そとおおとうと
豊子とよこいもうと
てらこし武志たけしおい
トシ子としこつま
昭男あきお長男ちょうなん
政男まさお次男じなん
美津夫みつお三男さんなん
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てらこし 昭二しょうじ(てらこし しょうじ、1927ねん3月31にち - )は、北朝鮮きたちょうせんによる拉致らち被害ひがいしゃかんがえられる日本人にっぽんじん男性だんせい政府せいふ認定にんてい拉致らち被害ひがいしゃではないが、「すくかい」(北朝鮮きたちょうせん拉致らちされた日本人にっぽんじん救出きゅうしゅつするための全国ぜんこく協議きょうぎかい)では拉致らち被害ひがいしゃ認定にんていしている[1]てらこし昭二しょうじふくむ3にんおきりょうたまま行方ゆくえ不明ふめいになった事件じけんを「てらえつ事件じけん」とんでいる[注釈ちゅうしゃく 1]

人物じんぶつ略歴りゃくれき

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てらこし昭二しょうじは、1927ねん昭和しょうわ2ねん3月31にち石川いしかわけん羽咋はくいぐん志賀しかまちてらこし嘉太郎かたろう次男じなんとしてまれた[3][4]嘉太郎かたろうには11にんなんろくじょ)がおり、1ばんじょう長男ちょうなんふと左衛門さえもん、2番目ばんめ次男じなん昭二しょうじ外雄そとおは9番目ばんめよんなんであった[3]ふとし左衛門さえもん友枝ともえ長男ちょうなんてらこし武志たけしで、昭二しょうじからすればおいにあたる。

失踪しっそう

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1963ねん昭和しょうわ38ねん5月11にちてらこし昭二しょうじ当時とうじ36さい)は、おとうと外雄そとお当時とうじ24さい)、おい武志たけし当時とうじ13さい)とともに昭二しょうじ所有しょゆう小型こがた漁船ぎょせん清丸きよまる」で能登半島のとはんとうおきメバルりょうたまま行方ゆくえ不明ふめいになった[2][3]昭二しょうじ結婚けっこんしており、つまトシ子としことのあいだに昭男あきお当時とうじ13さい)、政男まさお(12さい)、美津夫みつお(9さい)の3にんどもがあった[3]昭男あきおは、そのあさちち漁船ぎょせんせてもらう約束やくそくをしていた[3]

清丸きよまる」は5月11にち土曜日どようび)の午後ごご1ころに高浜たかはまこう出港しゅっこうし、きたよりの富来とみくまちげん志賀しかまち福浦港ふくらみなとったのち午後ごご4ころ福浦ふくうらおき400メートルにもうれた[2][3]。そこまでは周囲しゅういからも確認かくにんされており、よるおそくには高浜たかはまこう帰港きこうする予定よていだったが、そのかえらず、翌朝よくあさ高浜たかはまこう沖合おきあい7キロメートルの海上かいじょう漁船ぎょせんだけが漂流ひょうりゅうしているところを発見はっけんされた[2][3]購入こうにゅうしてあいだもない「清丸きよまる左舷さげんにはふね衝突しょうとつされてできたような損傷そんしょうがあり、塗料とりょう付着ふちゃくしていた[2][3]転覆てんぷくエンジン故障こしょう痕跡こんせきはなかった[3]もう仕掛しかけられたままとなっており、人間にんげんだけが忽然こつぜんえたのである[3][注釈ちゅうしゃく 2]てらこし嘉太郎かたろうは、そののうちに昭二しょうじ外雄そとお武志たけしの3にん捜査そうさ依頼いらい羽咋はくい警察けいさつしょした[3]。1週間しゅうかんにおよぶ海上保安庁かいじょうほあんちょう地元じもと漁協ぎょきょう捜索そうさくにもかかわらず3にん遺体いたい発見はっけんされず、消息しょうそくもつかめないまま戸籍こせきうえ死亡しぼう遭難そうなん)」としてあつかわれた[2][3]てらこしトシ子としこは3にんをかかえながら、突然とつぜんおっとうしなった[3]。3にんうみされて死亡しぼうしたものとみなされた[2]捜索そうさくられてあいだもなく、てらえつでは3にん葬儀そうぎおこなわれたが、トシ子としこ一家いっか葬式そうしき参加さんかしなかった[3]

昭二しょうじらの失踪しっそうから24ねん1987ねん昭和しょうわ62ねん1がつ22にちんでいるとおもわれていた外雄そとおから豊子とよこ嘉太郎かたろう次女じじょ)のとつさき突然とつぜん手紙てがみがとどいた[2][5]罫線けいせんのないわら半紙ばんしボールペンかれていた手紙てがみには、3にん失踪しっそう北朝鮮きたちょうせんらすようになったこと、外雄そとお自身じしん北朝鮮きたちょうせん家庭かていをもち、2人ふたりがあること、外雄そとお北朝鮮きたちょうせんでの住所じゅうしょ、「きむあきらひろし(キム・チョルホ)」という北朝鮮きたちょうせんでの名前なまえしるされてあった[2][5]豊子とよこおっとはすぐにこれに返信へんしんし、本当ほんとう外雄そとお本人ほんにんなのかどうか確定かくていさせるための質問しつもんんだ[5]外雄そとお返信へんしんにより、間違まちがいなく外雄そとお北朝鮮きたちょうせんでの生存せいぞん確認かくにんされた[5]外雄そとお手紙てがみによれば、武志たけし生存せいぞんし、結婚けっこんしてどももいるが、昭二しょうじ北朝鮮きたちょうせんてから5ねんくなったという[2][5]

昭二しょうじ真相しんそう

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てらこし外雄そとお武志たけしれていかれ、北朝鮮きたちょうせんんだのは咸鏡北道ほくどうきよしであった[2][6]北朝鮮きたちょうせん当局とうきょくは「北朝鮮きたちょうせんふね遭難そうなんしていた3にん救助きゅうじょした。3にん北朝鮮きたちょうせんきていくことをえらんだ、昭二しょうじは1968ねん3がつ30にち死亡しぼう」と説明せつめいした[7]。「拉致らち」ではなく「救助きゅうじょ」であり、「本人ほんにん意思いし北朝鮮きたちょうせんらすことをえらんだ」という主張しゅちょうである[7]。この説明せつめいは、横田よこためぐみおっとで、高校生こうこうせいのときに韓国かんこく拉致らちされたきむ英男ひでおのケースとおなじである[7]昭二しょうじについては、「41さい誕生たんじょうあさきよし病院びょういんでベッドからちて死亡しぼうしていたところを発見はっけんされた(病死びょうし)」とつたえている[8]。そして、1990ねん平成へいせい2ねん)には「はか」としょうするものがわたされ、2002ねん平成へいせい14ねん)にははか写真しゃしん昭二しょうじどもたちに提供ていきょうされた[8]

ところが、昭二しょうじ北朝鮮きたちょうせん生活せいかつしたことをしめ写真しゃしん手紙てがみ遺骨いこつなどの物証ぶっしょうなんしめされていないこと、墓石はかいししょうするいし写真しゃしんはコンクリートがとてもしろくて1968ねん建立こんりゅうされたものには到底とうていられないこと、墓石はかいしには生年月日せいねんがっぴが1927ねん3月30にち死亡しぼうが1968ねん3がつ30にちきざまれているが、昭二しょうじ生年月日せいねんがっぴは1927ねん3がつ31にちなのであり、本人ほんにん北朝鮮きたちょうせん上陸じょうりくして5年間ねんかん生活せいかつしていたのであれば間違まちがえるはずもない生年月日せいねんがっぴ情報じょうほうあやまっていることなどから、北朝鮮きたちょうせん当局とうきょく説明せつめいしんじるにらないとの判断はんだん息子むすこたちからしめされた[8]

一方いっぽう北朝鮮きたちょうせん工作こうさくいんだった安明やすあきすすむ証言しょうげんによれば、きむ正日じょんいる政治せいじ軍事ぐんじ大学だいがくもとむ(オ・グホ)教官きょうかんきよし連絡れんらくしょ勤務きんむしていた1960年代ねんだい中頃なかごろ能登半島のとはんとう漁船ぎょせんっている3〜4にん男性だんせい拉致らちしようとし、そのうちの1人ひとり少年しょうねんだったこと、また、漁船ぎょせんのなかでもっと年長ねんちょうだったもの頑強がんきょう抵抗ていこうしたので、その射殺しゃさつし、なまりのかたまりを身体しんたいにくくりけて海中かいちゅうてたことを、もとむ自身じしんからいたという[8][9]もとむ鎬は工作こうさくいん養成ようせい機関きかんであるきむ正日じょんいる政治せいじ軍事ぐんじ大学だいがくで、1988ねん11月の「航海こうかい講座こうざ」のさいに、安明やすあきしん学生がくせいにこのときのことを詳細しょうさい説明せつめいし、日本にっぽんでの拉致らち自分じぶん最初さいしょだとかたった[8][10]によれば、こわがってしたどもをかばったおとこ射殺しゃさつし、そのふるえているどもともう一人ひとり大人おとな工作こうさくせんうつらせ、死体したいせたという[8][10]安明やすあきしんは1991ねん9がつ大学だいがく通信つうしん装備そうび倉庫そうこまえてらこし武志たけし酷似こくじした眼鏡めがねをかけた私服しふく男性だんせいかけており、学生がくせい一人ひとりが「あれが教官きょうかん拉致らちしたおとこだそうだ」とやすおしえたという[10][注釈ちゅうしゃく 3]

てらこし昭二しょうじ子息しそくであるてらこし昭男あきお北野きたの政男まさお内田うちだ美津夫みつおの3めいは、2003ねん平成へいせい15ねん)11月27にち安明やすあきしん証言しょうげんなどをもとに、石川いしかわけん警察けいさつ拉致らち実行じっこうはんもとむ鎬(オ・グホ)を殺人さつじん刑法けいほう199じょう)と死体したい遺棄いき刑法けいほう190じょう)のつみ刑事けいじ告訴こくそ告発こくはつした[8]

北朝鮮きたちょうせんによる拉致らち疑惑ぎわく

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日本にっぽん政府せいふ2007ねん平成へいせい19ねん11月6にち福田ふくだ康夫やすお首相しゅしょうめいで、てらえつ事件じけんは「北朝鮮きたちょうせんによる拉致らち可能かのうせい排除はいじょできない事案じあん該当がいとう」との見解けんかいしめしている[7]。また、「家族かぞくかい」(北朝鮮きたちょうせんによる拉致らち被害ひがいしゃ家族かぞく連絡れんらくかい)と「すくかい」(北朝鮮きたちょうせん拉致らちされた日本人にっぽんじん救出きゅうしゅつするための全国ぜんこく協議きょうぎかい)は、いずれも、この事件じけん拉致らち事件じけんであるとの認識にんしきっている[7][11]

沖合おきあいで北朝鮮きたちょうせんふねたすけられた」という武志たけしらの証言しょうげんきむ英男ひでおのケースと一致いっちし、北朝鮮きたちょうせん当局とうきょくしゃからの指示しじである可能かのうせいがある[注釈ちゅうしゃく 4]。わずか7km沖合おきあいの日本にっぽん領海りょうかいないにおいて漂流ひょうりゅうした漁船ぎょせん発見はっけんされており、浸水しんすいした形跡けいせきもないことから、日本にっぽん警察けいさつ当局とうきょく北朝鮮きたちょうせん工作こうさくせんによって発見はっけんされ、拉致らちされたものと推測すいそくしている[2]

2013ねん5月17にち、「すくかい」(北朝鮮きたちょうせん拉致らちされた日本人にっぽんじん救出きゅうしゅつするための全国ぜんこく協議きょうぎかい)の会長かいちょう昭二しょうじ親族しんぞくは、拉致らち担当たんとう大臣だいじんに「てらえつ事件じけんかんする要望ようぼうしょ」を提出ていしゅつ北朝鮮きたちょうせんによる拉致らち事件じけんとして真相しんそう究明きゅうめい要請ようせいした[12][13]拉致らち担当たんとう大臣だいじんは「安倍あべ内閣ないかくとして政府せいふ拉致らち認定にんてい有無うむにかかわらず、全員ぜんいん救出きゅうしゅつする方針ほうしんだ。そのなかてらえつ事件じけんふくまれる」との見解けんかいしめした[12][13]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ この事件じけんは、このときの漁船ぎょせんから「清丸きよまる事件じけん」としょうすることもある[2]
  2. ^ つかったのは、武志たけしていた学生がくせいふく漁船ぎょせんちかくの海中かいちゅう拾得しゅうとくされた程度ていどであった[3]
  3. ^ 安明やすあきしんによれば、もとむ鎬教かんには当時とうじ拉致らち被害ひがいしゃ日本人にっぽんじん教官きょうかんちかづいては外貨がいかげているといううわさがあったという[10]。また、ちょうどそこをとおりかかったもとむ鎬は自分じぶんいえてらこし武志たけしらしき人物じんぶつがよくるのだと学生がくせいたちにかたったという[10]
  4. ^ 2010ねん5がつ外雄そとお死亡しぼうしが海上保安庁かいじょうほあんちょうからなされたとき、家族かぞくかい事務じむ局長きょくちょうだったぞうもと照明しょうめいは、きむ英男ひでおてらこし武志たけし同様どうよう証言しょうげんをしているにもかかわらず、韓国かんこく政府せいふきむ英男ひでおが「拉致らち被害ひがいしゃ」であるとの認識にんしきち、北朝鮮きたちょうせん政府せいふ返還へんかんもとめていることからすると、日本にっぽん政府せいふ日本にっぽん見解けんかいとして「拉致らち被害ひがいしゃ」として認定にんていすべきものであり、それができないのは、北朝鮮きたちょうせん政府せいふへの遠慮えんりょ北朝鮮きたちょうせん在住ざいじゅうするてらこし武志たけし安全あんぜん保証ほしょうなのかは不明ふめいながら、北朝鮮きたちょうせん国内こくないあるいは監視かんし本人ほんにん意思いしから真実しんじつをいえない以上いじょう政府せいふとしての見解けんかい判断はんだん独自どくじになすべきであるとしている[11]。また、無念むねんおもいでくなったてらこし外雄そとおおもいをかんがえるならば、せめて外雄そとお家族かぞく安全あんぜん確保かくほするためにも、拉致らち認定にんていすべきだとのかんがえを表明ひょうめいした[11]

出典しゅってん

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  1. ^ 拉致らち被害ひがいしゃリスト”. 北朝鮮きたちょうせん拉致らちされた日本人にっぽんじん救出きゅうしゅつするための全国ぜんこく協議きょうぎかい. 2021ねん12月24にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 高世たかせ(2002)pp.164-170
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 家族かぞく』(2003)pp.325-333
  4. ^ 家族かぞく』(2003)pp.358-360
  5. ^ a b c d e 家族かぞく』(2003)pp.334-338
  6. ^ 高世たかせ(2002)p.149
  7. ^ a b c d e てらこし外雄そとおさんの死亡しぼう認定にんてい取消とりけしが決定けってい(2010/05/13)”. すくかい全国ぜんこく協議きょうぎかいニュース. 北朝鮮きたちょうせん拉致らちされた日本人にっぽんじん救出きゅうしゅつするための全国ぜんこく協議きょうぎかい (2010ねん5がつ13にち). 2021ねん12月24にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c d e f g てらえつ事件じけん石川いしかわ県警けんけい告訴こくそ告発こくはつ(2003/11/27)”. すくかい全国ぜんこく協議きょうぎかいニュース. 北朝鮮きたちょうせん拉致らちされた日本人にっぽんじん救出きゅうしゅつするための全国ぜんこく協議きょうぎかい (2003ねん11月27にち). 2021ねん12月24にち閲覧えつらん
  9. ^ やす(2000)pp.180-182
  10. ^ a b c d e やす(2005)pp.138-143
  11. ^ a b c 外雄そとお子供こども日本人にっぽんじんや」-てらこし文雄ふみおさんコメント(2010/05/14)”. すくかい全国ぜんこく協議きょうぎかいニュース. 北朝鮮きたちょうせん拉致らちされた日本人にっぽんじん救出きゅうしゅつするための全国ぜんこく協議きょうぎかい (2010ねん5がつ14にち). 2021ねん12月24にち閲覧えつらん
  12. ^ a b てらえつ事件じけん拉致らち認識にんしき すくかい要望ようぼう古屋ふるや担当たんとうしょう 北國きたぐに新聞しんぶん 2013ねん5がつ18にち
  13. ^ a b 行方ゆくえ不明ふめいから50ねんてらえつ事件じけん究明きゅうめいもと要請ようせいぶん 読売新聞よみうりしんぶん 2013ねん5がつ17にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 安明やすあきすすむ しるきむ わけ北朝鮮きたちょうせん拉致らち工作こうさくいん徳間書店とくましょてん徳間とくま文庫ぶんこ〉、2000ねん3がつISBN 978-4198912857 
  • 安明やすあきすすむ ちょ太刀川たちかわ正樹まさき わけしん証言しょうげん拉致らち廣済堂こうさいどう出版しゅっぱん、2005ねん4がつISBN 4-331-51088-3 
  • 北朝鮮きたちょうせんによる拉致らち被害ひがいしゃ家族かぞく連絡れんらくかい ちょだい7しょう 人間にんげんくちはらちがうんや:てらこし昭二しょうじてらこし外雄そとおてらこし武志たけし」、米澤よねざわひとし近江おうみひろしへん家族かぞく光文社こうぶんしゃ、2003ねん7がつISBN 4-334-90110-7 
  • 高世たかせひとし拉致らち 北朝鮮きたちょうせん国家こっか犯罪はんざい講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ〉、2002ねん9がつ原著げんちょ1999ねん)。ISBN 4-06-273552-0 

関連かんれん項目こうもく

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