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750 m
葉室塚
石塚
釜戸塚
二子塚
叡福寺北 (聖徳太子)
山田上ノ山 (孝徳)
山田高塚 (推古)
春日向山 (用明)
太子西山 (敏達)
山田上ノ山古墳(やまだうえのやまこふん)は、大阪府南河内郡太子町山田にある古墳。形状は円墳。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)」として第36代孝徳天皇の陵に治定されている。
大阪府南東部、二上山山麓の磯長谷において、二上山から西方に派生する丘陵の先端部に築造された古墳である。丘陵前には竹内街道が通る。江戸時代には「北山陵」と称されたほか、かつては「鶯陵(うぐいすのみささぎ)」とも称され[4]、『河内名所図会』では『枕草子』の「うぐひすのみささぎ」を本古墳に比定する[注 1]。現在は宮内庁治定の天皇陵として同庁の管理下にあるため、これまでに本格的な調査はなされていない。
墳形は円形で、南西方に面する。墳丘は直径32メートルを測り、小規模な円墳になる。埋葬施設などは明らかでない。関連出土品として、かつて陪塚から出土したという海獣葡萄鏡が知られるが、その出土地の詳細は明らかでない(現在では陪塚等は知られない)[4]。被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第36代孝徳天皇(654年崩御)の陵に治定されている。7世紀の王陵としては懐疑的な見解もある一方[5]、その小さい墳丘規模に生前の薄葬令の反映を推測する説もある。磯長谷では孝徳天皇陵のほか敏達・用明・推古天皇陵と聖徳太子墓が伝わっており、これらは「梅鉢御陵」と総称される。
山田上ノ山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第36代孝徳天皇の陵に治定している[6][7][8]。孝徳天皇について、『日本書紀』では白雉5年(654年)10月[原 1]に崩御し、同年12月[原 2]に「大坂磯長陵」に葬られたとする[5]。『延喜式』諸陵寮[原 3]では孝徳天皇陵は遠陵の「大坂磯長陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西5町・南北5町で守戸3烟を毎年あてるとする。その後、元禄の探陵の際に現陵に治定され(他に古市にも孝徳天皇陵伝承地が存在した)、元治元年(1864年)に修復および拝所整備等が実施された。現在の陵号には「坂」でなく「阪」の字が使用される。
注釈
- ^ 『枕草子』の「うぐひすのみささぎ」については、鶯塚古墳(奈良県奈良市)に比定する説もある(「鶯塚古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』 平凡社、1981年)。
原典
- ^ 『日本書紀』白雉5年(654年)10月壬子(10日)条。
- ^ 『日本書紀』白雉5年(654年)12月己酉(8日)条。
- ^ 『延喜式』巻21(治部省)諸陵寮条。
出典