出典 しゅってん : フリー百科 ひゃっか 事典 じてん 『ウィキペディア(Wikipedia)』
岩瀬 いわせ 順三 じゅんぞう (いわせ じゅんぞう、1933年 ねん 5月19日 にち - 1986年 ねん 5月18日 にち )は、日本 にっぽん の編集 へんしゅう 者 しゃ 、KKベストセラーズ ・ワニマガジン社 わにまがじんしゃ ・ワニブックス の創業 そうぎょう 者 しゃ [1] [2] [3] [4] [5] 。戦後 せんご を代表 だいひょう する名 めい 編集 へんしゅう 者 しゃ の一人 ひとり で[6] [7] 、"出版 しゅっぱん 界 かい の歴代 れきだい 鬼才 きさい ナンバーワン"とも言 い われた出版 しゅっぱん 事業 じぎょう 家 か [8] 。
広島 ひろしま 県 けん 尾道 おのみち 市 し 三軒家 さんげんや 町 まち 出身 しゅっしん [1] [3] [4] [9] 。野坂 のさか 昭 あきら 如 は「尾道 おのみち を代表 だいひょう する二 に 大 だい 文化 ぶんか 人 じん 、大 だい が石堂 いしどう 淑郎 よしろう で、小 しょう が岩瀬 いわせ 。ともにややこしい心根 こころね の持主 もちぬし 」と話 はな していた[3] 。1958年 ねん 立教大学 りっきょうだいがく 英 えい 米 べい 文学 ぶんがく 科 か 卒業 そつぎょう [4] 。講談社 こうだんしゃ は不 ふ 合格 ごうかく となり、バーテンダー などの仕事 しごと をする。当時 とうじ はヒロポン中毒 ちゅうどく に悩 なや まされていたという[3] [4] 。1961年 ねん 、28歳 さい で食品 しょくひん 業界 ぎょうかい の業界 ぎょうかい 紙 し ・光琳 こうりん 書院 しょいん に入社 にゅうしゃ [3] 。翌 よく 1962年 ねん 、60年 ねん 安保 あんぽ 闘争 とうそう の総括 そうかつ で知 し られる清水 しみず 幾太郎 いくたろう の紹介 しょうかい で青春 せいしゅん 出版 しゅっぱん 社 しゃ に入社 にゅうしゃ [3] [7] 。大和 やまと 岩雄 いわお と袂 たもと を分 わ かった小沢 おざわ 和一 かずいち 青春 せいしゅん 出版 しゅっぱん 社 しゃ 社長 しゃちょう との共同 きょうどう 経営 けいえい 者 しゃ となり[7] 、社員 しゃいん 10名 めい の編集 へんしゅう 長 ちょう となる[3] 。"出版 しゅっぱん 商人 しょうにん "であり、同時 どうじ に編集 へんしゅう にかけては鋭 するど い才能 さいのう を持 も つ岩瀬 いわせ は[7] 、野末 のずえ 陳平 ちんぺい 『3時 じ 間 あいだ だけ楽 たの しむ本 ほん 』や『勘 かん 入門 にゅうもん 』などの大 だい ヒットを出 だ し[8] 、後 のち にベストセラー が続出 ぞくしゅつ した「青春 せいしゅん 新書 しんしょ プレイブックス 」や[7] 、累計 るいけい で1500万 まん 部 ぶ 以上 いじょう とされる通称 つうしょう 「でる単 たん 」『試験 しけん にでる英単語 えいたんご 』などを企画 きかく [6] [10] 、一躍 いちやく 青春 せいしゅん 出版 しゅっぱん 社 しゃ の名 な を轟 とどろ かせた[7] 。一攫千金 いっかくせんきん の夢 ゆめ が強 つよ かった岩瀬 いわせ は、この成功 せいこう で銀座 ぎんざ にバー を出 だ したり有名 ゆうめい 女優 じょゆう を愛人 あいじん にするなどの放蕩 ほうとう を始 はじ めたといわれる。また一介 いっかい のサラリーマン に似合 にあ わぬ大金 たいきん をかけて賭 か け麻雀 まーじゃん をやり、多額 たがく の負債 ふさい を負 お ったともいう。しかしアクの強 つよ い岩瀬 いわせ と同 おな じくアクの強 つよ い小沢 おざわ が共同 きょうどう 経営 けいえい 者 しゃ として上手 うま くいくわけもなく、二人 ふたり は次第 しだい に犬猿 けんえん の仲 なか になり、袂 たもと を分 わ かった[7] 。
1968年 ねん 、河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ に招 まね かれ[3] [4] 、傍系 ぼうけい の「河出 かわで ベストセラーズ」を資本 しほん 金 きん 100万 まん 円 えん (岩瀬 いわせ の出資 しゅっし は30万 まん 円 えん )で興 おこ し[3] [4] 、社長 しゃちょう を務 つと めたが翌 よく 1969年 ねん 、同社 どうしゃ は会社 かいしゃ 更生 こうせい 法 ほう の適用 てきよう を申請 しんせい することとなったため退社 たいしゃ [3] 。同社 どうしゃ の子会社 こがいしゃ を独立 どくりつ させて、仲間 なかま 7人 にん とKKベストセラーズを創業 そうぎょう した[2] [6] [4] [9] 。光文社 こうぶんしゃ の神吉 かんき 晴夫 はるお が創刊 そうかん した「カッパブックス 」に対抗 たいこう して、カッパ を喰 く うワニ を商標 しょうひょう に「ワニブックス 」を創刊 そうかん [5] [11] 。それまでは著者 ちょしゃ が書 か いたものをそのまま本 ほん にするというのが一般 いっぱん 的 てき な傾向 けいこう だったが、「編集 へんしゅう 者 しゃ と著者 ちょしゃ の共同 きょうどう 作業 さぎょう 」という出版 しゅっぱん メソッド を進化 しんか させ、(1)出版 しゅっぱん 社 しゃ が企画 きかく を立 た て(2)著者 ちょしゃ を選 えら び(3)著者 ちょしゃ と共 とも に共同 きょうどう 製作 せいさく を行 おこな う出版 しゅっぱん プロデューサー的 てき 出版 しゅっぱん 社 しゃ ・出版 しゅっぱん 法 ほう を打 う ち立 た てた[8] [12] 。その後 ご 、この手 て のタイトルと本 ほん 作 づく りは、他社 たしゃ にそっくり真似 まね られ、今 いま は定着 ていちゃく している[8] 。
当時 とうじ の学者 がくしゃ たちは、価値 かち 観 かん の多様 たよう 化 か から[4] 、マス の商品 しょうひん は売 う れなくなるという説 せつ を唱 とな えていたが[4] 、高額 こうがく な広告 こうこく 費 ひ を投下 とうか し、どぎつい新聞 しんぶん 広告 こうこく でそうした風潮 ふうちょう を吹 ふ き飛 と ばした[4] 。大衆 たいしゅう 的 てき な「カッパブックス」よりもさらに徹底 てってい した大衆 たいしゅう 路線 ろせん を採 と り[5] 、その多 おお くが女性 じょせい またはカネをテーマにした[5] 。この後 のち のベストセラー の連発 れんぱつ で他 た のマスコミや世間 せけん からはゴーストライター と強 つよ い批判 ひはん を受 う けたが、高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう 期 き の社会 しゃかい 風潮 ふうちょう を背景 はいけい に、セックス や金儲 かねもう けなど人間 にんげん の根源 こんげん 的 てき 欲望 よくぼう に迫 せま るハウツー 物 もの で次々 つぎつぎ とベストセラーを送 おく り出 だ し出版 しゅっぱん 界 かい の風雲児 ふううんじ と謳 うた われた[8] 。創業 そうぎょう から4年 ねん で従業 じゅうぎょう 員 いん 27名 めい (うち女子 じょし 6名 めい )で[4] 、1人 ひとり 当 あ たり1億 おく 円 えん 以上 いじょう を売上 うりあ げ[4] 、金脈 きんみゃく を掘 ほ り当 あ てたと騒 さわ がれ[4] 、当時 とうじ のマスメディア にも盛 さか んに取 と り上 あ げられた[4] 。「本 ほん はタイトル だと思 おも うんです。強烈 きょうれつ な題名 だいめい をつけなくちゃ、広告 こうこく は生 い きない。よその広告 こうこく マンが、ぼくのところがいちばんパンチがあるって言 い ってた」[3] 、「僕 ぼく はほかのことはダメだがベストセラーづくりにかけては天才 てんさい です。自分 じぶん のつくる本 ほん を本 ほん と考 かんが えたことはない。本 ほん は物品 ぶっぴん です。学生 がくせい 時代 じだい は俗物 ぞくぶつ を軽蔑 けいべつ していたが、いまでは自分 じぶん 自身 じしん 、ほんものの俗物 ぞくぶつ になれたと思 おも う。『あいつはまたベストセラーを出 だ した。才能 さいのう があるやつだなあ』と人 ひと が認 みと めてくれることが無上 むじょう の喜 よろこ びです。自分 じぶん が共鳴 きょうめい したものを本 ほん にすると売 う れていく」などと豪語 ごうご した[4] 。『10倍 ばい 楽 たの しく見 み る方法 ほうほう 』というタイトルは、岩瀬 いわせ が以前 いぜん から温 あたた めていたもので[10] 、誰 だれ に書 か かせるか分 わ からないけれども、先 さき に何 なん 本 ほん もタイトルをストックしておいたものといわれる[10] 。
PL教団 きょうだん 御 ご 木徳 きとく 近 こん の『愛 あい ―愛 あい する愛 あい に愛 あい される愛 あい 』から始 はじ まり、ハウツーが流行 りゅうこう 語 ご となった奈良 なら 林 はやし 祥 さち 『How to sex』、藤田 ふじた 田 た 『ユダヤの商法 しょうほう 』(1977年 ねん )など、次々 つぎつぎ とベストセラーを出 だ した[2] [3] [5] [8] [9] 。『ユダヤの商法 しょうほう 』は当時 とうじ の藤田商店 ふじたしょうてん がオフィスを銀座 ぎんざ に構 かま えていた関係 かんけい で[5] 、同 おな じ銀座 ぎんざ を活動 かつどう 拠点 きょてん にしていた岩瀬 いわせ が、藤田 ふじた を"現代 げんだい 資本 しほん 主義 しゅぎ の若 わか き獅子 しし たち"とその生 い き方 かた に共鳴 きょうめい し[4] 、藤田 ふじた を直接 ちょくせつ そそのかして書 か かせたものである[5] 。1979年 ねん の『ブラック・ユーモア入門 にゅうもん 』は、岩瀬 いわせ の「本 ほん を読 よ まない人 ひと が読 よ むような本 ほん を作 つく りたい」という着想 ちゃくそう から阿 おもね 刀 かたな 田高 たたか に声 こえ をかけたもので[13] 、同書 どうしょ がベストセラーになったことで阿 おもね 刀 かたな 田 でん は作家 さっか に転身 てんしん した[13] 。ゴーストライター批判 ひはん がピークに達 たっ した江本 えもと 孟紀 たけのり の『プロ野球 やきゅう を10倍 ばい 楽 たの しく見 み る方法 ほうほう 』(1982年 ねん )は、220万 まん 部 ぶ という記録 きろく 的 てき な売 う れ行 ゆ きとなった。同書 どうしょ はプロ野球 やきゅう の暴露 ばくろ 本 ほん の草分 くさわ け的 てき 存在 そんざい で[10] 、これはゴーストライターブームをつくったと言 い われその後 ご 、このテのタイトルと本 ほん 作 づく りは、他社 たしゃ にそっくり真似 まね られ今 いま は定着 ていちゃく している[8] 。1974年 ねん のあのねのね 『あのねのね 今 いま だから愛 あい される本 ほん 』は65万 まん 部 ぶ を売 う り上 あ げ[14] 、タレントの書 か いた本 ほん としては異例 いれい の大 だい ヒットであのねのね人気 にんき の拡大 かくだい に一役 ひとやく 買 か った[14] 。この大 だい ヒットをきっかけに各 かく 出版 しゅっぱん 社 しゃ がタレント本 ほん を大挙 たいきょ 出 だ し、芸能 げいのう 界 かい にタレント本 ほん ブームが起 お きた[14] 。1980年 ねん の年間 ねんかん 6位 い となったビートたけし の『ツービートのわっ毒 どく ガスだ』は漫才 まんざい ブーム を興 おこ す切 き っ掛 か けの一 ひと つとなった。1984年 ねん からは女性 じょせい の顔 かお にシャワーをかける表紙 ひょうし で有名 ゆうめい な『ザ・ベストマガジン 』『大人 おとな の特選 とくせん 街 がい 』など大人 おとな の雑誌 ざっし 群 ぐん も揃 そろ えた[8] 。
「本 ほん を作 つく る場合 ばあい 、市場 いちば 調査 ちょうさ をやったり、こういう傾向 けいこう のものが売 う れてるからこういう本 ほん を作 つく ろう、というように考 かんが えるのはシロウト。ぼくはそうじゃない。自分 じぶん 自身 じしん が大衆 たいしゅう そのものと思 おも ってます。だからリサーチの必要 ひつよう はない。わたしが大衆 たいしゅう の象徴 しょうちょう みたいなもんです。だから、わたしの読 よ みたい本 ほん は、大衆 たいしゅう も読 よ みたくなる本 ほん ということになるわけです。それが私 わたし の企画 きかく の根本 こんぽん です」[3] 、「マーケティングなどという類 るい は無能 むのう な大 だい 企業 きぎょう の人間 にんげん が仕事 しごと をつくるためにやる遊 あそ びの道具 どうぐ です。企業 きぎょう なんて1人 にん か2人 ふたり の凄 すご い人間 にんげん がいればいい。あとはその人間 にんげん の手足 てあし となってこまねずみのように働 はたら く親衛隊 しんえいたい がいればうまくいく。所詮 しょせん は個人 こじん プレーです。ブレーンストーミング とかなんとか大 だい 企業 きぎょう さんでおやりになりますが、あれは僕 ぼく にいわせればナンセンスです。馬鹿 ばか を何 なん 十 じゅう 人 にん 集 あつ めたところで、いい知恵 ちえ なんて生 う まれるわけがない。たまに年 とし に一 いち 回 かい ぐらいいいアイデアが出 で るかもしれないけど、年 とし 一 いち 回 かい のアイデアのために会議 かいぎ ばかりやってたら企業 きぎょう は持 も ちません。その代 か わり社長 しゃちょう は本物 ほんもの の能力 のうりょく を要求 ようきゅう されるし、社員 しゃいん の3倍 ばい や5倍 ばい は働 はたら きいいアイデアを出 だ さなきゃだめ。能力 のうりょく のある奴 やつ が会社 かいしゃ をとり、支配 しはい する。単純 たんじゅん 明快 めいかい です。社員 しゃいん にとって重要 じゅうよう なのは社長 しゃちょう の玉 たま を見抜 みぬ くことです。反乱 はんらん を起 お こしたり、社長 しゃちょう の考 かんが えを変 か えさせようとしたって無駄 むだ です。社長 しゃちょう がダメな人間 にんげん だと思 おも ったらさっさと辞 や めるのに限 かぎ ります。よく部長 ぶちょう や課長 かちょう で『下 した のやつがついてこないで面白 おもしろ くない』という人 ひと がいるでしょう。それはその人 ひと が権力 けんりょく だけで下 した を押 お さえつけようとするからです。職場 しょくば の仕事 しごと を通 つう じて自分 じぶん の能力 のうりょく を証明 しょうめい しなきゃ下 した の人 ひと はついてはいきません。これは人間 にんげん 関係 かんけい の要諦 ようたい です。社長 しゃちょう は特 とく に、一番 いちばん 生意気 なまいき な部下 ぶか から『この社長 しゃちょう じゃかなわねえな』と思 おも わせなきゃダメです。うちの社員 しゃいん はみんな社長 しゃちょう に惚 ほ れてついてきてますよ。だから誰 だれ も辞 や めません。その代 か わり給料 きゅうりょう は弾 はず んでいます」などと述 の べた[4] 。当時 とうじ の部下 ぶか ・寺口 てらぐち 雅彦 まさひこ は岩瀬 いわせ から「俺 おれ たちの仕事 しごと は(読者 どくしゃ の)頭 あたま のテッペンから爪先 つまさき までにある欲望 よくぼう を具現 ぐげん 化 か することだ」とよく言 い われたという[10] 。また「だから天下 てんか 国家 こっか を論 ろん じる本 ほん からエロ本 ほん まで作 つく るんだ」と話 はな していたという[10] 。岩瀬 いわせ の言葉 ことば は、エンターテインメント の原点 げんてん でもある[10] 。野坂 のさか 昭 あきら 如 は「今 いま までの編集 へんしゅう 者 しゃ は、おもに小説 しょうせつ 家 か とか編集 へんしゅう 者 しゃ を相手 あいて にして、世 よ に隠 かく れた才能 さいのう を掘 ほ り出 だ してくるのが名 めい 編集 へんしゅう 者 しゃ ということになっていたけれども、あなたの場合 ばあい は雑文 ざつぶん 家 か の天才 てんさい を掘 ほ り出 だ してくるわけだ」と評 ひょう した[3] 。
野坂 のさか 昭 あきら 如を兄貴 あにき と慕 した い、よく行動 こうどう を共 とも にした[6] 。野坂 のさか の小説 しょうせつ 『水虫 みずむし 魂 たましい 』のモデルとされる[1] [2] [3] [6] 。また『新宿 しんじゅく 海溝 かいこう 』の中 なか で野坂 のさか は岩瀬 いわせ を回想 かいそう し「コンプレックスの強 つよ い小男 こおとこ 」と評 ひょう している[7] 。野坂 のさか の小説 しょうせつ 野坂 のさか の小説 しょうせつ 『火垂 ほた るの墓 はか 』の実写 じっしゃ 映画 えいが 化 か を企図 きと し、アメリカに戦前 せんぜん の神戸 こうべ の街並 まちな みを再現 さいげん して実物 じつぶつ のB-29 から本物 ほんもの の焼夷弾 しょういだん を投下 とうか するなどの壮大 そうだい なプランを立 た てていた[15] 。キックボクシング に熱中 ねっちゅう した野坂 のさか の関係 かんけい からかプロボクシング の名門 めいもん で立教 りっきょう の後輩 こうはい 本田 ほんだ 明彦 あきひこ が経営 けいえい する帝拳 ていけん のオーナー になり[9] [2] 、フェザー級 きゅう 全日本 ぜんにほん 高校 こうこう 王者 おうじゃ の実績 じっせき を引 ひ っ下 さ げ沖縄 おきなわ から帝拳 ていけん 入 い りした浜田 はまだ 剛 つよし を社員 しゃいん として雇用 こよう した。カネと女 おんな にかけては人一倍 ひといちばい 、力 ちから を注 そそ いだ[5] 。1973年 ねん には日本 にっぽん のヒュー・ヘフナー を目指 めざ し[3] [4] 、女 おんな を口説 くど こうと別 べつ 会社 かいしゃ で美人 びじん を揃 そろ えたファッションモデル の会社 かいしゃ を作 つく ったが2ヶ月 かげつ で潰 つぶ した[3] [4] 。「銀座 ぎんざ は男 おとこ の花道 かどう だ」というポリシー から[5] 、あまり酒 しゅ は強 つよ くないのに銀座 ぎんざ の高級 こうきゅう バー をハシゴ するほど飲 の み続 つづ けた[5] 。野坂 のさか に「お前 まえ はもっと飲 の まなきゃダメだ」と言 い われて実行 じっこう し肝臓 かんぞう は40代 だい でボロボロになったといわれB型 がた 肝炎 かんえん により52歳 さい で早世 そうせい した[2] 。
野坂 のさか から紹介 しょうかい された梶山 かじやま 季之 としゆき 、近藤 こんどう 啓 あきら 太郎 たろう 、吉行 よしゆき 淳之介 じゅんのすけ らとも親 した しく[3] 、吉行 よしゆき の小説 しょうせつ や随筆 ずいひつ に何 なん 度 ど か登場 とうじょう している。吉行 よしゆき の『鬱 うつ の一 いち 年 ねん 』(1978年 ねん )のモデルとされる[9] 。岩瀬 いわせ の手掛 てが けたベストセラーは他 た に糸 いと 山 さん 英太郎 えいたろう 『怪物 かいぶつ 商法 しょうほう 』(1973年 ねん )、吉田 よしだ 敏幸 としゆき 『どんと来 こ い税務署 ぜいむしょ 』(1973年 ねん )[4] 、中村 なかむら 鉱 こう 一 いち 『やせる健康 けんこう 法 ほう 』、馬場 ばば 憲治 けんじ 『アクションカメラ術 じゅつ 』(1981年 ねん )などがある[3] 。
「〇〇〇〇の本 ほん 」シリーズ(KKベストセラーズ刊 かん )[ 編集 へんしゅう ]
吉行 よしゆき 淳之介 じゅんのすけ の本 ほん (1969年 ねん )
野坂 のさか 昭 あきら 如の本 ほん (1969年 ねん )
有馬 ありま 頼義 よりちか の本 ほん (1970年 ねん )
阿川 あがわ 弘之 ひろゆき の本 ほん (1970年 ねん )
近藤 こんどう 啓 あきら 太郎 たろう の本 ほん (1970年 ねん )
遠藤 えんどう 周作 しゅうさく の本 ほん (1970年 ねん )
五木 いつき 寛之 ひろゆき の本 ほん (1970年 ねん )
宇能鴻 おおとり 一 いち 郎 ろう の本 ほん (1970年 ねん )
水上 みずかみ 勉 つとむ の本 ほん (1970年 ねん )
立原 たちはら 正秋 まさあき の本 ほん (1971年 ねん )