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川端かわばた龍子りゅうこ

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川端かわばた 龍子りゅうこ
1951ねんごろ
本名ほんみょう 川端かわばた のぼり太郎たろう
誕生たんじょう 1885ねん6月6にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 和歌山わかやまけん和歌山わかやま
死没しぼつねん (1966-04-10) 1966ねん4がつ10日とおか(80さいぼつ
芸術げいじゅつ分野ぶんや 日本にっぽん画家がか
受賞じゅしょう 朝日あさひ文化ぶんかしょう(1931ねん
文化ぶんか勲章くんしょう(1959ねん
会員かいいん選出せんしゅつ組織そしき 帝国ていこく美術びじゅついん
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川端かわばた 龍子りゅうこ(かわばた りゅうし、1885ねん明治めいじ18ねん6月6にち - 1966ねん昭和しょうわ41ねん4がつ10日とおか)は、日本にっぽん画家がか俳人はいじんおとうと異母弟いぼてい)は『ホトトギス』の俳人はいじん川端かわばた茅舍ぼうしゃ(ぼうしゃ)であり、龍子りゅうこも『ホトトギス』同人どうじんであった。本名ほんみょう川端かわばた のぼり太郎たろう

生涯しょうがい

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川端かわばた龍子りゅうこ(『アサヒグラフ』1948ねん9がつ15にちごう

現在げんざい和歌山わかやまけん和歌山わかやままれる。幼少ようしょうころそらいろとりどりのこいのぼりて、ふうにゆらめく圧倒的あっとうてきこい躍動やくどうかんしんかれた龍子りゅうこは、職人しょくにんしたかよいつめると、そのえがかたなん真似まねをした。自分じぶんもこんなえがけるようになりたい、とこのときおもったのが、画家がか龍子りゅうこ原点げんてんであった。1895ねん明治めいじ28ねん)、10さいころ家族かぞくとともに東京とうきょう転居てんきょした。

城東じょうとう高等こうとう小学校しょうがっこうから東京とうきょう府立ふりつだいいち中学校ちゅうがっこう入学にゅうがくいちなか分校ぶんこうから発展はってんして東京とうきょう府立ふりつだいさん中学校ちゅうがっこう設立せつりつされたことでさんちゅう移籍いせき府立ふりつさんちゅう在学ざいがくちゅう1903ねん明治めいじ36ねん)に読売新聞社よみうりしんぶんしゃが『明治めいじさんじゅうねん』を一般いっぱん募集ぼしゅうしたさい龍子りゅうこは30作品さくひん応募おうぼした。このうち『西南せいなん戦争せんそう熊本くまもとじょう』と『軍艦ぐんかん富士ふじ廻航かいこう』の2てん入選にゅうせんし40えん(1てん20えん)の賞金しょうきんた。これが本格ほんかくてき画家がかこころざすきっかけとなった。

画家がかとしての龍子りゅうこは、当初とうしょ白馬はくばかい絵画かいが研究所けんきゅうじょおよび太平洋たいへいよう画会がかい研究所けんきゅうじょ所属しょぞくして洋画ようがえがいていた。修善寺しゅぜんじ温泉おんせん横山よこやま大観たいかん画家がか俳人はいじん歌人かじん文豪ぶんごうのパトロンになっていた新井あらい旅館りょかんこもってさくはげんで資金しきんたくわ[1]1913ねん大正たいしょう2ねん)に渡米とべいした。西洋せいようまなび、それでてようとおもっていたが、あこがれのアメリカっていたのはきびしい現実げんじつであった。日本人にっぽんじんえがいた西洋せいようなどだれ見向みむきもしない。西洋せいようへのみちまりをかんじていた。失意しついなかったボストン美術館びじゅつかんにて鎌倉かまくら時代ときよ絵巻物えまきもの名作めいさく平治へいじ物語ものがたり絵巻えまき』を感動かんどうしたことがきっかけとなり、帰国きこく日本にっぽん転向てんこうした。

1915ねん大正たいしょう4ねん)、平福ひらふく百穂ひゃくすいらと「珊瑚さんごかい」を結成けっせい同年どうねん院展いんてん再興さいこう日本にっぽん美術びじゅつ院展いんてん)にはつ入選にゅうせんし、独学どくがく日本にっぽん習得しゅうとくした龍子りゅうこは、4ねんというはやさで1917ねん大正たいしょう6ねん)に近代きんだい日本にっぽん巨匠きょしょう横山よこやま大観たいかんひきいる日本にっぽん美術びじゅついん同人どうじんとなる。そして1921ねん大正たいしょう10ねん)に発表はっぴょうされた作品さくひんせい』は日本にっぽん神話しんわ英雄えいゆうヤマトタケル」をえがいた。あかからだつつむのは黄金おうごんほのおいのち宿やどしたかのようなうごき、わか画家がか野望やぼうがみなぎる、はげしさにちた作品さくひんである。しかし、この物議ぶつぎをかもした。当時とうじ日本にっぽん画壇がだんでは、個人こじんちいさな空間くうかん鑑賞かんしょうする「ゆかあいだ芸術げいじゅつ」とばれるようなものが主流しゅりゅうであった。繊細せんさい優美ゆうび作品さくひんてはやされていた。龍子りゅうこはげしいいろ使づかいと筆致ひっちは、粗暴そぼう鑑賞かんしょうえないといわれた。

その1928ねん昭和しょうわ3ねん)には院展いんてん同人どうじんし、よく1929ねん昭和しょうわ4ねん)には、「ゆかあいだ芸術げいじゅつ」と一線いっせんかくした「会場かいじょう芸術げいじゅつ」としての日本にっぽん主張しゅちょうして「あおりゅうしゃ」を旗揚はたあげして独自どくじみちあゆんだ。たて1m85cmはば8m38cmのだい画面がめん展開てんかいする、あざやかな群青ぐんじょううみしろなみとの鮮烈せんれつなコンストラスト。はげしくぶつかりみずみずなみしぶき。壮大そうだいみず世界せかいえがいた『鳴門なると』は、当時とうじ常識じょうしきをくつがえす型破かたやぶりな作品さくひんであった。その大作たいさく主義しゅぎ標榜ひょうぼうし、だい画面がめん豪放ごうほう屏風びょうぶ得意とくいとした。大正たいしょう - 昭和しょうわ戦前せんぜん日本にっぽん画壇がだんにおいては異色いしょく存在そんざいであった。

1931ねん昭和しょうわ6ねん)に朝日あさひ文化ぶんかしょう受賞じゅしょう1935ねん昭和しょうわ10ねん)、帝国ていこく美術びじゅついん帝国ていこく芸術げいじゅついん前身ぜんしん)の改革かいかくともな会員かいいん[2]、さらに1937ねん昭和しょうわ12ねん)には帝国ていこく芸術げいじゅついん会員かいいんとなったが、1941ねん昭和しょうわ16ねん)に会員かいいん辞任じにんした。

1937ねん昭和しょうわ12ねん)に『潮騒しおさい』を発表はっぴょうはば14mのちょう大作たいさくで、岸壁がんぺき海岸かいがんふかうみあおあさくなるにつれ、透明とうめいたかみどり変化へんかしていく様子ようすあざやかにえがいている。この作品さくひん龍子りゅうこ筆致ひっちおおきくわった。いわはげしくぶつかるみず、そこには輪郭りんかくせんがない。想像そうぞうだけでえがいた『鳴門なると』と比較ひかくすると繊細せんさいなみうごきがよりリアルに表現ひょうげんされていることがかる。あらたなみず表現ひょうげん獲得かくとくした龍子りゅうこであった。

1939ねん昭和しょうわ14ねん)、時世じせいおうじて作家さっかとともに陸軍りくぐん美術びじゅつ協会きょうかい入会にゅうかい[3]1941ねん昭和しょうわ16ねん)に太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつ自由じゆうえがくことがゆるされないなかで、龍子りゅうこ作品さくひん発表はっぴょうつづけた。1944ねん昭和しょうわ19ねん)の『水雷すいらいしん』で、みずにすむかみ々がげているのは魚雷ぎょらいであり、くらふかうみそこ、そのみずおもにごっている。龍子りゅうこはこのかみ々にいのちし、すす特攻隊とっこうたいいん姿すがたかさねた。

龍子りゅうこ戦前せんぜん長男ちょうなん次女じじょくし、1941ねん昭和しょうわ16ねん)にはおとうとちがやしゃ病没びょうぼつ戦中せんちゅう三男さんなん戦地せんちくなり、1944ねん昭和しょうわ19ねん)7がつ17にちつま先立さきだたれた[1]重々おもおもしいいろ使づかいは龍子りゅうこ心情しんじょうあらわれかもれない。

終戦しゅうせん翌々日よくよくじつひかえた1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ13にちには龍子りゅうこ自宅じたく空襲くうしゅうった。使用人しようにん2にんくなり、家屋かおくのほか食糧難しょくりょうなんをしのぐためにわそだてていた野菜やさい被害ひがいけた。こののちすぐ『ばくだん散華さんげ』(2m49cm×1m88cm)をえがげた。金箔きんぱく金色きんいろ砂子すなご背景はいけいトマト爆風ばくふうでちぎれようえがいたこの作品さくひんは、戦死せんししゃへの追悼ついとうめられているとみる解釈かいしゃくもある。また爆撃ばくげきによりできたあなを「ばくだん散華さんげいけ」としてのこした[1]

だい大戦たいせん1950ねん昭和しょうわ25ねん)、65さいになっていた龍子りゅうこつま息子むすこ供養くようのため、四国しこくはちじゅうはちヵ所かしょ巡礼じゅんれいはじめる。6ねんがかりでぜん札所ふだしょまわり、かく札所ふだしょ淡彩たんさいのスケッチ(画家がかみずからは「くさ描」とぶ)をのこした。これらは、札所ふだしょんだ俳句はいくとともに文集ぶんしゅう四国しこく遍路へんろ』として出版しゅっぱんされている。

1959ねん昭和しょうわ34ねん)、文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょう没年ぼつねん1966ねん昭和しょうわ41ねん)には、居宅きょたくちか東京とうきょう大田おおた池上本門寺いけがみほんもんじ大堂うふどう天井てんじょうとして奉納ほうのうすべく『りゅう』をえがいたが未完みかんのまま死去しきょ墓所はかしょは、おとうとちがやしゃとともに修善寺しゅぜんじ裏手うらてにある。渡米とべいまえ滞在たいざいした修善寺しゅぜんじった場所ばしょ別荘べっそうかまえ、そのにわえがいた『龍子りゅうこかき』という作品さくひんのこるほか、修善寺しゅぜんじこけむさせた東京とうきょう自宅じたくはこぶこともした。世話せわになった新井あらい旅館りょかん改装かいそうにも協力きょうりょくしている[1]

後日ごじつ遺族いぞく相談そうだん龍子りゅうこ遺作いさく実見じっけんした日本にっぽん画家がか奥村土牛おくむらとぎゅう作品さくひん激賞げきしょう奥村おくむら画龍点睛がりょうてんせいして開眼かいがんうえ作品さくひん大堂うふどう奉納ほうのうされた。

龍子りゅうこ記念きねんかん

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大田おおた区立くりつ龍子りゅうこ記念きねんかん中央ちゅうおう4丁目ちょうめ

1963ねん昭和しょうわ38ねん)には、喜寿きじゅ記念きねんして、長年ながねんんだ東京とうきょう大田おおた龍子りゅうこ記念きねんかん設立せつりつし、自作じさく展示てんじした。かんは、当初とうしょ社団しゃだん法人ほうじんあおりゅうしゃ運営うんえいしていたが、1990ねん平成へいせい2ねん)、どう法人ほうじん解散かいさんとともに土地とち建物たてもの龍子りゅうこ作品さくひん大田おおた寄贈きぞうされ、1991ねん平成へいせい3ねん)より大田おおた区立くりつ龍子りゅうこ記念きねんかん運営うんえいされている。かん隣接りんせつする龍子りゅうこアトリエ旧宅きゅうたく庭園ていえん公開こうかいされている。

また、龍子りゅうこ自邸じていない持仏堂じぶつどうててほとけ安置あんちしていたが、これらのうち重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していの(おう2ねん1162ねんめい毘沙門天びしゃもんてん立像りつぞう遺族いぞくにより東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん寄贈きぞうされている。

作風さくふう

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はげしくながれるみずながれとほとばしるなみしぶきによる龍子りゅうこえがいたみずは、巨大きょだいなエネルギーでもの圧倒あっとうした。昭和しょうわ動乱どうらん画壇がだんし、独自どくじ芸術げいじゅつひらいた日本にっぽん画家がかである。けたはずれのだい画面がめん龍子りゅうこ躍動やくどうするみず世界せかいえがつづけた。そのみず画家がかしんうつすかのように時代じだいともいろかたちえていった。

代表だいひょうさく

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タイトル 画像がぞう 制作せいさくねん 所蔵しょぞうさき 備考びこう
佳人かじんこうざい 1913ねん大正たいしょう2ねん 京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんぞう
霊泉れいせん由来ゆらい 1916ねん大正たいしょう5ねん えいあお文庫ぶんこぞう
慈悲じひこうれいさんあさゆう)』 1918ねん大正たいしょう7ねん 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんぞう
安息あんそく』  1919ねん大正たいしょう8ねん 松岡まつおか美術館びじゅつかんぞう
』  1919ねん大正たいしょう8ねん 大田おおた区立くりつ龍子りゅうこ記念きねんかんぞう
芭蕉ばしょうおきな』  1923ねん大正たいしょう12ねん 和歌山わかやま県立けんりつ近代きんだい美術館びじゅつかんぞう
南山なんざんさんしろ 1928ねん昭和しょうわ3ねん さんまるなお蔵館くらだてぞう
鳴門なると

1929ねん昭和しょうわ4ねん やましゅ美術館びじゅつかんぞう
『請雨曼荼羅まんだら 1929ねん昭和しょうわ4ねん 大田おおた区立くりつ龍子りゅうこ記念きねんかんぞう
くさえん 1930ねん昭和しょうわ5ねん 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんぞう
くさ 1931ねん昭和しょうわ6ねん 大田おおた区立くりつ龍子りゅうこ記念きねんかんぞう
山葡萄やまぶどう 1933ねん昭和しょうわ8ねん 大田おおた区立くりつ龍子りゅうこ記念きねんかんぞう
愛染あいぜん 1934ねん昭和しょうわ9ねん 足立あだち美術館びじゅつかんぞう
香炉こうろほう 1939(昭和しょうわ14)ねん 大田おおた区立くりつ龍子りゅうこ記念きねんかん
きょくすい 1941ねん昭和しょうわ16ねん 京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんぞう
おこ富士ふじ 1944ねん昭和しょうわ19ねん 大田おおた区立くりつ龍子りゅうこ記念きねんかんぞう 248.0×188.0cm
洛陽らくよう攻略こうりゃく 1944ねん昭和しょうわ19ねん 東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんぞう期限きげん貸与たいよ
ばくだん散華さんげ[1] 1945ねん昭和しょうわ20ねん 大田おおた区立くりつ龍子りゅうこ記念きねんかんぞう 249.0×188.0cm
雪月花せつげっか池心ちしんつき)』 1952ねん昭和しょうわ27ねん
千住大橋せんじゅおおはし 1955ねん昭和しょうわ30ねん 大田おおた区立くりつ龍子りゅうこ記念きねんかんぞう
逆説ぎゃくせつ生々流転せいせいるてん 1959ねん昭和しょうわ34ねん 大田おおた区立くりつ龍子りゅうこ記念きねんかんぞう 昭和しょうわ33ねん狩野川かのがわ台風たいふう惨事さんじ取材しゅざいえがかれた絵巻えまき横山よこやま大観たいかん生々流転せいせいるてん』へのオマージュ[4]


まご悟空ごくう 1962ねん昭和しょうわ37ねん 大田おおた区立くりつ龍子りゅうこ記念きねんかんぞう

戦争せんそうについて

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1944ねん昭和しょうわ19ねん)に製作せいさくした『洛陽らくよう攻略こうりゃく』、『輸送ゆそう船団せんだん海南かいなんとう出発しゅっぱつ』については、戦後せんごGHQ軍事ぐんじ主義しゅぎてきであるとしてほか作家さっか戦争せんそうとともに没収ぼっしゅうされた。その1970ねん昭和しょうわ45ねん)になって期限きげん貸与たいよというかたちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくから一括いっかつ返還へんかん東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん収蔵しゅうぞうされた[5][6]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e 川端かわばた龍子りゅうこ茅舎ぼうしゃ芸術げいじゅつ(した)ふつへの信仰しんこうしん森羅万象しんらばんしょうかさねる『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん朝刊ちょうかん2021ねん4がつ18にち14-15めん
  2. ^ 帝国ていこく美術びじゅついん改組かいそ閣議かくぎ承認しょうにん大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん昭和しょうわ10ねん5がつ29にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい5かん 昭和しょうわ10ねん-昭和しょうわ11ねん本編ほんぺんp410 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  3. ^ 戦争せんそう名作めいさく目指めざして『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』(昭和しょうわ14ねん4がつ16にち)『昭和しょうわニュース事典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp787 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  4. ^ 京都きょうと府立ふりつ堂本どうもと印象いんしょう美術館びじゅつかん堂本どうもと印象いんしょう美術館びじゅつかん川端かわばた龍子りゅうこがやってくる : 圧倒的あっとうてき迫力はくりょく日本にっぽん世界せかい京都きょうと府立ふりつ堂本どうもと印象いんしょう美術館びじゅつかん、2019ねん
  5. ^ 川端かわばた龍子りゅうこ 洛陽らくよう攻略こうりゃく”. 独立どくりつ行政ぎょうせい法人ほうじん国立こくりつ美術館びじゅつかん. 2022ねん9がつ2にち閲覧えつらん
  6. ^ 25ねんぶり戦争せんそう絵画かいが 報道ほうどう関係かんけいしゃ公開こうかい朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ45ねん(1970ねん)6がつ16にち夕刊ゆうかん、3はん、9めん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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