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ドイツこく首相しゅしょう

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帝国ていこく宰相さいしょうから転送てんそう
ドイツの旗ドイツ国の旗ドイツの旗ナチス・ドイツの旗ドイツこく
首相しゅしょう
Reichskanzler
初代しょだいドイツこく首相しゅしょう
オットー・フォン・ビスマルク
任命にんめいドイツ皇帝こうてい
ドイツこく大統領だいとうりょう
創設そうせつ1871ねん3月21にち
初代しょだいオットー・フォン・ビスマルク
最後さいごシュヴェリンはくルートヴィヒ・フォン・クロージク
廃止はいし1945ねん5月23にち(臨時りんじ政府せいふ解体かいたい)

ドイツこく首相しゅしょう(ドイツこくしゅしょう、ドイツ: Reichskanzler)は、1871ねんから1945ねんまで存続そんぞくしたドイツこく首相しゅしょう相当そうとうする官職かんしょくくにせいおうじて帝国ていこく宰相さいしょう(ていこくさいしょう)、首相しゅしょうライヒ首相しゅしょうともやくされる。

1871ねんから1918ねんまでのだい帝政ていせいドイツ帝国ていこくにおいては、帝国ていこく宰相さいしょうとして皇帝こうていした帝国ていこく指導しどうReichsleitung)を、1919ねんから1945ねんまでのヴァイマル共和きょうわせいだいさん帝国ていこくにおいては首相しゅしょうとして大統領だいとうりょうナチス・ドイツでは総統そうとう)のしたドイツこく政府せいふReichsregierung)をひきいた。

名称めいしょう

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Reichライヒ)はドイツくに帝国ていこくなどを意味いみし、Kanzler本来ほんらい「(宮廷きゅうてい法廷ほうていの)秘書官ひしょかん」などを意味いみしていたが、のち宰相さいしょうやくされるようになった。英語えいごではChancellorという言葉ことばてられる。

Reichskanzlerという官職かんしょくめいは、中世ちゅうせいから近代きんだい初頭しょとうまでいたるドイツの宰相さいしょう伝統でんとうKanzler-Tradition)に由来ゆらいする。今日きょうでもドイツ連邦れんぽう共和きょうわこくオーストリア連邦れんぽう首相しゅしょうBundeskanzler という官職かんしょくめい影響えいきょうのこしている。なお帝国ていこく宰相さいしょうReichskanzler)の称号しょうごうドイツけん君主くんしゅこくでも使用しようされており、たとえばオーストリア・ハンガリーじゅう帝国ていこくでは1867ねんフリードリヒ・フェルディナント・フォン・ボイスト伯爵はくしゃく帝国ていこく宰相さいしょう称号しょうごう授与じゅよされている。

変遷へんせん

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だい帝政ていせい

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ドイツしょくにちゅう最大さいだい国家こっかであるプロイセン王国おうこく覇権はけんのもとに、1867ねん成立せいりつしたきたドイツ連邦れんぽうは、プロイセンおう連邦れんぽう主席しゅせきとし、加盟かめいかくくに調整ちょうせい機関きかんである連邦れんぽう参議院さんぎいん帝国ていこく議会ぎかいReichstag)、簡素かんそ連邦れんぽう行政府ぎょうせいふゆうしていた。この行政府ぎょうせいふ頂点ちょうてんとしてプロイセン首相しゅしょうMinisterpräsident)、オットー・フォン・ビスマルク連邦れんぽう宰相さいしょうBundeskanzler兼務けんむした(連邦れんぽう参議院さんぎいん業務ぎょうむはプロイセン外相がいしょうおこなっていたため、立場たちばじょうプロイセン外相がいしょう連邦れんぽう宰相さいしょうより上位じょういとなる。それゆえにビスマルクは連邦れんぽう宰相さいしょう、プロイセン首相しゅしょう外相がいしょう兼務けんむしていた)。

宰相さいしょうKanzler)という称号しょうごう中世ちゅうせい前期ぜんきから皇帝こうていないし国王こくおう最高さいこう輔弼ほひつしゃあたえられており、プロイセン改革かいかくにおけるカール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクの「宰相さいしょう独裁どくさい」のように、君主くんしゅせいてき官僚かんりょうせいてきはん議会ぎかいてき要素ようそ象徴しょうちょうしていた。すなわち、宰相さいしょう権限けんげん君主くんしゅ信任しんにんにのみ依拠いきょし、議会ぎかいから独立どくりつしているというてん、さらに内閣ないかくにおいてほか大臣だいじんより特別とくべつ地位ちいたとえば、ハルデンベルクはプロイセン宰相さいしょう在職ざいしょくちゅう国王こくおうへの上奏じょうそうけん独占どくせんみとめられていた)をめているというてんにおいて、「宰相さいしょう」と内閣ないかく首席しゅせき大臣だいじんたる「首相しゅしょう」(Ministerpräsident)はことなっていた。したがって、連邦れんぽう宰相さいしょうないし帝国ていこく宰相さいしょうというしょく、そして宰相さいしょうによって統率とうそつされる行政府ぎょうせいふは、1848ねんさんがつ革命かくめい成立せいりつしたフランクフルト国民こくみん議会ぎかいにおいて選出せんしゅつされた帝国ていこく大臣だいじん主席しゅせきReichsministerpräsident)と、大臣だいじん主席しゅせきちょうとする帝国ていこくないかくReichsministerium)とちがうものとしてとらえられていた。

1871ねん1がつ18にちみなみドイツしょくにきたドイツ連邦れんぽう編入へんにゅうされ、ドイツ帝国ていこく(ドイチェス・ライヒ)が成立せいりつした。これにともない、連邦れんぽう主席しゅせき称号しょうごう皇帝こうていに、連邦れんぽう宰相さいしょう帝国ていこく宰相さいしょうReichskanzlerあらためられた。初代しょだい帝国ていこく宰相さいしょうにはつづき、オットー・フォン・ビスマルクが就任しゅうにんした。同年どうねん4がつ16にちドイツ帝国ていこく憲法けんぽう発布はっぷされ、しん帝国ていこく統治とうち体制たいせいさだまった。帝国ていこく宰相さいしょうは、ドイツ帝国ていこく元首げんしゅである皇帝こうていによって任命にんめいされ[1]皇帝こうてい権限けんげんである帝国ていこく法律ほうりつ制定せいてい公布こうふ執行しっこう監督かんとくみことのりれいおよ処分しょぶんについて責任せきにんった[2]。すなわち、帝国ていこく宰相さいしょう政治せいじじょう責任せきにん皇帝こうていたいしてのみい、帝国ていこく議会ぎかいから独立どくりつして政務せいむたったのである。なお、帝国ていこく宰相さいしょう連邦れんぽう参議院さんぎいん議長ぎちょうつとめ、そのしょ事務じむ主宰しゅさいした[1]帝国ていこく中央ちゅうおう政府せいふは、帝国ていこく構成こうせいするしょくに既得きとくけんおかさないという条件じょうけん設置せっちされたため、正式せいしきには帝国ていこく指導しどうReichsleitungとよばれた[3]。このため、建国けんこく当初とうしょ中央ちゅうおう省庁しょうちょうかずすくなく、おおくの法案ほうあん作成さくせい行政ぎょうせい事務じむをプロイセン政府せいふ依存いぞんした[4]。ゆえに帝国ていこく宰相さいしょうは、1892ねんから1894ねんいち時期じきのぞいて、プロイセン首相しゅしょう兼任けんにんした。また憲法けんぽうじょう帝国ていこく宰相さいしょうたすける大臣だいじん内閣ないかくについての規定きていはなく、1918ねんまで帝国ていこくかく省庁しょうちょうちょうは、君主くんしゅたいして宰相さいしょう同様どうよう責任せきにん大臣だいじん(Minister)という称号しょうごうびなかった[5]。つまり、帝国ていこくかく省庁しょうちょうちょうはその業務ぎょうむについて自立じりつした大臣だいじんではなく、帝国ていこく宰相さいしょう下僚かりょうとしてその指示しじ厳格げんかくしたが国務こくむ長官ちょうかんStaatssekretär)であった。このように、帝国ていこく宰相さいしょうはドイツ帝国ていこく統治とうち体制たいせいじょうおおきな権限けんげん掌握しょうあくしていたのであるが、皇帝こうてい意向いこうやプロイセンをはじめとするしょくに政府せいふ動向どうこう配慮はいりょせねばならず、また自己じこ政策せいさくたいして国民こくみんてき支持しじけようとする場合ばあい帝国ていこく議会ぎかい与党よとう多数たすう形成けいせいしなくてはならないなど、その地位ちい複雑ふくざつなものであった[6]

1918ねんだいいち世界せかい大戦たいせんでドイツの敗戦はいせん濃厚のうこうになり、改革かいかく気運きうんたかまっていった。10月28にち憲法けんぽう修正しゅうせいされ、帝国ていこく宰相さいしょうはその職務しょくむ遂行すいこうさいして帝国ていこく議会ぎかい信任しんにん必要ひつようとし、連邦れんぽう参議院さんぎいんおよ帝国ていこく議会ぎかいたいして責任せきにんうこと、皇帝こうてい権限けんげん行使こうしするさい帝国ていこく宰相さいしょう責任せきにんうこととなった。しかし、このような「議会ぎかい主義しゅぎてき帝政ていせい」も国民こくみん支持しじするところとなりず、11月3にちドイツ革命かくめいはじまった。9にち帝国ていこく宰相さいしょうマクシミリアン・フォン・バーデン皇帝こうてい退位たいい独断どくだん発表はっぴょうし、社会しゃかい民主党みんしゅとう党首とうしゅフリードリヒ・エーベルト帝国ていこく宰相さいしょうしょくゆずわたした。同日どうじつフィリップ・シャイデマン共和きょうわこく成立せいりつ宣言せんげんし、帝政ていせい崩壊ほうかいした。

ヴァイマル共和きょうわせい

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1918ねん11月9にち革命かくめいにより帝政ていせい崩壊ほうかいすると、帝国ていこく宰相さいしょうおよび帝国ていこく指導しどう廃止はいしされ、革命かくめい成立せいりつしたろうへい協議きょうぎかい人民じんみん委員いいん政府せいふ暫定ざんていてき権限けんげん掌握しょうあくした。1919ねん2がつヴァイマル共和きょうわせい発足ほっそくすると、フィリップ・シャイデマンを首班しゅはんとする内閣ないかく組閣そかくされた。あらたに成立せいりつしたこの行政府ぎょうせいふは、帝政ていせいから意識いしきてき距離きょりをとって、ライヒ政府せいふReichsregierung名乗なのり、首班しゅはんライヒ大臣だいじん主席しゅせきReichsministerpräsidentしょうした。しかし、ドイツこく政府せいふという名称めいしょうかく省庁しょうちょうちょうであるライヒ大臣だいじんReichsminister)の称号しょうごうがそれ以降いこう、1945ねんのドイツこく崩壊ほうかいまでもちいられたのにたいし、ライヒ大臣だいじん主席しゅせきという名称めいしょう公用こうようでは定着ていちゃくしなかった。ヴァイマル憲法けんぽう制定せいていさいし、社会しゃかい民主党みんしゅとう提案ていあんした「ドイツ共和きょうわこく」の国号こくごう拒否きょひされ、以前いぜんからの「ドイツこく(ドイチェス・ライヒ)」が国号こくごうとして採用さいようされると、1919ねん8がつ、ドイツこく政府せいふ首班しゅはん帝政ていせい時代じだいおなReichskanzlerという名称めいしょうもどった。ヴァイマル共和きょうわせいおよびナチスドイツのReichskanzlerは、帝政ていせい時代じだいことなり日本にっぽんでは一般いっぱんてき首相しゅしょうやくされる[7]

ヴァイマル共和きょうわせいにおいて、首相しゅしょう国家こっか元首げんしゅであるドイツこく大統領だいとうりょうによって任免にんめんされ[8]、ドイツこく政府せいふ議長ぎちょうとして政治せいじ基本きほん方針ほうしんさだ[9]国会こっかいReichstag)の信任しんにんもとづいて職務しょくむ遂行すいこう[10]大統領だいとうりょう国会こっかいたいして責任せきにんうようになった[11]。また、国会こっかい信任しんにんうしなった場合ばあい首相しゅしょう辞任じにんしなくてはならないとされた[10]。しかしその一方いっぽうで、首相しゅしょうはヴァイマル憲法けんぽうだい48じょう規定きていされた大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれいたよって、議会ぎかい多数たすうなしでも統治とうちおこなえた。とくパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領だいとうりょう時代じだい後半こうはんには、議会ぎかい主義しゅぎ政党せいとう弱体じゃくたいもあって大統領だいとうりょう信任しんにんのみを基礎きそとする大統領だいとうりょうないかく常態じょうたいとなった。

だいさん帝国ていこく

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アドルフ・ヒトラー1933ねん1がつ30にち首相しゅしょう就任しゅうにんしてまもなく、国民こくみん社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(ナチとう)によるいちとう独裁どくさい体制たいせい確立かくりつし、議会ぎかいせいてき政府せいふ形態けいたいわりをげた。

1934ねん8がつにヒンデンブルク大統領だいとうりょう死去しきょすると、「国家こっか元首げんしゅかんする法律ほうりつ」において首相しゅしょうしょく大統領だいとうりょうしょく統合とうごうし、さらに大統領だいとうりょう職権しょっけんを「指導しどうしゃけんドイツこく首相しゅしょうFührer und Reichskanzler)であるアドルフ・ヒトラー個人こじん」へと委譲いじょうさせた。以後いご日本にっぽんではヒトラーの地位ちい総統そうとうぶようになる。

だい世界せかい大戦たいせん末期まっき連合れんごう国軍こくぐんベルリンへとせまり、ドイツこく崩壊ほうかいするなか、1945ねん4がつ30にちにヒトラーは自殺じさつした。かれ遺言ゆいごんしょにおいて側近そっきんであるヨーゼフ・ゲッベルス後継こうけいしゃとして首相しゅしょう指名しめいした。これは、ドイツこく当時とうじすでにそのだい部分ぶぶん連合れんごう国軍こくぐん占領せんりょうされ、ゲッベルスもヒトラーの翌日よくじつ5月1にち自殺じさつしたので政治せいじてき影響えいきょうはなかった。同様どうようにヒトラーの遺言ゆいごんしょにより大統領だいとうりょう指名しめいされたカール・デーニッツ提督ていとく5月2にちシュヴェリンはくルートヴィヒ・フォン・クロージク暫定ざんてい政府せいふ指導しどう委任いにんした。しかし、クロージクはドイツこく首相しゅしょう官職かんしょくめいもちいなかった。だいさん帝国ていこくにおける最後さいご政府せいふは、正統せいとうせいは「ヒトラーの指名しめい」のみを基礎きそとし支配しはい領域りょういきはほとんどなく実権じっけんとぼしいものであったが、5月23にち連合れんごう国軍こくぐんにより公式こうしき廃止はいしされた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b ドイツ帝国ていこく憲法けんぽうだい15じょう
  2. ^ ドイツ帝国ていこく憲法けんぽうだい17じょう
  3. ^ 木村きむら靖二やすじ近代きんだい社会しゃかい形成けいせい国家こっか統一とういつ」(『新版しんぱん世界せかい各国かっこく13 ドイツ』、山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2001ねん)。
  4. ^ そのかくくにえた帝国ていこく固有こゆう行政ぎょうせい事務じむ拡大かくだいするとともに、外務省がいむしょう内務省ないむしょう海軍かいぐんしょう鉄道てつどうしょう郵政省ゆうせいしょう司法省しほうしょう財務省ざいむしょう植民しょくみんしょうなどの帝国ていこく省庁しょうちょう設置せっちされていった。
  5. ^ 帝国ていこく官職かんしょくはそれに対応たいおうしたプロイセンの大臣だいじんによって兼務けんむされることが通例つうれいであったため、事実じじつじょう帝国ていこく指導しどう大抵たいてい構成こうせいいん大臣だいじんではあった。
  6. ^ もち田幸たこうおとこだい帝政ていせい国家こっか社会しゃかい」(『世界せかい歴史れきし大系たいけい ドイツ2』、山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1996ねん)。
  7. ^ 前掲ぜんけい新版しんぱん世界せかい各国かっこく13 ドイツ』のほか、『世界せかい歴史れきし大系たいけい ドイツ3』(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1997ねん)、若尾わかお祐司ゆうじ井上いのうえ茂子しげこ編著へんちょ近代きんだいドイツの歴史れきし ―18世紀せいきから現代げんだいまで― 』(ミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2005ねん)などの通史つうし概説がいせつしょ参照さんしょう。なお、ヴァイマル共和きょうわせいReichskanzler宰相さいしょうやくれいもある。村瀬むらせきょうゆう『アドルフ・ヒトラー』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、1977ねん)、や初宿しやけただしてん「ドイツ憲法けんぽうりゃく」(高田たかださとし初宿しやけただしてんへんやく『ドイツ憲法けんぽうしゅう だい5はん』、しんやましゃ、2007ねん)など。
  8. ^ ヴァイマル憲法けんぽうだい53じょう
  9. ^ ヴァイマル憲法けんぽうだい55じょうだい56じょう
  10. ^ a b ヴァイマル憲法けんぽうだい54じょう
  11. ^ ヴァイマル憲法けんぽうだい50じょうだい56じょう

関連かんれん項目こうもく

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