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常陸ひたちまる

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常陸ひたちまる(ひたちまる)とは


常陸ひたちまる初代しょだい[編集へんしゅう]

常陸ひたちまる(初代しょだい)
初代しょだい常陸ひたちまる
基本きほん情報じょうほう
ふねしゅ 貨客船かきゃくせん
クラス 神奈川かながわまるきゅう貨客船かきゃくせん
船籍せんせき 大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく
所有しょゆうしゃ 日本郵船にっぽんゆうせん
運用うんようしゃ 日本郵船にっぽんゆうせん
建造けんぞうしょ 三菱みつびし合資ごうし会社かいしゃ三菱みつびし造船ぞうせんしょ
母港ぼこう 東京とうきょうこう/東京とうきょう
姉妹しまいせん 5せき
信号しんごう HNST
IMO番号ばんごう 2331(※船舶せんぱく番号ばんごう
建造けんぞう期間きかん 604にち
就航しゅうこう期間きかん 2,131にち
経歴けいれき
起工きこう 1896ねん12月21にち[1]
進水しんすい 1898ねん4がつ16にち[1]
竣工しゅんこう 1898ねん8がつ16にち[1]
除籍じょせき 1904ねん6月15にち
最後さいご 1904ねん6がつ15にち被弾ひだん沈没ちんぼつ常陸ひたちまる事件じけん
要目ようもく
総トン数そうとんすう 6,172 トン[2]
垂線すいせんあいだちょう 135.64m[2]
はば 14,99m
かたはば 15.0m[2]
かたふか 10.21m[2]
ボイラー 石炭せきたんせんもえかん
しゅ機関きかん 三菱みつびしせいさんれんなりレシプロ機関きかん 2[2]
推進すいしん 2じく[2]
出力しゅつりょく 3,847HP[2]
速力そくりょく 14.18ノット[2]
旅客りょかく定員ていいん 一等いっとう:24めい
とう:20めい
さんとう:116めい[2]
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日本郵船にっぽんゆうせん欧州おうしゅう航路こうろ開設かいせつ計画けいかくしたのはにちしん戦争せんそう終結しゅうけつ1896ねん明治めいじ29ねん)のことであり、しん造船ぞうせん投入とうにゅうはじめから計画けいかくされていたものの、その整備せいび完了かんりょうには相当そうとう日数にっすうようしたため当面とうめん購入こうにゅうした外国がいこくせんをもって航路こうろ維持いじすることとなった[3][4]欧州おうしゅう航路こうろ投入とうにゅうされる予定よてい船舶せんぱくは、当初とうしょは4しゅうに1かいはいせんとして計画けいかくされていたため6せき建造けんぞう計画けいかくされていたが、もなく2しゅうに1かいはいせん計画けいかくあらためられたため、12せき整備せいびとなった[5]。こうして整備せいびされたのが神奈川かながわまるきゅう貨客船かきゃくせん6せき若狭わかさまるきゅう貨客船かきゃくせん6せきである[5]。12せきのうち、10せきグラスゴー仲介ちゅうかい業者ぎょうしゃつうじてイギリスの造船ぞうせんしょ建造けんぞうされることとなったが、神奈川かながわきゅう貨客船かきゃくせんおよび若狭わかさまるきゅう貨客船かきゃくせんのそれぞれの最終さいしゅうせんは、三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ建造けんぞうされることとなった[5][6]。このうち、神奈川かながわきゅう貨客船かきゃくせん最終さいしゅうせんが「常陸ひたちまる」である。姉妹しまいせんは「神奈川かながわまる」、「博多はかたまる」、「河内かわうちまる」、「鎌倉かまくらまる」、「讃岐さぬきまる」。

当時とうじ日本にっぽん造船ぞうせんぎょう小規模しょうきぼなものでおくれていた[7]日本にっぽん政府せいふは、造船ぞうせん工業こうぎょう育成いくせいのために1896ねん3がつ23にち造船ぞうせん奨励しょうれいほう発布はっぷして造船ぞうせんぎょう発達はったつうながしたものの、発布はっぷしてしばらくのあいだはあまり成果せいかがらなかった[7]。その原因げんいんとしては、日本にっぽん当時とうじ技術ぎじゅつりょくはがねせん建造けんぞうするレベルになにとか到達とうたつしたものの大型おおがたせん建造けんぞう可能かのう施設しせつがなかったことや、造船ぞうせん材料ざいりょう調達ちょうたつ外国がいこくたのみであったことがある[8]。そのようななか郵船ゆうせん三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ大型おおがたせん建造けんぞう依頼いらいしたくわしい経緯けいい不明ふめいであるが[注釈ちゅうしゃく 1]郵船ゆうせん依頼いらいけるまでに三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ建造けんぞうした最大さいだいふねは、大阪おおさか商船しょうせん台湾たいわん航路こうろ投入とうにゅうした貨客船かきゃくせん須磨すままる」(1,592トン)であり、郵船ゆうせん依頼いらいした「常陸ひたちまる」は「須磨すままる」の4ばいおおきさであった[9]。「わが造船ぞうせん史上しじょう空前くうぜんだい仕事しごと[10]そなえ、三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょはイギリスじん技術ぎじゅつしゃ顧問こもんとして招聘しょうへいし、いちから設計せっけいしたのではわないということでD・W・ヘンダーソンしゃから同型どうけいせん設計せっけい購入こうにゅうおな資材しざい注文ちゅうもんして長崎ながさきおくはずをととのえた[10]。「常陸ひたちまる」は1896ねん12月21にち起工きこうし、建造けんぞう途中とちゅうからは、同型どうけいせん建造けんぞうじょうきょう視察しさつのためにわたりすぐるしていた塩田しおだ泰介たいすけ(のち三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ所長しょちょう)が建造けんぞう主任しゅにんとして建造けんぞう監督かんとくすることとなった[10]

常陸ひたちまる」の建造けんぞう順調じゅんちょうすすみ、1897ねん明治めいじ30ねん)10がつごろに進水しんすいする計画けいかくてられた[10]。ところが、おもわぬあしかせがけていた。ロイド・レジスターから派遣はけんされていた検査けんさいん船体せんたい検査けんさにあたったあと、「リベットかた不完全ふかんぜんである」とった[10]塩田えんでん以下いか監督かんとくかん検査けんさおこなって、不完全ふかんぜんだとおもわれる部分ぶぶんなおすこととした[10]。「わが造船ぞうせん史上しじょう空前くうぜんだい仕事しごと」ゆえに大型おおがたのリベットちに未熟みじゅくてんがあった可能かのうせいもあるが、ここで不思議ふしぎなことがこる。監督かんとくかん検査けんさえてリベットをなおすたびに検査けんさいんは「不完全ふかんぜん」とかえし、1898ねん明治めいじ31ねん)1がつにいたって「常陸ひたちまる」のロイド・レジスターへの登録とうろく拒否きょひするとしたのである[10]塩田えんでん造船ぞうせんしょ所長しょちょう荘田しょうだ平五郎へいごろう相談そうだんし、60まんほんすすべてのリベットのうち、塩田えんでん判断はんだんで「不完全ふかんぜん」とおもわれたものにかんしてはなおすことがまった[10]。これと並行へいこうして、三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょはロイド・レジスターにたいしてべつ検査けんさいん派遣はけんするよう要請ようせいし、ロイド・レジスターは「不完全ふかんぜん」とった検査けんさいん更迭こうてつしてあらたな検査けんさいん派遣はけん[10]あたらしい検査けんさいんによる検査けんさ結果けっか、リベットに不完全ふかんぜんなところがないとみとめられた[10]。1898ねん4がつ16にち、「常陸ひたちまる」は郵船ゆうせん近藤こんどう廉平れんぺい社長しゃちょうによる命名めいめい無事ぶじ進水しんすい、4かげつの8がつ16にち竣工しゅんこうした[10]

かくして「非常ひじょう犠牲ぎせい[11]はらい「本邦ほんぽう造船ぞうせん史上しじょう一新いっしん時代じだいかくし」[12]竣工しゅんこうした「常陸ひたちまる」であったが、リベット問題もんだい建造けんぞう遅延ちえんした影響えいきょうだいであった。「常陸ひたちまる」につづ若狭わかさまるきゅう貨客船かきゃくせん最終さいしゅうせんにあたるだい2せん発注はっちゅう期限きげんない竣工しゅんこうすることが絶望ぜつぼうてきとなったため、本来ほんらいだい2せんとして建造けんぞう予定よていされていた「信濃しなのまる」(6,388トン)はD・W・ヘンダーソンしゃ建造けんぞうさい発注はっちゅうする羽目はめとなった[10][13]だい2せん予備よびせんとしてあらためて発注はっちゅうされ、「阿波あわまる (初代しょだい)」(6,309トン)として建造けんぞうされた[13]郵船ゆうせん工事こうじ遅延ちえんかかわる損害そんがい契約けいやく期限きげん遅滞ちたいによる償金しょうきんだい2せんさい発注はっちゅうによる一切いっさいしょ経費けいひの3つを三菱みつびしもとめ、三菱みつびしがわはこれら3つの経費けいひをすべて支払しはらった[10]。「常陸ひたちまる建造けんぞうからやく40ねん1939ねん昭和しょうわ14ねん)には、「常陸ひたちまる建造けんぞう騒動そうどう以下いかのようなおもばなしとして、1939ねん当時とうじ世界せかい情勢じょうせいからめられつつかたられている。

にち戦争せんそうのあの常陸ひたちまるろくせんトンという明治めいじさんじゅうねん前後ぜんこう画期的かっきてき巨船きょせんだが、このろくせんトンきゅうろくせき建造けんぞう計画けいかくてた日本にっぽんがうちせきをイギリスに注文ちゅうもん常陸ひたちまるだけはだい英断えいだん三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょつくった 『はたしてこんな巨船きょせん日本にっぽんでできるだろうか?』とビクビクもので明治めいじじゅうきゅうねんさんがつ起工きこうどうさんじゅういちねんはちがつヤッと竣工しゅんこうしたがあんじょう、イギリスのロイドから『日本にっぽんにもないふねつくったがやっぱりなっちゃいない、リベットのかたはみんな駄目だめだからロイド船級せんきゅう登録とうろく落第らくだいだ』とあたまごなしにきわめつけられ、三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょでは□をひくくしてわざわざロイド協会きょうかいから検査けんさいんまねったんだの揚句あげくようやくパスしたといういわくつきのふねである、それからよんじゅうねんささえ事変じへんをきっかけに澎湃ほうはいとしておこった時代じだいこえ『ロイドがなんじゃい、日本にっぽんにはチャンと明治めいじさんじゅうねん以来いらい帝国ていこく海事かいじ協会きょうかいうまれているではないか!日本人にっぽんじんすべから世界せかいから正式せいしきみとめられた帝国ていこく海事かいじ協会きょうかいはいるだけでよろしい たか検査けんさりょうはらってまで外国がいこく船級せんきゅうはい必要ひつようはない』と最近さいきん続々ぞくぞくとロイド船級せんきゅう脱退だったい流行りゅうこうしているから痛快つうかいだ、常陸ひたちまるでイギリスからめられた三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ最近さいきんいちねんじゅうまんきゅうせんトンといういち造船ぞうせんしょとしての建造けんぞう世界せかい記録きろくつくってみごとにイギリスのおかぶうばってよんじゅうねんまえかたきをうちとった — 「大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ14ねん6がつ3にち[14]

常陸ひたちまる」は6ねんちか欧州おうしゅう航路こうろ就航しゅうこうののち、にち戦争せんそう勃発ぼっぱつさいして1904ねん明治めいじ37ねん)2がつ日本にっぽん陸軍りくぐん用船ようせんとなって軍事ぐんじ輸送ゆそうにあたり、1904ねん6がつ15にち玄界灘げんかいなだでロシア帝国ていこく海軍かいぐんウラジオストク巡洋艦じゅんようかんたい攻撃こうげきけて沈没ちんぼつした(常陸ひたちまる事件じけん)。「常陸ひたちまる」の遺品いひんは、艦隊かんたい攻撃こうげきけて大破たいはした輸送ゆそうせん佐渡さどまる」(日本郵船にっぽんゆうせん、6,219トン)の乗組のりくみいん回収かいしゅうして排水はいすい作業さぎょう使用しようし、帰還きかん三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ形見かたみとして寄贈きぞうされた甲板かんぱん手桶ておけのみであった[15]。「常陸ひたちまる」の甲板かんぱん手桶ておけはのちに、「常陸ひたちまる」にじゅんじて切腹せっぷくしててた後備こうび近衛このえ歩兵ほへいだい一連隊長須知源次郎中佐の縁者えんじゃ海事かいじ史家しか山高やまたか五郎ごろうあずかり[注釈ちゅうしゃく 2]山高やまたかが「個人こじん私蔵しぞうしてまんいちなにかの不行届ふゆきとどきがあってはもうしわけない」というかんがえから本家ほんけ須知しゅうち近衛このえあゆみへいだい一連いちれんたい寄贈きぞうされたが、1945ねん昭和しょうわ20ねん)の東京とうきょうだい空襲くうしゅう連隊れんたい兵舎へいしゃ焼失しょうしつしたさいにともに焼失しょうしつして現存げんそんせず、写真しゃしんのみがのこっている[15]

常陸ひたちまる詳細しょうさい沈没ちんぼつ場所ばしょは119ねんものあいだ不明ふめいであったが、2023ねんれい5ねん)5がつにテレビ番組ばんぐみ企画きかくBS-TBS調査ちょうさしたところ、海底かいてい遺跡いせきした常陸ひたちまる発見はっけんし、テレビ映像えいぞうとしておさめるのに成功せいこうした[16]

常陸ひたちまる代目だいめ[編集へんしゅう]

常陸ひたちまる(だい)
代目だいめ常陸ひたちまる
基本きほん情報じょうほう
ふねしゅ 貨客船かきゃくせん
船籍せんせき 大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく
所有しょゆうしゃ 日本郵船にっぽんゆうせん
運用うんようしゃ 日本郵船にっぽんゆうせん
建造けんぞうしょ 三菱みつびし合資ごうし会社かいしゃ三菱みつびし造船ぞうせんしょ
母港ぼこう 東京とうきょうこう/東京とうきょう
姉妹しまいせん なし
信号しんごう LCBS
IMO番号ばんごう 10577(※船舶せんぱく番号ばんごう
建造けんぞう期間きかん 542にち
就航しゅうこう期間きかん 3,984にち
経歴けいれき
起工きこう 1905ねん6月19にち[17]
進水しんすい 1906ねん9月22にち[17]
竣工しゅんこう 1906ねん12月12にち[17]
除籍じょせき 1917ねん11月7にち
最後さいご 1917ねん9月26にちに「ヴォルフ」が拿捕だほ[18]
11月7にち爆沈ばくちん処分しょぶん[18]
要目ようもく
総トン数そうとんすう 6,716トン[18]
垂線すいせんあいだちょう 135.64m[18]
かたはば 15.85m[18]
かたふか 10.21m[18]
ボイラー 石炭せきたんせんもえかん
しゅ機関きかん 三菱みつびしせいさんれんなりレシプロ機関きかん 2[18]
推進すいしん 2じく[18]
出力しゅつりょく 5,475IHP[18]
最大さいだい速力そくりょく 15.676ノット[18]
旅客りょかく定員ていいん 一等いっとう:51めい
とう:24めい
さんとう:182めい[18]
乗組のりくみいん 117めい
加賀かがまる伊豫いよまる安藝あきまるじゅん姉妹しまいせん
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初代しょだい常陸ひたちまる」をうしなった郵船ゆうせんだいふね建造けんぞう計画けいかくし、三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ建造けんぞう発注はっちゅうする。にち戦争せんそうさい末期まっき1905ねん明治めいじ38ねん)6がつ19にち起工きこうしただいふね初代しょだい襲名しゅうめいするかたちで「常陸ひたちまる」と命名めいめいされ、1906ねん明治めいじ39ねん)9がつ22にち進水しんすい、12月12にち竣工しゅんこうした。

初代しょだい常陸ひたちまる」の経験けいけんにより、三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ建造けんぞうされる大型おおがたせんも7,000トンをえる「丹後たんごまる」(日本郵船にっぽんゆうせん、7,463トン)が1905ねん竣工しゅんこうし、代目だいめ常陸ひたちまる」が起工きこうして4にちの6がつ23にちには、日本にっぽんはじめての1まんトンをえる商船しょうせんの「てんようまる」(東洋とうよう汽船きせん、13,454トン)および同型どうけいの「ようまる」(東洋とうよう汽船きせん、13,426トン)が起工きこうするなど[17]三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ発展はってん見張みはるものがある。しかし、だいふねとして建造けんぞうされた代目だいめ常陸ひたちまる」は7,000トンを船型せんけいであり、また同型どうけいせんがない単一たんいつクラスの貨客船かきゃくせんである。日本にっぽん貨客船かきゃくせんのクラスの歴史れきしじょうのうち、欧州おうしゅう航路こうろ就航しゅうこうせん観点かんてんからえば神奈川かながわまるきゅう貨客船かきゃくせんおよび若狭わかさまるきゅう貨客船かきゃくせんと8,000トンちょう賀茂かもまるきゅう貨客船かきゃくせんあいだぞくする[19]ふねめいかんしては、山高やまたかは「わがくにでは一般いっぱん不幸ふこう艦船かんせんめいさいもちいしないならわしであるが、初代しょだい常陸ひたちまるはいわば名誉めいよ戦死せんしとみておなめいがつけられたものであろう」と説明せつめいするが[20]、この「ならわし」の由来ゆらいのうち半分はんぶん不明ふめいである[注釈ちゅうしゃく 3]

竣工しゅんこう代目だいめ常陸ひたちまる」は初代しょだい同様どうよう欧州おうしゅう航路こうろ就航しゅうこうする。ところが1912ねん明治めいじ45ねん)4がつ22にち横浜よこはまこう停泊ていはくちゅうの「常陸ひたちまる」の機関きかん部員ぶいん28めいが、横浜よこはまこう碇泊ていはくちゅう東洋とうよう汽船きせん貨物かもつせん待遇たいぐう改善かいぜんもとめてストライキこしたのにじょうじてストライキにはいり、ストライキのなみ横浜よこはまこう停泊ていはくちゅうほか商船しょうせんにも波及はきゅうして、商船しょうせん出港しゅっこう支障ししょうさわぎがこった[21]。やがて欧州おうしゅう航路こうろに1まんトンクラスの新鋭しんえいせん投入とうにゅうされるにおよんで「常陸ひたちまる」は航路こうろはいされることとなり[22]1915ねん大正たいしょう4ねん)ごろには豪州ごうしゅう航路こうろはいせん[23]1916ねん大正たいしょう5ねん)には欧州おうしゅう航路こうろ復帰ふっきするが、新鋭しんえいせん就航しゅうこうのあとでは「一等いっとうせんではい」という評価ひょうかであった[24]1917ねん大正たいしょう6ねん)8がつ下旬げじゅんにはふねこったストライキさわぎにふたたじょうじる[25]

1914ねんにはだいいち世界せかい大戦たいせんはじまっており、ドイツによる通商つうしょう破壊はかい作戦さくせんによってイギリス近海きんかい危険きけん水域すいいきとなっていた。日本郵船にっぽんゆうせんはイギリス航路こうろはいせん停止ていししていたが、えいにちりょう政府せいふつよ要請ようせいにより、リバプール航路こうろ再開さいかいすることになった。1917ねん日本にっぽん出帆しゅっぱんした「常陸ひたちまる」は9月17にちペナン寄港きこうし、いでコロンボにも寄港きこうして9がつ22にち出港しゅっこうケープタウンかった[26]。4にちの9がつ26にち、「常陸ひたちまる」は仮装かそう巡洋艦じゅんようかんヴォルフ」と遭遇そうぐうして砲撃ほうげきける[20][27]砲撃ほうげきにより船員せんいん14めいとインドじん2めい死亡しぼう[27]のこ乗客じょうきゃく44めい(うち日本人にっぽんじん3めい)と乗組のりくみいん117めいは「ヴォルフ」に収容しゅうようされた[20][27][28]。「常陸ひたちまる」は最終さいしゅうてきには11月7にち爆沈ばくちん処分しょぶんされ、だいつづけて戦禍せんかたおれるという結末けつまつとなった[20]。「ヴォルフ」は「常陸ひたちまる」を処分しょぶんしてからスペイン貨物かもつせん「イゴッツ・メンディ」(Igotz Mendi) を拿捕だほし、乗客じょうきゃく12めい日本人にっぽんじんメイド1めいは「イゴッツ・メンディ」にうつされる[27]。「イゴッツ・メンディ」にうつされた乗客じょうきゃく日本人にっぽんじんふくまれていなかったともほうじられる[27]。「常陸ひたちまる船長せんちょう富永とみなが清蔵せいぞう[28]郵船ゆうせん社長しゃちょう一等いっとう運転うんてんおよび夫人ふじんての遺書いしょをしたためたあと、1918ねん大正たいしょう7ねん)2がつ7にちに「ヴォルフ」がデンマーク海峡かいきょうかったところで入水じゅすいして自殺じさつした[20]。「イゴッツ・メンディ」は「ヴォルフ」から分離ぶんりしたあとにデンマーク沿岸えんがん座礁ざしょうし、上陸じょうりく保護ほごされた「常陸ひたちまる捕虜ほりょから郵船ゆうせんロンドン支店してんつうじて「常陸ひたちまる」の消息しょうそくつたえられた[27]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ #山高やまたか p.101 では「長崎造船所なかざきぞうせんじょすすんで建造けんぞうけた」とあり、一方いっぽう#郵船ゆうせん100ねん p.67 では、「郵船ゆうせん日本にっぽん造船ぞうせんぎょう発達はったつうながすために」という趣旨しゅし説明せつめいがなされている。
  2. ^ あずかった当時とうじ三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ勤務きんむ#山高やまたか p.104)
  3. ^ 回航かいこう途中とちゅう行方ゆくえ不明ふめいとなった日本にっぽん海軍かいぐん防護ぼうご巡洋艦じゅんようかん畝傍うねび」や青島ちんたおたたかいで沈没ちんぼつした「高千穂たかちほ」、事故じこ爆沈ばくちんした「松島まつしま」などのかんめい再度さいど使用しようがなされていないが、太平洋戦争たいへいようせんそう戦没せんぼつした商船しょうせんたとえば郵船ゆうせんの「浅間あさままる」や「対馬つしままる」(#郵船ゆうせん100ねん p.367,518)、大阪おおさか商船しょうせんの「ぶえのすあいれすまる」や「ぶらじるまる」などには代目だいめさん代目だいめがいる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c #創業そうぎょうひゃくねん長崎造船所なかざきぞうせんじょ pp.524-525
  2. ^ a b c d e f g h i #日本にっぽん客船きゃくせん1 p.51
  3. ^ #山高やまたか pp.99-100
  4. ^ #郵船ゆうせん100ねん p.66
  5. ^ a b c #日本郵船にっぽんゆうせん株式会社かぶしきがいしゃひゃくねん p.119
  6. ^ #山高やまたか p.101
  7. ^ a b #郵船ゆうせん100ねん p.67
  8. ^ #日本にっぽん近世きんせい造船ぞうせん pp.597-598
  9. ^ #山高やまたか p.103,171
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m #山高やまたか p.103
  11. ^ #中外ちゅうがい240906
  12. ^ #時事じじ270803
  13. ^ a b #日本郵船にっぽんゆうせん株式会社かぶしきがいしゃひゃくねん p.120
  14. ^ #大朝おおあさ39060104
  15. ^ a b #山高やまたか p.104
  16. ^ TBSテレビ (2023ねん8がつ12にち). “まぼろしの“海底かいてい遺産いさん”119ねんぶりに発見はっけんにち戦争せんそうしずんだ悲劇ひげきの“常陸ひたちまる”. TBS NEWS DIG. 2023ねん8がつ14にち閲覧えつらん
  17. ^ a b c d #創業そうぎょうひゃくねん長崎造船所なかざきぞうせんじょ pp.528-529
  18. ^ a b c d e f g h i j k #日本にっぽん客船きゃくせん1 p.55
  19. ^ #日本にっぽん客船きゃくせん1 pp.54-55
  20. ^ a b c d e #山高やまたか p.146
  21. ^ #中外ちゅうがい12042528
  22. ^ #大毎だいまい140624
  23. ^ #大毎だいまい151008
  24. ^ #大毎だいまい1610181231
  25. ^ #大新おおしん170829
  26. ^ #まんあさむくい180112
  27. ^ a b c d e f #ひがしあさ180303
  28. ^ a b #ひがしあさ180301

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]