ちょうかいしか

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ちょう かいしか(ちょう かいぜん、? - 755ねん天宝てんぽう14))は、とうだいげんむねあさ軍人ぐんじん。もとのろくろうかばのしゅう猗氏けん出身しゅっしん

西域せいいきにおいて活躍かつやくしたが、安史やすしらんにおいて、やすろくやまがわらえられ、ころされた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

謹慎きんしん性格せいかく算術さんじゅつけていたため、河西かさい隴西地方ちほう太守たいしゅとなった。天宝てんぽう年間ねんかんに、すめらぎはじめおもんみあきらおう忠嗣ただつぐ哥舒翰節度せつど使武将ぶしょうつとめ、営田支度したく使など使つかいしょくゆだねられた。そのまもるじょうきょう行軍こうぐん司馬しば昇進しょうしんし、さらに、ぎんあおこうろく大夫たいふうえばしらこくくわえられた。

長安ながやす入朝にゅうちょうしたときに、「さんひん地位ちいになり、れつ戟をゆるされましたが、このままでは故郷こきょうひとから貴人きじんになったことがかりません。長安ながやすのみではなく、故郷こきょうでもれつ戟をおこなうのをみとめていただきたい」と上奏じょうそうし、ゆるされる。故郷こきょうれつ戟をおこなうのは、ちょうかいしかからはじまったとつたえられる。長安ながやすた哥舒翰からの推薦すいせんにより、しょうかんにんじられた。

天宝てんぽう14(755ねん)、安史やすしらん勃発ぼっぱつし、河南かなん節度せつど使にんじられ、ちんとめまもることをめいじられた。ひねとめ水陸すいりく要衝ようしょうであったが、太平たいへいながかったため、へい戦闘せんとう経験けいけんかった。ちょうかいしか赴任ふにんしてさんにちたずにやすろくやまぐん黄河こうがわたり、れいあきらぐん陥落かんらくさせたうえせまってきた。防戦ぼうせんしたが、圧倒的あっとうてき兵力へいりょく銅鑼どら太鼓たいこおとに、兵士へいしうばわれ、よろいもつけることができなかったとつたえられる。16日間にちかん防戦ぼうせんすえひねとめぐん太守たいしゅかくおさむ降伏ごうぶくし、らえられた。

やすろくやま息子むすこあんけいむね処刑しょけいされたことをり、ちんとめくだへい1まんにん殺戮さつりくし、ちょうかいしか処刑しょけいされた。やすろく山側やまがわにわもちひねとめをおさえることとなった。

死後しごに、こう尚書しょうしょ追贈ついぞうされている。

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]

  • きゅうとうしょまきひゃくはちじゅうなな 列伝れつでんだいひゃくさんじゅうなな忠義ちゅうぎちょうかいしかつて
  • しんとうしょまきひゃくきゅうじゅういち 列伝れつでんだいひゃくじゅうろく忠義ちゅうぎじょうちょうかいしかつて
  • どおりかん