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戴季すえ

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すえ
Dai Jitao
生年月日せいねんがっぴ 1891ねん1がつ6にち
ひかりいとぐち16ねん11月26にち)
出生しゅっしょう 清の旗 きよし 四川しせんしょう成都せいとかんしゅう
げん徳陽とくようこうかん
ぼつ年月日ねんがっぴ 1949ねんみんこく38ねん2がつ12にち
(58さいぼつ
死没しぼつ 中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく 広州こうしゅう
所属しょぞく政党せいとう 中国ちゅうごく国民党こくみんとう

在任ざいにん期間きかん 1928ねん10月25にち - 1948ねん6月30にち
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戴季すえ
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ すえ
簡体字かんたいじ すえ
拼音 Dài Jìtáo
ラテン Tai Chi-t'ao、Tai Tschi-tao
和名わみょう表記ひょうき たいきとう
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すえ(たい きとう)は、中華民国ちゅうかみんこく政治せいじでんけんでんけん、传贤)、すえせんどう(选堂)など、ごうてんかたきこうえんこう园)、法名ほうみょう不空ふくう不動ふどう动)、筆名ひつめいあか红)、泣民おもえあきなど。

まごぶん側近そっきんで、国民こくみん政府せいふ初代しょだい考試こうしいんちょうつとめた。蔣介せき次男じなんとされた蔣緯こく実父じっぷであり、みんこく中国ちゅうごく国民党こくみんとう理論りろん中華民国ちゅうかみんこく国旗こっき作詞さくししゃとしてもられる。

人物じんぶつ

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かのえとらねん清光せいこういとぐち16ねん)11月26にち(1891ねん1がつ6にち)、四川しせんしょう成都せいとかんしゅうみんこくこうかんけん)でまれた。原籍げんせき浙江せっこうしょうみずうみしゅうみんこくくれおきけん)。1949ねん2がつ12にち広東かんとんしょう広州こうしゅうぼっした。墓地ぼち現在げんざい四川しせんしょうなり都市としあきら覚寺かくじあきら覺寺かくじあきら觉寺)にある。

戴季すえはその生涯しょうがいほぼぜん時期じきつうじて、日本にっぽん政府せいふ朝鮮ちょうせん政策せいさく中国ちゅうごく政策せいさく批判ひはんし、中国ちゅうごくにおける共和きょうわ政治せいじ建設けんせつ追求ついきゅうし、また、西方せいほうたいする東方とうほう中国ちゅうごく代表だいひょうとする)の復興ふっこう追求ついきゅうつづけた。かれは、共和きょうわ政治せいじ建設けんせつ東方とうほう復興ふっこう条件じょうけんとして、国民こくみん意志いし理念りねんといった、ある国民こくみんをその国民こくみんたらしめるものとしての思想しそう(戴季すえは「国民こくみん精神せいしん」としょうした)を重視じゅうしし、その統一とういつはからなければならないと主張しゅちょうした。そしてかれは、「国民こくみん精神せいしん」の統一とういつのために、東方とうほう古来こらい利他りた精神せいしん復興ふっこうさせつつ、西方せいほう人道じんどう平等びょうどう思想しそう受容じゅようすべきであるとうったえた。

配偶はいぐうしゃぼたんひろしぼたん有恒ありつね)(1911ねん結婚けっこん、1942ねん病没びょうぼつ)、ぼたんひろしくしたのちちょうぶんよし(1944ねん結婚けっこん)である。

なお、蔣緯こくによると、みずからの実母じつぼ重松しげまつ金子かねこ実父じっぷは戴季すえであるという(ひろしあつしせんやま独行どっこう』)。

生涯しょうがい

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経歴けいれき

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戴季すえは1891ねん1がつ6にち、四川省成都府漢州にまれた。12さいふゆしゅうこころみためし合格ごうかくしたものの、院試いんし落第らくだいし、この時点じてん官職かんしょくもとめることを断念だんねんした(後述こうじゅつするが、かれ留学りゅうがくから帰国きこくしたのちいち時期じき官職かんしょくく)。翌年よくねんから、成都せいとあずまゆう予備よび学校がっこうきゃくせきがくどう高等こうとうはな英学えいがくどう就学しゅうがくし、さらに、日本人にっぽんじん教習きょうしゅう服部はっとりみさおひがし文学ぶんがくどう)や小西こにしさんななきゃくせき学堂がくどう)から日本語にほんご訓練くんれんけた。15さいもしくは16さいとき、すなわち1904ねんから1906ねんあいだに、かんしゅうから日本にっぽんわたった。その1907ねんまで、戴季すえ行動こうどうさだかではない。1907ねん丁未ていみねん)、東京とうきょうの(専門せんもん学校がっこうれいによる)日本にっぽん大学だいがくせん門部かとべ法律ほうりつ法科ほうか)に入学にゅうがくした。1908ねんつちのえさるねん)のあき日本にっぽん大学だいがく留学生りゅうがくせいどう学会がっかい会長かいちょう選出せんしゅつされ、翌年よくねん退学たいがくした。以上いじょうから、戴季すえ日本にっぽん留学りゅうがく時期じきは1904ねん~1906ねんあいだから1909ねんまで、期間きかんは4ねんないし6ねんであったとえる。日本にっぽん大学だいがく在学ざいがくちゅうは戴りょうのり、東京とうきょうこうじまち松浜まつはまかん下宿げしゅくした。

1909ねん日本にっぽん大学だいがくせん門部かとべ法律ほうりつ中途ちゅうと退学たいがくし、上海しゃんはい帰国きこくした。上海しゃんはいでは数ヶ月すうかげつあいだちょう俊生としおから生活せいかつ援助えんじょけ、同年どうねん蘇州そしゅう官立かんりつ江蘇こうそ自治じち研究所けんきゅうじょ」(上海しゃんはいぞく地方ちほう自治じち籌辦しょ)の教職きょうしょくき、清朝せいちょう官吏かんりとして生計せいけいてた。しかしやくいちねんまわりの研究所けんきゅうじょいん讒言ざんげんにより教職きょうしょくかれたという。戴季すえ蘇州そしゅうから上海しゃんはいき、1910ねん8がつ中外ちゅうがい日報にっぽう記者きしゃとなり、よく9がつ俸給ほうきゅうのよいてん鐸報記者きしゃてんじ、ほどなく編集へんしゅう主任しゅにん抜擢ばってきされた。またてん鐸報につとめた時期じきに『みんりつほう』にも泣民の筆名ひつめい寄稿きこうした。この時期じきの戴季すえ活動かつどうぶりは、かれてん鐸報記者きしゃ時期じきもちいた筆名ひつめいてんかたき」をって、「てんかたき時代じだい」としょうされるほど際立きわだったものであった。当時とうじの戴季すえ著作ちょさくかぎりにおいては、かれ新聞しんぶん記者きしゃしょくいたのち研究所けんきゅうじょおこなった講義こうぎひさげつな新聞しんぶん記事きじ転用てんようして国民こくみん精神せいしん形成けいせい重要じゅうようせいろんずる一方いっぽう小説しょうせつ文学ぶんがく評論ひょうろん執筆しっぴつしたり、みなみしゃ劇団げきだんしん舞台ぶたい」の文芸ぶんげい活動かつどう参加さんかしたりした。

戴季すえは1911ねん4がつごろりょうこう総督そうとくちょうじん駿しゅん上海しゃんはいどうだいりゅうじょうから上海しゃんはいの『てん鐸報』紙上しじょう清朝せいちょう政府せいふ攻撃こうげきした罪状ざいじょう指名しめい手配てはいされ、長崎ながさき亡命ぼうめいした。長崎ながさきで2週間しゅうかんばかりごし、上海しゃんはいて、浙江せっこうしょうみずうみしゅううつった。みずうみしゅうにて、かみなりてつがけかみなりあきらせい)からペナンるようにとの電報でんぽうり、1911ねんはんから10がつごろまで、えいりょうシンガポール、そしてペナンにうつった。かみなりてつがけは戴季すえおなじくみなみしゃ社員しゃいんであり、おそらく社員しゃいん情報じょうほうもうつうじて戴季すえりょうこう総督そうとく上海しゃんはいどうだいから指名しめい手配てはいされたことをり、戴季すえ興味きょうみ自分じぶんもとまねいたのであろう。こうして戴季すえはペナンでひかりはな日報にっぽう記者きしゃとなり、さらに『ひかりはな日報にっぽう』の重役じゅうやくしゅめいじん紹介しょうかいひととなり中国ちゅうごく同盟どうめいかい入会にゅうかいした。1911ねん10がつには、たけあきら蜂起ほうきほうき、ペナンをはな武漢ぶかんかった。帰国きこくの1912ねん2がつ社会しゃかい改良かいりょうかい発起ほっきし、また、進徳しんとくかいはいかぶと特別とくべつ会員かいいんとなった。よく3がつには中華民国ちゅうかみんこく自由党じゆうとう機関きかん民権みんけんほう』の編集へんしゅうしょくいた。

戴季すえは1912ねんはんから全国ぜんこく鉄路てつろ籌劃とく辦・中国ちゅうごく鉄路てつろそう公司こうし総理そうりまごぶんよう秘書ひしょき、1913ねん2がつ、3月にまごぶん訪日ほうにち随行ずいこう日本語にほんご通訳つうやくつとめ、まごぶんとともに日本にっぽんせいぐん財界ざいかい要人ようじん接触せっしょくするなかで、黄白こうはく人種じんしゅ闘争とうそう危険きけんせい、および中日ちゅうにち提携ていけいによる中国ちゅうごく革命かくめい成就じょうじゅ主張しゅちょうはじめた。1912ねん8がつ中国ちゅうごく同盟どうめいかい後身こうしんである国民党こくみんとう議会ぎかい政党せいとうとして結成けっせいされたさいに、戴季すえ民主みんしゅ立憲りっけんによって袁世凱政権せいけん専制せんせい穏和おんわ改革かいかくすることを希望きぼうしたが、次第しだいまごぶん支持しじ論陣ろんじんり、頻繁ひんぱんに袁世凱政権せいけん批判ひはんする記事きじ発表はっぴょうするようになった。戴季すえは1912ねんまつから1913ねんはつにかけて、国民こくみん愛国心あいこくしん発揚はつよううったえ、国民こくみん共通きょうつう意志いしもとづいた臨時りんじやくほう(1912ねん3がつ制定せいてい)を支持しじし、袁世凱政けん臨時りんじやくほう遵守じゅんしゅしないことを批判ひはんした。

戴季すえは袁世凱政けんわれて、1913ねん9がつまつ東京とうきょう亡命ぼうめいした。戴季すえは、大連たいれんでの武装ぶそう蜂起ほうき準備じゅんび高知こうちでの選挙せんきょ応援おうえん(1915ねん3がつ)、神戸こうべ訪問ほうもん(1915ねん5がつ以外いがいは、1916ねん4がつまつ離京りきょう帰国きこくするまで、ほぼ毎日まいにちまごぶん行動こうどうともにした。中華ちゅうか革命かくめいとう結成けっせい(1914ねん7がつ8にち結成けっせい大会たいかい開催かいさいされた)をめぐってまごぶんきょうあらそい、きょうらは中華ちゅうか革命かくめいとうまごぶん独裁どくさいつよ民主みんしゅてき性格せいかくであると批判ひはんして入党にゅうとう拒否きょひした。こうしてからし以降いこう革命かくめいになってきたグループは分裂ぶんれつしたが、戴季すえは1913ねん10がつ2にち中華ちゅうか革命かくめいとうはいり(党員とういん誓約せいやくしょだい6ごう)、同年どうねん9がつから12がつにかけてまごぶん主宰しゅさいした革命かくめい方針ほうしん検討けんとうする会議かいぎ(17かい開催かいさいされた)に11かい出席しゅっせきして書記しょきつとめ、よく1914ねん5がつから中華ちゅうか革命かくめいとう機関きかんみんこく』の主筆しゅひつつとめ、まごぶん支持しじ表明ひょうめいしていった。戴季すえはそれ以来いらい1916ねん4がつまつ離京りきょう帰国きこくするまで、再度さいどからし革命かくめいからだい革命かくめいまでの失敗しっぱい原因げんいん究明きゅうめいし、その改善かいぜんはか理論りろん構築こうちくつとめた。

戴季すえは、1914ねん7がつまつ勃発ぼっぱつしただいいち世界せかい大戦たいせん中国ちゅうごく革命かくめい成就じょうじゅ(袁世凱政権せいけん打倒だとうおよび臨時りんじやくほう復活ふっかつ)の絶好ぜっこう契機けいきとらえ、日本にっぽん中国ちゅうごく政策せいさく転換てんかん期待きたいした。戴季すえは1915ねん3がつまごぶん代理だいりとして日本にっぽん官憲かんけんたいし、中華ちゅうか革命かくめいとう中国人ちゅうごくじん留学生りゅうがくせいによる「たいはなじゅういちじょう」(1915ねん1がつ日本にっぽん政府せいふ提出ていしゅつ同年どうねん5がつ中国ちゅうごく政府せいふ受諾じゅだく)にかんする中日ちゅうにち交渉こうしょう反対はんたい運動うんどうあおったという指摘してき否定ひていした。そして1917ねん9がつまごぶん命令めいれいけ、ちょうつぎとともにはらたかしたずね、まごぶん南方なんぽうたいして好意こういてき政策せいさくってほしいと要望ようぼうした(戴季すえちょうつぎ広州こうしゅう非常ひじょう国会こっかいたいし、はらたかし南方なんぽう支持しじしていると報告ほうこくしている)。戴季すえはらたかしたず帰国きこくする途中とちゅう大阪おおさか訪問ほうもんし、一般いっぱん市民しみんたいして中日ちゅうにち両国りょうこく提携ていけいして中国ちゅうごく革命かくめい成就じょうじゅさせることに理解りかいもとめた。

戴季すえよん運動うんどう時期じき中華ちゅうか革命かくめいとう中国ちゅうごく国民党こくみんとう機関きかん建設けんせつ』『ほし評論ひょうろん』などで日本語にほんご社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅう翻訳ほんやく紹介しょうかいし、ちんどくしゅうほどこせそんみつるちんのぞむどうかんしゅん兪秀まつちょうこくなど共産きょうさん主義しゅぎグループとも交流こうりゅうした。1920ねん6がつ、戴季すえ上海しゃんはい共産きょうさん主義しゅぎグループによる「社会しゃかい共産党きょうさんとう」の設立せつりつだいいちかい会合かいごう関与かんよしたとされる。しかしかれは、その共産きょうさん主義しゅぎグループの度目どめ会合かいごうひらかれるまえ(6がつ17にち前後ぜんこう)に、まごぶん反対はんたいもあり、精神せいしん衰弱すいじゃく療養りょうようのために上海しゃんはいから浙江せっこうしょうくれおきけんち、共産きょうさん主義しゅぎグループの活動かつどうからとおざかった。

戴季すえは1920ねんまつから1922ねんはつにかけて、上海しゃんはい証券しょうけん物品ぶっぴん交易こうえきしょでの仲買なかがい事業じぎょう浙江せっこうしょうくれおきけんでの読書どくしょ生活せいかつあわせてったが、政治せいじ活動かつどう執筆しっぴつ活動かつどうおこなうことはなかった。1922ねん9がつになってかれは、まごぶんから四川しせんしょうかく将領しょうりょう戦争せんそう実業じつぎょう発展はってんはかるように説得せっとくするという任務にんむわされ、上海しゃんはいから長江ながえさかのぼ成都せいとかった。この途中とちゅう、戴季すえふねからげてしまう。結局けっきょくかれちかくの漁師りょうしすくわれ、そのまま成都せいとかうことができた。そのやく1年間ねんかんかれ成都せいとまり 、1923ねん12月にようやく上海しゃんはいもどった。

戴季すえは1924ねん1がつ広州こうしゅうひらかれた中国ちゅうごく国民党こくみんとういちぜん大会たいかい出席しゅっせきした。かれいちぜん大会たいかい会期かいきちゅう、1922ねんから1923ねんまでの四川しせん滞在たいざい見聞けんぶんした四川しせんしょう内戦ないせん政治せいじてき混乱こんらん人心じんしん退廃たいはい原因げんいんは、中国ちゅうごく同盟どうめいかい以来いらい中国ちゅうごく国民党こくみんとう党員とういん訓練くんれん不足ふそく組織そしき不足ふそくにあると指摘してきし、中国ちゅうごく国民党こくみんとういちぜん大会たいかいボリシェヴィキ訓練くんれん組織そしき方法ほうほうれ、「訓練くんれんされ組織そしきされた戦闘せんとうてき団体だんたい」に改造かいぞうされることを期待きたいし、かれまごぶんさん民主みんしゅよしたいして忠誠ちゅうせいしめした。

戴季すえいちぜん大会たいかいからその直後ちょくごにかけて、中国ちゅうごく国民党こくみんとう改組かいそ党員とういん中国ちゅうごく国民こくみん指導しどうすることによって国家こっかきょう実現じつげんされることを期待きたいすると表明ひょうめいしていたが、いちぜん大会たいかい閉幕へいまく(1がつ)、とう役職やくしょくくことを辞退じたい広州こうしゅうはなれてしまった。結局けっきょく廖仲愷いでまごぶんが、戴季すえ広州こうしゅう役職やくしょくくことを再三さいさんびかけたため、戴季すえは4がつはつ広州こうしゅうもど中央ちゅうおう党務とうむ政務せいむいた。しかしながら、6がつふたた離職りしょくして広州こうしゅうはなれてしまった。戴季すえ回想かいそうによると、かれ広州こうしゅうもどったのちの5がつ中国共産党ちゅうごくきょうさんとういんの(国共こっきょう合作がっさくによりあらたに中国ちゅうごく国民党こくみんとういんとなった)たん平山ひらやま中国共産党ちゅうごくきょうさんとういんじゅう党籍とうせき問題もんだい対立たいりつし、いでよく6がつ中国ちゅうごく国民党こくみんとう古参こさん党員とういん容共ようきょう政策せいさく反対はんたいするちょうつぎ感情かんじょうてき衝突しょうとつしたため、ふたた離職りしょくしたという。離職りしょく上海しゃんはいいた(6がつまつ)戴季すえは、このときはじめて、まごぶん理論りろん学説がくせつ体系たいけいする意思いし表明ひょうめいした。

その広州こうしゅう中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかいが戴季すえ復職ふくしょく要請ようせいしたことにたいし、戴季すえは8がつはつごろまごぶんたいし、復職ふくしょく条件じょうけんとして、党内とうない問題もんだい議論ぎろんするために中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおう拡大かくだい委員いいんかい開催かいさいすることを提案ていあんした。まごぶんは戴季すえ提案ていあん承認しょうにんし、戴季すえは8がつ10にち前後ぜんこう広州こうしゅういた。しかし、戴季すえ拡大かくだい委員いいんかい(8がつ15にちから25にちにかけて広州こうしゅう開催かいさいされ、「国民党こくみんとうない共産きょうさん問題もんだい」などを議論ぎろんした中国ちゅうごく国民党こくみんとうだいいち中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかいだい全体ぜんたい会議かいぎのことか?)に出席しゅっせきしないまま、14にち前後ぜんこうには広州こうしゅうはなれた。かれふたた政治せいじ活動かつどうおこなうのは、同年どうねん11がつ17にち上海しゃんはいで、政局せいきょく収拾しゅうしゅうたるために北京ぺきんかうまごぶんいちぎょう合流ごうりゅうしてからであった。

戴季すえまごぶんはじめて「だい亜細亜あじあ主義しゅぎ」について講演こうえんおこなった(1913ねん3がつ大阪おおさかキリスト教きりすときょう青年せいねん会館かいかん日本語にほんご通訳つうやくつとめた。また、かれまごぶんの「だいアジア主義しゅぎ講演こうえん(1924ねん11月28にち兵庫ひょうご県立けんりつ神戸こうべ高等こうとう女学校じょがっこう)でも日本語にほんご通訳つうやくつとめた。かれは『まごぶん主義しゅぎ哲学てつがくてき基礎きそ』(1925ねん)のなかで、神戸こうべでの「だいアジア主義しゅぎ講演こうえんまごぶん理論りろん学説がくせつ中心ちゅうしん思想しそうであるとろんじた。

まごぶんぼつ(1925ねん3がつ、戴季すえは、まごぶん生涯しょうがいもっと偉大いだいてんは「創造そうぞうてき精神せいしんにより中国ちゅうごく文化ぶんか復興ふっこうさせたこと」 であり、まごぶん創造そうぞうかつ実践じっせんしたさん民主みんしゅ文化ぶんか復興ふっこう基礎きそとしている、「中山なかやま先生せんせい逝去せいきょは、国民こくみん政治せいじ訓育くんいく基礎きそがいまだないときにおいて、じつ中国ちゅうごく民族みんぞく復興ふっこう運動うんどう文化ぶんかてき革命かくめい運動うんどう一大いちだい挫折ざせつである」とべた。戴季すえ広州こうしゅう開催かいさいされた中国ちゅうごく国民党こくみんとうだいいち中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかいだいさん全体ぜんたい会議かいぎ一期いっきさんちゅう全会ぜんかい)(1925ねん5がつ)に出席しゅっせきし、「接受せつじゅ総理そうりのこしょく宣言せんげんあん代表だいひょう執筆しっぴつした(あんは5月24にち採択さいたくされた)。一期いっきさんちゅう全会ぜんかい閉幕へいまく(6がつ)、上海しゃんはいうつり、7がつから8がつにかけて執筆しっぴつ活動かつどう専念せんねんし、『まごぶん主義しゅぎ哲学てつがくてき基礎きそ』と『国民こくみん革命かくめいあずか中国ちゅうごく国民党こくみんとう』を発表はっぴょうした。

中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかいは7がつ、戴季すえ国民こくみん政府せいふ委員いいんかい委員いいん選出せんしゅつした。かれ就任しゅうにん承諾しょうだくしたが、休暇きゅうか申請しんせいし、その広州こうしゅうかわなかった。かれは11月はんすわえ邵元おき沈玄いおり沈定いち)などと上海しゃんはいから北京ぺきんき、広州こうしゅう国民こくみん政府せいふ反発はんぱつする鄒魯らが主宰しゅさいする「中国ちゅうごく国民党こくみんとういち四中全会よんちゅうぜんかい」(いわゆる北京ぺきん西山にしやま会議かいぎ」)の予備よび会議かいぎ出席しゅっせきした。その直後ちょくごかれ北京ぺきん宿泊しゅくはくさきで、反共はんきょうむねとし国民こくみん政府せいふ批判ひはんする中国ちゅうごく国民党こくみんとう同志どうし倶楽部くらぶ」に関係かんけいする暴漢ぼうかんおそわれ、「西山にしやま会議かいぎ」のほん会議かいぎ出席しゅっせきせぬまま北京ぺきんはなれた。12月はん今後こんご一切いっさい政務せいむ党務とうむ職責しょくせきわず、政治せいじかかわる言動げんどうおこなわず、みずからの能力のうりょく動機どうきもとづいて学術がくじゅつ専念せんねんすることを宣言せんげんし、原籍げんせき浙江せっこうしょうくれおきけんうつった。そして、中国ちゅうごく国民党こくみんとう純化じゅんか主張しゅちょうするまごぶん主義しゅぎ学会がっかい関与かんよすることをけ、神経しんけい衰弱すいじゃく口実こうじつ広州こうしゅう復職ふくしょくすることを辞退じたいした。

中国ちゅうごく国民党こくみんとうぜん大会たいかい(1926ねん1がつ)は、「弾劾だんがい西山にしやま会議かいぎ決議けつぎあん」を採択さいたくし、戴季すえ中国ちゅうごく国民党こくみんとういちさんちゅう全会ぜんかいで「せき於容おさめ中国共産党ちゅうごくきょうさんとう分子ぶんし加入かにゅうほんとう訓令くんれい」 を起草きそうして1ヶ月かげつたないうちに、中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい許可きょかずに個人こじん名義めいぎで『国民こくみん革命かくめいあずか中国ちゅうごく国民党こくみんとう』を執筆しっぴつし、「からぬ影響えいきょうみ、党内とうない紛糾ふんきゅう惹起じゃっきした」ことにたいし、「懇切こんせつ訓令くんれいあたえ、二度にどあやまりをおかさないように猛省もうせいを促」すことをめた。その一方いっぽう、戴季すえだい中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい委員いいん選出せんしゅつした。中国ちゅうごく国民党こくみんとうの戴季すえたいする処分しょぶんは、「中国ちゅうごく国民党こくみんとういち四中全会よんちゅうぜんかい関係かんけいしゃなかもっとかるいものであり、とう首脳しゅのうかれ排除はいじょする意思いしがなかったことと、かれたい極端きょくたん批判ひはん自制じせいしようとする中国共産党ちゅうごくきょうさんとう公式こうしきてき立場たちばあらわしていた。たとえば、中国共産党ちゅうごくきょうさんとういんたん平山ひらやまぜん大会たいかい直前ちょくぜんに、戴季すえは鄒魯にだまされ利用りようされたとった。また、中国共産党ちゅうごくきょうさんとういん鄧演たちぜん大会たいかい会期かいきちゅう国民こくみん政府せいふ主催しゅさいした宴会えんかい席上せきじょうで、戴季すえが『まごぶん主義しゅぎ哲学てつがくてき基礎きそ』と『国民こくみん革命かくめいあずか中国ちゅうごく国民党こくみんとう』をあらわした本意ほんいは、中国ちゅうごく国民党こくみんとういん一部いちぶがあまりにもよわくてたよりなく奮起ふるいおこせず、革命かくめい方法ほうほう認識にんしきできていないので、党員とういん一斉いっせい奮起ふんきさせて革命かくめいおこなわせることにあった、そのに戴季すえとう綱領こうりょうそむはん革命かくめい工作こうさくおこなものだまされて「中国ちゅうごく国民党こくみんとういち四中全会よんちゅうぜんかい」に出席しゅっせきした、とべた。戴季すえは鄧演たち発言はつげん反発はんぱつし、とうによる「中国ちゅうごく国民党こくみんとういち四中全会よんちゅうぜんかい関係かんけいしゃ処分しょぶん不公平ふこうへいであり、とう団結だんけつのためにその処分しょぶん執行しっこう停止ていしすべきこと、および、みずからはだい中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい委員いいん就任しゅうにんしない、と表明ひょうめいした。

1926ねん6がつ国民こくみん政府せいふは戴季すえ国立こくりつ広東かんとん大学だいがく同年どうねん8がつ国立こくりつ中山なかやま大学だいがく改称かいしょう校長こうちょう任命にんめいした。かれ健康けんこうじょう理由りゆう就任しゅうにん辞退じたいした。しかし、国民こくみん政府せいふ大学だいがく再三さいさん要請ようせいけ、同年どうねんなつ就任しゅうにん受諾じゅだくした。かれ前年ぜんねん12がつ一切いっさい政務せいむ党務とうむ職責しょくせきわないと宣言せんげんしていたが、学術がくじゅつ教育きょういくつよ関心かんしんっていたために、国立こくりつ広東かんとん大学だいがく校長こうちょう就任しゅうにん受諾じゅだくしたとかんがえられる。かれ校長こうちょう就任しゅうにん受諾じゅだく直後ちょくごに、大学だいがくに「アジアかく民族みんぞくおよびそのほかの有色ゆうしょく人種じんしゅかく民族みんぞく青年せいねんあつめて特殊とくしゅ教育きょういく実施じっしすること」の必要ひつようせいべ 、9月はんまでに「中山なかやま大学だいがく基本きほん鞏固きょうこにし、中山なかやま大学だいがく特色とくしょく発展はってんさせる」ために、「各科かっかけい」から独立どくりつした「専門せんもんいん原文げんぶんは「せんいん」)」の東方とうほう民族みんぞくいん設置せっちする計画けいかくてた。戴季すえは9がつまつ国民こくみん政府せいふ中国ちゅうごく国民党こくみんとうたいし、国立こくりつ中山なかやま大学だいがく運営うんえい政治せいじ教育きょういく原文げんぶんは「政治せいじ訓育くんいく」)を分離ぶんりし、前者ぜんしゃ校長こうちょうせい委員いいんかいせいあらためて委員いいんかいおこない、後者こうしゃ中国ちゅうごく国民党こくみんとうおこなうこと、そしてみずからは委員いいんくことを提案ていあんした。国民こくみん政府せいふは10がつはん、戴季すえ国立こくりつ中山なかやま大学だいがく委員いいんかい委員いいんちょう任命にんめいした。かれ同月どうげつ17にち就任しゅうにんし、就任しゅうにん以降いこう学生がくせい教職員きょうしょくいん大学だいがくないで「国民党こくみんとうと「共産党きょうさんとう対立たいりつせず、衝突しょうとつせずにまごぶん人格じんかくさん民主みんしゅ信奉しんぽうするようにさとした。さらに、戴季すえ学科がっか課程かてい整備せいび施設しせつ充実じゅうじつ教員きょういん招聘しょうへい在籍ざいせき学生がくせい評価ひょうかなど大学だいがく運営うんえいだい部分ぶぶん企画きかくしたが、それらの企画きかく実現じつげんさせる人材じんざい財政ざいせいられなかった。かれは11月にふたた海外かいがい(とくにヨーロッパやソ連それん教育きょういく組織そしき考察こうさつ計画けいかくし、蔣介せき支持しじけたが、実現じつげんしなかった。11月まつ中国ちゅうごく国民党こくみんとうは戴季すえ日本にっぽん派遣はけんすることを決議けつぎした。戴季すえは12月まつ中山なかやま大学だいがく香港ほんこんかう途中とちゅう発作ほっさてき珠江たまえげようとしたため、同行どうこうしゅなどによって広州こうしゅう静養せいようさせられた。よく1927ねん1がつ広州こうしゅう武漢ぶかんいおりやま上海しゃんはい日本にっぽんかい(下記かき)、3がつまつ上海しゃんはい帰国きこくし、5月南京なんきんうつった。

戴季すえは1927ねん2がつから3がつにかけて、門司もじ別府べっぷ神戸こうべ東京とうきょう箱根はこね大阪おおさか長崎ながさきなどをたずね、外務がいむ次官じかんふち勝次かつじ外務省がいむしょう条約じょうやく局長きょくちょう佐分利さぶり貞男さだお亜細亜あじあ局長きょくちょう木村きむらするど情報じょうほう次長じちょう小村こむら欣一きんいちいぬやしなえあつし渋沢しぶさわ栄一えいいちなど日本にっぽん政官せいかんざい重鎮じゅうちん実務じつむしゃ頭山とうやまみつる吉野よしの作造さくぞうなどのまごぶん旧知きゅうち民間みんかんじん会談かいだんし(一部いちぶ史料しりょうによると総理そうり大臣だいじん若槻わかつき礼次郎れいじろう海軍かいぐん大臣だいじん財部たからべあや会談かいだんしたともされるが、確証かくしょうていない)、日本にっぽん国民こくみん中国ちゅうごく革命かくめいへの理解りかいと、中日ちゅうにち関係かんけいさい構築こうちくもとめた。

戴季すえ広州こうしゅうだいいち中山なかやま大学だいがく(1927ねん2がつ中山なかやま大学だいがくから改称かいしょう実施じっしされたのは同年どうねん7がつごろ)にもどったのは7がつまつであった。かれ国立こくりつだいいち中山ちゅうざん大学だいがく校長こうちょう国民こくみん政府せいふは1927ねん6がつ委員いいんかいせい校長こうちょうせいあらためて戴季すえ校長こうちょう任命にんめい)に復職ふくしょくし、学生がくせい教職員きょうしょくいんたいし、大学だいがく法律ほうりつ法科ほうかせん門部かとべ移民いみん東方とうほう民族みんぞくいん設置せっちし、海外かいがい華僑かきょう学生がくせい教育きょういくシステムを確立かくりつする計画けいかく発表はっぴょうした。その、戴季すえ移民いみん精鋭せいえい分子ぶんし養成ようせい派遣はけん構想こうそうは、かれ国民こくみん政府せいふ考試こうしいん設立せつりつ(1930ねん1がつ準備じゅんび忙殺ぼうさつされ(1928ねん10がつ中国ちゅうごく国民党こくみんとうかれ考試こうしいん院長いんちょう選出せんしゅつ、1930ねん1がつ就任しゅうにん)、また大学だいがく財政難ざいせいなんであったため、実現じつげんいたらなかった。しかし、かれはそのも、中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおう党務とうむ学校がっこう特別とくべつはん設置せっち陝西せんせいしょう武功ぶこう西北せいほく農業のうぎょうせん学校がっこう建設けんせつしん亜細亜あじあ学会がっかい語学ごがく学校がっこう建設けんせつ計画けいかく(1932ねん11月)・辺疆へんきょう文化ぶんか陳列ちんれつかん建設けんせつ計画けいかく(1936ねん2がつ)に関与かんよしていった。

戴季すえは1927ねん4がつ上海しゃんはいでの反共はんきょうクーデタ(中国ちゅうごく国民党こくみんとうがわから「きよしとう」とばれる)が勃発ぼっぱつしたとき、クーデタを消極しょうきょくてき支持しじしながらも、このような事態じたいおちいったのは、なによりも中国ちゅうごく国民党こくみんとうの「失敗しっぱい結果けっか」であり、中国共産党ちゅうごくきょうさんとうたいする「消極しょうきょくてき仕打しうちであるきよしとうけっしてわれわれの活路かつろではない」 とべている。かれは、マルクス主義まるくすしゅぎ研究けんきゅうマルクス主義まるくすしゅぎ信奉しんぽうするおおくのものによってかさねられてきたことにたいし、さん民主みんしゅについては同様どうよう科学かがく体系たいけい推進すいしんされず、中国ちゅうごく国民党こくみんとういん思想しそうてき方向ほうこうせいさだまらず、党員とういん団結だんけつ希薄きはくしていることを慨嘆がいたんした。かれ中国ちゅうごく国民党こくみんとうの「失敗しっぱい」とは、まさにこのことであった。 

戴季すえは1928ねん2がつ南京なんきん中国ちゅうごく国民党こくみんとう四中全会よんちゅうぜんかい出席しゅっせきし、実質じっしつじょう中央ちゅうおう党務とうむ政務せいむ復帰ふっきした(1930ねん1がつ国民こくみん政府せいふ考試こうしいん院長いんちょう就任しゅうにん同年どうねん9がつ国立こくりつ中山なかやま大学だいがく校長こうちょう辞任じにん)。そして、かれは1932ねん2がつ、「さん民主みんしゅ信奉しんぽうして行動こうどうし、中国ちゅうごく文化ぶんか発揚はつようし、アジア民族みんぞく復興ふっこうすること」を宗旨しゅうしとし、「専門せんもんてき中国ちゅうごく辺疆へんきょう問題もんだい東方とうほう民族みんぞく問題もんだい研究けんきゅうすること」をかかげるしん亜細亜あじあ学会がっかい会長かいちょう選出せんしゅつされた。

戴季すえはチベット仏教ぶっきょう文化ぶんか儒教じゅきょう文化ぶんかさん民主みんしゅむすびつけ、仏教ぶっきょうが(辺疆へんきょうふくむ)中国ちゅうごく国民こくみん精神せいしん形成けいせいし、国民こくみん意志いし団結だんけつさせることを可能かのうにするとかんがえた。かれは、チベット仏教ぶっきょう文化ぶんか中国ちゅうごく統一とういつする文化ぶんかてき力量りきりょうゆうしていると認識にんしきし、中国ちゅうごくの「領土りょうど政権せいけん今日きょうあるのは、ツォンカパ大師だいしとくのおかげであることをゆめゆめわすれてはいけない。おもうに、雪山ゆきやま<崑崙山こんろんざんみゃく>からちょう白山はくさんまでのすうまんさとあいだで、すうひゃくねん統一とういつつくげた発端ほったんはここにある」、とべている。戴季すえは、仏教ぶっきょう衆生しゅじょう済度さいどかんがえに体現たいげんされた仁愛じんあい精神せいしんさん民主みんしゅ救国きゅうこく救民きゅうみん主義しゅぎ共通きょうつうしている、と認識にんしきしていた。1938ねん4がつから9がつにかけて、重慶たーちん国民こくみん政府せいふ代表だいひょうしてカンゼ訪問ほうもんし、パンチェン・ラマ9せいまつった。

1930年代ねんだいにおける辺疆へんきょう建設けんせつ問題もんだい浮上ふじょうは、南京なんきん(のちに重慶たーちん)の中国ちゅうごく国民党こくみんとう国民こくみん政府せいふあらためて国家こっか建設けんせつ重要じゅうようせい認識にんしきさせる契機けいきになった。挙国一致きょこくいっち国民こくみん動員どういん要請ようせいされるなかで、具体ぐたいてき日常にちじょうてき生起せいきする民族みんぞく問題もんだい宗教しゅうきょう問題もんだい直面ちょくめんせざるをなくなったのである。さらにやなぎじょうみずうみ事件じけん(1931ねん9がつ以降いこうになると、国民こくみん政府せいふ抗日こうにち運動うんどう遂行すいこうするじょうでも、具体ぐたいてき詳細しょうさい辺疆へんきょう政策せいさく策定さくていしなければならなくなった。戴季すえ(1931ねん9がつ30にち中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい政治せいじ会議かいぎ特種とくしゅ外交がいこう委員いいんかい委員いいんちょう就任しゅうにん)は「今日きょう救国きゅうこくおこなみちは、だんじて辺疆へんきょう遺棄いきしてはならない」 とべ、辺疆へんきょう建設けんせつ救国きゅうこくむすびつけてとらえた。また、中国ちゅうごく国民党こくみんとう国民こくみん政府せいふ政令せいれい辺疆へんきょう各地かくちまで通達つうたつさせ、辺疆へんきょう建設けんせつ進展しんてんさせるためには、とう政府せいふ威信いしん必要ひつようであると認識にんしきし、とう政府せいふ関係かんけいしゃまことしんじ和平わへい仁愛じんあい慈悲じひ精神せいしんたなければならないことを強調きょうちょうした。

戴季すえ辺疆へんきょうへの移民いみんについて、一部いちぶ精鋭せいえい分子ぶんし依拠いきょして周囲しゅういもの影響えいきょうあた指導しどうする方式ほうしき一貫いっかんして主張しゅちょうした。かれ政府せいふによる教育きょういく訓練くんれんほどこさない移民いみん失敗しっぱいすると認識にんしきし、堅忍けんにん刻苦こっく有識ゆうしき精鋭せいえい分子ぶんし養成ようせいして移民いみんとして派遣はけんし、移住いじゅうさき辺疆へんきょう建設けんせつ指導しどうおこなうことを移民いみん事業じぎょう根幹こんかんにしようとかんがえた。かれかられば、移民いみん大勢おおぜい受動じゅどうてき存在そんざいであり、移民いみん精鋭せいえい分子ぶんし育成いくせいはある程度ていど強者きょうしゃ弱者じゃくしゃたいする責任せきにん義務ぎむなのであった。かれ青海あおみ陝西せんせい四川しせん広東かんとんなどの教育きょういく機関きかん書籍しょせき寄付きふし、それらの教育きょういく機関きかん資金しきん補助ほじょするようにかく関係かんけい機関きかんたいしてうったえた。また、辺疆へんきょう出身しゅっしんしゃ南京なんきんでの入学にゅうがく斡旋あっせんし、辺疆へんきょう出身しゅっしんしゃ登用とうよう促進そくしんさせることを政策せいさくとしてげた。戴季すえ辺疆へんきょう建設けんせつ綱領こうりょうとして「辺疆へんきょう人材じんざい選抜せんばつすることによって、辺疆へんきょう人民じんみん事業じぎょう意欲いよく鼓舞こぶすること」をげ、「辺疆へんきょう人材じんざい選抜せんばつについてうと、もっと重要じゅうようなことは、かく部族ぶぞく優秀ゆうしゅう分子ぶんし網羅もうらするように、適当てきとう仕事しごと賦与ふよし、辺地へんち人民じんみん特長とくちょう発揮はっきさせ、かれらの事業じぎょう意欲いよくさせ、自然しぜん事業じぎょう<辺疆へんきょう建設けんせつ>に努力どりょくさせることである」とべている。さらに、かんとう制度せいどなら辺疆へんきょう出身しゅっしん学生がくせいかんぞくしき学名がくめいをつけたという逸話いつわがある。かれは、辺疆へんきょうへの移民いみん辺疆へんきょう資源しげん開発かいはつ防衛ぼうえい充実じゅうじつさせるだけでなく、国内こくないしょ民族みんぞく中国ちゅうごく国民こくみんとして統合とうごうする有効ゆうこう手段しゅだんでもあるとかんがえていた。さん民主みんしゅ仏教ぶっきょうあるいはチベット仏教ぶっきょうが、国内こくないしょ民族みんぞく国民こくみん統合とうごうにどれほど現実げんじつてき有効ゆうこうせいつものであったのかは疑問ぎもんされる。たとえば、かれがウイグルぞくのイスラーム信仰しんこうたいしてどれほど配慮はいりょしていたのかは不明ふめいである。しかし、日本にっぽん侵略しんりゃくにより、政府せいふ機関きかん各種かくしゅ団体だんたい内陸ないりくへと後退こうたい移転いてんしたために(1937ねん11月、国民こくみん政府せいふ重慶たーちん移転いてん)、だい後方こうほう西北せいほくうちモンゴル、甘粛かんせい青海あおみしん疆)と西南せいなんたかしゅう雲南うんなん四川しせん、チベット)のりょう地域ちいき戦略せんりゃくてき重要じゅうようせいがかつてなくたかまった。そして、産業さんぎょう立地りっち戦時せんじ物資ぶっし供給きょうきゅう地下ちか資源しげん確保かくほうえから、辺疆へんきょう安定あんてい重慶たーちん国民こくみん政府せいふ至上しじょう課題かだいとなり、また、だい後方こうほう、すなわち西北せいほく西南せいなん在住ざいじゅうする少数しょうすう民族みんぞくといかに団結だんけつ協力きょうりょく関係かんけいきずいていくのかが、辺疆へんきょう建設けんせつ最大さいだい課題かだいとなった。戴季すえ辺疆へんきょう問題もんだいへのみはこうした緊迫きんぱくした情勢じょうせい連関れんかんしていた。

戴季すえ国民こくみん政府せいふ特使とくしとしてベルリンオリンピック派遣はけんされ訪欧ほうおうし(1936ねん5がつ~10がつ)、招宴しょうえんおうじる以外いがいは「いちこく文化ぶんかがどのようなものであるか」をるために教会きょうかい歌劇かげきじょう参観さんかんした(かれはアメリカで生活せいかつしたことのある国民こくみん政府せいふ主席しゅせきはやしもりからそのことをおそわった)。かれ帰国きこく、「大小だいしょうじゅうあまりのくに遊歴ゆうれきし、……あえてるものがあったとわないが、各国かっこく政教せいきょう風俗ふうぞくについてたものはおおかった。ようするに、おうしゅう諸国しょこくまつりうたげにおいて礼楽れいがくきとどいてそなわっており、プロテスタントと歌劇かげき礼楽れいがくがとくにさかんでうつくしい。もしこのことを評論ひょうろんするならば、わたしは、<礼楽れいがくの>形式けいしき中国ちゅうごくのものとおなじではないが、礼楽れいがく意味いみは、とくにわれわれにつたわるれいけいおおきくちがわないとおもった。歌劇かげきはなしげき雑劇ざつげきおよび映画えいがかん遊楽ゆうらくじょうには未成年みせいねんしゃはいることがけっしてゆるされていない。また家庭かていでの宴会えんかいおなじである」、との感想かんそうのこした。

戴季すえは1940ねん10がつから12がつにかけて、重慶たーちん国民こくみん政府せいふ中国ちゅうごく国民党こくみんとう代表だいひょうし、ミャンマーを経由けいゆしてインド各地かくち訪問ほうもんし、タゴールガンディー会談かいだんした。戴季すえネルーたずねたが、ネルーは当時とうじ投獄とうごくされていたため会談かいだんなかった。戴季すえ中印なかいん連携れんけいろん根拠こんきょは、中印なかいん両国りょうこくがアジアの文化ぶんか大国たいこくであり、仏教ぶっきょうこくであることにあった。

戴季すえは1945ねん抗日こうにち戦争せんそうわったらせをいたとき、「和気わき」、「忍耐にんたい」、「ふししょう」を国民こくみんうったえる必要ひつようがあるとかんがえた、という。かれ下記かきのように、中国ちゅうごく人力じんりきものりょく不足ふそくにより戦後せんご復興ふっこう困難こんなんであることを憂慮ゆうりょしていたからである。

日本にっぽんはすでに戦争せんそうやぶ無条件むじょうけん降伏ごうぶくした。<中国ちゅうごくは>くにかため、みんやすんじ、世界せかい協和きょうわする活動かつどうにこれから着手ちゃくしゅしなくてはならない。その困難こんなんさはやまと寇に抵抗ていこうする戦争せんそうひゃくせんばい困難こんなんである。おもうに、戦争せんそうつことはもとより困難こんなんであるが、和平わへい保持ほじすることはさらに困難こんなんなのである」。

ここにう「和平わへい保持ほじすることはさらに困難こんなんなのである」とは、戴季すえ戦後せんご東北とうほくまんしゅう)、内外ないがいモンゴル、しん疆をめぐるなか関係かんけい国共こっきょう関係かんけいについてけっして楽観らっかんしていなかったことをあらわしている。また、中国ちゅうごく国民党こくみんとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとうとの内戦ないせん激化げきかしつつあった1948ねん1がつには、

もっとみずかかなしむことは、みんこく建国けんこくから一昨年いっさくねん(ママ)の大戦たいせん終了しゅうりょうまでのやく35年間ねんかんにおいて、最近さいきん日本にっぽん降伏ごうぶくという、じつにわがくにとってじゃくてんじてつよとなるようなときうんもっと有利ゆうりであり、全国ぜんこく一切いっさい建設けんせつ整頓せいとんし、国際こくさいてき地位ちいあたえられるひゃくすうじゅう年来ねんらい未曾有みぞうのよいめぐわせを、まったくうまく利用りようできずに、あまんじて自暴自棄じぼうじきになってしまったことである」

慨嘆がいたんしている。

戴季すえは1948ねん1がつ中国ちゅうごく古来こらい礼楽れいがく政教せいきょう本源ほんげんとし、……ことごとく民生みんせいおもんじ」たが、「近年きんねん中国ちゅうごくでは礼楽れいがくほろびてひさしいために、中国ちゅうごくおとろえかつみだれているのである」。さらに、現在げんざい当時とうじ)の中国ちゅうごくにおける人心じんしん荒廃こうはい宗教しゅうきょう衰退すいたい危惧きぐし、科学かがく技術ぎじゅつばかりを崇拝すうはいする風潮ふうちょうきびしく批判ひはんした。かれは、富強ふきょう覇道はどう軍国ぐんこく主義しゅぎ)でなく王道おうどう民族みんぞく主義しゅぎ)のなか実現じつげんし、れいまもられる。しかし、中国ちゅうごくはいまだ内政ないせい再建さいけんできず、富強ふきょう達成たっせいできず、まずしくよわ国家こっかとして王道おうどうれいまもれず、覇道はどう国際こくさい社会しゃかいから自立じりつできないままに冷戦れいせんまれるのではないか、と憂慮ゆうりょした。そして、戦後せんご日米にちべいソはすでに科学かがく功利こうりばかりを重視じゅうしする覇道はどう国家こっかになってしまったと認識にんしきし、日本にっぽん戦後せんご改革かいかく日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこう、および戦後せんご冷戦れいせんべい対立たいりつ直接ちょくせつ言及げんきゅうすることはなかった。かれ戦後せんご国策こくさくあやま敗戦はいせんした日本にっぽんが、琉球りゅうきゅう朝鮮ちょうせん、ロシア、中国ちゅうごくなどの「隣国りんごくとの交際こうさい」にあたって、古来こらいおしえである儒教じゅきょうそむき、「じんわすれ」たために「自滅じめつしてしまった」、と慨嘆がいたんした。

戴季すえは1948ねん6がつ考試こうしいん院長いんちょう辞任じにんし、湯山ゆやま隠居いんきょした。中国共産党ちゅうごくきょうさんとうぐん南下なんかにより、蔣介せきや蔣緯こくは戴季すえ南京なんきんから台北たいぺいうつるようにすすめたが、戴季すえ成都せいと実家じっかもどることを希望きぼうし、台北たいぺいきを拒否きょひした。戴季すえは12月まつ南京なんきん広州こうしゅううつ成都せいときを準備じゅんびしたが、よく1949ねん2がつ12にち広州こうしゅう東山ひがしやまぼっした。享年きょうねん58。睡眠薬すいみんやく大量たいりょう服用ふくようし(持病じびょう神経痛しんけいつうのために睡眠薬すいみんやく常用じょうようしていた)、心臓しんぞう衰弱すいじゃくして停止ていししたことが直接ちょくせつ死因しいんであり、遺書いしょつからなかったという。なお、中国ちゅうごく文学ぶんがく研究けんきゅうしゃで、戴季すえの『日本にっぽんろん』をさい評価ひょうかした竹内たけうちよしみは、戴季すえ自殺じさつだとかんがえ、その原因げんいんを「中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政権せいけんいつめられたというより、国民党こくみんとう腐敗ふはいたいする絶望ぜつぼうのためではないか」と推測すいそくしている。

年表ねんぴょう

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  • 1891ねん1がつ6にち 四川省成都府漢州(みんこくこうかんけん)でまれる。
  • 1928ねん10がつ8にち 中国ちゅうごく国民党こくみんとう中執ちゅうしつかい173常会じょうかいは戴季すえ国民こくみん政府せいふ考試こうしいん院長いんちょう選出せんしゅつ。1930ねん1がつ6にち就任しゅうにん
  • 1948ねん6がつ24にち 考試こうしいん院長いんちょう辞任じにん
  • 1949ねん2がつ12にち 広州こうしゅう東山ひがしやまぼっする。

文献ぶんけんじょう名前なまえ誤記ごきれい

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検索けんさくする場合ばあい以下いかれいふくめるとよい。

  • 「戴」が「(载)」に誤記ごきされたもの:載季陶たいきとう(载季すえ)、でんけんでんけん、载传贤)、てんかたき(载天かたき)など。
  • 」が「」に誤記ごきされたもの:戴李すえ
  • つてつて、传)」が「溥」や「でん」に誤記ごきされたもの:戴溥けん(戴溥贤)、戴傅けん(戴傅贤)。
  • 上記じょうきわさったもの:とう(载李すえ)、溥賢(载溥贤)、でんけん(载傅贤)。

たいにちかん

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戴季すえは「最近さいきん日本にっぽん政局せいきょく及其たいはな政策せいさく」(1917-18ねん)、「ちょうつぎなにてん戴伝けんつげ日本にっぽん国民こくみんしょ」(1919ねん)、「てき日本にっぽんかん」(1919ねん)などでその日本にっぽんへの関心かんしんしめしている。とりわけ、『日本にっぽんろん』(1928ねん4がつ)は、近代きんだい中国人ちゅうごくじんあらわしたもっと有名ゆうめいたいにちかんいち作品さくひんなされている。

戴季すえは『日本にっぽんろん』のなかで、イギリスのアジア政策せいさくソ連それん中国ちゅうごく政策せいさく日本にっぽん山東さんとう出兵しゅっぺい(1927ねん5がつ-6がつ)、中国ちゅうごく政府せいふ支配しはいりょく欠如けつじょ中国ちゅうごく国民こくみん政治せいじ能力のうりょく欠如けつじょが「東方とうほう将来しょうらい世界せかい大戦たいせん」を招来しょうらいすることを警戒けいかいし、中国ちゅうごくきょうには統一とういつした国民こくみん精神せいしん形成けいせい必要ひつようである、とろんじた。そして、明治維新めいじいしん以来いらい急速きゅうそく軍国ぐんこくしていく日本にっぽん現状げんじょう分析ぶんせきし、日本にっぽん民族みんぞく特性とくせいであった倫理りんりせい武士ぶしどうあらわれた「尚武しょうぶ精神せいしんが、1927ねん訪日ほうにちには荒廃こうはいしていたとなげいた。さらに、中国ちゅうごく国民こくみんさん民主みんしゅ信奉しんぽうして国民こくみん精神せいしん形成けいせいし、革命かくめい成就じょうじゅさせきょうつとめ、日本にっぽん中国ちゅうごくにおける勢力せいりょく抵抗ていこうすることと、中国ちゅうごく国家こっか民族みんぞく主義しゅぎ発揮はっきして日本にっぽんのような軍国ぐんこく主義しゅぎかうのを回避かいひし、強国きょうこくとなったあかつきには東方とうほう道徳どうとく王道おうどう道統どうとうとなることを展望てんぼうした。

ただし、戴季すえは『日本にっぽんろん執筆しっぴつ以前いぜん以後いごも、日本にっぽんかんする評論ひょうろん多数たすうあらわしている。よって、かれたいにちかんを『日本にっぽんろん』に集約しゅうやくさせるかんがかた適当てきとうである。

華僑かきょう革命かくめいはは

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まごぶんべたとつたえられている「華僑かきょう革命かくめいははである(華僑かきょうため革命かくめいまとはは)(华侨为(革命かくめいまとはは)」のかたりは、まごぶん著作ちょさく言行げんこう記録きろくした資料しりょうからは現在げんざいのところつかっていない。「華僑かきょう革命かくめいははである」のかたり最初さいしょもちいられたのは、戴季すえが1927ねん3がつ30にち長崎ながさき通天閣つうてんかくおこなった講演こうえん中国ちゅうごく使つかったとされる)である。(けんりつ「“華僑かきょうため革命かくめいはは”――さんほまれ来歴らいれきあずか叙述じょじゅつ」、久保くぼじゅん太郎たろう「「華僑かきょうため革命かくめいはは」と戴季すえ」)

著作ちょさく日記にっき単行本たんこうぼん

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  1. てんかたき文集ぶんしゅう上海しゃんはい民権みんけんほう発行はっこう、1912ねん11月(→影印えいいんばん:『そう漁父ぎょふ戴天かたきぶん集合しゅうごうこく上海しゃんはい国光くにみつ図書館としょかん、1921ねん7がつ)(→影印えいいんばんくれしょう湘主へん『戴天かたき文集ぶんしゅう台北たいぺいぶんぼし書店しょてん、1962ねん6がつ
  2. きょうさくしゃてき效用こうよう広州こうしゅう中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい宣伝せんでん広州こうしゅう中国ちゅうごく国民党こくみんとう週刊しゅうかん経理けいりしょ、1924ねん1がつ初版しょはん、1926ねん2がつだいさんはん、1926ねん8がつだいよんはん、1927ねん4がつだいはん
  3. まごぶん主義しゅぎ哲学てつがくてき基礎きそ 民生みんせい哲学てつがく系統けいとうひょう上海しゃんはい中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい上海しゃんはい執行しっこう出版しゅっぱん時間じかん不詳ふしょう(→べつばん上海しゃんはいみんさとししょきょく、1925ねん7がつ初版しょはん
  4. まごぶん主義しゅぎ哲学てつがくてき基礎きそ 民生みんせい哲学てつがく系統けいとうひょう 校正こうせい増補ぞうほだいはん上海しゃんはいみんさとししょきょく、1925ねん8がつ初版しょはん、1925ねん12月だいはん、1927ねん1がつだいはん、1927ねん9がつだいろくはん(→べつばん:『さん民主みんしゅ義之よしゆき哲学てつがくてき基礎きそ重慶たーちん中央ちゅうおう組織そしき党員とういん訓練くんれんしょ秘書ひしょしょ文化ぶんかえき站総管理かんりしょ、1940ねん3がつ)(→日本語にほんごやく中山なかやま志郎しろう山本やまもと秀夫ひでおやくまごぶん主義しゅぎ哲学てつがくてき基礎きそ東京とうきょう生活せいかつしゃ、1939ねん)(→ドイツやく:Tai Tschi-tao(戴季すえちょ、H.C.Tsian(詹顕あきらやく“Die Geistigen grundlagen des Sun Yat Senismus:mit einer Systemtabelle der Philosophie des volkslebens”、Berlin:Würfel Verlag、1931)(→「民生みんせい哲学てつがく系統けいとうひょう」のみの英語えいごやく:Y.H.Wu(もとうみやく“Synopsis of Sun Yatsen's ‘Three Principles of the People’”(“The Chinese Social and Political Science Review”12-1、Jan 1928))
  5. 国民こくみん革命かくめいあずか中国ちゅうごく国民党こくみんとううえへん)』(上海しゃんはいすえ辦事しょ、1925ねん
  6. 中国ちゅうごく独立どくりつ運動うんどうてき基点きてん上海しゃんはい中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい上海しゃんはい執行しっこう出版しゅっぱん時間じかん不詳ふしょう(→べつばんこう州民しゅうみんさとししょきょく、1925ねん8がつ初版しょはん、1928ねん7がつだいはん
  7. はやし霖ほかろくなにおもえげん整理せいり『戴季すえ先生せんせい最新さいしん講演こうえんしゅうだい1へん広州こうしゅう国立こくりつ中山なかやま大学だいがく事務じむ管理かんりしょ出版しゅっぱん、1927ねん1がつ
  8. りくともしろへんまごぶん全集ぜんしゅうしゅうまごぶん主義しゅぎ討論とうろんしゅう」』上海しゃんはいきょうくも図書としょ公司こうし、1927ねん5がつ初版しょはん、1928ねん12月だいはん
  9. 産業さんぎょう合作がっさくしゃ組織そしき広州こうしゅう国立こくりつだい一中山大学政治訓育部宣伝部、1927ねん8がつだいさんはん
  10. 中央ちゅうおう軍事ぐんじ政治せいじ学校がっこう政治せいじ宣伝せんでんへん『戴季すえ先生せんせい両個りゃんこ重要じゅうようてきえんじこう中央ちゅうおう軍事ぐんじ政治せいじ学校がっこう政治せいじ宣伝せんでん、1927ねん8がつ
  11. とくこくこういばらもとカウツキー Kautsky)『資本しほんろん解説かいせつ』戴季すえやく胡漢民こかんみんやく上海しゃんはいみんさとししょきょく、1927ねん10がつ(→転載てんさい北京ぺきん九州きゅうしゅう出版しゅっぱんしゃ、2012ねん
  12. ちん以一へん『戴季すえ先生せんせい赴日講演こうえんろく いちめい東亜とうあひがし出版しゅっぱんしゃしょう、1928ねん2がつだいはん
  13. 青年せいねんみち上海しゃんはいみんさとししょきょく、1928ねん2がつ初版しょはん、1928ねん8がつだいよんはん
  14. 日本にっぽんろん上海しゃんはいみんさとししょきょく、1928ねん4がつ初版しょはん(→日本語にほんごやくしもうねせいしもうね栄吉えいきちやくだい328ごうだい329ごう)、和泉いずみせいやくだい330ごう-だい349ごう)「戴天かたき[][の]日本にっぽんろん」(北平きたひら北京ぺきん週報しゅうほうだい328ごう-だい349ごう、1928ねん12月2にちづけ-1929ねん5がつ19にちづけ))(→日本語にほんごやく藤島ふじしま留学生りゅうがくせい藤島ふじしま健一けんいちやく『戴天かたきちょ日本にっぽんろん東京とうきょう外務省がいむしょう文化ぶんか事業じぎょう、1932ねん)(→日本語にほんごやく藤島ふじしま健一けんいちやく日本にっぽんろん東京とうきょう世界せかい思潮しちょうしゃ、1946ねん)(→日本語にほんごやく安藤あんどう文郎ふみおやく『戴天かたき日本にっぽんろん東京とうきょうあきらはなしゃ、1934年版ねんばん、1935年版ねんばん)(→日本語にほんごやく安藤あんどう文郎ふみおやく日本にっぽんろん東京とうきょうはちしゅう書房しょぼう、1938ねん)(→日本語にほんごやくもり豊太とよたやく日本にっぽんろん東京とうきょう官界かんかい情報じょうほうしゃ、1940年版ねんばん、1941年版ねんばん)(→日本語にほんごやく編集へんしゅう竹内たけうちよしみやくだい56ごうだい57ごう)、市川いちかわひろしやくだい58ごう-だい63ごう)「戴季すえ[の]『日本にっぽんろん』」(東京とうきょう中国ちゅうごくだい56ごう-だい63ごう、1968ねん7がつ-1969ねん2がつ))(→日本語にほんごやく市川いちかわひろしやく日本にっぽんろん東京とうきょう社会しゃかい思想しそうしゃ、1972年版ねんばん、1983年版ねんばん
  15. 『戴季すえ講演こうえんしゅう上海しゃんはい新生しんせいしょきょく、1928ねん
  16. 『戴季すえ先生せんせい政治せいじ工作こうさく論文ろんぶん政治せいじ訓練くんれん印刷所いんさつしょ印刷いんさつ〕、1928ねん10がつ
  17. 大東だいとうしょきょく輯『とうこく要人ようじん戴季すえ最近さいきん言論げんろんしゅう上中かみなかしたへん上海しゃんはい大東だいとうしょきょく、1928ねん11月初版しょはん、1929ねん11月だいはん
  18. ちょうのべ灝編『とう訓育くんいく叢書そうしょ上海しゃんはい大東だいとうしょきょく、1929ねん1がつ
  19. ときまれひじりへん『戴季すえ言行げんこうろく上海しゃんはいこうえきしょきょく、1929ねん6がつ初版しょはん、1932ねん3がつだいはん
  20. 『戴季すえしゅう上下じょうげまき上海しゃんはいさんみん公司こうし、1929ねん11月
  21. みんさとししょきょくへん建設けんせつ碎金』だい1へん-だい2へん上海しゃんはいみんさとししょきょく、1930ねん8がつだいはん
  22. 戴季すえほかちょちょうこれへん西北せいほく南京なんきんしん亜細亜あじあ学会がっかい出版しゅっぱん、1931ねん10がつ初版しょはん、1932ねん5がつだいはん、1933ねん6がつだいさんはん
  23. せき於西きた農林のうりん教育きょういく所見しょけん南京なんきんしん亜細亜あじあ学会がっかい、1934ねん7がつ
  24. 軍事ぐんじ新聞しんぶんしゃへん当代とうだいとうこく名人めいじん講演こうえんしゅうだい2しゅう軍事ぐんじ新聞しんぶんしゃ、1935ねん(→影印えいいんばん軍事ぐんじ新聞しんぶんしゃへん当代とうだいとうこく名人めいじん講演こうえんしゅう台北たいぺい文海ぶんかい出版しゅっぱんしゃ近代きんだい中国ちゅうごく史料しりょうくさむらかんだい82輯814、1972ねん9がつ影印えいいん
  25. 戴伝けんほかせんとうこく先進せんしん抗戦こうせん言論げんろんぞくしゅう重慶たーちん独立どくりつ出版しゅっぱんしゃ、1940ねん
  26. 萱野かやのちょうとも中華民国ちゅうかみんこく革命かくめいきゅう東京とうきょう帝国ていこく地方ちほう行政ぎょうせい学会がっかい、1940ねん7がつ
  27. 戴季すえ講演こうえんおう貽非せんへんさん民主みんしゅ講演こうえんしゅう泰和やすかず江西えにししょうさん民主みんしゅ文化ぶんか運動うんどう委員いいんかい、1941ねん12月
  28. がくれいろく重慶たーちん正中せいちゅうしょきょく、1945ねん5がつ
  29. 中国ちゅうごく童子どうじぐん総会そうかいへん『戴季すえ先生せんせいあずか童子どうじぐん教育きょういく台北たいぺいはなこく出版しゅっぱんしゃ、1952ねん2がつ
  30. ちんたかしすずへん『戴季すえ先生せんせいぶんそんだい1さつ-だい4さつ台北たいぺい中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおう委員いいんかい、1959ねん3がつ(→原典げんてん:『こうえんぶん稿こうだい1さつ-だい35さつ中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおう委員いいんかいとう委員いいんかい所蔵しょぞう
  31. 中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおうとう史料しりょう編纂へんさん委員いいんかいへん革命かくめいさきれつ先進せんしん闡揚国父こくふ思想しそうろん文集ぶんしゅう台北たいぺい中華民国ちゅうかみんこく各界かくかいねん国父こくふひゃくねん誕辰たんしん籌備委員いいんかい、1965ねん11月
  32. 中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおうとう史料しりょう編纂へんさん委員いいんかいへん革命かくめいさきれつ先進せんしん詩文しぶん選集せんしゅうだい4さつ「戴伝けん選集せんしゅう」、台北たいぺい中華民国ちゅうかみんこく各界かくかいねん国父こくふひゃくねん誕辰たんしん籌備委員いいんかい、1965ねん11月
  33. 戴季すえほか『まごぶん主義しゅぎ論集ろんしゅう台北たいぺいぶんぼし書店しょてん、1965ねん11月
  34. ちんたかしすずへん『戴季すえ先生せんせいぶん存続そんぞくへん台北たいぺい中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおう委員いいんかいとう史料しりょう編纂へんさん委員いいんかい、1967ねん5がつ
  35. ちんたかしすずへん『戴季すえ先生せんせいぶんそんさい続編ぞくへん上下じょうげさつ台北たいぺい台湾たいわん商務しょうむしるししょかん、1968ねん5がつ
  36. ちんたかしすずへん『戴季すえ先生せんせいぶんそんさん続編ぞくへん台北たいぺい中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおう委員いいんかいとう史料しりょう編纂へんさん委員いいんかい、1971ねん10がつ
  37. もりもとおもへん『戴季すえ先生せんせい墨蹟ぼくせき台北たいぺい中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおう委員いいんかいとう史料しりょう編纂へんさん委員いいんかい、1972ねん3がつ
  38. しゃくひがしはつへん『戴季すえ先生せんせい仏学ぶつがく論集ろんしゅう台北たいぺい中華ちゅうか仏教ぶっきょう文化ぶんかかん、1972ねん8がつ
  39. 太虚たいきょ大師だいし曁戴すえ居士こじ護国ごこくまもるきょう言論げんろん選集せんしゅう台北たいぺいぶくほう<中華ちゅうか仏教ぶっきょう居士こじかい?>、1979ねん
  40. 広東かんとん革命かくめい歴史れきし博物館はくぶつかんへん黄埔軍こうほぐんこう史料しりょう(1924-1927)』広州こうしゅう広東かんとん人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、1982ねん2がつ初版しょはん、1985ねん5がつだいはん、1994ねん5がつだいさんはん
  41. 中国ちゅうごく人民じんみん大学だいがく中共ちゅうきょうとうけい中国ちゅうごくきん現代げんだい政治せいじ思想しそうきょうけんしつへん戴季すえ主義しゅぎ資料しりょうせんへん北京ぺきん中国ちゅうごく人民じんみん大学だいがく中共ちゅうきょうとうけい、1983ねん1がつ
  42. 考試こうしいんこう銓叢しょ指導しどう委員いいんかいおもへん『戴季すえ先生せんせいあずかこう制度せいど台北たいぺい正中せいちゅうしょきょく、1984ねん7がつ
  43. 南京なんきん档案かんちゅう山陵さんりょうえん管理かんりしょへんちゅう山陵さんりょう档案史料しりょうせんへん南京なんきん江蘇こうそせき出版しゅっぱんしゃ、1986ねん9がつ
  44. しゅ匯森ぬしへん『戴伝けんあずか現代げんだい中国ちゅうごく新店しんてん国史こくしかん、1989ねん1がつ
  45. からぶんけんくわへいへん『戴季すえしゅう(1909-1920)』武漢ぶかん華中かちゅう師範しはん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、1990ねん7がつ
  46. くわへいあつしからぶんけんへん『戴季すえからし文集ぶんしゅう(1909-1913)』上下じょうげさつ香港ほんこんちゅうぶん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、1991ねん
  47. 中国ちゅうごくぞうがく研究けんきゅう中心ちゅうしん中国ちゅうごくだい歴史れきし档案かんへん『九世班禅円寂致祭和十世班禅転世座床档案選編』北京ぺきん中国ちゅうごくぞうがく出版しゅっぱんしゃ、1991ねん1がつ
  48. 中国ちゅうごくぞうがく研究けんきゅう中心ちゅうしん中国ちゅうごくだい歴史れきし档案かんへんじゅう三世達頼円寂致祭和十四世達頼転世座床档案選編』北京ぺきん中国ちゅうごくぞうがく出版しゅっぱんしゃ、1991ねん1がつ
  49. 中国ちゅうごくだい歴史れきし档案かん中国ちゅうごくぞうがく研究けんきゅう中心ちゅうしんへん『九世班禅内地活動及返蔵受阻档案選編』北京ぺきん中国ちゅうごくぞうがく出版しゅっぱんしゃ、1992ねん8がつ
  50. 上海しゃんはい档案かんへんきゅう上海しゃんはいてき証券しょうけん交易こうえきしょ上海しゃんはいせき出版しゅっぱんしゃ、1992ねん12月
  51. 「戴伝けんたてまついのちぜんあまつとむ致祭はんぜん経過けいか報告ほうこく康行やすゆき日記にっき」(中国ちゅうごくだい歴史れきし档案かん中国ちゅうごくぞうがく研究けんきゅう中心ちゅうしんへん慕松忠信ただのぶちょうまもる戴伝けんたてまつ使つかい辦理ぞうごと報告ほうこくしょ北京ぺきん中国ちゅうごくぞうがく出版しゅっぱんしゃ、1993ねん4がつ
  52. しゃあきら/戴天かたきほか『みんこく政党せいとう政党せいとうあずかみんはつ政治せいじ北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく、2007ねん
  53. くわへいしゅおおとりりんへん中国ちゅうごく近代きんだい思想家しそうか文庫ぶんこ 戴季とうまき北京ぺきん中国ちゅうごく人民じんみん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、2014ねん4がつ
  54. 中国ちゅうごくそうけいよわい基金ききんかい研究けんきゅう中心ちゅうしんへん宮崎みやざき滔天とうてん家蔵かぞうみんこく人物じんぶつ書札しょさつしゅ迹』北京ぺきんはなぶん出版しゅっぱんしゃ、2021ねん
  55. げんようしゃしゃ芳名ほうめいちょう私家版しかばん
  56. 『戴季すえぶんそん<戴季すえ先生せんせいてきぶんそん?>』中国ちゅうごく革命かくめい書店しょてん出版しゅっぱん時間じかん不詳ふしょう

戴季すえかんする評伝ひょうでん研究けんきゅう日本語にほんご以外いがい主要しゅようなもののみ)

[編集へんしゅう]
  1. だいえい惲代えい)「読『まごぶん主義しゅぎ哲学てつがくてき基礎きそ』」(『中国ちゅうごく青年せいねんだい87、1925ねん8がつ8にちづけ
  2. 抽玉(しょうすわえおんな)「国民こくみん革命かくめいあずか中国共産党ちゅうごくきょうさんとう」1925ねん8がつ10日とおか中央ちゅうおうとう研究けんきゅうしつしょうすわえおんなぶんそん編輯へんしゅうぐみ広東かんとん革命かくめい歴史れきし博物館はくぶつかんへんしょうすわえおんなぶんそん北京ぺきん中共ちゅうきょうとう出版しゅっぱんしゃ、1998ねん7がつ
  3. どくしゅうちんどくしゅう)「きゅう戴季すえてきいちふうしん」1925ねん8がつ30にち(『嚮導きょうどうだい129-だい130、1925ねん9がつ11にちづけ、18にちづけ
  4. あきしろ瞿秋しろ)「中国ちゅうごく国民こくみん革命かくめいあずか戴季すえ主義しゅぎ」(嚮導きょうどう週報しゅうほうしゃへんはん戴季すえてき国民こくみん革命かくめいかんいち)』嚮導きょうどう週報しゅうほうしゃ、1925ねん9がつ
  5. そんすべほどこせそんみつる)「ひょう戴季すえ先生せんせいてき中国ちゅうごく革命かくめいかん」(『中国ちゅうごく青年せいねんだい91・92ごうかん、1925ねん9がつ1にちづけ
  6. まごきょうたい於『まごぶん主義しゅぎ哲学てつがくてき基礎きそしょう榷』上海しゃんはいさんみん公司こうし、1926ねん6がつだいさんはん
  7. 白川しらかわせい西本にしもと省三しょうぞう)「戴天かたきわたり」(上海しゃんはい上海しゃんはいだい719ごう、1927ねん2がつ21にちづけ
  8. 華山げさんせい茅原かやはら華山かざん)「戴天かたきらい」(東京とうきょう内観ないかんだい85ごう、1927ねん4がつ1にちづけ
  9. 鈴木すずき正吾しょうご「戴天かたきよせす」1927ねん3がつ17にち東京とうきょう内観ないかんだい86ごう、1927ねん5がつ1にちづけ
  10. 赤松あかまつ克麿かつまろ「戴天かたき印象いんしょう其他」(東京とうきょう経済けいざい往来おうらいいち周年しゅうねん記念きねん倍大ばいだいごう、1927ねん
  11. しもうねせいしもうね栄吉えいきち)「日本にっぽんろんついで」(北平きたひら北京ぺきん週報しゅうほうだい328ごう、1928ねん12月2にちづけ
  12. Madame Sun Yat-sen、“Madame Sun Yat-sen Speaks”、August 10、1929(“China Tomorrow”、Vol.1 No.12、Beiping、October 20、1929)(→中国ちゅうごくやく:「あずか戴伝けん談話だんわ筆記ひっき」(天津てんしんだい公報こうほう』1929ねん12月12にちづけ))(→日本語にほんごやく:「戴季すえ叱責しっせきする」仁木にきふみやく(『そうけいよわい選集せんしゅう東京とうきょう:ドメス出版しゅっぱん、1979ねん))
  13. 安藤あんどう文郎ふみお訳者やくしゃじょ」1934ねん2がつ(戴天かたき『戴天かたき日本にっぽんろん安藤あんどう文郎ふみおやく東京とうきょうあきらはなしゃ、1934年版ねんばん、1939年版ねんばん
  14. 諸橋もろはし轍次てつじ「『戴天かたき日本にっぽんろん』をむ」(戴天かたき『戴天かたき日本にっぽんろん安藤あんどう文郎ふみおやく東京とうきょうあきらはなしゃ、1934年版ねんばん、1939年版ねんばん
  15. 安藤あんどう文郎ふみおさいあずさじょして」1938ねん6がつ10日とおか(戴天かたき日本にっぽんろん安藤あんどう文郎ふみおやく東京とうきょうはちしゅう書房しょぼう、1938ねん
  16. 中山なかやま志郎しろう山本やまもと秀夫ひでお)「はしがき」(戴季すえまごぶん主義しゅぎ哲学てつがくてき基礎きそ中山なかやま志郎しろうやく東京とうきょう生活せいかつしゃ、1939ねん
  17. もり豊太とよた訳者やくしゃじょ」1940ねん9がつ28にち(戴季すえ日本にっぽんろんもり豊太とよたやく東京とうきょう官界かんかい情報じょうほうしゃ、1940年版ねんばん、1941年版ねんばん
  18. 藤島ふじしま健一けんいち解題かいだい」1946ねん1がつ(戴天かたき日本にっぽんろん藤島ふじしま健一けんいちやく東京とうきょう世界せかい思潮しちょうしゃ、1946ねん
  19. ちんたかしすず『戴季すえ先生せんせいへんねん伝記でんき台北たいぺい中華ちゅうか叢書そうしょ委員いいんかい、1958ねん(→ぞうていばん:『ぞうてい戴季すえ先生せんせいへんねん伝記でんきちんたかしすず出版しゅっぱん、1967ねん5がつ)(→影印えいいんぞうていばん:『戴季すえでんけん先生せんせいへんねん伝記でんき台北たいぺい文海ぶんかい出版しゅっぱんしゃ近代きんだい中国ちゅうごく史料しりょうくさむらかん続編ぞくへんだい43輯421、1977ねん影印えいいん
  20. Bernal,Martin、“The Tzu-yu-tang and Tai Chi-t'ao:1912-1913”(“Modern Asian Studies”、Vol.1 No.2、April 1967)
  21. ちんたかしすず『戴季すえ先生せんせいてき生平おいだいら台北たいぺい台湾たいわん商務しょうむしるししょかん、1968ねん
  22. <竹内たけうちよしみ>「戴季すえ日本にっぽんろん・はじめに」(東京とうきょう中国ちゅうごくだい56ごう、1968ねん7がつ
  23. 今村いまむら与志雄よしお小松こまつ茂夫しげおせき寛治かんじ竹内たけうちよしみ橋川はしかわ文三ぶんぞう山口やまぐち一郎いちろう座談ざだんかい 日本にっぽん外交がいこう岐路きろ――戴季すえ日本にっぽんろん』をめぐって」(東京とうきょう中国ちゅうごくだい62ごう、1969ねん1がつ
  24. 久米くめしげる「わがかん的中てきちゅうす――「日本にっぽんろん」をんで」(東京とうきょう中国ちゅうごくだい62ごう、1969ねん1がつ
  25. 「戴季すえ筆蹟ひっせき」(東京とうきょう中国ちゅうごくだい62ごう、1969ねん1がつ
  26. 中島なかじま及「高知こうちでの戴季すえ」(東京とうきょう中国ちゅうごくだい63ごう、1969ねん2がつ
  27. あしちん「戴季すえ日本にっぽんろん』をんで――いてないことの意味いみを」(東京とうきょう中国ちゅうごくだい64ごう、1969ねん3がつ
  28. 市井いちい三郎さぶろう「戴季すえ日本にっぽんろん』をんで――歴史れきし人生じんせいのパラドックス」(東京とうきょう中国ちゅうごくだい64ごう、1969ねん3がつ
  29. 色川いろかわ大吉だいきち「戴季すえ日本にっぽんろん』をんで――民族みんぞく再生さいせい痛切つうせつさけび」(東京とうきょう中国ちゅうごくだい64ごう、1969ねん3がつ
  30. 松田まつだ道雄みちお「戴季すえ日本にっぽんろん』をんで――わたしたちのつみはふかい」(東京とうきょう中国ちゅうごくだい64ごう、1969ねん3がつ
  31. 関戸せきと嘉光よしみつ「戴季すえ日本にっぽんろん』をんで――わたし答案とうあん」(東京とうきょう中国ちゅうごくだい65ごう、1969ねん4がつ
  32. 村上むらかみ一郎いちろう「戴季すえ日本にっぽんろん』をんで――かなしいかな海上かいじょうさんやま」(東京とうきょう中国ちゅうごくだい65ごう、1969ねん4がつ
  33. 竹内たけうちよしみ中国ちゅうごく日本にっぽん歴史れきし――戴季すえの『日本にっぽんろん』」(東京とうきょうくさだい143ごう、1969ねん4がつ
  34. 竹内たけうちよしみ「わが痛憤つうふん――戴季すえの『日本にっぽんろん』とにちちゅう友好ゆうこうへのみち」(東京とうきょうしお』1969ねん4がつごう)(→転載てんさい:「戴季すえの『日本にっぽんろん』」(戴季すえ日本にっぽんろん市川いちかわひろしやく東京とうきょう社会しゃかい思想しそうしゃ、1972年版ねんばん、1983年版ねんばん))
  35. 鄧文こう「戴季すえあずか中国共産党ちゅうごくきょうさんとう」1969ねん6がつ15にち(鄧文こう現代げんだい攷信ろく――研究けんきゅう現代げんだいてき甘苦かんく初稿しょこう)』香港ほんこん東風こち出版しゅっぱんしゃ、1974ねん
  36. 中島なかじま及「戴季すえのことふたつ」(東京とうきょう中国ちゅうごくだい67ごう、1969ねん6がつ
  37. Saywell,William C.、“The Thought of Tai Chi-t'ao:1912-1928”、Ph.D.Dissertation、Toronto、1969
  38. 北河きたがわ征四郎せいしろう中国ちゅうごく国民党こくみんとうしん右派うは理論りろん形成けいせい前提ぜんてい――戴季すえ中心ちゅうしんに(よん時期じきいちぜん大会たいかい)」(刈谷かりや愛知教育大学あいちきょういくだいがく歴史れきし研究けんきゅうだい17ごう、1970ねん3がつ
  39. Saywell,William C.、“Modernization without Modernity:Tai Chi-t'ao、a Conservative Nationalist”(“Journal of Asian and African Studies”、Vol.5 No.4、October 1970)
  40. “Tai Chi-t'ao(戴季すえ)”(Boorman,Howard L.(ed.)、“Biographical Dictionary of Republican China”、Vol.3、Columbia University Press、1970)(→中国ちゅうごくやく:「戴季すえ」沈自さとしやく中国ちゅうごく社会しゃかい科学かがくいん近代きんだい研究所けんきゅうじょ中華民国ちゅうかみんこく研究けんきゅうしつへん中華民国ちゅうかみんこく資料しりょうくさむら稿こうわけ稿こうみんこく名人めいじん伝記でんき辞典じてんだい10分冊ぶんさつ北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく、1981ねん))
  41. Mast,Herman Ⅲ、“An Intellectual Biography of Tai Chi-t'ao from 1891 to 1928”、Ph.D.Dissertation、Illinois、1970
  42. Mast,Herman Ⅲ、“Tai Chi-t'ao、Sunism and Marxism During the May Fourth Movement in Shanghai”(“Modern Asian Studies”、Vol.5 No.3、July 1971)(→中国ちゅうごくやくうまあずさ「五四運動前後之戴季陶与中山主義及馬克斯主義(1918-1920)」(中華民国ちゅうかみんこく史料しりょう研究けんきゅう中心ちゅうしんへん中国ちゅうごく現代げんだいせんだい研究けんきゅう報告ほうこくだい1輯、台北たいぺい中華民国ちゅうかみんこく史料しりょう研究けんきゅう中心ちゅうしん、1971ねん))
  43. もり昌明まさあき中国ちゅうごく民族みんぞく独立どくりつ祈願きがんする警世けいせいしょ――『日本にっぽんろん』」(東京とうきょうしおだい154ごう、1972ねん6がつ
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  63. 望月もちづき敏弘としひろよん時期じきにおける戴季すえ政治せいじ主張しゅちょうかんするいち考察こうさつ」(小平こだいら嘉悦かえつ女子じょし短期大学たんきだいがく研究けんきゅう論集ろんしゅうだい29かんだい2ごう、1986ねん12がつ
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  67. はくひさしみず「戴季すえ国民こくみん革命かくめいろん構造こうぞうてき分析ぶんせき」(閔斗もとへん中国ちゅうごく国民こくみん革命かくめい指導しどうしゃ思想しそう行動こうどう』서울:知識ちしき産業さんぎょうしゃ、1988ねん)(→日本語にほんごやく:「戴季すえ国民こくみん革命かくめいろん構造こうぞうてき分析ぶんせき青柳あおやぎ純一じゅんいちやく神戸こうべまごぶん研究けんきゅうだい11ごう-だい12ごう、1990ねん5がつ、12月))
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  69. えびすゆうみずへん「「戴伝けん先生せんせいひゃくねん誕辰たんしん口述こうじゅつ歴史れきし座談ざだんかいきのみのる」(台北たいぺい近代きんだい中国ちゅうごくだい68、1988ねん12がつ)(→転載てんさいこうじゅんよしへんひゃくねん憶述――先進せんしん先賢せんけん百年誕辰口述歴史合輯』だい5さつ台北たいぺい近代きんだい中国ちゅうごく出版しゅっぱんしゃ、1999ねん
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  73. だん雲章うんしょう・沈暁さとしそうけいよわいかず戴季すえ――以孫中山なかやま革命かくめい事業じぎょうためじく心的しんてき左右さゆうぶん趨」(広州こうしゅう中山なかやま大学だいがくがくほう社会しゃかい科学かがくばん)』1993ねんだい3)(→転載てんさいそうけいよわい基金ききんかいへんそうけいよわい学術がくじゅつけん討会ろん文集ぶんしゅう北京ぺきん中国ちゅうごく和平わへい出版しゅっぱんしゃ、1994ねん)(→転載てんさい:「以孫中山なかやま革命かくめい事業じぎょうため中心ちゅうしんてき左右さゆうぶん趨――そうけいよわいあずか戴季すえ」(中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく名誉めいよ主席しゅせきそうけいよわいりょうえんへんそうけいよわいあずか中国ちゅうごく名人めいじん上海しゃんはい人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、1999ねん))(→転載てんさい:「以孫中山なかやま革命かくめい事業じぎょうため中心ちゅうしんてき左右さゆうぶん趨――そうけいよわいあずか戴季すえ」(だん雲章うんしょうまご中山なかやまたい国内こくない情勢じょうせいてきしん広州こうしゅう中山なかやま大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、2001ねん))
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  78. 関口せきぐちまさる「戴季すえ思想しそう転換てんかん動機どうきとその時代じだい背景はいけいについて」(武蔵野むさしの亜細亜大学あじあだいがく教養きょうよう紀要きようだい51ごう、1995ねん6がつ
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参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
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  26. うまひろし煥『日本にっぽん銓敍制度せいど調査ちょうさ報告ほうこくしょ南京なんきんしん亜細亜あじあ学会がっかい、1933ねん4がつ
  27. たん雲山くもやま印度いんど周遊しゅうゆう南京なんきんしん亜細亜あじあ学会がっかい、1933ねん4がつ
  28. もとたかし灝(もと公武こうぶ)『ゆう紀要きよう南京なんきん考試こうしいんおさむはつまた、1933ねん4がつ
  29. 中印なかいん学会がっかいへん中印なかいん学会がっかい――けい劃、そうあきら縁起えんぎ南京なんきん中印なかいん学会がっかい、1933ねん6がつ
  30. 美濃部みのべ達吉たつきち日本にっぽん行政ぎょうせいほう撮要さつよう』楊開かぶと訳述やくじゅつちんだいひとしじょたかし嘯・ただしどうやすし校閲こうえつ南京なんきん考試こうしいん、1933ねん9がつ
  31. 懺華居士こじきむつよしいただきはつ菩提心ぼだいしんろんあさほぼしゃく上海しゃんはい仏学ぶつがくしょきょく、1933ねん10がつ
  32. にん乃強西にしやすしけい境域きょういきへん南京なんきんしん亜細亜あじあ学会がっかい、1933ねん10がつ
  33. りょうこころ陽光ようこう)『たいにち作戦さくせん方略ほうりゃく上海しゃんはい日新にっしん輿地よちしゃ、1933ねん12月
  34. ひゃくぼく大義たいぎじゅつ南京なんきんしん亜細亜あじあ学会がっかい、1933ねん12月
  35. 青海あおみしょう政府せいふ民政みんせいちょうへん最近さいきん青海あおみ南京なんきんしん亜細亜あじあ学会がっかい、1934ねん1がつ
  36. から柯三ちょちんだいひとしへん『赴康日記にっき南京なんきんしん亜細亜あじあ学会がっかい、1934ねん1がつ
  37. おうおうにれ黄河こうが視察しさつ日記にっき南京なんきんしん亜細亜あじあ学会がっかい、1934ねん1がつ
  38. くま耀文へんづるよわいちょうだま濤審こう総理そうりたい於蒙ぞう遺訓いくん中央ちゅうおうたい於蒙ぞう法令ほうれい南京なんきんこうむぞう委員いいんかい、1934ねん1がつ
  39. もとおう鑅著、ちんたかしすず・曹冕・はんおおとりおこりじょたかし嘯校たい『衍祥どうじゅつ聞』南京なんきん考試こうしいん印刷所いんさつしょ、1934ねん3(?)がつ
  40. 辺疆へんきょう政教せいきょう制度せいど研究けんきゅうかいへんきよしだいあたりせいどおりこう南京なんきん辺疆へんきょう政教せいきょう制度せいど研究けんきゅうかい<こうむぞう委員いいんかい?>、1934ねん7がつ
  41. にん乃強ちょたかし校閲こうえつ西にしやすしけい民俗みんぞくへん南京なんきんしん亜細亜あじあ学会がっかい、1934ねん7がつ
  42. うまつるたかし東北とうほく考察こうさつ南京なんきんしん亜細亜あじあ学会がっかい、1934ねん12月
  43. ふくだん大学だいがくへんさんじゅうねんてきふくだん(1905-1935)』上海しゃんはいふくだん大学だいがく、1935ねん
  44. にん乃強『西にしやすしけい地文ちぶんへん南京なんきんしん亜細亜あじあ学会がっかい、1935ねん7がつ
  45. じょやせあきへんこしみなみ上海しゃんはい国立こくりつ曁南大学だいがく海外かいがい文化ぶんか事業じぎょう、1936ねん2がつ
  46. Corbusier,L.『明日あした都市とし毓駿やく上海しゃんはい商務しょうむしるししょかん、1936ねん8がつ初版しょはん(?)、1937ねんだいさんはん
  47. ほど淯『歴代れきだいみことあな あなきょうがいろんごうこく上海しゃんはい東方とうほう読経どきょうかい、1938ねん10がつだいじゅうはん
  48. 河村かわむら勝一かついちさん民主みんしゅ歴史れきしてき発展はってんとその批判ひはんとくに蔣介せき独裁どくさい理論りろんとしてのただせいろん思想しそう批判ひはん)』出版しゅっぱんしゃしょう、1939ねん
  49. 山本やまもと秀夫ひでおさん民主みんしゅ義民ぎみんぞく理論りろんかんする研究けんきゅう東京とうきょう東亜とうあ研究所けんきゅうじょ、1941ねん
  50. もとたかし灝(もと公武こうぶちょはなこうたい中印なかいん歴代れきだい関係かんけいりゃく重慶たーちん独立どくりつ出版しゅっぱんしゃ、1942ねん8がつ
  51. 軍事ぐんじ委員いいんかい全国ぜんこく知識ちしき青年せいねん志願しがん従軍じゅうぐんへんねり総監そうかんへん知識ちしき青年せいねん従軍じゅうぐん論叢ろんそう重慶たーちん軍事ぐんじ委員いいんかい全国ぜんこく知識ちしき青年せいねん志願しがん従軍じゅうぐんへんねり総監そうかん、1945ねん6がつ
  52. 考試こうしいんへんこう法規ほうきしゅう南京なんきん考試こうしいん、1947ねん再版さいはん
  53. 考試こうしいん秘書ひしょしょぬしへん考試こうしいんそくれい』<修訂しゅうていばん>、南京なんきん中国ちゅうごく印刷いんさつしょう、1947ねん10がつ
  54. ちん警察けいさつ行政ぎょうせい理論りろんあずか実際じっさい南京なんきん中華ちゅうか警察けいさつ学術がくじゅつ研究けんきゅうしゃ、1948ねん1がつ
  55. 岩村いわむら三千夫みちおさん民主みんしゅ現代げんだい中国ちゅうごく東京とうきょう岩波書店いわなみしょてん、1949ねん
  56. 野沢のざわゆたかまごぶん中国ちゅうごく革命かくめい東京とうきょう岩波書店いわなみしょてん、1966ねん
  57. ひねかたてい「戴季すえ致犬やしなえあつししょ」(台北たいぺい中国ちゅうごく一周いっしゅうだい854、1966ねん9がつ5にちづけ
  58. つよし国父こくふ思想しそう研究けんきゅう台北たいぺいよう獅書てん、1966ねん
  59. 藤井ふじい昇三しょうぞうまごぶん研究けんきゅう――とくに民族みんぞく主義しゅぎ理論りろん発展はってん中心ちゅうしんとして』東京とうきょう:勁草書房しょぼう、1966ねん
  60. くもかん従容しょうようどもいたきよしとう台北たいぺい中国ちゅうごく学術がくじゅつ著作ちょさくすすむじょ委員いいんかい、1973ねん影印えいいん
  61. はなせい四川しせん自治じちやく」(台北たいぺい四川しせん文献ぶんけんだい141、1974ねん
  62. しゃくひがしはつ中国ちゅうごく仏教ぶっきょう近代きんだい台北たいぺい中華ちゅうか仏教ぶっきょう文化ぶんかだて、1974ねん
  63. もとかいうろこ日本にっぽん政治せいじろん台北たいぺいれんけい出版しゅっぱん、1977ねん(→日本語にほんごやく:『中国人ちゅうごくじん視座しざから――近代きんだい日本にっぽんろん東京とうきょう:そしえて、1979ねん
  64. ちん哲三てつぞう『鄒魯研究けんきゅうはつしゅう台北たいぺいはな出版しゅっぱんしゃ、1980ねん2がつ
  65. 鍾城よしぬしへんひかりはな日報にっぽうななじゅうしゅう年紀としのりねんかん』Penang:ひかりはな日報にっぽう有限ゆうげん公司こうし、1981ねん
  66. 考試こうしいんこう銓叢しょ指導しどう委員いいんかいおもへん建国けんこくななじゅうねんかんがえ制度せいど台北たいぺい正中せいちゅうしょきょく、1981ねん
  67. 鶴見つるみ俊輔しゅんすけせん時期じき日本にっぽん精神せいしん(1931-1945ねん)』東京とうきょう岩波書店いわなみしょてん、1982ねん
  68. 考試こうしいんこう銓叢しょ指導しどう委員いいんかいおもへん中華民国ちゅうかみんこくこうせん制度せいど台北たいぺい正中せいちゅうしょきょく、1983ねん
  69. 考試こうしいんこう銓叢しょ指導しどう委員いいんかいおもへん中国ちゅうごく考試こうし制度せいど台北たいぺい正中せいちゅうしょきょく、1983ねん
  70. やなぎへんみなみしゃりゃく上海しゃんはい人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、1983ねん
  71. えびす春恵はるえみんはつてき地方ちほう主義しゅぎあずかれんしょう自治じち台北たいぺい正中せいちゅうしょきょく、1983ねん
  72. 中国ちゅうごく社会しゃかい科学かがくいん近代きんだい研究所けんきゅうじょ中華民国ちゅうかみんこく研究けんきゅうしつおもへんみんはつ政争せいそうあずか革命かくめい上海しゃんはい人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、1983ねん
  73. 野道のみちまごぶんにょう日本人にっぽんじん――いぬやしなえあつしたい中国ちゅうごく認識にんしき」(平野ひらの健一郎けんいちろうへん近代きんだい日本にっぽんとアジア:文化ぶんか交流こうりゅう摩擦まさつ東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1984ねん
  74. りくたからせん中国ちゅうごく国民党こくみんとうたい総理そうりのこきょう解釈かいしゃく確定かくてい」(中央ちゅうおう研究けんきゅういん近代きんだい研究所けんきゅうじょへんこう戦前せんぜん十年国家建設史研討会論文集』しもさつ台北たいぺい中央ちゅうおう研究けんきゅういん近代きんだい研究所けんきゅうじょ、1985ねん5がつ再版さいはん
  75. 山本やまもと秀夫ひでおわたしさん民主みんしゅ研究けんきゅう」ききて山口やまぐち一郎いちろう神戸こうべまごぶん研究けんきゅうだい5ごう、1986ねん8がつ
  76. 蔡鴻げん「一幅珍貴的挂軸」(南京なんきんみんこく春秋しゅんじゅう』1987ねんだい1
  77. 袁偉中国ちゅうごく現代げんだい哲学てつがく稿こう上巻じょうかん広州こうしゅう中山なかやま大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、1987ねん
  78. 中国ちゅうごく人民じんみん政治せいじ協商きょうしょう会議かいぎ江蘇ちぁんすーしょう委員いいんかいぶん資料しりょう委員いいんかいへん江蘇ちぁんすーぶん資料しりょうだい24輯「国民党こくみんとうてき文官ぶんかん制度せいどあずか文官ぶんかん考試こうし」、南京なんきん:『江蘇ちぁんすーぶん資料しりょう編輯へんしゅう、1988ねん
  79. ぶくけい近代きんだい中国ちゅうごく高等こうとう教育きょういく研究けんきゅう――国立こくりつ中山なかやま大学だいがく(1924~1937)』台北たいぺい中央ちゅうおう研究けんきゅういん近代きんだい研究所けんきゅうじょ、1988ねん
  80. ちんいさおひとし安井やすい三吉さんきちへんまごぶん講演こうえんだいアジア主義しゅぎ資料集しりょうしゅう――1924ねん11月 日本にっぽん中国ちゅうごく岐路きろ京都きょうと法律文化社ほうりつぶんかしゃ、1989ねん
  81. りょよしじょう革命かくめい再起さいき台北たいぺい中央ちゅうおう研究けんきゅういん近代きんだい研究所けんきゅうじょ、1989ねん
  82. 兪辛焞『まごぶん革命かくめい運動うんどう日本にっぽん東京とうきょう六興ろっこう出版しゅっぱん、1989ねん(→中国ちゅうごくばん:『まご中山ちゅうざんあずか日本にっぽん関係かんけい研究けんきゅう北京ぺきん人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、1996ねん
  83. 教育きょういくおもへん中華民国ちゅうかみんこく建国けんこくだいよんへん 抗戦こうせん建国けんこくさん)、台北たいぺい国立こくりつへんやくかん、1990ねん
  84. えびすなわたけしきむ冲及『からし革命かくめい稿こうだい4かん上海しゃんはい人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、1991ねん
  85. 楊天せきひろもとめ歴史れきしてきなぞそこ北京ぺきん首都しゅと師範しはん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、1993ねん
  86. はやしうけたまわふし中印なかいん人民じんみん友好ゆうこう関係かんけい(1851-1949)』北京ぺきん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、1993ねん
  87. 緒形おがたやすし危機ききのディスクール――中国ちゅうごく革命かくめい1926~1929』東京とうきょうしん評論ひょうろん、1995ねん
  88. 楊天せきおうまなぶそうへんみなみしゃ長編ちょうへん北京ぺきん中国ちゅうごく人民じんみん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、1995ねん
  89. ちんこころざしさきへん中山なかやま先生せんせいぎょうよしみじょうさつ台北たいぺい台湾たいわん書店しょてん、1995ねん
  90. 蔣永けいこう戦史せんしろん台北たいぺい東大とうだい図書としょ、1995ねん
  91. おうりょう霄『中国ちゅうごく国民党こくみんとう新聞しんぶん政策せいさく研究けんきゅう(1928-1945)』台北たいぺい中国ちゅうごく国民党こくみんとう中央ちゅうおう委員いいんかいとう委員いいんかい、1996ねん
  92. よし奎『まご中山ちゅうざんあずか日本にっぽん広州こうしゅう広東かんとん人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、1996ねん
  93. 横山よこやまひろしあきらまごぶんと袁世凱――中華ちゅうか統合とうごうゆめ東京とうきょう岩波書店いわなみしょてん、1996ねん
  94. ひろしあつしせんやま独行どっこう――蔣緯こくてき人生じんせいたび台北たいぺい天下てんか文化ぶんか出版しゅっぱん公司こうし、1996ねん
  95. ちょうぐんだいアジア主義しゅぎ中国ちゅうごく東京とうきょう亜紀あき書房しょぼう、1997ねん
  96. 野村のむら浩一こういち『蔣介せき毛沢東もうたくとう――世界せかい戦争せんそうのなかの革命かくめい東京とうきょう岩波書店いわなみしょてん、1997ねん
  97. 躍進やくしん『蔣介せきてき幕僚ばくりょう北京ぺきん中国ちゅうごく社会しゃかい科学かがく出版しゅっぱんしゃ、1997ねん
  98. 沈予「国民こくみん革命かくめいあずか蒋関がかり」(北京ぺきん近代きんだい研究けんきゅう』1997ねんだい2
  99. ひねちょうかわみんこく初期しょきてき中華民国ちゅうかみんこく自由党じゆうとう」(上海しゃんはい『档案あずか史学しがく』1997ねんだい6
  100. とう邑『中国ちゅうごく近代きんだい民主みんしゅ革命かくめいあずか社会しゃかい主義しゅぎ思潮しちょうしゅう人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、1997ねん
  101. たん中編ちゅうへんたん雲山くもやまあずか中印なかいん文化ぶんか交流こうりゅう香港ほんこんちゅうぶん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、1998ねん
  102. 北村きたむらみのるだいいち国共こっきょう合作がっさく研究けんきゅう――現代げんだい中国ちゅうごく形成けいせいしただい勢力せいりょく出現しゅつげん東京とうきょう岩波書店いわなみしょてん、1998ねん
  103. 蔣海まごぶんキリスト教きりすときょう理解りかいだい亜細亜あじあ主義しゅぎ」(神戸こうべまごぶん研究けんきゅうだい23ごう、1998ねん1がつ
  104. ふち『三民主義与中国政治』北京ぺきん社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、1995ねん初版しょはん、1998ねんだいはん
  105. かりみなみほかおもへん中国ちゅうごく近代きんだい社会しゃかい思潮しちょうだい3かんちょうすな湖南こなん教育きょういく出版しゅっぱんしゃ、1998ねん
  106. 蔡銘さわ中国ちゅうごく国民党こくみんとうとうほう歴史れきし研究けんきゅう(1927-1949)』北京ぺきん団結だんけつ出版しゅっぱんしゃ、1998ねん、2013ねん再版さいはん
  107. 楊天せき海外かいがいおとずれろく北京ぺきん社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、1998ねん
  108. 櫻井さくらい良樹よしきにちちゅう提携ていけいと「国民こくみんてき新党しんとう」の創設そうせつ――長島ながしま隆二りゅうじ場合ばあい」(東京とうきょう年報ねんぽう政治せいじがくだい49かん・1998年版ねんばん、1999ねん
  109. 中国ちゅうごく人民じんみん政治せいじ協商きょうしょう会議かいぎ全国ぜんこく委員いいんかいぶん資料しりょう委員いいんかいへんぶん資料しりょうせん輯』だい36輯(そうだい136輯)、北京ぺきん中国ちゅうごくぶん出版しゅっぱんしゃ、1999ねん
  110. ちん哲夫てつおほかおもへん現代げんだい中国ちゅうごく政治せいじ思想しそう流派りゅうは上巻じょうかん北京ぺきん当代とうだい中国ちゅうごく出版しゅっぱんしゃ、1999ねん
  111. ちょうたまほう近代きんだい中国ちゅうごく民主みんしゅ政治せいじ発展はってん台北たいぺい東大とうだい図書としょ、1999ねん
  112. しょうくにひとし血路けつろ――革命かくめい中国ちゅうごくちゅうてき沈定いちげんいおり伝奇でんきしゅうたけぴょうやく南京なんきん江蘇ちぁんすー人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、1999ねん
  113. さちへん中山なかやま大学だいがく稿こう(1924-1949)』広州こうしゅう中山なかやま大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、1999ねん
  114. りょよしじょう中国ちゅうごく国民党こくみんとう改組かいそ前後ぜんこう東京とうきょう支部しぶ党務とうむ糾紛はつさがせ」(衞藤えとう瀋吉へん共生きょうせいから敵対てきたいへ――だい4かいちゅう関係かんけい国際こくさいシンポジウムろん文集ぶんしゅう東京とうきょう東方とうほう書店しょてん、2000ねん
  115. 曹躍あきらよん以来いらいてき保守ほしゅ主義しゅぎ思潮しちょう西安しーあん西北せいほく大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、2000ねん
  116. こう沛・きのこう『毀滅てき種子しゅし――国民こくみん政府せいふ時期じき意識いしき管制かんせい分析ぶんせき西安しーあん陝西せんせい人民じんみん教育きょういく出版しゅっぱんしゃ、2000ねん
  117. きむひろし「20世紀せいき20年代ねんだい韓国かんこく言論げんろんたい中国ちゅうごく国民こくみん革命かくめいてき反映はんえい――以東亜日報とうあにっぽう特派とくはいんしゅ耀翰“しん中国ちゅうごく訪問ほうもん採訪さいほう(1928ねん10がつ~1929ねん1がつため中心ちゅうしん」(しゅう維宏・砂山すなやま幸雄ゆきおぬしへん世紀せいき交的こじ北京ぺきん世界せかい知識ちしき出版しゅっぱんしゃ、2000ねん
  118. 石川いしかわただしひろし中国共産党ちゅうごくきょうさんとう成立せいりつ東京とうきょう岩波書店いわなみしょてん、2001ねん
  119. くわへいちん炯明事変じへん前後ぜんごてきえびすてきあずかまご中山ちゅうざん」(前掲ぜんけいまご中山ちゅうざんてき活動かつどうあずか思想しそう』)
  120. 躍進やくしん『蔣介せき幕僚ばくりょうてき思想しそう研究けんきゅう北京ぺきんはなぶん出版しゅっぱんしゃ、2002ねん1がつ
  121. 楊天せき『蔣氏档与蔣介せき真相しんそう北京ぺきん社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、2002ねん2がつ
  122. 久保くぼじゅん太郎たろう雑誌ざっししん亜細亜あじあ論説ろんせつ記事きじ目録もくろく」(『神戸大学こうべだいがく史学しがく年報ねんぽうだい17ごう、2002ねん5がつ
  123. くわへい世界せかい主義しゅぎあずか民族みんぞく主義しゅぎ――まご中山なかやまたいしん文化ぶんかてきかいおう」(北京ぺきん近代きんだい研究けんきゅう』2003ねんだい2
  124. Lu Yan、“Re-understanding Japan:Chinese perspectives, 1895-1945”、University of Hawai'i Press、2004
  125. 裴京かんしたがえ韓国かんこくてき中華民国ちゅうかみんこく北京ぺきん社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、2004ねん1がつ
  126. 曹天ちゅう中山なかやま大学だいがく民族みんぞく中心ちゅうしんせい教育きょういくあずか20世紀せいき20-30年代ねんだい中国ちゅうごく教育きょういく」(『学術がくじゅつ研究けんきゅう』2005ねんだい7)(→前掲ぜんけい中山なかやま大学だいがくあずか現代げんだい中国ちゅうごく学術がくじゅつ』)
  127. ちょう軍民ぐんみんたいせっあずか衝突しょうとつ――三民主義在孫中山身後的流変(1925-1945)』天津てんしんせき出版しゅっぱんしゃ、2005ねん
  128. ひだりそうぶんほか『こまさかいちゅうてき突囲――重大じゅうだい突発とっぱつ事件じけん与国よこくみん政府せいふてき対策たいさく北京ぺきん社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、2006ねん
  129. えらこう魯迅ろじん粤港時期じき史実しじつこうじゅつちょうすなたけふもとしょしゃ、2007ねん
  130. 楊天せき国民党こくみんとうじんあずか前期ぜんき中華民国ちゅうかみんこく北京ぺきん中国ちゅうごく人民じんみん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、2007ねん
  131. 楊天せき『蔣介せきあずか南京なんきん国民こくみん政府せいふ北京ぺきん中国ちゅうごく人民じんみん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、2007ねん
  132. 彭敦ぶん国民こくみん政府せいふたいにち政策せいさく及其変化へんか――したがえきゅういちはち事変じへんいたなななな事変じへん北京ぺきん社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、2007ねん
  133. 菊池きくち一隆かずたか中国ちゅうごく初期しょき協同きょうどう組合くみあい史論しろん 1911-1928――合作がっさくしゃ起源きげん初期しょき動態どうたい東京とうきょう日本にっぽん経済けいざい評論ひょうろんしゃ、2008ねん
  134. しょう如平『国民こくみん政府せいふ考試こうしいん研究けんきゅう北京ぺきん社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、2008ねん
  135. えびす向東むかいひがしみんこく時期じき中国ちゅうごく考試こうし制度せいどてきてんがたあずかじゅう構』武漢ぶかん湖北こほく人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、2008ねん
  136. 楊奎まつ国民党こくみんとうてきれんどもあずか反共はんきょう”』北京ぺきん社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、2008ねん
  137. りゅうすすむ近代きんだい中国ちゅうごくにおける連邦れんぽう主義しゅぎ思想しそう東京とうきょう成文せいぶんどう、2009ねん
  138. こくとうみんこく時期じきてき民族みんぞく問題もんだいあずかみんこく政府せいふてき民族みんぞく政策せいさく研究けんきゅう北京ぺきん民族みんぞく出版しゅっぱんしゃ、2009ねん
  139. ちん蘊茜『崇拝すうはいあずか記憶きおく――まご中山なかやま符号ふごうてきけん構与伝播でんぱ南京なんきん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、2009ねん
  140. はたひろしあげみんこく文官ぶんかん考試こうし制度せいど研究けんきゅう(1912-1949)』北京ぺきん国家こっか行政ぎょうせい学院がくいん出版しゅっぱんしゃ出版しゅっぱん時間じかん不詳ふしょう<2009ねん?>
  141. 石瀧いしたき豊美とよみげんようしゃ――封印ふういんされた実像じつぞう福岡ふくおか海鳥うみどりしゃ、2010ねん、303ページ
  142. 石川いしかわただしひろし革命かくめいとナショナリズム(1925-1945)』東京とうきょう岩波書店いわなみしょてん、2010ねん
  143. くわへいみなみみずうみしゃあずか国民党こくみんとう――みなみ潯与近代きんだい中国ちゅうごく」(京都大きょうとだいがく東方とうほうがくほうだい85さつ、2010ねん3がつ)(→日本語にほんごやく:「みなみ潯・みずうみしゃ国民党こくみんとう小野寺おのでら史郎しろうやくもり時彦ときひこへん長江ちょうこう流域りゅういき社会しゃかい歴史れきし景観けいかん : 京都きょうと大学だいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ附属ふぞく現代げんだい中国ちゅうごく研究けんきゅうセンター研究けんきゅう報告ほうこく京都大学きょうとだいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ、2013ねん10がつ))
  144. けんりつなんてんてき双翼そうよく――中国ちゅうごく国民党こくみんとうめんたい学生がくせい運動うんどうてきこまさかいあずかけつさく:1927~1949ねん北京ぺきん商務しょうむしるししょかん、2010ねん
  145. ひろしあらし南京なんきん国民こくみん政府せいふてきこくれん外交がいこう北京ぺきん中国ちゅうごく社会しゃかい科学かがく出版しゅっぱんしゃ、2010ねん
  146. おうせい革命かくめいあずかはん革命かくめい――社会しゃかい文化ぶんか視野しやてきみんこく政治せいじ北京ぺきん社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、2010ねん
  147. おうせい党員とういんとうけん与党よとうそう――1924-1949ねん中国ちゅうごく国民党こくみんとうてき組織そしき形態けいたい北京ぺきんはなぶん出版しゅっぱんしゃ、2010ねん修訂しゅうてい増補ぞうほほん
  148. 小野寺おのでら史郎しろう国旗こっき国歌こっかくにけい――ナショナリズムとシンボルの中国ちゅうごく近代きんだい東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんしゃ、2011ねん
  149. 楊天せき「蔣介せきとインド独立どくりつ運動うんどう渡辺わたなべただしやく西村にしむら成雄しげおほかへん国際こくさい関係かんけいのなかのにちちゅう戦争せんそう東京とうきょう慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく出版しゅっぱんかい、2011ねん
  150. ふちしん生命せいめい研究けんきゅう北京ぺきん社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、2011ねん
  151. ちんきむりゅう南京なんきん国民こくみん政府せいふ時期じきてき政教せいきょう関係かんけい――以仏教ぶっきょうため中心ちゅうしんてき考察こうさつ北京ぺきん中国ちゅうごく社会しゃかい科学かがく出版しゅっぱんしゃ、2011ねん
  152. けんりつ「“華僑かきょうため革命かくめいはは”――さんほまれ来歴らいれきあずか叙述じょじゅつ」(シンガポール:南洋なんよう理工りこう大学だいがく中華ちゅうか言文げんぶん中心ちゅうしん華人かじん研究けんきゅう国際こくさいがくほうだい3かんだい2、 2011ねん12がつ
  153. ひだりそうぶんほか『民衆みんしゅう公衆こうしゅう輿論よろん与国よこくみん政府せいふ外交がいこう研究けんきゅう(1927-1949)』ごうこえ安徽あんき大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、2011ねん
  154. たまさだ国民党こくみんとうあずか共産きょうさん国際こくさい(1919-1927)』北京ぺきん人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、2012ねん
  155. だん金生きんせい南京なんきん国民こくみん政府せいふてきあたりせい北京ぺきん民族みんぞく出版しゅっぱんしゃ、2012ねん
  156. ちょうつぎざい中国ちゅうごく近代きんだいてき聯邦れんぽう主義しゅぎ研究けんきゅう北京ぺきん中国ちゅうごく社会しゃかい科学かがく出版しゅっぱんしゃ、2012ねん
  157. 安藤あんどう久美子くみこまごぶん社会しゃかい主義しゅぎ思想しそう――中国ちゅうごく変革へんかくみち東京とうきょう:汲古書院しょいん、2013ねん
  158. 水野みずのひかりろう「インドの民族みんぞく運動うんどうたいはな医療いりょう使節しせつだん――1930年代ねんだい後半こうはん政治せいじ状況じょうきょうとインド国民こくみん会議かいぎ動静どうせい」(都留文科大学つるぶんかだいがく比較ひかく文化ぶんか学科がっかへん『せめぎあう記憶きおく――歴史れきしさい構築こうちくをめぐる比較ひかく文化ぶんかろん東京とうきょう柏書房かしわしょぼう、2013ねん
  159. (社)しゃだんほうじん中華ちゅうか会館かいかんへん落地おろちせい――神戸こうべ華僑かきょうかみ阪中さかなかはな会館かいかんひゃくねん東京とうきょうけんぶん出版しゅっぱん、2000ねん初版しょはん、2013ねんぞうていばん(→初版しょはん中国語ちゅうごくごやく:『落地おろちせい――神戸こうべはな僑与しん阪中さかなかはな会館かいかんひゃくねんゆるがせ海燕うみつばめやく香港ほんこん社会しゃかい科学かがく出版しゅっぱんしゃ、2003ねん
  160. 田嶋たじま信雄のぶお『ナチス・ドイツと中国ちゅうごく国民こくみん政府せいふ(1933-1937)』東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2013ねん
  161. 山田やまだ辰雄たつお松重まつしげたかしひろしへん『蔣介せき研究けんきゅう――政治せいじ戦争せんそう日本にっぽん東京とうきょう東方とうほう書店しょてん、2013ねん
  162. りょあつのき接続せつぞく道統どうとう”――国民党こくみんとう実権じっけんたい儒家じゅか思想しそうてき改造かいぞうあずか利用りよう(1927-1949)』すみみなみ山東さんとう人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、2013ねん
  163. だん金生きんせい南京なんきん国民こくみん政府せいふたい西南せいなん辺疆へんきょうてき研究けんきゅう北京ぺきん社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、2013ねん
  164. まごだませりみんこく時期じきてき童子どうじぐん研究けんきゅう北京ぺきん人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、2013ねん
  165. きょう韵「みんこく高等こうとう教育きょういく制度せいどてきてんがた――国立こくりつ広東かんとん中山ちゅうざん大学だいがくてき建立こんりゅうあずかへんせい」(くわへいほか『近代きんだい中国ちゅうごくてき知識ちしきあずか制度せいどてんがた経済けいざい科学かがく出版しゅっぱんしゃ、2013ねん)(→前掲ぜんけい中山なかやま大学だいがくあずか現代げんだい中国ちゅうごく学術がくじゅつ』)
  166. 島田しまだ美和みわ戦時せんじ国民党こくみんとう政権せいけん辺疆へんきょう開発かいはつ政策せいさく」(久保くぼとおるほかへんせん時期じき中国ちゅうごく経済けいざい発展はってん社会しゃかい変容へんよう東京とうきょう慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく出版しゅっぱんかい、2014ねん
  167. じょきょうけいひがしアジアの覚醒かくせい――近代きんだいちゅう知識ちしきじん自他じた認識にんしき東京とうきょうけんぶん出版しゅっぱん、2014ねん
  168. 武井たけい義和よしかずまごぶんささえた日本人にっぽんじん――山田やまだ良政よしまさ山田やまだじゅん三郎さぶろう兄弟きょうだい名古屋なごや:あるむ、2014ねん増補ぞうほ改訂かいていばん
  169. ひろしひろしあきらみんこく時期じきてきあたりせいあずかあたりせいがく(1931-1948)』北京ぺきん人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、2014ねん
  170. さとしはしこう統一とういつ――西南せいなんあずか中央ちゅうおう関係かんけい研究けんきゅう(1931-1936)』北京ぺきん社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、2014ねん
  171. ちん釗『国民党こくみんとうとう教育きょういく制度せいど研究けんきゅう(1924-1937)』楊凌:西北せいほく農林のうりん科技かぎ大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、2014ねん
  172. おう燁『国民こくみん革命かくめい時期じき国民党こくみんとうてき革命かくめい文芸ぶんげい運動うんどう(1919-1927)』厦門あもい大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、2014ねん
  173. ちん宇編『黄埔軍こうほぐんこう年譜ねんぷ長編ちょうへん北京ぺきんはなぶん出版しゅっぱんしゃ、2014ねん
  174. 楊俊杰「遺忘いぼうてきH.C.Tsian――せつせつ詹顕あきら」(台北たいぺい伝記でんき文学ぶんがくだい107かんだい6、2015ねん12がつ
  175. くわへい交流こうりゅうあずか対抗たいこう――近代きんだい中日ちゅうにち関係かんけいろんかつらりん広西ひろせ師範しはん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、2015ねん
  176. ひろしゆめがわみなみしゃじん研究けんきゅう上海しゃんはいせき出版しゅっぱんしゃ、2015ねん
  177. さとし中国ちゅうごく国民党こくみんとうあずかえつみなみ独立どくりつ運動うんどう北京ぺきん社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、2015ねん
  178. 嵯峨さがたかし『アジア主義しゅぎ近代きんだいちゅう思想しそうてき交錯こうさく東京とうきょう慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく出版しゅっぱんかい、2016ねん
  179. 鹿しかすずしゅん『蔣介せきの「国際こくさいてき解決かいけつ戦略せんりゃく:1937-1941――「蔣介せき日記にっき」からにちちゅう戦争せんそう深層しんそう東京とうきょう東方とうほう書店しょてん、2016ねん
  180. きむ以林『国民党こくみんとう高層こうそうてきけい政治せいじ――蔣介せき最高さいこう領袖りょうしゅう地位ちいてき確立かくりつ北京ぺきん社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、2009ねん、2016ねん修訂しゅうていほん
  181. ちんくれないみんほか『南京なんきん国民こくみん政府せいふいん制度せいど研究けんきゅう杭州こうしゅう浙江せっこう人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、2016ねん
  182. しょうてる国民こくみん政府せいふ処理しょり九世班禅返蔵及善後問題之研究(1932-1949)』北京ぺきん宗教しゅうきょう文化ぶんか出版しゅっぱんしゃ、2016ねん
  183. しゅうららそうみんこく政府せいふてき西蔵にしくらせん使(1912-1949)』香港ほんこんちゅうぶん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、2016ねん
  184. 橋本はしもとじゅんこうほかへん欧州おうしゅう航路こうろ文化ぶんか――寄港きこうく』東京とうきょうあおゆみしゃ、2017ねん
  185. 中共ちゅうきょう上海しゃんはいとう研究けんきゅうしつへんたまきりゅうぐんえいかい――国民党こくみんとう上海しゃんはい執行しっこう研究けんきゅう上海しゃんはい人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、2017ねん
  186. ちょう北根きたね国民党こくみんとうあずかとくこくてき関係かんけい(1912-1945)』北京ぺきん社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、2017ねん
  187. おうおおせきよしもとうつみずうみ 整理せいり『邵元おき日記にっき上海しゃんはい人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、2018ねん
  188. しょうえき ちょはりおもえしげるりゅう致平 撮影さつえいかげしろ――はりおもえなりあずか1939/1941ねんてきこうかんかつらりん広西ひろせ師範しはん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、2018ねん、2019ねん
  189. Torsten Weber、“Embracing ‘Asia’ in China and Japan:Asianism Discourse and the Contest for Hegemony、1912-1933”、Palgrave Macmillan、2018
  190. ちょうあきらけい闘争とうそうあずか国民党こくみんとう政府せいふ運転うんてん関係かんけい研究けんきゅう北京ぺきん商務しょうむしるししょかん、2006ねん、2018ねん修訂しゅうていばん
  191. 久保くぼとおる日本にっぽんまれた中国ちゅうごく国歌こっか――「義勇軍ぎゆうぐん行進曲こうしんきょく」の時代じだい東京とうきょう岩波書店いわなみしょてん、2019ねん
  192. 池田いけだ維ほか編著へんちょ人物じんぶつからたどる近代きんだいちゅう関係かんけい東京とうきょう国書刊行会こくしょかんこうかい、2019ねん
  193. 嵯峨さがたかし『アジア主義しゅぎぜん東京とうきょう筑摩書房ちくましょぼう、2020ねん
  194. 田雁たがり近代きんだい中国ちゅうごく日本にっぽんしょ翻訳ほんやく出版しゅっぱん小野寺おのでら史郎しろう古谷ふるやはじめ やく東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい、2020ねん
  195. だん金生きんせい学術がくじゅつあずか時勢じせい――みんこくてき辺疆へんきょう研究けんきゅう北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく、2020ねん
  196. ひろし佳恵かえへん『《みんこく日報にっぽうちゅうてき上海しゃんはい大学だいがく(1922-1927)』上海しゃんはい大学だいがく出版しゅっぱんしゃ、2021ねん
  197. 吉澤よしざわ誠一郎せいいちろう愛国あいこくとボイコット――近代きんだい中国ちゅうごく地域ちいきてき文脈ぶんみゃくたいにち関係かんけい名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、2021ねん
  198. 菊池きくち一隆かずたか中国ちゅうごく国民党こくみんとう特務とくむ抗日こうにち戦争せんそう――「C・C」けい・「あいころもしゃ」・さん民主みんしゅ青年せいねんだん東京とうきょう:汲古書院しょいん、2022ねん
  199. なお小明こうみょうそうきょうじん暗殺あんさつ事件じけん真相しんそうについて」蔣海なみやくまごぶん研究けんきゅうかい神戸こうべ華僑かきょう華人かじん研究けんきゅうかいへんひがしアジア世界せかい共和きょうわ創成そうせい――からし革命かくめい110周年しゅうねん記念きねん国際こくさい学術がくじゅつシンポジウムろん文集ぶんしゅう東京とうきょう:汲古書院しょいん、2023ねん
  200. 緒形おがたやすし東洋とうよう共和きょうわせいそうきょうじん暗殺あんさつ事件じけんからはじまる」(同前どうぜんひがしアジア世界せかい共和きょうわ創成そうせい』)
  201. 鄒小站「清末きよすえみんはつ思想しそうかいにおける「暴民ぼうみん政治せいじ」をめぐる論争ろんそうじょしょうすぐるやく同前どうぜんひがしアジア世界せかい共和きょうわ創成そうせい』)
  202. じょちょうやす「1920年代ねんだい社会しゃかい科学かがく継続けいぞく革命かくめいろん――とうのぞみきよし中国ちゅうごく社会しゃかい史的してき分析ぶんせき』を中心ちゅうしんに」宮内みやうちはじめやく同前どうぜんひがしアジア世界せかい共和きょうわ創成そうせい』)
  203. うつりじょうかくまごぶん記念きねんかんともかいへんまごぶん神戸こうべあるこう』神戸こうべまごぶん記念きねんかん、2023ねん
 中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく国民こくみん政府せいふ
先代せんだい
創設そうせつ
考試こうし院長いんちょう
1928ねん11月 - 1948ねん6がつ
次代じだい
ちょうはく