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葦津珍彦 - Wikipedia コンテンツにスキップ

あしちん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

あし ちん(あしづ うずひこ、1909ねん明治めいじ42ねん7がつ17にち - 1992ねん平成へいせい4ねん6がつ10日とおか)は、日本にっぽん神道しんとういえ民族みんぞく論客ろんかくとしても著名ちょめいであった[1]

経歴けいれき

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あしこう次郎じろう長男ちょうなんとして福岡ふくおかけん筥崎(げん福岡ふくおかひがし箱崎はこざき)にうまれる。あし筥崎宮はこざきぐう社家しゃけひとつである大神おおがみ末裔まつえいであり、伯父おじであるあしあらいづくりどうみや宮司ぐうじであった[2]。1922ねん大正たいしょう11ねん東京とうきょう府立ふりつだい中学校ちゅうがっこう入学にゅうがく。このころから社会しゃかい主義しゅぎあこがれ、社会しゃかい科学かがく研究けんきゅうかい参加さんかし、関連かんれんする書物しょもつあさったという[2]周囲しゅういはこれを心配しんぱいし、卒業そつぎょう國學院大學こくがくいんだいがくすすんだ[よう出典しゅってん]べつ東京とうきょう外国がいこく学校がっこうげん東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがく)にも入学にゅうがくするが、いずれも退学たいがくした[よう出典しゅってん]。1928ねん昭和しょうわ3ねん)には福島ふくしま高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこうげん福島大学ふくしまだいがく)に入学にゅうがくするも、翌年よくねん退学たいがく。1931ねん日本にっぽん共産党きょうさんとう所属しょぞくする友人ゆうじんすすめでアカハタ巻頭かんとう論文ろんぶん執筆しっぴつした[3]。しかし、翌年よくねん2がつにはちち影響えいきょうけてちちおなじ「祭政さいせい一致いっち天皇てんのうこく日本にっぽん実現じつげん理想りそうとする伝統でんとう保守ほしゅ尊皇そんのう神道しんとうへと転向てんこうしたとされる[3]

1932ねん昭和しょうわ7ねん)、ちちいとなんでいた事業じぎょういで社寺しゃじ工務こうむしょ代表だいひょうとして神社じんじゃ建築けんちくぎょう従事じゅうじする[よう出典しゅってん]。この時期じき頭山とうやまみつる今泉いまいずみじょうすけ高山たかやまのぼる緒方おがた竹虎たけとら内田うちだ良平りょうへい井上いのうえまこと麿まろらと交流こうりゅうをもち、太平洋戦争たいへいようせんそうはじまるまえは、この戦争せんそうを「必敗のたたかい」であるとして反対はんたい運動うんどうおこない、開戦かいせん開戦かいせん詔勅しょうちょくしめされた「やむにやまれぬ独立どくりつこくとしての存続そんぞく確保かくほする」戦争せんそう目的もくてきのみをまもつづけることを主張しゅちょうするなど、独自どくじ政治せいじてき活動かつどう展開てんかいした[よう出典しゅってん]戦時せんじちゅうには日本にっぽん同盟どうめいこくであったナチス・ドイツや、東條とうじょう英機ひでき内閣ないかく政策せいさく批判ひはんする論文ろんぶん発禁はっきんとなり、逮捕たいほされたこともあった[よう出典しゅってん]

戦後せんごすぐ会社かいしゃ解散かいさん吉田よしだしげる内務省ないむしょう出身しゅっしん)、宮川みやがわ宗徳むねのり(のち本庁ほんちょう事務じむ総長そうちょう)や、徳川とくがわ宗敬むねよし(のち本庁ほんちょうすべ)らを補佐ほさし、神社じんじゃ本庁ほんちょう設立せつりつ尽力じんりょくし、さらに本庁ほんちょう教学きょうがく広報こうほう一環いっかんとして『神社じんじゃ新報しんぽう』が創刊そうかんされると、主筆しゅひつとも発行はっこう母体ぼたい神社じんじゃ新報しんぽうしゃ[4]経営けいえいけた。

1968ねん昭和しょうわ43ねん)の退職たいしょく執筆しっぴつ活動かつどう後学こうがく指導しどうにあたり、国体こくたい護持ごじ神社じんじゃ護持ごじ運動うんどう最前線さいぜんせんにあって、神道しんとうかい日本にっぽんまも国民こくみん会議かいぎて、げん日本にっぽん会議かいぎ)や民族みんぞく運動うんどう日本にっぽん青年せいねん協議きょうぎかい)、などにおおきな影響えいきょうあたつづけた。一方いっぽう戦時せんじちゅうみずからが批判ひはんしていた東條とうじょうらAきゅう戦犯せんぱん合祀ごうしには敗戦はいせん責任せきにんから疑義ぎぎていしていた[5](なお、靖国神社やすくにじんじゃ神社じんじゃ本庁ほんちょう別表べっぴょう神社じんじゃではない)。1992ねん平成へいせい4ねん)、鎌倉かまくら自宅じたくにて死去しきょ享年きょうねん82。

あしとの論争ろんそう経験けいけんもある橋川はしかわ文三ぶんぞうは、あしを「保守ほしゅちゅう先鋭せんえいなポレミスト」とひょうしたうえで、その天皇てんのうせいろんを「伝統でんとうてき右翼うよくしゃりゅう水準すいじゅんをこえたものとして注目ちゅうもくされる」とし、天皇てんのうせい問題もんだい欧州おうしゅう政治せいじ思想しそう研究けんきゅう背景はいけいとする比較ひかく制度せいどろんてき見地けんちからとらえようとする、いわば「国体こくたいろん」のひらかれた形態けいたい追求ついきゅうするてん特徴とくちょうである[6]としている。

大石おおいし義雄よしおは、『憲法けんぽうじゅうねん[7]あしの『土民どみんのことば』を称賛しょうさんし、あしを「今様いまよう北畠きたばたけ親房ちかふさ」と表現ひょうげんした。

戦後せんごは『思想しそう科学かがく編集へんしゅうしゃでもあった市井いちい三郎さぶろう鶴見つるみ俊輔しゅんすけ論客ろんかく竹内たけうちよしみなどとも思想しそうてき立場たちば交友こうゆうがあり、同誌どうしにもしばしば寄稿きこうしていた。

また、朝鮮ちょうせん文化ぶんかにも造詣ぞうけいふかく、日本にっぽん統治とうち時代じだい朝鮮ちょうせんにおける独立どくりつ運動うんどうだったりょうんとおるとも交流こうりゅうがあった。あしは、朝鮮大学校ちょうせんだいがっこう訪問ほうもんしたさい応接おうせつしつなかきむ日成いるそん肖像しょうぞうかざられているのを感激かんげきし、「いま日本人にっぽんじんにはこれがないからだめなんだ。かつては天皇陛下てんのうへいかの『御真影ごしんえい』がどこの学校がっこうにもたてまつられていた、あの状況じょうきょうをまたもどさなきゃあ」とべたという[8]

親族しんぞく

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だいさんりん奈良なら太郎たろう後列こうれつ中央ちゅうおう
  • ちちあしこう次郎じろう(1878-1940) - 神道しんとう[9]筥崎宮はこざきぐう奉職ほうしょく神明しんめい奉仕ほうしはげみ、のちには鉱山こうざんぎょう社寺しゃじ建築けんちくぎょういとな実業じつぎょうとして活躍かつやくする一方いっぽう朝鮮ちょうせん神宮じんぐう祭神さいじん論争ろんそうなど神道しんとう神社じんじゃ見地けんちからとき政治せいじ社会しゃかい問題もんだい発言はつげんする言論げんろんじんとしても活躍かつやく[10]民間みんかん神道しんとうじんとして活動かつどうしつつ、げんようしゃ頭山とうやまみつる親交しんこうむすぶなど独自どくじ活動かつどうをした[11]著書ちょしょに『ささえ事変じへん解決かいけつほう[12]こうろうあにあしあらいづくりかんぬさ中社なかやしろ筥崎宮はこざきぐう宮司ぐうじ[13]
  • 祖父そふあしいそおっと(-1903) - 筥崎宮はこざきぐう宮司ぐうじ[14]一時いちじかんぬさ大社たいしゃ香椎かしいみや宮司ぐうじ兼任けんにん[15]福岡ふくおかみのり学校がっこう校長こうちょうとして横井よこい時敬ときよしまねいて日本にっぽん農業のうぎょう改革かいかくかかわった[16]
  • 大伯父おおおじだい三輪みわ長兵衛ちょうべえ(1835-1908) -祖父そふあに大阪おおさか油屋あぶらやべい手代てだいて、松前まさき問屋とんやひら[17]、のちに綿めん貿易ぼうえきざいし、だいじゅうはち国立こくりつ銀行ぎんこう頭取とうどり大阪おおさか手形てがた交換こうかんしょ会頭かいとう大阪おおさか府会ふかい議長ぎちょう同市どうしかい議長ぎちょうとう歴任れきにん、1898ねん衆議院しゅうぎいん議員ぎいん[18][19][20][21]五代ごだいともあつしともしたしかった[22]朝鮮ちょうせん国王こくおうこうはじめともつうじ、朝鮮ちょうせん政府せいふてん圜局しん貨幣かへい発行はっこう事業じぎょう顧問こもんとなり、交換こうかんきょくかいべんなる総裁そうさいしょくにんじられた[18]長兵衛ちょうべえ長男ちょうなんだいさんりん奈良なら太郎たろう (1867年生ねんせい)は、米国べいこく遊学ゆうがく日本銀行にっぽんぎんこう名古屋なごや明治めいじ銀行ぎんこう頭取とうどり[23][24]。その前妻ぜんさいきよは岩村いわむらこうしゅんむすめ後妻ごさい美弥みや山内やまうちゆたかみつる(山内やまうち容堂ようどうおとうと)のむすめ[14]
  • 祖父そふ大神おおがみ嘉納かのう - 神職しんしょく筥崎宮はこざきぐうけん大宮おおみやつかさ大神おおがみはじめさだ次男じなん[25]つま福岡ふくおかはん井上いのうえ弥七やしち弥八やはち)のむすめ[14][26]あにいちさだ長男ちょうなん)の大神おおがみ多門たもんは、神仏しんぶつ習合しゅうごう仏教ぶっきょうしたかれていた神道しんとう復活ふっかつのため、神仏しんぶつ分離ぶんりもとめてきょう一条いちじょうたよりにしたところ、福岡ふくおかはん寺社じしゃ奉行ぶぎょういかりをい、玄海げんかいとう遠島えんとうされ、そのぼっした[14][9]。その影響えいきょう大神だいじん筥崎宮はこざきぐうわれ、だい三輪みわ長兵衛ちょうべえ商人しょうにんとして成功せいこうするまで極貧ごくひん生活せいかついられたという[14]
  • 長男ちょうなんあしたいこく(1937 - 2024) - 東京都立大学とうきょうとりつだいがくそつ神社じんじゃ新報しんぽうしゃもと社長しゃちょうほか。著書ちょしょに『だい三輪みわ長兵衛ちょうべえ生涯しょうがい』(あし事務所じむしょ、2008ねん)などがある。

著書ちょしょ

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  • 日本にっぽん民族みんぞく世界せかい政策せいさく私見しけんまるぐみ昭和しょうわ9ねん(1934ねん
  • 論集ろんしゅう兄弟きょうだいしゃ昭和しょうわ17ねん(1942ねん
  • 臣民しんみん権利けんり報國ほうこく新報しんぽうしゃ昭和しょうわ17ねん(1942ねん
  • 終戦しゅうせん始末しまつ神社じんじゃ新報しんぽう非公開ひこうかい文書ぶんしょ昭和しょうわ22ねん(1947ねん
  • 日本国にっぽんこく憲法けんぽう如何いかにしてつくられたか』 神社じんじゃ新報しんぽう非公開ひこうかい文書ぶんしょ昭和しょうわ23ねん(1948ねん
  • 共産きょうさん思想しそう追放ついほう神道しんとう青年せいねん全国ぜんこく協議きょうぎかい昭和しょうわ24ねん(1949ねん
  • 天皇てんのう意思いし一般いっぱん意思いし神社じんじゃ新報しんぽうしゃ昭和しょうわ27ねん(1952ねん
  • 天皇てんのう神道しんとう憲法けんぽう神社じんじゃ新報しんぽうしゃ政教せいきょう研究けんきゅうしつ昭和しょうわ29ねん(1954ねん
  • 憲法けんぽうはこのまヽでよいか』 神社じんじゃ新報しんぽうしゃ政教せいきょう研究けんきゅうしつ昭和しょうわ30ねん(1955ねん
  • 現代げんだい神社じんじゃしょ問題もんだい神社じんじゃ新報しんぽうしゃ昭和しょうわ30ねん(1955ねん
  • 近代きんだい政治せいじ良心りょうしん問題もんだい神社じんじゃ新報しんぽうしゃ昭和しょうわ30ねん(1955ねん
  • 神社じんじゃ新報しんぽう編集へんしゅうしつ記録きろく神社じんじゃ新報しんぽうしゃ昭和しょうわ31ねん(1956ねん
  • 宗教しゅうきょう法人ほうじんほう改正かいせい前提ぜんてい神社じんじゃ本庁ほんちょう昭和しょうわ32ねん(1957ねん
  • 皇位こうい神宮じんぐう神社じんじゃ本庁ほんちょう調査ちょうさ昭和しょうわ32ねん(1957ねん
  • 神宮じんぐう国家こっか神社じんじゃ本庁ほんちょう調査ちょうさ昭和しょうわ32ねん(1957ねん
  • 中華ちゅうか革命かくめいとロシア革命かくめい内外ないがい維新いしん研究所けんきゅうじょ昭和しょうわ33ねん(1958ねん
  • 国法こくほう宗教しゅうきょう神社じんじゃ本庁ほんちょう調査ちょうさ昭和しょうわ33ねん(1958ねん
  • 三笠みかさみや殿どの忠告ちゅうこく国民こくみん祝日しゅくじつ研究けんきゅうかい昭和しょうわ34ねん(1959ねん
  • 神宮じんぐう制度せいど改正かいせい要綱ようこう財団ざいだん法人ほうじん伊勢神宮いせじんぐう奉賛ほうさんかい昭和しょうわ34ねん(1959ねん
  • 伊勢神宮いせじんぐう制度せいど改正かいせいについて』 神社じんじゃ本庁ほんちょう昭和しょうわ34ねん(1959ねん
  • 神社じんじゃ皇位こういと』 神社じんじゃ本庁ほんちょう昭和しょうわ35ねん(1960ねん
  • 土民どみんのことば 信頼しんらい忠誠ちゅうせいとの情理じょうり神社じんじゃ新報しんぽうしゃ昭和しょうわ36ねん(1961ねん
  • 神宮じんぐう皇位こういと』 神社じんじゃ本庁ほんちょう昭和しょうわ36ねん(1961ねん
  • 天皇てんのう祭祀さいし憲法けんぽう神社じんじゃ本庁ほんちょう昭和しょうわ37ねん(1962ねん
    • ぞうていばんどう昭和しょうわ43ねん(1968ねん
  • 皇位こうい継承けいしょう祖宗そそう神器じんぎ兄弟きょうだい文庫ぶんこ昭和しょうわ37ねん(1962ねん
  • 神宮じんぐう憲法けんぽう神社じんじゃ新報しんぽうしゃ昭和しょうわ38ねん(1963ねん
  • 明治維新めいじいしん東洋とうよう解放かいほうしん勢力せいりょくしゃ昭和しょうわ39ねん(1964ねん
    • 新版しんぱん皇學館大学こうがくかんだいがく出版しゅっぱん平成へいせい7ねん(1995ねん
  • 維新いしん問答もんどう神社じんじゃ新報しんぽうしゃ昭和しょうわ40ねん(1965ねん
  • だいアジア主義しゅぎ頭山とうやまみつる日本教文社にっぽんきょうぶんしゃ昭和しょうわ40ねん(1965ねん)、改訂かいていばん1972ねん
  • 日本にっぽん君主くんしゅせい 天皇てんのうせい研究けんきゅう神社じんじゃ新報しんぽうしゃしん勢力せいりょくしゃ昭和しょうわ41ねん(1966ねん
  • 明治維新めいじいしん現代げんだい日本にっぽん神社じんじゃ本庁ほんちょう明治維新めいじいしんひゃくねん記念きねん事業じぎょう委員いいんかい昭和しょうわ41ねん(1966ねん
  • 青春せいしゅんわすれがたし』 無題むだい私家版しかばんろん文集ぶんしゅう昭和しょうわ42ねん(1967ねん
  • 『ロシヤ革命かくめい史話しわしん勢力せいりょくしゃ昭和しょうわ42ねん(1967ねん
  • 神社じんじゃ宗教しゅうきょうについて』 神社じんじゃ新報しんぽうしゃ政教せいきょう研究けんきゅうしつ昭和しょうわ43ねん(1968ねん
  • 神道しんとうてき日本にっぽん民族みんぞくろん神社じんじゃ新報しんぽうしゃ昭和しょうわ44ねん(1969ねん
  • 武士ぶしどう 戦闘せんとうしゃ精神せいしん徳間書店とくましょてん昭和しょうわ44ねん(1969ねん
    • 新版しんぱん神社じんじゃ新報しんぽうしゃ平成へいせい14ねん(2002ねん
  • 維新いしんへの展望てんぼう神社じんじゃ本庁ほんちょうおよしん日本にっぽん協議きょうぎかい東京とうきょう支部しぶ連合れんごうかい昭和しょうわ44ねん(1969ねん
  • 今泉いまいずみじょうすけ先生せんせいかたる』(ただしつづけ日本にっぽん大学だいがく今泉いまいずみ研究所けんきゅうじょ昭和しょうわ44ねん(1969ねん
  • 日本人にっぽんじん忠誠ちゅうせいしんについて』 日本にっぽん大学だいがく今泉いまいずみ研究所けんきゅうじょ昭和しょうわ44ねん(1969ねん
  • 暴力ぼうりょく革命かくめいよりおそれるべき「平和へいわ革命かくめい」』 神社じんじゃ本庁ほんちょう時局じきょく対策たいさく本部ほんぶ昭和しょうわ44ねん(1969ねん
  • 公明党こうめいとう糾弾きゅうだんろんとその批判ひはん神社じんじゃ本庁ほんちょう時局じきょく対策たいさく本部ほんぶ昭和しょうわ45ねん(1970ねん
  • あしこう次郎じろう追想ついそうろく』、昭和しょうわ45ねん(1970ねん)、私家版しかばん
  • 天皇てんのう 日本にっぽんのいのち』 日本教文社にっぽんきょうぶんしゃ昭和しょうわ46ねん(1971ねん)、編著へんちょ[27]
  • 国体こくたい問答もんどう神社じんじゃ新報しんぽうしゃ昭和しょうわ46ねん(1971ねん
  • 祭祀さいし統治とうちあいだ神道しんとう政治せいじ連盟れんめい昭和しょうわ46ねん(1971ねん
  • 忠誠ちゅうせい心理しんり論理ろんり神道しんとう政治せいじ連盟れんめい昭和しょうわ47ねん(1972ねん
  • 近代きんだい民主みんしゅ主義しゅぎ終末しゅうまつ 日本にっぽん思想しそう復活ふっかつ日本教文社にっぽんきょうぶんしゃ昭和しょうわ47ねん(1972ねん
  • 天皇てんのう 日本人にっぽんじん精神せいしん神社じんじゃ新報しんぽうしゃ昭和しょうわ48ねん(1973ねん
  • 異郷いきょう同胞どうほう祖国そこくへ』 神道しんとう政治せいじ連盟れんめい昭和しょうわ48ねん(1973ねん
  • 革命かくめいはん革命かくめい・ロシア革命かくめい史話しわしょう)』 神道しんとう政治せいじ連盟れんめい昭和しょうわ48ねん(1973ねん
  • 皇室こうしつ高貴こうきなる精神せいしん伝統でんとう皇學館大學こうがくかんだいがく出版しゅっぱん昭和しょうわ49ねん(1974ねん
  • しん勢力せいりょく創立そうりつじゅう周年しゅうねん記念きねん あし先生せんせい講演こうえん大昭たいしょうかいしん勢力せいりょくクラブ、昭和しょうわ50ねん(1975ねん
  • 永遠えいえん維新いしんしゃがつしゃ昭和しょうわ50ねん(1975ねん)。西郷さいごうみなみしゅうつてほか
  • 現代げんだい社会しゃかい思潮しちょう日本にっぽん文明ぶんめい神社じんじゃ本庁ほんちょう時局じきょく対策たいさく本部ほんぶ昭和しょうわ51ねん(1976ねん
  • 山田やまだあらわよし日本にっぽん法学ほうがく日本にっぽん大学だいがく今泉いまいずみ研究所けんきゅうじょ昭和しょうわ53ねん(1978ねん
  • 天皇てんのうせいへの疑問ぎもん回答かいとう大東だいとうじゅく出版しゅっぱん昭和しょうわ54ねん(1979ねん
  • 大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう制定せいてい』 サンケイ新聞しんぶんしゃ昭和しょうわ54ねん(1979ねん
  • 『みやびと覇権はけん 類纂るいさん天皇てんのうろん日本教文社にっぽんきょうぶんしゃ昭和しょうわ55ねん(1980ねん
  • なが戦後せんごさんじゅう有余ゆうよねん時評じひょうしゅう神社じんじゃ新報しんぽうしゃ昭和しょうわ56ねん(1981ねん
  • 宗教しゅうきょう法人ほうじんほうとその税制ぜいせい神社じんじゃ新報しんぽうしゃ法律ほうりつ研究けんきゅうかい昭和しょうわ60ねん(1985ねん
  • 神国しんこくみんしん島津しまつ書房しょぼう昭和しょうわ61ねん(1986ねん
  • 国家こっか神道しんとうとはなにだったのか』 神社じんじゃ新報しんぽうしゃ昭和しょうわ62ねん(1987ねん
  • 天皇てんのう 昭和しょうわから平成へいせいへ』 神社じんじゃ新報しんぽうしゃ神社じんじゃ新報しんぽうブックス」、平成へいせい元年がんねん(1989ねん
  • いち神道しんとうじん生涯しょうがい 高山たかやまのぼる先生せんせい回想かいそうして』 東伏見ひがしふしみ稲荷いなり神社じんじゃ平成へいせい4ねん(1992ねん)。非売品ひばいひん
  • 明治めいじ憲法けんぽう制定せいてい史話しわ神社じんじゃ新報しんぽうしゃ平成へいせい30ねん(2018ねん

著作ちょさくしゅう

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  • あしちん彦選しゅうどう編集へんしゅう委員いいんかいへん[28]神社じんじゃ新報しんぽうしゃ平成へいせい8ねん(1996ねん
  1. 天皇てんのう神道しんとう憲法けんぽう
  2. 維新いしん継承けいしょうしゃとして
  3. 時局じきょく人物じんぶつろん
  • 『「昭和しょうわもう」あしちん彦の主張しゅちょうシリーズ』 あし事務所じむしょ平成へいせい17ねん(2005ねん)- 平成へいせい19ねん(2007ねん
  1. 日本にっぽん君主くんしゅせい 天皇てんのうせい研究けんきゅう
  2. 永遠えいえん維新いしんしゃ
  3. 近代きんだい民主みんしゅ主義しゅぎ終末しゅうまつ 日本にっぽん思想しそう復活ふっかつ
  4. 土民どみんのことば 信頼しんらい忠誠ちゅうせいとの情理じょうり
  5. だいアジア主義しゅぎ頭山とうやまみつる
  6. 昭和しょうわきて 神国しんこくみんしん

回想かいそう

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  • あし大成たいせいちちあにわたしだい東亜とうあ戦争せんそう 次代じだいへの伝言でんごん』(神社じんじゃ新報しんぽうブックス、1999ねん)、親族しんぞく回想かいそう
  • 次代じだいへつなぐあしちん彦の精神せいしん思想しそう 生誕せいたんひゃくねん歿後ぼつごじゅうねん記念きねんして』(神社じんじゃ新報しんぽうブックス、2012ねん)、追想ついそうしゅう

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ほり幸雄ゆきお戦後せんご右翼うよく勢力せいりょく』勁草書房しょぼう・1993ねん増補ぞうほばん
  2. ^ a b あしたいこくによる序文じょぶん、『昭和しょうわきて あしちん彦の主張しゅちょうシリーズⅣ』より
  3. ^ a b 昆野こんの伸幸のぶゆき戦中せんちゅう戦後せんごにおけるあしちん彦の思想しそう神道しんとうかん中心ちゅうしんに」『「1890 ∼ 1950年代ねんだい日本にっぽんにおける《かたり》についての学際がくさいてき研究けんきゅう成果せいか論集ろんしゅう』p.63 2012ねん
  4. ^ 2012ねん平成へいせい24ねん)に神社じんじゃ新報しんぽうしゃへんで『次代じだいへつなぐあしちん彦の精神せいしん思想しそう 生誕せいたんひゃくねん歿後ぼつごじゅうねん記念きねんして』(神社じんじゃ新報しんぽうしゃ神社じんじゃ新報しんぽうブックス〉16)を刊行かんこうした。
  5. ^ 靖国やすくに戦後せんご」からどこへ3 神道しんとう大御所おおごしょ論文ろんぶん 「Aきゅう合祀ごうし」に疑義ぎぎ」‐ 毎日新聞まいにちしんぶん東京とうきょうばん朝刊ちょうかん:2006ねん8がつ8にちづけ
  6. ^ 橋川はしかわ文三ぶんぞう責任せきにん編集へんしゅう戦後せんご日本にっぽん思想しそう大系たいけい7 保守ほしゅ思想しそう』(筑摩書房ちくましょぼう、1968ねん)より
  7. ^ 大石おおいし義雄よしお憲法けんぽうじゅうねん』、246ぺーじ有信ありのぶどう、1966ねん
  8. ^ かじむら秀樹ひでき排外はいがい主義しゅぎ克服こくふくのための朝鮮ちょうせん平凡社へいぼんしゃライブラリー、2014ねん、25ぺーじ 
  9. ^ a b 西にし貴文たかふみあしこう次郎じろう : 「国家こっか神道しんとうにおけるいち神道しんとうじん軌跡きせき京都大学きょうとだいがく 博士はかせ論文ろんぶんかぶとだい14958ごう、2009ねんNAID 500000489926 
  10. ^ れい2ねん1がつ14にちあし津家つげはか墓参ぼさんはなあきらじゅく
  11. ^ だい15かいなみだこつしょう受賞じゅしょう論文ろんぶん 奨励しょうれいしょう あしちん彦の思想しそうについて―戦後せんごにおける天皇てんのうろん神道しんとうろん中心ちゅうしん今西いまにし宏之ひろゆき中外ちゅうがい日報にっぽう
  12. ^ [1] (あしこう次郎じろう, 1938)、国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  13. ^ 官報かんぽう. 1910ねん05がつ31にち
  14. ^ a b c d e 王道おうどうつらぬいただいさんりんあさ兵衛ひょうえ浦辺うらべのぼる、『だい亜細亜あじあ創刊そうかんごう平成へいせい28ねん6がつ30にちだいアジア研究けんきゅうかい
  15. ^ 官報かんぽう. 1897ねん06がつ26にち
  16. ^ だい三輪みわ長兵衛ちょうべえ生涯しょうがい』p208
  17. ^ だい三輪みわ長兵衛ちょうべえ明治めいじ富豪ふごう致富時代じだい : づけ日本にっぽん全国ぜんこくじゅうまんえん以上いじょう資産しさんぼくつつみ隠士いんし ちょ (大学だいがくかん, 1902)
  18. ^ a b 近代きんだい日本にっぽんしんどうぎょう: 水車みずぐるまからまれた金属きんぞく加工かこう産業さんぎょう新聞しんぶんしゃ、2008/12/12 p226-234
  19. ^ だい三輪みわ長兵衛ちょうべえ おおみわ ちょうべえ近代きんだい日本人にっぽんじん肖像しょうぞう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん
  20. ^ だい三輪みわ長兵衛ちょうべえコトバンク
  21. ^ 大阪おおさか府議会ふぎかい歴代れきだい議長ぎちょうふく議長ぎちょう一覧いちらん大阪おおさかれい2ねん5がつ
  22. ^ 毛利もうり敏彦としひこ大阪おおさか商業しょうぎょう講習こうしゅうしょ誕生たんじょう福澤ふくさわ諭吉ゆきち : 大阪市立大学おおさかいちりつだいがく事始ことはじ」『近代きんだい日本にっぽん研究けんきゅうだい2かん慶應義塾けいおうぎじゅく福澤ふくさわ研究けんきゅうセンター、1985ねん、207-236ぺーじISSN 0911-4181NAID 120005349221 
  23. ^ だいさんりん奈良なら太郎たろう人事じんじ興信録こうしんろくだい4はん [大正たいしょう4(1915)ねん1がつ]
  24. ^ だいさんりん奈良なら太郎たろうくん名古屋なごやひゃく紳士しんし馬場ばばせきせい ちょ (名古屋なごやひゃく紳士しんし発行はっこうしょ, 1917)
  25. ^ だい三輪みわ長兵衛ちょうべえ生涯しょうがいあしたいこくあし事務所じむしょ、2008ねん)p36
  26. ^ だい三輪みわ長兵衛ちょうべえ生涯しょうがい』p40
  27. ^ 小出こいでえいけい田中たなか忠雄ただお土屋つちや道雄みちおはら敬吾けいごよるひさし正雄まさお
  28. ^ かく解題かいだい鈴木すずき満男みつお門下生もんかせい

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 明治維新めいじいしん東洋とうよう解放かいほう』「じょ進藤しんどう一馬かずま)」 しん勢力せいりょくしゃ昭和しょうわ39ねん(1964ねん
  • あしちん先生せんせい追悼ついとうろくしょう日本にっぽんしゃ平成へいせい5ねん(1993ねん
  • あしちん彦選しゅう だいさんかん神社じんじゃ新報しんぽうしゃ平成へいせい8ねん(1996ねん巻末かんまつ解説かいせつ年譜ねんぷ
  • ほり幸雄ゆきお戦後せんご右翼うよく勢力せいりょく』「だいさんしょう戦後せんご右翼うよくのイデオロギー、だいせつあしちん彦の思想しそう神社じんじゃ本庁ほんちょうのイデオロギー」(勁草書房しょぼう・1993ねん増補ぞうほばん)。

外部がいぶリンク

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