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戸倉とくら上山田かみやまだ温泉おんせん

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戸倉とくら上山田かみやまだ温泉おんせん
戸倉とくら上山田かみやまだ温泉おんせん遠景えんけい
温泉おんせん情報じょうほう
所在地しょざいち 長野ながのけんせんきょく上山田かみやまだ温泉おんせん戸倉とくら磯部いそべしん戸倉とくら
交通こうつう 鉄道てつどう : しなの鉄道てつどう戸倉とくらえきよりタクシーやく10ふんせんきょく循環じゅんかんバス「ほっとバス」「さざなみ」「やまびこ」
いずみただし 硫黄いおういずみ硫化りゅうか水素すいそいずみ
湧出ゆうしゅつりょう まいぶん8,332L
宿泊しゅくはく施設しせつすう やく50
外部がいぶリンク 信州しんしゅうせんきょく観光かんこうきょく
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城山しろやまより見下みおろす戸倉とくら上山田かみやまだ温泉おんせん

戸倉とくら上山田かみやまだ温泉おんせん(とぐらかみやまだおんせん)は、長野ながのけんきゅうくに信濃しなのこくせんきょく上山田かみやまだ温泉おんせんにある温泉おんせん千曲川ちくまがわ左岸さがん戸倉とくら温泉おんせん上山田かみやまだ温泉おんせんおよび右岸うがんしん戸倉とくら温泉おんせん総称そうしょうして信州しんしゅう戸倉とくら上山田かみやまだ温泉おんせんぶ。「とぐら」のみはにごる。

概要がいよう

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明治めいじ中期ちゅうき千曲川ちくまがわ河川敷かせんしき戸倉とくら温泉おんせん上山田かみやまだ温泉おんせん相次あいついでひらきされ、善光寺ぜんこうじまいりの精進落しょうじんおちとしとしてにぎわった。例年れいねん千曲川ちくまがわ水害すいがい見舞みまわれて一時いちじ移転いてん余儀よぎなくされたが、明治めいじ末期まっきから大正たいしょう時代じだいにかけて堤防ていぼう温泉おんせん施設しせつ整備せいびすすみ、大正たいしょう後期こうきには現在げんざい温泉おんせんがい繁華はんかがい成立せいりつした。戦後せんごあいだもないころは傷病しょうびょうへい湯治とうじじょうとなり、最盛さいせい昭和しょうわ後期こうきには企業きぎょう団体だんたいきゃくなど年間ねんかん130まんにん以上いじょう観光かんこうきゃくおとずれ、300にん以上いじょう芸妓げいぎ在籍ざいせきした。

戸倉とくら温泉おんせん笹屋ささやホテル別館べっかん豊年ほうねんちゅう」はくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざいで、フランク・ロイド・ライト師事しじした遠藤えんどうしん設計せっけいによる数寄屋造すきやづく建築けんちく代表だいひょうてき建造けんぞうぶつ

いずみただし

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歴史れきし

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温泉おんせん開祖かいそ坂井さかいりょうすけ記念きねん
大正たいしょうきょう出来できまえ渡船とせん千曲川ちくまがわわたっていた。

戸倉とくらむらには江戸えどには北国きたぐに街道かいどう宿場しゅくばがあったが、1888ねん明治めいじ21ねん)に信越線しんえつせん開通かいつうすると戸倉とくらむらには停車場ていしゃじょうができなかった。隣村りんそん坂城さかき停車場ていしゃじょうもうけられて旅客りょかく集荷しゅうかにぎわうのにたいし、戸倉とくら衰退すいたい危機ききかんいた戸長こちょう坂井さかいりょうすけによって温泉おんせん掘削くっさく発案はつあんされた。

もともと千曲川ちくまがわ河川敷かせんしきがあることがられており、1893ねん明治めいじ26ねん)に戸倉とくら温泉おんせんられた。しかし、戸倉とくら温泉おんせん千曲川ちくまがわ中洲なかすにあり、たびたびの水害すいがいけ、1902ねん明治めいじ35ねん)には旅館りょかん設備せつびすべ流失りゅうしつして右岸うがんへの移転いてん余儀よぎなくされた。その築堤ちくていすすみ、1916ねん大正たいしょう5ねん)に現在げんざい左岸さがんうつされた。

  • 1868ねん慶応けいおう4ねん) - 千曲川ちくまがわ漁民ぎょみん川原かわら温泉おんせん見出みいだ
  • 1893ねん明治めいじ26ねん) - 戸倉とくらむら坂井さかいりょうすけ千曲川ちくまがわ中洲なかす戸倉とくら温泉おんせんひらけ上総かずさりでやく9.1メートルの掘削くっさくにより温泉おんせんる。源泉げんせんは48.9℃。浴槽よくそう間口まぐち7あいだはん奥行おくゆき3あいだだった。
  • 1900ねん明治めいじ33ねん) - 戸倉とくら温泉おんせん株式会社かぶしきがいしゃ設立せつりつ
  • 1902ねん明治めいじ35ねん) - 戸倉とくら温泉おんせん千曲川ちくまがわ右岸うがん北岸ほくがん)に移転いてん
  • 1903ねん明治めいじ36ねん) - 千曲川ちくまがわ分流ぶんりゅう岸辺きしべ男女だんじょべつ浴槽よくそう特等とくとう浴槽よくそう(かめ乃湯)が開設かいせつされ、上山田かみやまだ温泉おんせんひらけ源泉げんせんは57.2℃だった。
  • 1903ねん明治めいじ36ねん) - 坂井さかいりょうすけ清涼せいりょうかん笹屋ささやホテル(現在げんざい笹屋ささやホテル)をおこす。
  • 1907ねん明治めいじ40ねん) - 上山田かみやまだ温泉おんせん株式会社かぶしきがいしゃ設立せつりつ
  • 1907ねん明治めいじ40ねん) - 千曲川ちくまがわ洪水こうずい戸倉とくら温泉おんせんながされ、事実じじつじょう休業きゅうぎょうおちいる。
  • 1908ねん明治めいじ41ねん) - 休業きゅうぎょう状態じょうたいだった戸倉とくら温泉おんせん株式会社かぶしきがいしゃ解散かいさん
  • 1912ねん明治めいじ45ねん) - 信越線しんえつせん戸倉とくら停車場ていしゃじょう開業かいぎょう
  • 1914ねん大正たいしょう3ねん) - 戸倉とくら停車場ていしゃじょうから千曲川ちくまがわわたって温泉おんせんがいむす大正橋たいしょうばし架橋かきょう乗合のりあい自動車じどうしゃ運行うんこうされる
  • 1916ねん大正たいしょう5ねん) - 畑山はたやま国三郎くにさぶろうにより千曲川ちくまがわ川岸かわぎし堤防ていぼう整備せいびされ、戸倉とくら温泉おんせん千曲川ちくまがわ左岸さがん南岸なんがん)へ移転いてんされる
  • 1920ねん大正たいしょう9ねん) - 温泉おんせん劇場げきじょう開業かいぎょう
  • 1922ねん大正たいしょう11ねん) - 内湯うちゆ旅館りょかんができる。
  • 1928ねん昭和しょうわ3ねん) - 志賀しが直哉なおや笹屋ささやホテルに逗留とうりゅうし、短編たんぺん小説しょうせつ豊年ほうねんちゅう』を執筆しっぴつ
  • 1928ねん昭和しょうわ3ねん) - 正木不如丘まさきふじょきゅう中山なかやま晋平しんぺいにより「せんきょく小唄こうた」がつくられる。
  • 1932ねん昭和しょうわ7ねん) - 遠藤えんどうしん笹屋ささやホテルの別荘べっそう数寄屋造すきやづくり8しつ現在げんざい豊年ほうねんちゅう)を設計せっけい建築けんちく日本にっぽん近代きんだい観光かんこう旅館りょかん建築けんちく元祖がんそとされる。
  • 1956ねん昭和しょうわ31ねん) - 坂井さかいりょうすけの頌徳建立こんりゅう
  • 1993ねん平成へいせい5ねん) - ひらき100ねん温泉おんせん資料しりょうかんなどが整備せいびされる。
  • 2003ねん平成へいせい15ねん) - 笹屋ささやホテルの数寄屋造すきやづくり8しつくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい登録とうろくされる。(#豊年ほうねんちゅう参照さんしょう

温泉おんせんがいでは坂井さかいりょうすけ開祖かいそ畑山はたやま国三郎くにさぶろう中興ちゅうこうとし、千曲川ちくまがわ堤防ていぼうじょう両者りょうしゃ石碑せきひてられている。

坂井さかいりょうすけ

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坂井さかい江戸えど時代じだいからつづ下戸倉しもとぐら宿やど名主なぬし。15代目だいめりょうすけ明治めいじには戸長こちょうから貴族きぞくいん議院ぎいん互選ごせんじんとなった。私財しざい戸倉とくら温泉おんせん掘削くっさくひらきし、戸倉とくらえき誘致ゆうち尽力じんりょくしたが、温泉おんせん施設しせつ毎年まいとし千曲川ちくまがわ水害すいがい流失りゅうしつして損害そんがいこうむり、坂井さかいは2破産はさん見舞みまわれた。1905ねん明治めいじ38ねん)に戸倉とくらえき開業かいぎょうたずにぼっした。

坂井さかいは1596ねん慶長けいちょう元年がんねん以来いらい酒蔵さかぐらでもあり、現在げんざい戸倉とくらえき付近ふきん旧家きゅうか改装かいそうした酒屋さかやとして営業えいぎょうしている。1760ねんたかられき10ねん建築けんちく母屋もやをはじめとして、たかられき寛政かんせい慶応けいおう明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ酒蔵さかぐらのこされ、くに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい登録とうろくされている。

畑山はたやま国三郎くにさぶろう

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上水内かみみのちぐん牟礼むれむらまれ、わかいうちから長野ながの事業じぎょう成功せいこうする。坂井さかいのちぎ、千曲川ちくまがわ築堤ちくてい架橋かきょう温泉おんせん掘削くっさく施設しせつ整備せいびおこない、現在げんざい戸倉とくら上山田かみやまだ温泉おんせんいしずえ完成かんせいさせた。

温泉おんせんがい

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はなまちどおりやしん世界せかいどおりなどの遊興ゆうきょう歓楽街かんらくがいのこる。

千曲川ちくまがわながれに沿うようにやく50けんホテル旅館りょかん存在そんざいする。総勢そうぜい150めい芸妓げいぎ在籍ざいせきしているとされ、射的しゃてきのある温泉おんせんがい形成けいせいしている。湯治とうじよりも遊興ゆうきょうてき雰囲気ふんいきつよ温泉おんせんがい

日帰ひがえ専用せんよう入浴にゅうよく施設しせつは7けん存在そんざいする。

千曲川ちくまがわ左岸さがんには、かめ乃湯、つるの瑞祥ずいしょうがあり、右岸うがんには、万葉まんようちょう音波おんぱ温泉おんせん戸倉とくら観世かんぜ温泉おんせん戸倉とくら国民こくみん温泉おんせん戸倉とくらメリーランド白鳥はくちょうえんがある。かめ乃湯・つるのは、むかしながらの共同きょうどう浴場よくじょうだったが、リニューアルによりあたらしい施設しせつになった。万葉まんようちょう音波おんぱ温泉おんせん戸倉とくら観世かんぜ温泉おんせん戸倉とくら国民こくみん温泉おんせんは、温泉おんせん銭湯せんとうである。なつには千曲川ちくまがわ河川敷かせんしき花火はなび大会たいかいおこなわれる。

こいしの伝説でんせつ

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大正橋たいしょうばしまれているあか小石こいし

戸倉とくら上山田かみやまだ温泉おんせんにまつわる伝承でんしょう。「こいし」と「小石こいし」をかけている。

江戸えど時代じだい千曲川ちくまがわ川岸かわぎしむおせいにはりょうおもいの婚約こんやくしゃがいたが、江戸えどたまま行方ゆくえれずとなる。千曲川ちくまがわあか小石こいしを100あつめれば婚約こんやくしゃもどるとのおげをけたおせいは、毎日まいにちせきさがし、やがて99あか小石こいしる。しかし、最後さいご1個いっこつからず、てつくふゆ川原かわらさがすうちに発見はっけんする。温泉おんせんゆびあたためたおせい無事ぶじに100小石こいしつけ、婚約こんやくしゃむすばれる。[1]

戸倉とくらえき温泉おんせんがいむす大正橋たいしょうばしにはこの伝承でんしょうにちなみ、99あか小石こいしめこまれている。

豊年ほうねんちゅう

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フランク・ロイド・ライト師事しじした遠藤えんどうしんが1932ねん昭和しょうわ7ねん)に設計せっけいした。伝統でんとうてき日本にっぽん建築けんちく洋式ようしきホテルの設計せっけいれ、数寄屋造すきやづくりの個室こしつ8むね建築けんちく近代きんだい観光かんこう旅館りょかん建築けんちくのモデルとなった。2003ねん平成へいせい15ねん)にくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい登録とうろくされたのをに、志賀しが直哉なおや逗留とうりゅうして執筆しっぴつした小説しょうせつ豊年ほうねんちゅう』にちなんで「豊年ほうねんちゅう」と改称かいしょうした。[2]豊年ほうねんちゅうとはカゲロウのこと。

温泉おんせんがい行事ぎょうじ

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  • 5月 うしかれて善光寺ぜんこうじまい
  • 7がつ なつまつりとだい煙火えんか大会たいかい
  • 8がつ 千曲川ちくまがわ納涼のうりょう煙火えんか大会たいかい

アクセス

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脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 柳沢やなぎさわ和恵かずえ温泉おんせん開祖かいそ坂井さかいりょうじょおきな』、1975ねん
  • えゆく日本にっぽん廃墟はいきょ 廃墟はいきょかた日本にっぽんうら歴史れきし大洋図書たいようとしょ、2014ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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