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戸田忠太夫 - Wikipedia コンテンツにスキップ

戸田とだただし太夫たゆう

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戸田とだ ただし太夫たゆう
戸田とだただし太夫たゆう
時代じだい 江戸えど時代じだい末期まっき幕末ばくまつ
生誕せいたん 文化ぶんか元年がんねん1804ねん
死没しぼつ 安政あんせい2ねん10月2にち1855ねん11月11にち
改名かいめい 幼名ようみょうかめかい(かめのすけ)、いみなただしたかし(ただあきら)、ごうよもぎのき(ほうけん)、清洲きよす
別名べつめい 通称つうしょう銀次ぎんじろう(ぎんじろう)
墓所はかしょ 茨城いばらきけん水戸みと 酒門さかど共有きょうゆう墓地ぼち
官位かんい おくせいよん
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
はん 水戸みとはん家老がろう
氏族しぞく 戸田とだ
父母ちちはは ちち戸田とださん衛門えもん忠之ただゆきはは安島あじま七郎しちろうひだり門衛もんえいもんしんむすめ
兄弟きょうだい あね里見さとみ四郎しろう左衛門さえもんしつ)、ちゅう太夫たゆう安島あじま帯刀たてわき
つま 岡野おかのこうしたがえむすめ
銀次ぎんじろう
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戸田とだ ただし太夫たゆう(とだ ちゅうだゆう)は、日本にっぽん幕末ばくまつ江戸えど時代じだい幕末ばくまつ)における水戸みとはん家老がろうで、尊王そんのう志士ししとしてられる。

水戸みと戸田とだだい7だい当主とうしゅ家老がろうしょく拝命はいめいさい主君しゅくん徳川とくがわ斉昭なりあきよりちゅう太夫たゆう仮名かめいあたえられる。いみなから戸田とだただしたかしごうから戸田とだよもぎのきばれることもおおい。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

戸田とだ三河みかわ譜代ふだい名門めいもん家系かけいであり、ちゅう太夫たゆう戸田とだ仁連木にれんぎ戸田とだ)の支流しりゅう[* 1]水戸みとはんつかえた戸田とだ有信ありのぶ[* 2]後裔こうえいにして水戸みとはんしんであった戸田とださん衛門えもん忠之ただゆき嫡男ちゃくなんとしてまれる。はは安島あじま七郎しちろうひだり門衛もんえいもんしんおんな歴代れきだい知行ちぎょう代々だいだい1300いし家紋かもんろく曜。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

文化ぶんか10ねん1813ねん)、家督かとくいで200せき小普請こぶしんぐみとなる。文政ぶんせい3ねん1820ねん)には大番おおばん組頭くみがしら文政ぶんせい11ねん(1828ねん)には目付めつけとなる。そのころ水戸みとはん継嗣けいしあらそいがこり、徳川とくがわ将軍家しょうぐんけより養子ようし擁立ようりつしようとする一派いっぱ対抗たいこうし、ちゅう下士かしそうひきいて聡明そうめいこえる水戸みとはんだい7だい藩主はんしゅ徳川とくがわ治紀はるとし三男さんなんであるけいさんろう擁立ようりつする。これによってけいさんろう跡目あとめ家督かとく後継こうけいしゃ)となり、徳川とくがわ斉昭なりあきとなる。

斉昭なりあき水戸みと藩主はんしゅになると、ちゅう太夫たゆう藤田ふじた東湖とうことともに斉昭なりあきささえることとなる。戸田とだただし太夫たゆう藤田ふじた東湖とうこに「水戸みとりょう(みとのりょうでん)」としょうされ[* 3]尊王そんのうこころざし学識がくしきそなえたすぐれた指導しどうしゃとしてられるようになった。水戸みとりょう武田たけだ耕雲斎こううんさいくわえて「水戸みと三田みた」ともしょうされる[* 4]

天保てんぽう元年がんねん1830ねん)にははんない争議そうぎのため、ねがい出府しゅっぷして免職めんしょくされ、留守居るすいどう心頭しんとうれつとなるものの、斉昭なりあき意向いこうにより同年どうねん3がつ西暦せいれき換算かんさん:4がつごろ[* 5])に江戸えど通事つうじとして復帰ふっきした。

天保てんぽう6ねん4がつ1835ねん5月ころ[* 6])には格式かくしきはた奉行ぶぎょう上座かみざ用人ようにん見習みならい、8月(西暦せいれき換算かんさん:10月ころ[* 7])、格式かくしき用人ようにんれつ側用人そばようにん見習みならい天保てんぽう7ねん8がつ1836ねん9月ころ[* 8])には側用人そばようにんまで昇任しょうにん、9月(西暦せいれき換算かんさん:10月ころ[* 9])にはさらに和歌わか年寄としよりだいとなる。天保てんぽう9ねん1837ねん)、うままわり組頭くみがしら上座かみざとなる。天保てんぽう10ねん11月(1839ねん12月ころ[* 10])、水戸みとはん若年寄わかどしよりとなり、与力よりき同心どうしんをつけられることとなる。12月(西暦せいれき換算かんさん:1840ねん1月ころ[* 11])にはごうむらかかたかかた馬方うまかた支配しはい兼務けんむとなる。

天保てんぽう11ねん2がつ1840ねん3月ころ[* 12])には学校がっこうづくり営懸となって弘道こうどうかん造営ぞうえい参与さんよする。8月(西暦せいれき換算かんさん:9月ころ[* 13])にはだい寄合よりあい上座かみざ用達ようたしとなる。10月(西暦せいれき換算かんさん:11月ころ[* 14])には学校がっこう造営ぞうえいかかそうつかさ要職ようしょく歴任れきにんする。

水戸みとはんにおける天保てんぽう改革かいかくとして、領内りょうないそう検地けんち海防かいぼう準備じゅんび学校がっこう創設そうせつ寺社じしゃ改革かいかくにおいておもきをなし、ひろし元年がんねん1844ねん)に斉昭なりあきまくうたぐけて致仕ちしすると、同年どうねん5がつ西暦せいれき換算かんさん:6がつか7がつ[* 15])、ちゅう太夫たゆう藤田ふじた東湖とうこともども免職めんしょくされ、蟄居ちっきょ謹慎きんしんめいぜられる。

斉昭なりあきへの譴責けんせきゆるむにつれてただし太夫たゆう東湖とうこ復帰ふっきがかない、ひろし3ねん1846ねん)に蟄居ちっきょめんじられて、中寄なかよりあいとなって水戸みとひょうでの遠慮えんりょめいじられた。ひろし4ねん1847ねん)に致仕ちしとなると、しばらく政界せいかいから退しりぞいた。同年どうねん9月21にち老中ろうじゅう阿部あべ正弘まさひろ水戸みとはんづけ家老がろう中山なかやましんもりし、水戸みとはん保守ほしゅ頭目とうもく結城ゆうき寅寿とらかず罪状ざいじょう詰問きつもんすると同時どうじに、ちゅう太夫たゆう東湖とうこ遠慮えんりょ宥免ゆうめん入獄にゅうごくさせている領民りょうみん釈放しゃくほうをすべきであるとさとしたが、このとき宥免ゆうめんされなかった。

よしみひさし5ねん1852ねん)にはいり、つつしみがけるとよもぎのきごうもちいるようになった。よしみなが6ねん1853ねん)に斉昭なりあき幕府ばくふにより海防かいぼう参与さんよけると、ちゅう太夫たゆう東湖とうこりょう幕府ばくふ海岸かいがん防禦ぼうぎょ御用ごようかけ江戸詰えどづめとなり、執政しっせいじゅんずる身分みぶんとなった。海防かいぼうかけとして老中ろうじゅう以下いか幕臣ばくしん岩瀬いわせ忠震ただなりらと異人いじん来襲らいしゅう危機ききにつき協議きょうぎ参画さんかくするなど活躍かつやくし、どう11月(西暦せいれき換算かんさん:12月[* 16])にはちゅう太夫たゆうたまわった。

安政あんせい元年がんねん正月しょうがつ1854ねん2がつごろ[* 17])、だい寄合よりあいあたま上座かみざ用達ようたしとなり、ふたた安政あんせい改革かいかく執行しっこうするなど藩政はんせい枢機すうきたずさわる。弘道こうどうかん造営ぞうえいや、領内りょうない検地けんち黒船くろふね来航らいこうなどによる海防かいぼう警備けいびなど、政務せいむ大小だいしょうわずひろ活躍かつやくする。しかし、安政あんせい2ねん10月2にち1855ねん11月11にち)にきた安政あんせい江戸えど地震じしん[* 18]被災ひさい[1]小石川こいしかわ水戸みと藩邸はんていにて死亡しぼうする。当日とうじつ藩邸はんていない家老がろう若年寄わかどしより切手きって長屋ながや在宅ざいたくちゅう地震じしん発生はっせい避難ひなんしようと自宅じたくしたさい倒壊とうかいしたりょう下敷したじきになって圧死あっししたとされている[2]。なお、しくも「水戸みとりょう」(前述ぜんじゅつ)はおな地震じしん被災ひさいし、おなじく圧死あっしによって落命らくめいしている。

その遺志いし実弟じっていのち水戸みとはん家老がろうとなる安島あじま帯刀たてわき嫡男ちゃくなん水戸みとはん家老がろうとなる戸田とだ銀次ぎんじろうがれる。1891ねん明治めいじ24ねん)4がつおくせいよん

家系かけい[編集へんしゅう]

源義家みなもとのよしいえなななんみなもと義隆よしたか陸奥むつ七郎しちろう義隆よしたか)をとする。戸田とだ義隆よしたかまごもりよりゆきじょうもり初代しょだい当主とうしゅ)のじゅうなん戸田とだ信義のぶよし戸田とだ初代しょだい当主とうしゅ)より発祥はっしょうする。

系図けいず

戸田とだ康光やすみつ弾正だんじょうしょう弼) ─ むべひかり丹波たんばまもる) ─ 重政しげまさ(甚さんろう) ─ 有利ゆうり十蔵じゅうぞう) ─ 有信ありのぶさん衛門えもん) ─ ゆうじゅうさん衛門えもん) ─ ゆうぜんじゅうろう) ─ 忠長ただながりく衛門えもん) ─ 忠真ただざね銀次ぎんじろう) ─ 忠之ただゆきさん衛門えもん) ─ ちゅうたかしちゅう太夫たゆう) ─ 忠則ただのり銀次ぎんじろう

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

文化ぶんかじんでもあったただし太夫たゆうは、すぐれた揮毫きごうのこしており、しょう名手めいしゅとしてもられた。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

しょうろう逸話いつわ俊斎しゅんさいつたえるしょ[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしんのち子爵ししゃくとなる幕末ばくまつ薩摩さつまはん海江田かいえだ信義のぶよしが、俊斎しゅんさい有村ありむら俊斎しゅんさい)と名乗なのっていたころ海江田かいえだ養子ようしりして改名かいめいする以前いぜん茶人ちゃじんとして実家じっか有村ありむらものとしてそのようにごうばれていたころ)、尊王そんのう思想しそうつうじて知己ちきとなった藤田ふじた東湖とうこ紹介しょうかいで、水戸みとはん江戸えど屋敷やしき水戸みとはん江戸えど藩邸はんてい)にいた戸田とだただし太夫たゆう紹介しょうかいされ、以来いらい俊斎しゅんさいこと信義しんぎはしばしばちゅう太夫たゆうたずねていた。信義しんぎのこした口述こうじゅつ西河にしかわしょう西河にしかわしょう)がへんじゅつして1891ねん明治めいじ24ねん9月14にち刊行かんこうした『維新いしん前後ぜんこう 実歴じつれき史伝しでん』には、ちゅう太夫たゆうしょうろうまねかれたときのこととして俊斎しゅんさいかたったつぎのようなはなし記載きさいされている。

原文げんぶん》(…りゃく…)おうおきないちにちいちにち俊齋しゅんさいしゆんさいしょうろうせうろうのべけり。わづか一室いっしついつしつろくじょうろくでふにすぎず。おういはく、これこのろうろう頃日けいじつけいじつ落成らくせいらくせいせり、しかして前面ぜんめん鬱蒼うっそううつさうたるしゃ後樂園こうらくえんこうらくえん松林まつばやしまつばやしにして、いちひとたびこのろうのぼればあたか山中さんちゅうさんちゆうざいるのおもむきおもむきありて、ちりみずからいきやすむをさとしおぼふ。しかしてせいしやう少壯しょうそうせうさうよりしょうしやうこのむ。しかしかるにさき藤田ふじたとも禁錮きんこきんこきゅうねんくねんおよびしをもつふくまたしょうかさることひさひさし。こここのろう經營けいえいけいえいするにほうあたりてかそけじょういうじやうてんてんてんうごあへいちいつすいこころみんことをおもひ、これこれ藤田ふじたぐ。藤田ふじたいわく、しょう雅樂ががくががくにしてていまもるていゑいおとこゑあらず、これこれろうろうするかたもとよりこのみし、しかしかれども、必竟ひつきやう玩弄がんろうぐわんろううつわ遊戯ゆうぎいうぎたるをめんまぬかれず、いまペルリ來航らいこうらいかうのち天下てんかてんか紛擾ふんじょうふんぜうさいきわ世人せじんせじんあるあるいわれじんごじんもつ逸樂いつらくいつらくふけふけるとひょうするなきやとこわおそる、時機じきなおはやし、ふ、すくなすこしく猶豫ゆうよいうよしてなりと。ああ藤田ふじたいいところところじつあり、はなは慚愧ざんきざんきこらえへざりし、けだ藤田ふじたげんげんり、ふくまたしょうらずといへども、心中しんちゅうのしんちゆうゆるがせしかこつぜんとしてこの一念いちねんはつはつせしもの、これ德義とくぎいま藤田ふじたおよばざる所以ゆえんゆゑんなりと。
─── 原文げんぶんは、海江田かいえだ信義のぶよし維新いしん前後ぜんこう 実歴じつれき史伝しでんまきいち記載きさいされたいち戸田とだおきないちにち俊齋しゅんさいしょうろうのばす」および、つづいち戸田とだおうしょうかんとおも藤田ふじた忠告ちゅうこくこれむ」(46~47面目めんぼく[* 19][3]すべての仮名がなはウィキペディア編者へんしゃによる補足ほそく一部いちぶ濁点だくてんれい:「いちたひ」→「いちたび」、「た」→「ひつじだ」)と、すべての句読点くとうてん位置いちは、ウィキペディア編者へんしゃによる改変かいへんがある。

解釈かいしゃくれい戸田とだおう戸田とだただし太夫たゆう)が、みずかいとなむわずか1しつ6じょうしょうろうちいさな楼閣ろうかく)に藤田ふじたおう藤田ふじた東湖とうこ)とわたし俊斎しゅんさい信義しんぎ)をまねいてくれ、一昼夜いっちゅうや談義だんぎしてごした。戸田とだおきなは、わたしたちのいるろう近日きんじつ落成らくせいしたばかりなのだと紹介しょうかいし、前面ぜんめんえる鬱蒼うっそうとした木々きぎ後楽園こうらくえん小石川こいしかわ後楽園こうらくえん)の松林まつばやしで、ひとたびこのろうのぼればあたかも山中さんちゅうにいるかのようなおもむきがあって気分きぶんがよくなるとった。戸田とだおきなつづけてった。わたしわかころからしょうくのがきだが、以前いぜん藤田ふじたともども9ねん禁錮きんこけていたがゆえしょうどころではなく、ひさしくいていないと。そうして、ろうもうけていとなむにあたって深淵しんえんなるおもいをむねいちきしてみようとおもうとって藤田ふじたおきなげる戸田とだおきなだったが、藤田ふじたおうはこれをさとしてった。しょうみだひな(いや)しい音楽おんがくではなく雅楽ががくのものだから、元来がんらいくのはこのましい、とはえ、結局けっきょくのところあそあそび、黒船くろふね来航らいこう以来いらい天下てんか紛擾ふんじょうするこんふししょういているのでは、世間せけん人々ひとびとやあるいはちかしいひとなかにも、逸楽いつらく快楽かいらくをむさぼり、ままにあそらすこと)にふけっているものとわるとらえるひとのあるやもしれず、心配しんぱいでならない、時機じきがまだはやいだろう、もうすこってはどうか、是非ぜひともそうしてもらいたい。これをいた戸田とだおうは、藤田ふじたおきなぜんのあるをみとめて助言じょげんれつつ、はなは慙愧ざんきえない様子ようすいきらし、心中しんちゅうのそのようなうごかしてしまうことがわたし徳義とくぎいま藤田ふじたおよばない所以ゆえんだとった。

─── 原文げんぶんもとづき、文意ぶんいとらえたうえで百科ひゃっか事典じてんてきしたかたちへの大幅おおはば改変かいへんおこなった[* 20][* 21]

孝明天皇こうめいてんのうなげ[編集へんしゅう]

天保てんぽう年間ねんかん1831-45ねんあいだ以来いらい水戸みと藩政はんせいでの実績じっせきにはちゅう太夫たゆうちからおおきくはたらいたとされる。聡明そうめいとお識あり、斉昭なりあきの輔翼として天下てんかおもきににんじたが、こころざしなかばでたおれた。ちゅう太夫たゆうさいしてげてこれを悲観ひかんし、その訃報ふほう朝廷ちょうていにもこえた。孝明天皇こうめいてんのうはそのると、ふかふるえ悼してしんうしなったとなげいたといわれる。

明治天皇めいじてんのう恩賜おんし[編集へんしゅう]

1890ねん明治めいじ23ねん)10がつとき天皇てんのう皇后こうごう明治天皇めいじてんのう昭憲しょうけん皇后こうごう)は、近衛このえしょへい演習えんしゅう親閲しんえつするために水戸みと行幸ぎょうこうけいしたおり茨城いばらきけん師範しはん学校がっこう行在所あんざいしょとしたが、同所どうしょにてこう徳川とくがわ光圀みつくに)・れつこう徳川とくがわ斉昭なりあき)らかつての藩主はんしゅやその家臣かしんなどの遺墨いぼく遺品いひん見学けんがくしたのち御沙汰ごさたしょ(ごさたしょ)[* 22]下賜かしするとともに、尊王そんのうとなえて国事こくじくした志士ししとして戸田とだただし太夫たゆう藤田ふじた幽谷ゆうこく藤田ふじた東湖とうこ会沢あいざわ正志斎せいしさい安島あじま帯刀たてわきらをたたえ、それぞれの遺族いぞくまつりしとぎりょうかく200えん下賜かしした。

御沙汰ごさたしょ
原文げんぶん》 夙尊王そんのう大義たいぎヲ唱ヘ ちから國事こくじつきこうだん 追想ついそうためざい 今般こんぱん行幸ぎょうこうぎわ思召おぼしめしヲ以テ さいしとぎりょうトシテひゃくえん下賜かしこうごと
おろつと尊王そんのうそんのう大義たいぎたいぎとなえ、ちからちから國事こくじこくじつきつくこうそうろうだんだん追想ついそうおんついそうあらせられ、今般こんぱんこんぱん行幸ぎょうこうぎょうこうさいさいし、おもえおぼしをもって、まつりしとぎりょうさいしりょうとしてひゃくえんにひゃくえん下賜かしかしこうそうろうことこと
口語こうごわけれい》(みかどみかどは、かか志士ししらが)はやくから尊王そんのう大義たいぎとなえ、国事こくじ尽力じんりょくしたことをおもこされ、このたびの行幸ぎょうこうさいし、そのご意向いこうをもって、まつりしとぎりょうとしてひゃくえんしたくだたまものたまわります。

遺稿いこう[編集へんしゅう]

京都大学きょうとだいがく附属ふぞく図書館としょかんには、維新いしん資料しりょうとして、ちゅう太夫たゆう藤田ふじた東湖とうこ会沢あいざわやすしおとうと安島あじま帯刀たてわきらとともに詩歌しかんでしるしたものが『東湖とうこただしたかししんりつ会沢あいざわやすし遺墨いぼく』として現存げんそんしている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 本家ほんけ松本まつもとはんしゅたる戸田とだ宗家そうけ戸田とだ松平まつへい)。
  2. ^ 松平まつだいら康長やすなが戸田とだ宗家そうけだい16だい当主とうしゅで、松本まつもとはん初代はつよ藩主はんしゅ)の叔父おじにあたる戸田とだ重政しげまささんろう)のまご水戸みとはん仕官しかんし、水戸みと戸田とだ初代しょだい当主とうしゅとなる。
  3. ^ りょう」のみは未確認みかくにんながら、かんがえられない。
  4. ^ 三田みた」のみは確認かくにん。「りょう」と呼応こおうする「さんでん」がしっくりるものの、「みた」や「さんだ」の可能かのうせい否定ひていれない。
  5. ^ れき天保てんぽう元年がんねん3がつ1にちと3がつ30にち同月どうげつ最終さいしゅう)は、西暦せいれきグレゴリオれき)では1830ねん3がつ24にちと4がつ22にち
  6. ^ れき天保てんぽう6ねん4がつ1にちと4がつ29にち同月どうげつ最終さいしゅう)は、西暦せいれき(グレゴリオれき)では1835ねん4がつ28にちと5がつ26にち
  7. ^ れき天保てんぽう6ねん8がつ1にちと8がつ30にち同月どうげつ最終さいしゅう)は、西暦せいれき(グレゴリオれき)では1835ねん9がつ22にちと10がつ21にち
  8. ^ れき天保てんぽう7ねん8がつ1にちと8がつ29にち同月どうげつ最終さいしゅう)は、西暦せいれき(グレゴリオれき)では1836ねん9がつ11にちと10がつ9にち
  9. ^ れき天保てんぽう7ねん9がつ1にちと9がつ30にち同月どうげつ最終さいしゅう)は、西暦せいれき(グレゴリオれき)では1836ねん10がつ10日とおかと11月8にち
  10. ^ れき天保てんぽう10ねん11月1にちと11月30にち同月どうげつ最終さいしゅう)は、西暦せいれき(グレゴリオれき)では1839ねん12月6にちと1840ねん1がつ4にち
  11. ^ れき天保てんぽう10ねん12月1にちと12月31にち同月どうげつ最終さいしゅう)は、西暦せいれき(グレゴリオれき)では1840ねん1がつ5にちと2がつ4にち
  12. ^ れき天保てんぽう11ねん2がつ1にちと2がつ30にち同月どうげつ最終さいしゅう)は、西暦せいれき(グレゴリオれき)では1840ねん3がつ4にちと4がつ2にち
  13. ^ れき天保てんぽう11ねん8がつ1にちと8がつ30にち同月どうげつ最終さいしゅう)は、西暦せいれき(グレゴリオれき)では1840ねん8がつ27にちと9がつ25にち
  14. ^ れき天保てんぽう11ねん10がつ1にちと10がつ30にち同月どうげつ最終さいしゅう)は、西暦せいれき(グレゴリオれき)では1840ねん10がつ25にちと11月23にち
  15. ^ れきひろ元年がんねん5がつ1にちと5がつ30にち同月どうげつ最終さいしゅう)は、西暦せいれき(グレゴリオれき)では1844ねん6がつ16にちと7がつ14にち
  16. ^ れきよしみなが6ねん11月1にちと11月30にち同月どうげつ最終さいしゅう)は、西暦せいれき(グレゴリオれき)では1853ねん12月1にちと12月29にち
  17. ^ れき安政あんせい元年がんねん1がつ1にちと1がつ29にち同月どうげつ最終さいしゅう)は、西暦せいれき(グレゴリオれき)では1854ねん1がつ29にちと2がつ26にち
  18. ^ 安政あんせいだい地震じしん」と総称そうしょうされる地震じしんぐんふくまれるひとつ。
  19. ^ 原書げんしょ見開みひらき2ぺーじぶんを1めんかぞえており、ぺーじすうなおせば倍数ばいすうとなる。
  20. ^ ちゅう太夫たゆうによる東湖とうこ呼称こしょうは「藤田ふじた」、俊斎しゅんさいによる昔語むかしがたりのなかちゅう太夫たゆうは「戸田とだおきな」、おなじく東湖とうこは「藤田ふじたおう」とした。
  21. ^ 原文げんぶん記述きじゅつ内容ないよう不備ふび不明瞭ふめいりょう部分ぶぶんがあり、本意ほんいとらそこねるこわれもあるが、3にんそろった会合かいごうでのはなし解釈かいしゃくしたうえでぶんととのえた。一見いっけん戸田とだおう戸田とだただし太夫たゆう)が藤田ふじたおう藤田ふじた東湖とうこ)をまねいたときはなしを、のちになって俊斎しゅんさい海江田かいえだ信義のぶよし)をまねいた戸田とだおうはなしたという解釈かいしゃくつようにおもえるが、各所かくしょ文脈ぶんみゃくとの整合せいごうせいとぼしい。
  22. ^ 御沙汰ごさたしょ」のみとして「ごさたしょ」と「おさたがき」があるが、前者ぜんしゃ天皇てんのう発信はっしん後者こうしゃ幕府ばくふ発信はっしんのものをいう。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ “19世紀せいき後半こうはん黒船くろふね地震じしん台風たいふう疫病えきびょうなどの災禍さいかをくぐりけ、明治維新めいじいしんかう(ぶくかず伸夫のぶお)”. Yahoo!ニュース. (2020ねん8がつ24にち). https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4d57ba83d5e41aac42e5017f84dc3147e53dc0ff 2020ねん12月3にち閲覧えつらん 
  2. ^ 幕末ばくまつ証言しょうげん史談しだんかい速記そっきろく」をむ』、菊池きくちあきら、2017ねんよういずみしゃ、P20
  3. ^ 海江田かいえだ信義のぶよし 口述こうじゅつ西河にしかわしょう へんじゅつ. “維新いしん前後ぜんこう実歴じつれき史伝しでん”. 電子でんし資料しりょうかん 近代きんだい文献ぶんけん情報じょうほうデータベース(公式こうしきウェブサイト). 国文学研究資料館こくぶんがくけんきゅうしりょうかん. 2018ねん7がつ7にち閲覧えつらん同書どうしょは、本文ほんぶんにおいてはなしわる位置いちなん目印めじるしもうけていないが、上段じょうだん小見出こみだしのらんもうけてしめしている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]