木村きむら荘太そうた

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木村きむら 荘太そうた
ペンネーム 久木ひさきこんさく木村きむら艸太そうた
誕生たんじょう 1889ねん2がつ3にち
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう東京とうきょう日本橋にほんばし吉川よしかわまち両国りょうごく広小路ひろこうじ現在げんざい東京とうきょう中央ちゅうおう
死没しぼつ (1950-04-15) 1950ねん4がつ15にち(61さいぼつ
職業しょくぎょう 小説しょうせつ翻訳ほんやく文芸ぶんげい評論ひょうろん
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
最終さいしゅう学歴がくれき きょうはな中学校ちゅうがっこう旧制きゅうせい
活動かつどう期間きかん 1908ねん - 1950ねん
ジャンル 小説しょうせつ
子供こども 木村きむら彩子あやこ
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木村きむら 荘太そうた(きむら そうた 1889ねん2がつ3にち - 1950ねん4がつ15にち)は、東京とうきょう出身しゅっしん作家さっか翻訳ほんやく本名ほんみょうみは「しょうた」。別名べつめい久木ひさきこんさく木村きむら艸太そうた(そうた)。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

東京とうきょう日本橋にほんばし吉川よしかわまち両国りょうごく広小路ひろこうじ現在げんざい東京とうきょう中央ちゅうおうひがし日本橋にほんばし)に、木村きむらそうひらた妾腹しょうふくとしてまれる。

ちち牛鍋ぎゅうなべチェーンてん"いろは"を20すう箇所かしょ展開てんかいして"いろは大王だいおう"とばれるとともに、葬儀そうぎ会社かいしゃ"ひろしぜんしゃ"の社長しゃちょうねた実業じつぎょうで、正妻せいさいほか多数たすう愛人あいじんち、諸方しょほうもうけたかずおとこ13にんおんな17にん荘太そうた異母いぼあね栄子えいこ木村曙きむらあけぼの筆名ひつめい作家さっかとしてられたほか同母どうぼおとうと木村きむら荘八しょうはち挿絵さしえ画家がか)、異母弟いぼてい木村きむら荘十そうじゅう直木賞なおきしょう作家さっか)と木村きむら荘十二そとじ映画えいが監督かんとく)がいる。

1896ねん東京とうきょう浅草橋あさくさばしちかくの小学校しょうがっこう入学にゅうがく。まもなく、同級生どうきゅうせいに「わらわ」とののしられたことから、みずからの出生しゅっしょういわれをる。同級どうきゅう後藤ごとう末雄すえおふつ文学ぶんがくしゃ)やさくら間弓まゆみがわ能楽のうがく)がいた。1902ねん小学校しょうがっこう卒業そつぎょうしてきょうはな中学校ちゅうがっこう入学にゅうがくいち同級生どうきゅうせい感化かんか文学ぶんがく目覚めざめる。

1907ねんきょうはな中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう東京とうきょう外国がいこく学校がっこうフランス語ふらんすごまなぶことを希望きぼうしていたが家庭かてい事情じじょうゆるされず、牛肉ぎゅうにくてん会計かいけい事務じむ担当たんとう同年どうねん10がつ硯友社けんゆうしゃ主催しゅさい紅葉こうようさい参加さんか。まもなく生田いくた葵山きざん文学ぶんがくかい参加さんか

1908ねん処女しょじょさくが『しん思潮しちょう』に掲載けいさいされ、そのことが契機けいきとなって小山内おさないかおるる。さらに島崎しまざき藤村とうそんともなわれてりゅうかい出席しゅっせき

1909ねん兄嫁あによめいもうと満喜まき結婚けっこん。1910ねん後藤ごとう末雄すえおたちとともだい2しん思潮しちょう』を結成けっせい一時期いちじき谷崎たにざき潤一郎じゅんいちろうしたしくつきあう。このころ高村たかむら光太郎こうたろう愛人あいじん高村たかむらさくモナ・リザモデル)だった吉原よしはら娼婦しょうふを「だつ」い、光太郎こうたろうが「モナリザはあゆりぬ」とうたった。

1912ねん満喜まき離婚りこんし、いえる。以後いごしばらく島崎しまざき藤村とうそんから庇護ひごける。

1913ねん伊藤いとう野枝のえ片想かたおもい。その経緯けいいを「牽引けんいん」の題名だいめい小説しょうせつし『フュウザン』の後身こうしん雑誌ざっし生活せいかつ』に発表はっぴょう。その異母いぼいもうと清子きよこ同棲どうせい近親きんしん相姦そうかん手前てまえまですすむが、みとどまる。

1915ねんストリンドベリのEn dåres försvarstalを『じん懺悔ざんげ』の題名だいめい翻訳ほんやく

1918ねん婚約こんやくしゃ齋藤さいとうもとととも宮崎みやざきけん日向ひなたおもむき、武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつあたらしきむら参加さんか入村にゅうそんにもとと結婚けっこん

1919ねんあたらしきむらはなれる。1920ねんごろロマン・ロラン翻訳ほんやく専念せんねん

1923ねん関東大震災かんとうだいしんさいのため、つま故郷こきょうである山形やまがたけん酒田さかた避難ひなん。その千葉ちばけん印旛いんばぐん遠山とおやまむら現在げんざい成田なりただい清水しみず[1])にうつり、晴耕雨読せいこううどく生活せいかつおくる。

1950ねん4がつ16にち自伝じでんうたげ』の刊行かんこう直前ちょくぜん成田山新勝寺なりたさんしんしょうじうち公園こうえん縊死いし[2]

むすめ彩子あやこは、1941ねん東南とうなんアジアをたずねて『ふつしるしやすし印象いんしょう』を刊行かんこうし、のち画家がか関口せきぐち俊吾しゅんご結婚けっこん

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • のうきる(1933ねん
  • はやしえん(1935ねん
  • 田園でんえんエッセイ(黄河こうが書院しょいん、1938ねん
  • 英国えいこく衰亡すいぼう(ヴイヴイアン・グレイ、開運社かいうんしゃ、1942ねん)、わけ
  • アラン──そのひと風土ふうど綜合そうごう出版しゅっぱんしゃ、1946ねん)、以下いかかく木村きむら艸太そうた名義めいぎ
  • うたげ : ぜんじゅうねん文学ぶんがく生活せいかつ回想かいそう朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1950ねん)、復刻ふっこく日本にっぽん図書としょセンター、1990ねん
  • 民主みんしゅ主義しゅぎ展望てんぼう(ウォルト・ホイットマン 木村きむら艸太そうた やく日本にっぽん読書どくしょ組合くみあい、1947ねん)、わけ
  • あいつみ(ロザマンド・グレイ) (チャールズ・ラム桜井さくらい書店しょてん 1948ねん) 、わけ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 福田ふくだ克彦かつひこ三里塚さんりづかアンドソイル』平原へいげんしゃ、2001ねん、34ぺーじ
  2. ^ 文芸ぶんげい評論ひょうろん 木村きむら荘太そうた(ろくじゅういち)のくびつり自殺じさつ死体したいじゅうろくにちあさ千葉ちばけん成田山なりたやま公園こうえんない発見はっけんされた。」『朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわじゅうねんよんがつじゅうろくにち成田なりたはつ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]