しゅ

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しゅ(しゅ せい、ピンイン:zhū cǐ742ねん - 784ねん)は、とうだい部将ぶしょうでありしゅ泚のらん指導しどうしゃ当初とうしょとうりゅうぐん節度せつど使であったが、のち長安ながやすつかえた。おとうとしゅ造反ぞうはんしたために長安ながやすめられたことから反感はんかんいだき、とくむね長安ながやすから避難ひなんすると大秦たいしんのちかん改名かいめい)の皇帝こうてい即位そくいし、元号げんごう天皇てんのうとした。784ねんあきらなどにけて長安ながやすげ、配下はいか殺害さつがいされた[1]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

しゅ泚はげんむね天宝てんぽう元年がんねん742ねん)にかそけしゅう昌平しょうへいまれた。曾祖父そうそふしゅとしさんぜん大夫たいふとなり、れい尚書しょうしょ追贈ついぞうされた。祖父そふしゅおもえあかり太子たいし洗馬せばとなった。ちちしゅふところ珪は天宝てんぽうはつ、范陽節度せつど使の裴寛につかえて衙前しょう折衝せっしょう将軍しょうぐんとなった。また、755ねん安史やすしらんこるとつばめつかえて、かんへいしょう昇格しょうかくした。たからおう年間ねんかんふところせん帰順きじゅんすると、あざみしゅう刺史ししひらぐんとめ柳城やなしろ軍使ぐんしとするように上奏じょうそうした。766ねんしゅ泚が25さいとき死去しきょした。そのしゅ泚の功績こうせきのため、祖父そふ太子たいしふとしが、またちちひだりぼくしゃ追贈ついぞうされた[1]しゅ泚は幼年ようねんからちち従軍じゅうぐんした。こしまわりがじゅうかこえあり騎射きしゃ武芸ぶげいすぐれていたという。外見がいけん度量どりょうこうそうだったが、残忍ざんにん性格せいかくをしていた。蓄財ちくざいはせず、戦利せんりひん恩賞おんしょう気前きまえ麾下きか将士しょうしあたえたので、配下はいか人望じんぼうはあった[1]

しゅ泚のらん[編集へんしゅう]

783ねんあき涇州はらしゅう恩賞おんしょう不満ふまんのためにへいへんき、とくむね奉天ほうてん避難ひなんした。涇州・はらしゅうへいすで造反ぞうはんしていたしゅ滔のあにしゅ泚にしたがった。しゅ泚は当初とうしょ指導しどうしゃになるとったが、翌日よくじつにはとくむね長安ながやすむかれることを公表こうひょうした[2]。これをけてしゅ泚に賛同さんどうする配下はいかがいたが、しゅ泚がそれをよくおもわなかったのをて、とくむね忠心ちゅうしんがあるものった。みなもときゅうという部将ぶしょうとう対立たいりつしたため、しゅ泚の参謀さんぼうとなり、しゅ泚に即位そくいすすめた。忠臣ただおみちょうひかりあきら姚令げんといった部将ぶしょうしゅ泚に協力きょうりょくした。だん秀実ひでみしゅ泚をころしてとくむねむかれようとしていたが、それをらずにしゅ泚はだん秀実ひでみれた[2]

しゅ泚はかんみんへい3せん奉天ほうてんかわせた。名目めいもくじょうとくむね長安ながやすむかれるためだったが、実際じっさいには奇襲きしゅうのためであった。だん秀実ひでみ岐霊だけかんみんたたかいを放棄ほうきしてかえることを姚令げんよそおっていのちじらせた。そのころしゅ泚は即位そくい計画けいかくしょしょうはなっていたが、だん秀実ひでみ暗殺あんさつ未遂みすいわった。しゅ泚はゆるそうとしたが、だん秀実ひでみまもるへいころされた。同年どうねんあきしゅ泚は大秦たいしん皇帝こうてい即位そくいした。あにしゅとげ太子たいしとし、おとうとしゅ滔を冀王・ふとしじょう尚書しょうしょれいとした[1]しゅ泚はみずか奉天ほうてんかい、道中どうちゅう軍勢ぐんぜいふくらませた。姚令げん元帥げんすいちょうひかりあきらふくそちかたきけいちゅう忠臣ただおみ留守るすとして長安ながやすめた。しゅ泚は渾瑊かんゆうたたかい、やがて兵糧ひょうろうたれた奉天ほうてんくるしんだが、とう別働隊べつどうたい長安ながやすしんぐん攻撃こうげきした。しゅ泚は益々ますます奉天ほうてんはげしく攻撃こうげきしたが、包囲ほういいちカ月かげつあいだほどつと、とうふところこう長安ながやすかった。ふところこう醴泉しんぐんかすと、しゅ泚は奉天ほうてん放棄ほうきして長安ながやすけつけた。士気しきげるため度々たびたび奉天ほうてんおちいしたといううわさひろめたが、そのじつ支配しはい長安ながやす周辺しゅうへんにしかおよばず、ふたた奉天ほうてんめることはかった。もしふところこう到着とうちゃくが3にちおくれていれば奉天ほうてんしゅ泚のはいったとわれる[3]

784ねんはつしゅ泚はかん国号こくごう改名かいめいした[1]みなもときゅう助言じょげんしたがとくむね宗室そうしつ大勢おおぜい処刑しょけいしたが、長安ながやすからしょう殿堂でんどうをつけることは拒否きょひした。このころとくむねしんぐん降伏ごうぶく期待きたいして大赦たいしゃしたが、しゅ泚はこの大赦たいしゃから除外じょがいした。長安ながやすめるとうぐんふところこう不満ふまんにより内部ないぶめになった。しゅ泚はふところこうあにとし、それぞれ独立どくりつして共栄きょうえいすることをちかけた。ふところこうはそのとおりにとくむねから造反ぞうはんし、けん徽と楊恵もとぐんらえてしゅ泚に協力きょうりょくすることを公表こうひょうした。おそれたとくむねきょうもと避難ひなんした[3]。これをけてしゅ泚にしたが配下はいか続出ぞくしゅつした。ふところこう配下はいかふところこうさからい、しゅ泚もあにではなくしんとしてあつかうようになると、ふところこういかり、またあきらおそれて長安ながやすから河中かわなかへとげた。しゅ泚はあきらぐん親族しんぞく優遇ゆうぐうすることであきられようとしたが、あきらことわった。渾瑊とあきら合流ごうりゅうして長安ながやす攻略こうりゃくそなえた。吐蕃ぐん合流ごうりゅうしたが、しゅ泚はそれらに賄賂わいろおくって放棄ほうきすることを説得せっとくした[3]

784ねんなつあきらぐん長安ながやす侵攻しんこうした。かんぐんちょうにわしばのぞみ倩はやぶれ、ひそかにあきらつうじていたちょうひかりあきらしゅ泚にげることを説得せっとくした。しゅ泚は長安ながやすり、とう長安ながやす奪回だっかいした。しゅ泚は吐蕃にげる道中どうちゅう、涇州でまれ鑒にはばまれた。しゅ泚はおこって涇州を攻撃こうげきしたがてず、しゅ泚の涇州・はらしゅうへいは姚令げん殺害さつがいしてまれ鑒に投降とうこうした。しゅ泚はつづけ、彭原いたると配下はいかはりにわ芬に射殺しゃさつされた。享年きょうねん43。はりにわ芬はしゅ泚のくびってとう投降とうこうした[3]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e きゅうとうしょまき200
  2. ^ a b どおりかんまき228
  3. ^ a b c d どおりかんまき229

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]