あきら

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あきら(り せい、727ねん - 793ねん)は、とうだい将軍しょうぐんりょうとくむね年間ねんかんしゅらん鎮圧ちんあつした功績こうせき西平にしだいらぐんおうふうぜられた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

幼年ようねん[編集へんしゅう]

あきらとうげんむねひらきもと15ねん(727ねん)にまれた。洮州臨潭けん出身しゅっしんで、祖父そふおもえきょうちち欽、代々だいだい隴右の裨将であった。父親ちちおやはやくにくし、ははこうくしたとわれる。性格せいかくれつ才能さいのうがあり、騎射きしゃをよくしたという[1]

しゅ泚のらん以前いぜん[編集へんしゅう]

18さい従軍じゅうぐんした。身長しんちょうろくしゃくたっし、勇敢ゆうかんぐん圧倒あっとうした。河西かさい節度せつど使おう忠嗣ただつぐ吐蕃攻撃こうげき参加さんかした。このとき吐蕃に、おおきな被害ひがいあたえ、もんけることをこば将軍しょうぐんがいたので、おう忠嗣ただつぐぐんころものつのると、あきらゆみ一発いっぱつころした。おう忠嗣ただつぐあきらあつしょうし、背中せなかでて「まんにんてき」とんだ。のちに、おおとりしょう節度せつど使こうますみやびがそのくと、あきら自身じしん配下はいかした。こうますみやびしたあきらたたみしゅう宕州で叛いたぞく撃破げきはしてひだり羽林はばやし大将軍だいしょうぐんとなった[1]

だいむね広徳ひろのり初期しょきおおとりしょう節度せつど使まごこころざしじきあきらゆうへい統率とうそつさせ、あきらが羌の高玉たかだまとう撃破げきはすると、特進とくしんひかりろくきょうふとしつねきょうとした。だいこよみ初期しょきおおとりしょうに鎮しただきだまみぎぐんしょうとされた。だいこよみ4ねん769ねん)、吐蕃がれいしゅう包囲ほういすると、だきだまあきらへいせんつかわしたが、あきらへいすうかず圧倒あっとうするにはすくなく、さくたばかるにはおおいとことわった。あきら結局けっきょく将兵しょうへいせんにん大震たいしんせきすすみ、臨洮で勝利しょうりした。れいしゅうの吐蕃はこれをくと包囲ほういいてった。この功績こうせき開府かいふどうさんつかさとなった。邠寧節度せつど使うまともに吐蕃とたたかい、けて退却たいきゃくするさいあきら功績こうせきで吐蕃をくことができ、合川あいかわぐんおうふうぜられた。しかし、うま璘はあきら威名いめいんだことや、あきら無礼ぶれいたことから長安ながやすおくった。だいむねあきら宿衛しゅくえいめ、みぎかみさくしょうとした[1]

だいこよみ14ねん779ねん)、とくむね即位そくいすると、吐蕃とみなみみことのり連合れんごうぐんじゅうまんさんより西川にしかわ節度せつど使ちぇやすしめた。あきらきょくたまきぎゃくげきし、大勝たいしょうした[2]けんちゅう2ねん781ねん)、成徳しげのりはくひら山南さんなん東道とうどうはん独立どくりつ地域ちいき造反ぞうはんした。これは成徳しげのりたからしんおもんみだけに、ただしおのれおさむに、うけたまわえつ地位ちいがせることをとくむねことわったためである。とくむね先鋒せんぽうあきら河東かわとう節度せつど使うまひうち昭義あきよしぐん節度せつど使だきしんかわせ、はくえつを臨洺で大破たいはした。えつしゅう帰還きかんしたが、あきらぐん内部ないぶめに討伐とうばつはばまれた。このころおう武俊たけとしおもんみだけころしてとくむね投降とうこうしたが、ふたたしゅ滔ととも造反ぞうはんした。おう武俊たけとしが邢州にかうと、だきしんぐん一部いちぶを邢州の救援きゅうえんかわせた。これがうまひうちとの関係かんけい亀裂きれつしょうじ、あきら仲介ちゅうかいした。けんちゅう3ねん782ねん)におう武俊たけとしけてしゅうくと、あきらおう武俊たけとしおうしん包囲ほういしていたちょうしゅう守将しゅしょうかんにち救援きゅうえんするため、義武よしたけぐん節度せつど使ちょうたかしちゅう合流ごうりゅうした。両者りょうしゃおう武俊たけとし拠点きょてんであるつねしゅう攻撃こうげき計画けいかくした[3]けんちゅう4ねん783ねんはるあきらちょうたかしちゅうちょうのぼるくもともしゅ滔の将軍しょうぐんていけいずみしんえん攻撃こうげきしたが、しゅ滔がしゅうからけつけて反撃はんげきしたため、ていしゅう退却たいきゃくした。あきらはこのときやまいはっした[1][4]

しゅ泚のらん[編集へんしゅう]

李晟碑
839ねん陝西せんせい高陵こうりょうしゅ泚のらん鎮圧ちんあつ記念きねんしててられたあきら

同年どうねんあき、涇原で恩賞おんしょう不満ふまんによるへいへんき、とくむね奉天ほうてん避難ひなんした。涇原のへいしゅ滔のあにしゅしたがった。しゅ泚は大秦たいしん皇帝こうてい名乗なのって奉天ほうてん包囲ほういした。あきらやまいから復活ふっかつし、奉天ほうてん救援きゅうえんかいたがったが、ちょうたかしちゅうしゅ泚の攻撃こうげきさらされることをおそれて義武よしたけぐんめた。あきらちょうたかしちゅう配下はいか賄賂わいろおくり、憑を義武よしたけぐんめることでちょうたかしちゅう納得なっとくし、楊栄こくともとくむね救援きゅうえんかわせた。長安ながやすへい4せんいたるとしゅ泚の包囲ほういくことができず、ひがし渭橋にとどまった。あきら人望じんぼうがあったため、長安ながやす付近ふきんひとあつまり、ぐんいちまんふくがったという[5]

ふところこう到着とうちゃくすると、しゅ泚による奉天ほうてん包囲ほういかれた。しかしとくむね会見かいけんことわり、長安ながやす奪回だっかいのためにあきらけん徽・楊恵もと合流ごうりゅうさせた。ふところこう合流ごうりゅうしたが長安ながやす攻撃こうげきせずに咸陽にとどまった[5]きょうもと元年がんねん784ねんはるあきらふところこうしゅ泚とつうじていることを察知さっちし、ひがし渭橋にぐんうつした。さらに、とくむね反乱はんらんそなえてかんちゅうしょくへのみち確保かくほすることをうながした。とくむねはなだめたが、ふところこう造反ぞうはん公表こうひょうした。とくむねやなしゅう避難ひなんし、そのさいあきらどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごととし、長安ながやす軍事ぐんじまかせられた[6]

あきらしゅ泚とふところこうらん対応たいおうわれた。ふところこうには投降とうこううなが手紙てがみおくった。ふところこうおうじなかったが、あきらおそれてへい河中かわなかまでいた。一方いっぽうしゅ泚は長安ながやすあきら親族しんぞく優遇ゆうぐうすることであきら味方みかたもうとしたが、あきらおうじなかった。とくむね渾瑊長安ながやすかわせると、あきら長安ながやす攻撃こうげきそなえた。同年どうねん6がつあきら宣戦せんせん布告ふこくをして渾瑊・駱元こうなおとも長安ながやすすすんだ。同月どうげつ長安ながやす奪回だっかいするとしゅ泚はげ、配下はいかころされた。

鎮圧ちんあつ[編集へんしゅう]

あきら名声めいせいて、西平にしだいらぐんおうおおとりしょう・隴右・涇原節度せつど使となった。のち権力けんりょくおおきさをうとまれて兵権へいけんけずられ、ふとしじょう中書ちゅうしょれいてんじた。貞元さだもと9ねん(793ねん)、67さいやまい逝した。忠武ただたけおくりなされた。

子女しじょ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d きゅうとうしょまき133
  2. ^ どおりかんまき226
  3. ^ どおりかんまき227
  4. ^ どおりかんまき228
  5. ^ a b どおりかんまき229
  6. ^ どおりかんまき230

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]