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柳生やぎゅう久通ひさみち

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柳生やぎゅう久通ひさみち
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき - 後期こうき
生誕せいたん のべとおる2ねん1745ねん
死没しぼつ 文政ぶんせい11ねん8がつ24にち1828ねん10月2にち
別名べつめい 玄蕃げんば通称つうしょう
官位かんい したがえ主膳しゅぜんただし
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ 旗本はたもと
主君しゅくん 徳川とくがわ家治いえはる家斉いえなり
氏族しぞく 柳生やぎゅう (播磨はりままもる)
父母ちちはは 柳生やぎゅう久隆ひさたか
兄弟きょうだい 久通ひさみち小栗おぐりしんやす森川もりかわしゅんおや
ひさひさつつみ
テンプレートを表示ひょうじ

柳生やぎゅう 久通ひさみち(やぎゅう ひさみち)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうきから後期こうきにかけての旗本はたもと通称つうしょう玄蕃げんば官位かんいしたがえ主膳しゅぜんせい歴代れきだい勘定かんじょう奉行ぶぎょうなかもっとなが期間きかん(28ねんきょうつとめた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

日付ひづけ旧暦きゅうれき

逸話いつわ[編集へんしゅう]

松平まつだいら定信さだのぶ近習きんじゅばんつとめた水野みずのためちょう市中しちゅうからあつめたうわさ記録きろくした『よしの冊子さっし』によると、町奉行まちぶぎょう就任しゅうにんした当初とうしょ、「3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ剣術けんじゅつ指南しなんやくつとめた柳生やぎゅう一族いちぞく家系かけいもの町奉行まちぶぎょうになった[注釈ちゅうしゃく 1]」と江戸えどちゅううわさになったとある[1]

町奉行まちぶぎょうとしての仕事しごとぶりは、「白洲しらすにおいては、たいした知恵ちえず、衣服いふくつくろったり、帳面ちょうめんかれていることをかえ穿鑿せんさくしたりしている」とひょうされ、前任ぜんにんしゃ石河いしかわ政武まさたけのような知恵ちえせず、ひさどおりが100ねんつとめても石河いしかわの1ねんぶん仕事しごとにもおよばないとまでわれた。また、仕事しごとねんれすぎるために「かいしからずめんみつ丁寧ていねい」とひょうされ、処理しょり時間じかんがかかり経費けいひもそのぶん余計よけいにかかったという[2]

勘定かんじょう奉行ぶぎょう上座かみざ就任しゅうにんした久通ひさみちは、老中ろうじゅう松平まつだいら定信さだのぶにはられ、当時とうじ勘定かんじょう奉行ぶぎょうだった根岸ねぎし鎮衛たちが申請しんせいしてもなかなか承知しょうちしなかった案件あんけんを、久通くつうたのんで上申じょうしんしてもらったら、すぐに許可きょかりたという。仕事しごとには熱心ねっしんであったが、同時どうじ江戸城えどじょうからの退出たいしゅつ時間じかん非常ひじょうおそかった。久通くつう部下ぶかである勘定かんじょうたちは、奉行ぶぎょうかえらないのでさき退出たいしゅつするわけにもいかず、そのために毎日まいにちのように日没にちぼつ下城げじょうすることをいられ、非常ひじょう難儀なんぎした。同僚どうりょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうである久世くぜひろみんから「もうよかろふ」と催促さいそくされても仕事しごとげず、寛政かんせい4ねん1792ねん)に定信さだのぶ久世くぜとおして「あつとき勘定かんじょうしょはやめに仕事しごとえたほうがいい」とつたえたところ、久通ひさみちはそのとくおそくまで仕事しごとをし、その同様どうようおそくまでしろのこって仕事しごとつづけたという[3]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

創作そうさくじょう柳生やぎゅう久通ひさみち[編集へんしゅう]

荒山あらやまてっ時代じだい小説しょうせつがん伝説でんせつ』では、小野おの一刀いっとうりゅう剣客けんかく設定せっていされている遠山とおやま景元かげもとひさどおりあらそっているが、久通ひさみち柳生やぎゅう宗矩むねのりのような剣術けんじゅつひいでた能吏のうりとして描写びょうしゃされている。また、内田うちだまさるはれ経済けいざい小説しょうせつ家康いえやすくんの経済けいざいがく入門にゅうもん』では、経済けいざいどおりとして描写びょうしゃされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 久通くつう祖父そふ・十郎右衛門久辰は村田むらたせい名乗なの剣術けんじゅつであったが、当時とうじまだ甲府こうふ藩主はんしゅであった徳川とくがわ家宣いえのぶつかえていたころに、柳生やぎゅう藩主はんしゅ柳生やぎゅう備前びぜんもりしゅんかた柳生やぎゅうせいしょうすることをゆるされた。以後いご、その子孫しそん柳生やぎゅう名乗なのることになったのであり、ひさどおり柳生やぎゅう宗矩むねのり血筋ちすじというのはあやまりである。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 武士ぶし評判ひょうばん』95ぺーじ
  2. ^ 武士ぶし評判ひょうばん』97 - 99ぺーじ
  3. ^ 武士ぶし評判ひょうばん』132 - 135ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 山本やまもと博文ひろぶみ武士ぶし評判ひょうばん 『よしの冊子さっし』にみる江戸えど役人やくにん通信つうしん簿』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2011ねん