(Translated by https://www.hiragana.jp/)
楯岡氏 - Wikipedia コンテンツにスキップ

楯岡たておか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
楯岡たておか
家紋
さんきり
きく
本姓ほんせい 清和せいわはじめ最上もがみりゅう
いえ 楯岡たておかまんこく
最上もがみ満直みつただよんなん
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 出羽でわこく
おも根拠地こんきょち 出羽でわこく
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

楯岡たておか(たておかし)は、清和せいわはじめ足利あしかがながれ斯波しばぶんぞくである戦国せんごく大名だいみょう最上もがみ一門いちもん氏族しぞく

概要がいよう[編集へんしゅう]

最上もがみ出羽でわこくうち最上もがみぐん村山むらやまぐん各地かくちぶんぞく配置はいちした。楯岡たておかもそのひとつである。楯岡たておかじょう配置はいちされた最上もがみ満直みつただよんなんまんこくとする。戦国せんごく時代じだいにはおおくの最上もがみ一門いちもん離反りはんするなかで、楯岡たておか一時いちじ、庶流の長瀞ながとろとともに最上さいじょうはちだて加入かにゅうする。天正てんしょう5ねん1577ねん)、最上もがみ義光よしみつはちだて盟主めいしゅ天童てんどう攻撃こうげきすると、楯岡たておかまんえい天童てんどうがわにつき、宗家そうけたいして明確めいかく反旗はんきひるがえした。しかし、天正てんしょう8ねん1580ねん)、義光よしみつふたた天童てんどうよりゆきひさ攻撃こうげきすると、天童てんどうがわ寝返ねがえりが相次あいつ敗北はいぼくまんえい自害じがいした。家督かとく一族いちぞく楯岡たておかまんしげる相続そうぞく、そのつね最上もがみ追従ついしょうし、まんしげる最上もがみ義光よしみつ片腕かたうでとして活躍かつやく各地かくち武勲ぶくんげて慶長けいちょう出羽いずは合戦かっせんこう由利ゆりぐん45000せきあたえられ、居城きょじょうとして本荘ほんじょうしろ本城ほんじょうじょう)をきずき、以後いご本城ほんじょう名乗なのった。しかし元和がんわ8ねん1622ねん最上もがみ騒動そうどう最上もがみ幕命ばくめいにより改易かいえきされると、まんしげる満広みつひろ兄弟きょうだいらはその身柄みがら酒井さかい忠世ただよあづけられた。そのゆるされて忠世ただよつかえ、本城ほんじょう雅楽ががくあたま酒井さかい前橋まえばしはん姫路ひめじはん)の重臣じゅうしんとしてつづいた[1]

まんしげる所領しょりょうには義光よしみつおとうと楯岡たておかじょうあたえられ、楯岡たておかこうただしとあらためて楯岡たておか名乗なのった。最上もがみ改易かいえきひかりじき豊前ぶぜん細川ほそかわ御預おあづけのとなった。ていじき細川ほそかわ忠利ただとしつかえ、肥後ひご熊本くまもとはんでは知行ちぎょう1000せき楯岡たておか細川ほそかわ重臣じゅうしんとしてつづいた[2]

歴代れきだい当主とうしゅ一族いちぞく[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 最上もがみ義光よしみつ歴史れきしかん最上さいじょう家臣かしん余録よろく ~られざる最上さいじょう家臣かしんたちの姿すがた~【本城ほんじょうみつるしげ (11)】』
  2. ^ 肥後ひご細川ほそかわはん拾遺しゅういしん肥後ひご細川ほそかわはんさむらいちょう【た】の 楯岡たておかしょう文吾ぶんご

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]