(Translated by https://www.hiragana.jp/)
津観音 - Wikipedia コンテンツにスキップ

観音かんのん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
観音かんのん
所在地しょざいち 三重みえけん大門だいもん32ばん19ごう
位置いち 北緯ほくい3443ふん14.40びょう 東経とうけい13630ふん47.59びょう / 北緯ほくい34.7206667 東経とうけい136.5132194 / 34.7206667; 136.5132194座標ざひょう: 北緯ほくい3443ふん14.40びょう 東経とうけい13630ふん47.59びょう / 北緯ほくい34.7206667 東経とうけい136.5132194 / 34.7206667; 136.5132194
山号さんごう めぐみ日山ひやま
宗派しゅうは 真言宗しんごんしゅう醍醐だいご
本尊ほんぞん せい観世音菩薩かんぜおんぼさつ
国府こくふ阿弥陀あみだ
創建そうけんねんつて和銅わどう2ねん709ねん
正式せいしきめい 別格べっかく本山ほんざん めぐみ日山ひやま観音寺かんおんじ大宝たいほういん
札所ふだしょとう

三重みえ四国しこくはちじゅうはち箇所かしょ67ばん札所ふだしょ
伊勢いせ西国さいこくさんじゅうさんしょ観音かんのん霊場れいじょう14ばん札所ふだしょ
真盛しんぜい上人しょうにん25霊場れいじょう15ばん札所ふだしょ 日本にっぽんさん大観たいかんおん

勢津せいづ七福神しちふくじん1ばん札所ふだしょ
文化財ぶんかざい 本文ほんぶん参照さんしょう
公式こうしきサイト 観音かんのん
法人ほうじん番号ばんごう 5190005000773 ウィキデータを編集
津観音の位置(三重県内)
津観音
観音かんのん
観音かんのん (三重みえけん)
テンプレートを表示ひょうじ

観音かんのん(つかんのん)は、三重みえけん大門だいもんにある寺院じいん正式せいしき寺号じごうめぐみ日山ひやま観音寺かんおんじ大宝たいほういん(えにちざんかんのんじだいほういん)であり[1]宗派しゅうは真言宗しんごんしゅう醍醐だいご別格べっかく本山ほんざん

本尊ほんぞん聖観音しょうかんのん菩薩ぼさつ浅草あさくさ観音かんのん大須おおす観音かんのんならんで日本にっぽんさん大観たいかんおんひとつとされる。大門だいもん地区ちくは、どうてら門前もんぜまちから繁華はんかがいとして発展はってんした。三重みえけんでは専修寺せんしゅうじいで2番目ばんめ参拝さんぱいしゃすうおお寺院じいんであり、2013ねん平成へいせい25ねん)には23まんにん参拝さんぱいした[2]

本尊ほんぞんほか崇敬すうけいあつめてきたのが「国府こくふ 阿弥陀如来あみだにょらい」とばれるさん尊像そんぞうである。秘仏ひぶつであるが、毎月まいつき18にちなどに開帳かいちょうされる[3]江戸えど時代じだい江戸えどはこんで出開帳でがいちょうおこなったことからひろられるようになった。伊勢神宮いせじんぐう往復おうふく参拝さんぱいしゃえ、「阿弥陀あみだまい(まい)らねばかた参宮さんぐう」とわれるようになった。てらでこの阿弥陀あみだてんあきら大神おおがみ本地ほんじふつ位置付いちづけていたように、神仏しんぶつ習合しゅうごう伝統でんとうとしている。2012ねんには、観音寺かんおんじ毘沙門天びしゃもんてん一番いちばん札所ふだしょとして「伊勢いせ七福神しちふくじんめぐり」がひらけそうされた[4]

歴史れきし[編集へんしゅう]

草創そうそう[編集へんしゅう]

いきおい雑記ざっき』(近世きんせい地誌ちしとうつたえる伝承でんしょうによれば、創建そうけん奈良なら時代じだいはじめ、和銅わどう2ねん709ねん)に伊勢いせ阿漕あこぎうら漁夫ぎょふあみ聖観音しょうかんのん立像りつぞうがかかり、これを本尊ほんぞんとして開山かいさんしたのがはじまりであるという。しかし度重たびかさなる災害さいがいったためか、以後いご中世ちゅうせいまでの記録きろく一切いっさいのこっていない。観音かんのんかんする現存げんそん最古さいこ明確めいかく文献ぶんけんは、室町むろまち時代じだいえいとおる2ねん1430ねん)、将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのり朝命ちょうめいほうじて観音寺かんのんじ境内けいだい三重みえとうおよめぐみおといん建立こんりゅうし、若干じゃっかん地領ちりょうけたことにかんするものである。観音寺かんのんじはもとは現在げんざい柳山やなぎやまにあり、えいとおる2ねん時点じてん観音寺かんおんじ境内けいだいには堂宇どううならんでいたのはたしかである。康正こうせい元年がんねん1455ねん)、当時とうじ守護しゅごだいである長野ながの大和やまともりきょうだかからの下知げじじょう武家ぶけ様式ようしき文書ぶんしょ)によると、室町むろまち時代ときよ観音寺かんのんじ開発かいはつのために領主りょうしゅ特別とくべつ庇護ひごけたことがられている。この時代じだい文献ぶんけん見出みだせる境内けいだい建物たてものは、観音寺かんおんじめぐみおといん不動院ふどういん三重みえとうおよび、当初とうしょ観音寺かんおんじとはべつにあったろくだいいん大宝たいほういん)のみである。

このうち不動院ふどういんについての史料しりょうでは、延徳えんとく2ねん1490ねんはるごろ西にしらいてら開基かいきで、天台てんだい真盛さねもりむね宗祖しゅうそ真盛しんぜい上人しょうにんが、伊勢いせこくくだりさい観音寺かんおんじ境内けいだいにあった不動院ふどういん滞留たいりゅうして、観音堂かんのんどうにて諸人もろびと念仏ねんぶつすすめたという。このため、不動院ふどういん本堂ほんどう焼失しょうしつ)には本尊ほんぞん不動明王ふどうみょうおうわきだん真盛さねもり上人しょうにん木像もくぞう安置あんちしていた。そして西にしらいてら住職じゅうしょくすすむさんさいはまず不動院ふどういんはいり、西にしらいてらなか出迎でむかえをけて入山にゅうざんすることがれいとなって、近年きんねんまでまもられていた。しかしあかりおう7ねん1498ねん地方ちほうだい地震じしんがありぜん海水かいすいひたされたため、近在きんざい民家みんかとも観音寺かんのんじ現在げんざい大門だいもんまち移転いてんした。

大宝たいほういんろくだいいん[編集へんしゅう]

ぶんやす元年がんねん1444ねん)、のち観音寺かんおんじ塔頭たっちゅう境内けいだいにあるいん)となるろくだいいん大宝たいほういん)が創建そうけんされる。ろくだいいん元々もともと河芸かわげぐん窪田くぼたにあり、蓬莱山ほうらいさんろくだいいんごうした。東坊城ひがしぼうじょう猶子ゆうしとなった長円ちょうえん僧正そうじょう開基かいきである。長円ちょうえん僧正そうじょうこう花園天皇はなぞのてんのうより勅願ちょくがん綸旨りんじという天皇てんのうからの祈祷きとうねがいをしるした命令めいれい文書ぶんしょたまわっており、朝廷ちょうていからの信任しんにんあつさがうかがえる。いで長慶ちょうけい上人しょうにん東坊城ひがしぼうじょう猶子ゆうしとなり、えいただし16ねん1519ねんこう奈良なら天皇てんのう勅額ちょくがく宸翰しんかん)という天皇てんのう自筆じひつしょたまわった。このころよりろくだいいん東坊城ひがしぼうじょうおよ宮中きゅうちゅう関係かんけいふかまり、大宝たいほういん住職じゅうしょく代々だいだい東坊城ひがしぼうじょうとの猶子ゆうし関係かんけいむすことれいとなり、このならわしは近代きんだいいたるまでまもられていた。このおんむくいるため、ろくだいいん宮中きゅうちゅう祈祷きとう巻数かんすうちゃ奉納ほうのうするようになり、だいひさし元年がんねん1521ねんこう柏原かしわばら天皇てんのうより女房にょうぼう奉書ほうしょとどけられ、いで天文てんもん3ねん1534ねん)にはこう奈良なら天皇てんのうからの女房にょうぼう奉書ほうしょ東坊城ひがしぼうじょうとおしてとどけられた。とく奈良なら天皇てんのうからはえい宣旨せんじ住職じゅうしょく寺院じいんたいしての、称号しょうごう僧階そうかい授与じゅよかんする文書ぶんしょ)をたまわっている。この時点じてん相当そうとう寺格じかくあるだいてらであったと推定すいていされるが、えいろく8ねん1565ねん織田おだ北畠きたばたけ両家りょうけ合戦かっせんさい兵火へいかまれ焼失しょうしつしてしまう。

中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

室町むろまち時代じだいえいろく11ねん1568ねん)には、伊勢いせこく上野うえのじょう河芸かわげまち上野うえの)を居城きょじょうとしていた織田おだ信長のぶながおとうと信包のぶかが、安濃あのうじょうおも細野ほそのふじあつしいをれて、観音寺かんおんじにてその誓紙せいしわした。その城主じょうしゅとなった織田おだ信包のぶかねは、天正てんしょう8ねん1580ねん古刹こさつろくだいいんはいほろびなげき、ろくだいいんみっつの寺院じいん観音かんのん境内けいだいうつし、以前いぜんからあった不動院ふどういんめぐみおといんとも一山ひとやま再興さいこうした。

織田おだ信包のぶかね再興さいこうしたとき鈴鹿すずか国府こくふ阿弥陀如来あみだにょらいりょうわきさむらいろくだいいんうつ本尊ほんぞんとした。これを国府こくふ阿弥陀あみだしょうし、伊勢神宮いせじんぐうてんあきら大神おおがみ本地ほんじほとけ神仏しんぶつ習合しゅうごう)としてひろ庶民しょみん開帳かいちょうし、江戸えど時代じだいには伊勢いせ参宮さんぐう道者どうしゃ増加ぞうかするにともなってさいきゃくかかとせっするようになった。このため、かげまいさいには道中どうちゅう観音寺かんおんじって参拝さんぱいすることがならいとなりまいらねばかたまいわれる由縁ゆえんとなった。江戸えど時代じだい遠路えんろものにとっておかげまいりはまさに一生いっしょういちだいたびであった。現在げんざいのように交通こうつう手段しゅだん整備せいびされていなかったため、道中どうちゅうなんらかの理由りゆうたび中断ちゅうだんしなくてはならないものは、観音寺かんおんじにて国府こくふ阿弥陀如来あみだにょらいと、伊勢神宮いせじんぐう方角ほうがくおがんでから帰路きろについたとわれている(このような要所ようしょ日本にっぽん各地かくち存在そんざいしていた)。

また大宝たいほういんだいきゅうだいいん法印ほういんちょう堯はすぐれた書家しょかで、豊臣とよとみ秀吉ひでよし学問がくもん師範しはんであったので、秀吉ひでよし出陣しゅつじんさいにはつね祈念きねんおこたらなかった。この恩義おんぎむく秀吉ひでよしろくだいいん寺領じりょうひゃくせきする朱印しゅいんじょうくだした。ちょう堯法しるし(あざな)を大宝たいほうぼうといったところから、こののちろくだいいん大宝たいほういんぶこととなった。しかし、安土あづち桃山ももやま時代じだい慶長けいちょう5ねん1600ねん)、石田いしだ三成みつなりかた軍勢ぐんぜいじょうめたとき兵火へいかかかいちやま堂宇どううぼうしゃみな焼失しょうしつしてしまった。

近世きんせい[編集へんしゅう]

はん初代しょだい藩主はんしゅ藤堂とうどう高虎たかとら

江戸えど時代じだいはいると、慶長けいちょう13ねん1608ねん藤堂とうどう高虎たかとら伊予いよこくからうたてふうじせられてしん藩主はんしゅとなったさいに、観音寺かんのんじじょう鬼門きもんたるとして再建さいけんおおいにたすけた。慶長けいちょう18ねん1613ねん)、観音堂かんのんどう再建さいけんされ、いで元和がんわ3ねん1617ねん)に梵鐘ぼんしょう鐘楼しゅろうどう寛永かんえい6ねん1629ねん)に徳川とくがわ家光いえみつ病気びょうき平癒へいゆ祈願きがんして仁王門におうもん再建さいけんする。ほかにも阿弥陀堂あみだどう護摩ごまどうなどおおくの堂宇どううぼうしゃおよ寺領じりょうほう藩主はんしゅである藤堂とうどうから寄進きしんされ、次第しだい主要しゅよう建物たてもの具備ぐびされていった。

塔頭たっちゅうである大宝たいほういん秀吉ひでよしからたまわったひゃくせき朱印しゅいんじょうが、徳川とくがわ幕府ばくふになってもわること下付かふされた。だい将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでたださんだい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつからもひゃくせき朱印しゅいんじょう下付かふされ、このれい幕末ばくまついたるまの代々だいだい将軍家しょうぐんけからまもられた。観音寺かんのんじのちはんあるじから祈願きがんりょうとしてじゅうせき久居ひさいはんあるじからじゅうせき寺領じりょう頂戴ちょうだいしたが、大宝たいほういん将軍家しょうぐんけ朱印しゅいんじょうであり、こう花園天皇はなぞのてんのうよりこのかた歴代れきだい天皇てんのう勅願ちょくがん綸旨りんじたまわっていたため、観音寺かんおんじ境内けいだいにあっても大宝たいほういん別格べっかくであった。そのため観音寺かんおんじ棟梁とうりょう寺院じいんという立場たちばかれ、場所ばしょ観音寺かんおんじろくぼうそとにあった。

不動院ふどういんにて寛政かんせい2ねん1790ねん)にはほんきょ宣長のりながむか歌会うたかい盛大せいだいおこなわれ、本願ほんがんいんではよしみひさし6ねん1853ねん城下じょうかだい商人しょうにん京都きょうと石門せきもん心学しんがく柴田しばたゆうおうたけおさむ)をまねいて心学しんがく道話どうわかいひらかれたように、文化ぶんかじんあつまる寺院じいんでもあった。そして門前もんぜまちである大門おおもんには、城下じょうかはつ一般いっぱん町民ちょうみんのためのがくかんとしておさむぶんかん開校かいこうした。このころ観音寺かんおんじ境内けいだい風景ふうけい寛政かんせい9ねん1797ねん)にしるされた『伊勢いせ参宮さんぐう名所めいしょ図会ずえ』に、おにさえ節分せつぶん行事ぎょうじともえがかれている。現存げんそんする資料しりょうなかで、江戸えど時代じだい末期まっきいたるまでの観音寺かんおんじ境内けいだいにあったしょどう下記かきとおりである。

  • 観音堂かんのんどう - 慶長けいちょう18ねん(1613ねん創建そうけん[5]
  • 大宝たいほういんろくだいいん) - ぶんやす元年がんねん(1444ねん創建そうけん天正てんしょう8ねん(1580ねん境内けいだい移転いてん
  • めぐみおといん - けいせい元年がんねん(1455ねん創建そうけん天正てんしょう8ねん(1580ねん境内けいだい移転いてん
  • 不動院ふどういん - 創建そうけん年代ねんだいしょう天正てんしょう8ねん(1580ねん観音寺かんおんじ境内けいだい移転いてん
  • おんてら - 創建そうけん年代ねんだいしょうもとかめ年間ねんかん(1570ねん観音寺かんおんじ境内けいだい移転いてん
  • 大願寺だいがんじ - 創建そうけん年代ねんだいしょう天正てんしょう8ねん(1580ねん観音寺かんおんじ境内けいだい移転いてん
  • せんおういん - 創建そうけん年代ねんだいしょう天正てんしょう8ねん(1580ねん観音寺かんおんじ境内けいだい移転いてん
  • 鐘楼しゅろうどう - 元和げんな3ねん(1617ねん創建そうけん
  • 本願ほんがんいん - 元和げんな4ねんごろ(1618ねん創建そうけん
  • 仁王門におうもん - 寛永かんえい6ねん(1629ねん創建そうけん[6]
  • 阿弥陀堂あみだどう - 寛永かんえい17ねん(1640ねん創建そうけん[7]
  • よんてんもん - 寛永かんえい17ねん(1640ねん創建そうけん
  • 護摩堂ごまどう - 寛永かんえい18ねん(1641ねん創建そうけん
  • じゅういちめん観音堂かんのんどう - 文久ぶんきゅう元年がんねん(1861ねん創建そうけん
  • 手水ちょうず屋形やかた - 天保てんぽう7ねん(1836ねん創建そうけん
  • 倶毘どう - 天保てんぽう10ねん(1839ねん創建そうけん
  • 弁財天べざいてんほこら - よしみなが6ねん(1853ねん創建そうけん
  • 梵天ぼんてんどう - 創建そうけん年代ねんだいしょう明治めいじ3ねん(1870ねん再建さいけん

近代きんだい[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしん変革へんかくは、観音寺かんおんじにも多大ただい影響えいきょうあたえた。長年ながねん藩主はんしゅ将軍家しょうぐんけ保護ほごからはなれた観音寺かんのんじは、庶民しょみん祈願きがんしょという本来ほんらい姿すがたかえって、信仰しんこう中心ちゅうしん娯楽ごらく中心ちゅうしんとして市民しみんしたしまれ、発展はってんするにつれて益々ますますにぎわうようになった。境内けいだいには、やしなえせい小学校しょうがっこうだい分校ぶんこう尋常じんじょう小学校しょうがっこう行政ぎょうせい事務じむ区長くちょう役場やくば現在げんざい市役所しやくしょ)、商業しょうぎょう会議かいぎしょ商工しょうこう会議かいぎしょ前身ぜんしん)、銀行ぎんこう集会しゅうかいしょあけぼの寄席よせ)の開設かいせつなど市民しみん帰依きえしょとして、行政ぎょうせい経済けいざい文教ぶんきょう娯楽ごらく中心ちゅうしんてき役割やくわりたした。しかし1945ねん昭和しょうわ20ねん)7がつ28にちよる、アメリカぐん全市ぜんしにわたって投下とうかした焼夷弾しょういだんによって、市街しがい建造けんぞうぶつ大半たいはんとも観音寺かんおんじ堂宇どうう焼失しょうしつした。このとき焼失しょうしつしたのは観音寺かんおんじ山内やまうち寺院じいん7かてらきゅう国宝こくほう観音寺かんおんじ本堂ほんどう大宝たいほういん本堂ほんどうふくむ41むねであり、焼失しょうしつ面積めんせきそう坪数つぼすう900つぼおよんだ。慶長けいちょう年間ねんかん観音堂かんのんどう建立こんりゅうされてから330ねんことであった。

再建さいけん[編集へんしゅう]

戦後せんごの1949ねん昭和しょうわ24ねん)3がつ河芸かわげぐん窪田くぼた安養寺あんようじ本堂ほんどう移築いちくしてかり観音堂かんのんどう落慶らっけいした。1968ねん昭和しょうわ43ねん)には建築けんちく村田むらた治郎じろうによって、戦災せんさい焼失しょうしつしたきゅう本堂ほんどうした観音堂かんのんどう再建さいけんされた。

観音堂かんのんどう落慶らっけいから12ねんの1980ねん昭和しょうわ55ねん)に本格ほんかくてき再建さいけん事業じぎょうはじまり、同年どうねん仁王門におうもんが、1984ねん昭和しょうわ59ねん)に鐘楼しゅろうどうが、1986ねん昭和しょうわ61ねん)に手水ちょうず屋形やかた完成かんせいした。1989ねん平成へいせい元年がんねん)に収蔵しゅうぞうが、1994ねん平成へいせい6ねん)に護摩堂ごまどうが、2001ねん平成へいせい13ねん)に観音かんのん資料しりょうかん三重みえけんはつ木造もくぞう五重塔ごじゅうのとう完成かんせいした。

2022ねんれい4ねん)3がつ18にちには観音堂かんのんどう登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい答申とうしんされ、6月29にちには正式せいしき登録とうろくされた。

おにさえ節分せつぶんかい[編集へんしゅう]

観音かんのんおにおさ行事ぎょうじ名残なごりとしておこなわれている行事ぎょうじ

かつて観音かんのんぞうあみにかかって海上かいじょうからがったときおに観音かんのんぞううばおうとした故事こじ由来ゆらいする。 観音かんのんぞううばいにおに武士ぶしふんした町役まちやくかたなとうって退治たいじする行事ぎょうじで、おにをうまくはらったとしは、豊漁ほうりょうになるといわれたが、あまりのはげしさに死傷ししょうしゃるほどであり、幕末ばくまつ一時いちじ中止ちゅうし明治めいじ4ねん1871ねん)には廃止はいしされた。

昭和しょうわ30年代ねんだいおにさえまめまきがおこなわれるようになり、平成へいせい9ねん1997ねん)におにさえ行事ぎょうじとして復活ふっかつした。現在げんざいかみがたな見立みたてたたけ使つかわれている。

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

観音かんのん資料しりょうかん

しるしけん指定してい文化財ぶんかざい

しるし指定してい文化財ぶんかざい

くに指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 絹本けんぽんちょしょく弘法大師こうぼうだいしぞう 鎌倉かまくら時代じだい[8]

くに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 観音堂かんのんどう

仏教ぶっきょう絵画かいが[編集へんしゅう]

名称めいしょう時代じだい備考びこう

  • りょうさかい曼荼羅まんだら - 江戸えど時代じだい絹本けんぽん着色ちゃくしょく
  • みことしょう曼荼羅まんだら - 室町むろまち時代ときよ絹本けんぽん着色ちゃくしょく
  • 虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつぞう - 鎌倉かまくら時代じだい絹本けんぽん着色ちゃくしょく
  • だい尊像そんぞう - 室町むろまち時代ときよ絹本けんぽん着色ちゃくしょく
  • 不動明王ふどうみょうおうぞう - 室町むろまち時代ときよ絹本けんぽん着色ちゃくしょく
  • 愛染明王あいぜんみょうおうぞう - 室町むろまち時代ときよ絹本けんぽん着色ちゃくしょく
  • だい威徳いとく明王みょうおうぞう - 室町むろまち時代ときよ絹本けんぽん着色ちゃくしょく
  • 金光かねみつあきらさいかちおうけい断簡だんかん - 奈良なら時代じだいむらさき金字こんじ
  • 十二天じゅうにてんぞう - 室町むろまち時代ときよ絹本けんぽん着色ちゃくしょく
  • ふつ涅槃ねはん - 江戸えど時代じだい絹本けんぽん着色ちゃくしょく
  • 十六羅漢じゅうろくらかんぞう - あきら時代じだい刺繍ししゅう
  • 苦行くぎょう釈迦しゃかぞう - あきら時代じだい絹本けんぽん着色ちゃくしょく
  • 白衣はくい観音かんのんぞう - 江戸えど時代じだい狩野かのさがせかそけふで
  • 真言しんごんはちぞう - 江戸えど時代じだい絹本けんぽん着色ちゃくしょく
  • 高野こうやよんしょ明神みょうじんぞう - 江戸えど時代じだい絹本けんぽん着色ちゃくしょく
  • 高野たかのあきら神像しんぞう - 江戸えど時代じだい絹本けんぽん着色ちゃくしょく
  • 僧形そうぎょう八幡やはた神像しんぞう - 江戸えど時代じだい絹本けんぽん着色ちゃくしょく
  • あめたから童子どうじぞう - 江戸えど時代じだいかみほん着色ちゃくしょく
  • 釈迦しゃかじゅうろくぜん神像しんぞう - 南北なんぼくあさ時代じだい絹本けんぽん着色ちゃくしょく
  • こん金銀きんぎんどろ法華経ほけきょう - 南北なんぼくあさ時代じだいいちさんななかん
  • こん金銀きんぎんどろ法華経ほけきょう断簡だんかん - 南北なんぼくあさ時代じだいこん金銀きんぎん交書
  • 千手せんじゅ陀羅尼だらにけい - 平安へいあん時代じだい後期こうきこん金銀きんぎん交書

仏像ぶつぞう[編集へんしゅう]

名称めいしょう時代じだい備考びこう

  • 聖観音しょうかんのん立像りつぞう - 江戸えど時代じだい木造もくぞう
  • 阿弥陀あみださんみこと立像りつぞう - 江戸えど時代じだい木造もくぞう
  • 千手観音せんじゅかんのん坐像ざぞう - 江戸えど時代じだい木造もくぞう
  • 阿弥陀如来あみだにょらい立像りつぞう - 江戸えど時代じだい銅像どうぞう
  • 地蔵じぞう菩薩ぼさつ坐像ざぞう - 江戸えど時代じだい銅像どうぞう

阿弥陀如来あみだにょらい坐像ざぞう-平安へいあん時代じだい木造もくぞう

肖像しょうぞう[編集へんしゅう]

名称めいしょう時代じだい備考びこう

絵画かいが[編集へんしゅう]

名称めいしょう時代じだい備考びこう

  • わたりから天神てんじんぞう - 江戸えど時代じだいつき僊筆
  • 芍薬しゃくやく - 江戸えど時代じだい増山ますやまゆきときふで
  • ぼくうめ - 江戸えど時代じだい藤堂とうどうだかふで
  • けいちんかん瀑図 - 江戸えど時代じだいぬきめいうみふで
  • 山水さんすい - 江戸えど時代じだい中林なかばやしたけほらふで
  • らんたけ - 江戸えど時代じだいかん天寿てんじゅふで
  • からし - 江戸えど時代じだいかん天寿てんじゅひつ
  • 若竹わかたけ - 江戸えど時代じだいしょう田海たうみふで
  • 布袋ほてい - 江戸えど時代じだい奥田おくだ三角さんかくさん
  • 国府こくふ阿弥陀あみだ江戸えど出開帳でがいちょう - 江戸えど時代じだいかみほん墨画ぼくが淡彩たんさい
  • めぐみ日山ひやま観音寺かんおんじ境内けいだい - 江戸えど時代じだいかみほん着色ちゃくしょく
  • 伊勢いせ参宮さんぐう名所めいしょ図会ずえ - 江戸えど時代じだいかみほん版本はんぽん

書跡しょせき典籍てんせき古文書こもんじょ[編集へんしゅう]

名称めいしょう時代じだい備考びこう

  • 智慧ちえ論文ろんぶん まき - 鎌倉かまくら時代じだいかみほん墨書ぼくしょ
  • こう花園天皇はなぞのてんのう宣旨せんじ - 室町むろまち時代ときよ大宝たいほういんあて
  • こう柏原かしわばら天皇てんのう宸翰しんかん - 室町むろまち時代ときよかみほん墨書ぼくしょ
  • こう奈良なら天皇てんのうなが宣旨せんじ - 室町むろまち時代ときよかみほん墨書ぼくしょ
  • こう柏原かしわばら天皇てんのう女房にょうぼう奉書ほうしょ - 室町むろまち時代ときよ東坊城ひがしぼうじょうあて
  • こう奈良なら天皇てんのう女房にょうぼう奉書ほうしょ つう - 室町むろまち時代ときよ東坊城ひがしぼうじょうあて
  • 東山ひがしやま天皇てんのう宣旨せんじ - 江戸えど時代じだい大宝たいほういんあて
  • さくらまち天皇てんのう宣旨せんじ - 江戸えど時代じだい大宝たいほういんあて
  • 桃園ももぞの天皇てんのう宣旨せんじ - 江戸えど時代じだい大宝たいほういんあて
  • ひかりかく天皇てんのう宣旨せんじ - 江戸えど時代じだい大宝たいほういんあて
  • 仁孝天皇にんこうてんのう宣旨せんじ つう - 江戸えど時代じだい大宝たいほういんあて
  • 孝明天皇こうめいてんのう宣旨せんじ - 江戸えど時代じだい大宝たいほういんあて
  • 東坊城ひがしぼうじょうちぎりしょ じゅうつう - 江戸えど時代じだい大宝たいほういんあて
  • 東坊城ひがしぼうじょうちょう書状しょじょう - 室町むろまち時代ときよ大宝たいほういんあて
  • ろくだいいん開基かいきしょ - 江戸えど時代じだいかみほん墨書ぼくしょ
  • めぐみ日山ひやま観音寺かんおんじせい戒状 - 江戸えど時代じだいかみほん墨書ぼくしょ
  • 国府こくふ阿弥陀堂あみだどう勧進かんじんちょう - 江戸えど時代じだいかみほん墨書ぼくしょ
  • 国府こくふ阿弥陀あみだ袈裟けさふくじょう - 桃山ももやま時代じだいかみほん墨書ぼくしょ
  • 外宮げくういち神主かんぬし譲状ゆずりじょう - 桃山ももやま時代じだいかみほん墨書ぼくしょ
  • 無量寿寺むりょうことぶきじ奉納ほうのうじょう - 桃山ももやま時代じだいかみほん墨書ぼくしょ
  • 市河いちかわ三朗さぶろうみぎ衛門えもん寄進きしんじょう - 桃山ももやま時代じだいかみほん墨書ぼくしょ
  • 天神てんじん名号みょうごう - 江戸えど時代じだい菅原すがわらつなただしふで
  • 豊臣とよとみ秀吉ひでよしばんぶつ - 桃山ももやま時代じだい大宝たいほういんあて
  • 豊臣とよとみ秀吉ひでよし朱印しゅいんじょう つう - 桃山ももやま時代じだい大宝たいほういんあて
  • 伊勢いせこく安芸あきぐん窪田くぼた幡多はたてら屋敷やしき門前もんぜん検地けんちちょうこと - 桃山ももやま時代じだい
  • 伊勢いせこく一志郡七栗内中村郷上津前帳 - 桃山ももやま時代じだい
  • 分部わけべ隼人はやと書状しょじょう - 桃山ももやま時代じだい大宝たいほういんあて
  • 片桐かたぎり且元とうさんめい連署れんしょじょう - 桃山ももやま時代じだい分部わけべ左京さきょうあて
  • 徳川とくがわ秀忠ひでただ朱印しゅいんじょう - 江戸えど時代じだい大宝たいほういんあて
  • 徳川とくがわ家光いえみつ朱印しゅいんじょう - 江戸えど時代じだい大宝たいほういんあて
  • 伊達だてまさしむね書状しょじょう - 江戸えど時代じだいかみほん墨書ぼくしょ
  • せきもりしんはんぶつ - 桃山ももやま時代じだいかみほん墨書ぼくしょ
  • 藤堂とうどう高虎たかとらくろしるしじょう - 江戸えど時代じだいかみほん墨書ぼくしょ
  • 藤堂とうどう高虎たかとら書状しょじょう - 江戸えど時代じだいかみほん墨書ぼくしょ
  • 藤堂とうどう高虎たかとらくろしるしじょう書状しょじょう - 江戸えど時代じだいかみほん墨書ぼくしょ
  • 和漢わかん朗詠ろうえいしゅうきり - 鎌倉かまくら時代じだいつて寂蓮じゃくれんふで
  • 和漢わかん朗詠ろうえいしゅうきり - 鎌倉かまくら時代じだいつて世尊せそんてらぎょうのうふで
  • 和歌わか短冊たんざくはしがつ) - 室町むろまち時代ときよ東坊城ひがしぼうじょうちょうひつ
  • 和歌わか短冊たんざくとなり檮衣) - 室町むろまち時代ときよ東坊城ひがしぼうじょうちょうひつ
  • しょく墨蹟ぼくせき - 江戸えど時代じだいしろかくれとしづるふで
  • 千利休せんのりきゅう書状しょじょう - 桃山ももやま時代じだいみやほうみことろうあて
  • 江月えつきむね書状しょじょう - 江戸えど時代じだい宗室そうしつろうあて
  • 古田ふるた織部おりべ書状しょじょう - 桃山ももやま時代じだいいちあんあて
  • 小堀こぼりとおしゅう書状しょじょう - 江戸えど時代じだいまつえつしゅうあて
  • ほん阿弥あみ光悦こうえつ書状しょじょう - 江戸えど時代じだいかみほん墨書ぼくしょ
  • 金森かなもりそうかず書状しょじょう - 江戸えど時代じだい道祐どうゆうあて
  • 松花堂しょうかどうあきらじょう書状しょじょう - 江戸えど時代じだいほん阿弥あみ光悦こうえつあて
  • 言句ごんく - あきら時代じだいかくれどおりようひつ
  • きのえたつ元旦がんたんしゅくしょ - 江戸えど時代じだい隠元いんげんたかしふで
  • つね瑜伽ゆが) - 江戸えど時代じだい慈雲じうんいんこうふで
  • 千歳ちとせはる) - 江戸えど時代じだい慈雲じうんいんこうひつ
  • 和歌わか短冊たんざく - 江戸えど時代じだい金銀きんぎんほん墨書ぼくしょ
  • 和歌わか懐紙かいし不二ふじ) - 江戸えど時代じだい契沖けいちゅうふで
  • 草書そうしょななぜっ - 江戸えど時代じだい土井どい聱牙ふで
  • 草書そうしょななぜっ - 江戸えど時代じだい斎藤さいとうつたなどうふで
  • 五言ごごん律詩りっし - 江戸えど時代じだいだいまゆ性善せいぜんふで
  • たまものむらさきはしけんななぜっ - 江戸えど時代じだいくもはな上人しょうにんひつ
  • 草書そうしょななぜっ - 江戸えど時代じだい梁川はしかわ星巌せいがんふで
  • ふとしおおやけたれつりななぜっ - 江戸えど時代じだい佐藤さとう一斎いっさいふで
  • 草書そうしょななりつ - 江戸えど時代じだいさとるしんひつ

工芸こうげい[編集へんしゅう]

名称めいしょう時代じだい備考びこう

  • 古銅こどうはないれ - 江戸えど時代じだい
  • 白磁はくじ劃花 花卉かきぶんわん - あかりしん時代じだい
  • 白濁はくだく刷毛ばけ波状はじょうぶん はんつつ茶碗ぢゃわん - 江戸えど時代じだい
  • くろ茶碗ぢゃわん - 江戸えど時代じだい仁阿弥にんあみ道八どうはちさく
  • たけ 茶杓ちゃしゃく - 桃山ももやま時代じだい千利休せんのりきゅうさく
  • きり蒔絵まきえ ちゅう - 江戸えど時代じだい、(ふじしげるはり描銘
  • あおはな 花鳥かちょう寸切ずんぎり香合こうごう - きよし時代じだいけいとくかま
  • 堆朱ついしゅ 楼閣ろうかく人物じんぶつ香合こうごう - きよし時代じだい
  • 褐釉 そうみみ四方しほうすいゆび - 江戸えど時代じだい
  • あめそうみみすいゆび - 江戸えど時代じだい 
  • ゆき中松なかまつとおるはち - 江戸えど時代じだい仁阿弥にんあみ道八どうはちさく
  • あおはな あかかべはち - きよし時代じだいけいとく鎮窯
  • 赤絵あかえ 龍文たつふみはち - 江戸えど時代じだい安藤あんどうしょう
  • 大丸おおまるがま - 桃山ももやま時代じだいつじ与次郎よじろうさく
  • 霰真がたがま - 江戸えど時代じだい鉄製てつせい
  • かたち風炉ふろ - 江戸えど時代じだいどうせい
  • 色絵いろえ 楼閣ろうかく山水さんすい脚付あしつきはちかくさら - 江戸えど時代じだい九谷くたに様式ようしき
  • あおはな 花卉かきぶんはなさら - じゅうはち世紀せいき - オランダ
  • すなちょう 建水けんすい - 江戸えど時代じだい
  • あい刺繍ししゅう さんかめぶんだい袱紗ふくさ - 明治めいじ昭和しょうわ - うら緑地りょくち刺繍ししゅう梅花ばいかぶん
  • 孔雀くじゃくぶんかおる - 江戸えど時代じだい金銅かなどうせい
  • にわとりぶんかおる - 江戸えど時代じだいどうせい
  • 御座船ござぶね天井てんじょう - 桃山ももやま時代じだい
  • 鬼面きめんぶん鬼瓦おにがわら - 江戸えど時代じだい
  • 松尾まつお芭蕉ばしょう句碑くひ - 江戸えど時代じだい
  • 梵鐘ぼんしょう - 江戸えど時代じだい
  • 天水てんすいはち - 江戸えど時代じだい鉄製てつせい
  • 燈籠どうろう - 江戸えど時代じだいどうせい
  • 水盤すいばん - 江戸えど時代じだいどうせい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 観音かんのんについて”. 観音かんのん. 2019ねん12月1にち閲覧えつらん
  2. ^ 観光かんこう地点ちてん等分とうぶんるいごとの入込はいりこめ客数きゃくすう”. 三重みえけん雇用こよう経済けいざい 観光かんこう国際こくさいきょく 観光かんこう政策せいさく. 2015ねん1がつ24にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2015ねん1がつ25にち閲覧えつらん
  3. ^ 寺社じしゃ逸品いっぴん国府こくぶ阿弥陀あみださん尊像そんぞう観音かんのんふたつの信仰しんこう 同居どうきょ象徴しょうちょうに『朝日新聞あさひしんぶん朝刊ちょうかん2015ねん8がつ15にち(東海とうかいばん)
  4. ^ 国府こくふ 阿弥陀あみださんみこと」「神仏しんぶつ習合しゅうごうなな福神ふくじん毘沙門天びしゃもんてん~」”. 観音かんのんホームページ. 2017ねん8がつ16にち閲覧えつらん
  5. ^ 三重みえけん名所めいしょ絵葉書えはがき観音寺かんおんじ本堂ほんどう
  6. ^ 三重みえけん名所めいしょ絵葉書えはがき観音寺かんおんじ仁王門におうもん
  7. ^ 三重みえけん名所めいしょ絵葉書えはがき
  8. ^ 平成へいせい28ねん8がつ17にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい116ごう
  9. ^ 江戸えど時代じだい日本にっぽん画家がか、1780-1852

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]