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玉川たまがわみや

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玉川たまがわ宮家みやけ
家紋
いえ 皇子おうじぼう
長慶天皇ちょうけいてんのう皇子おうじ
種別しゅべつ 皇族こうぞく世襲せしゅう宮家みやけ
出身しゅっしん 大和やまとこく
おも根拠地こんきょち 紀伊きいこく伊都いとぐん玉川たまがわ
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

玉川たまがわみや(たまがわのみや)は、日本にっぽん皇室こうしつにおける宮家みやけひとつ。室町むろまち時代ときよ存在そんざいした。

概要がいよう

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きゅう南朝なんちょうけい世襲せしゅう宮家みやけひとつ。一般いっぱんには、長慶天皇ちょうけいてんのう皇子おうじいみなしょう)をいえとするとかんがえられている。南北なんぼくあさ合一ごういつ皇位こうい回復かいふく目指めざしてはんまく姿勢しせいくずさなかった小倉おぐらみやいえとは対照たいしょうてきに、がいして幕府ばくふ体制たいせい順応じゅんのうてき態度たいどっていたが、史料しりょうすくないために系譜けいふかんしてはあいまいなてんおおい。玉河たまかわみやとも。

みやごうは、長慶天皇ちょうけいてんのう晩年ばんねんごしたとの伝説でんせつがある紀伊きいこく伊都いとぐん玉川たまがわ和歌山わかやまけん九度山くどやままち)に由来ゆらいするとされるが、この玉川たまがわ宮家みやけとの直接的ちょくせつてきかかわりはあきらかでない。

系図けいず

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98だい天皇てんのう
長慶天皇ちょうけいてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
初代しょだい玉川たまがわみや
ぼうおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2だい玉川たまがわみや
ぼうおう
 
ひがし御方おかた
足利あしかが義教よしのり側室そくしつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
梵勝
 
梵仲
 

梵勝・梵仲は一般いっぱん玉川たまがわみやまごとされることがおおいが、そのちち不明ふめいである。ただし、以下いか概略がいりゃくべる玉川たまがわみや動向どうこういちだいによるものか、あるいはだいわたるものかについては、識別しきべつするじゅつまったくないので、もし後者こうしゃであれば、2だい玉川たまがわみやなる人物じんぶつを梵勝・梵仲のちち想定そうていすることもできないわけではない。

概略がいりゃく

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おうひさし21ねん1414ねん)4がつ足利あしかが義満よしみつなな回忌かいきまもるせいいんみやとともに供物くもつけんじたとあるのがはつである。せいちょう元年がんねん1428ねん)10がつ宮家みやけりょうしょおもわれる田中たなかそう深瀬ふかせさとをめぐる訴訟そしょうかんして、担当たんとう奉行ぶぎょう飯尾いのお肥前ひぜんもり督促とくそく依頼いらいしており、えいとおる3ねん1431ねん)12がつむすめひがし御方おかた)が17さい将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのりのもとへまいりこうし、その侍女じじょとなっている。えいとおる5ねん1433ねん)11月にはまもるせいいんみや使者ししゃ阿野あのみのるにことづけて、前月ぜんげつ死去しきょしたこう小松こまつ上皇じょうこう弔問ちょうもんをした。また、和歌わかたしなんでいたようで、えいとおる5ねん1433ねん)9がつ小松こまつ上皇じょうこうこう花園天皇はなぞのてんのう伏見ふしみみやさだなり親王しんのう常盤ときわ井宮いのみやちょく明王みょうおうらとひゃくしゅ詠進えいしんし、えいとおる6ねん1434ねん)4がつそのはしさく表題ひょうだい)のしるかたについて、さだなり親王しんのうとともに飛鳥井あすかい雅世まさよつうじて中山なかやまじょうおやたずねている。同年どうねん5がつには天皇てんのうからひゃくしゅいちかんたまわり、10月には伏見ふしみみや常盤ときわ井宮いのみやらとともに11月の玉津島たまつしま神社じんじゃ法楽ほうらくへの詠進えいしんめいじられた。

以上いじょう動向どうこうからさっするに、玉川たまがわみや幕府ばくふ体制たいせい順応じゅんのうして、公家くげ社会しゃかいにすっかり馴染なじんでいたものとおもわれる。しかし、えいとおる6ねん1434ねん将軍しょうぐん義教よしのりによって南朝なんちょう根絶こんぜつ方針ほうしんされ、これにのっとって、小倉おぐらみやまもるせいいんみや皇族こうぞくがともに僧籍そうせきはいっていることをかんがえると、玉川たまがわみやにもなんらかの影響えいきょうおよんだことは想像そうぞうかたくない。当時とうじ鎌倉かまくら公方くぼうはんまく行為こうい大和やまとえいとおるらんなどの騒乱そうらん頻発ひんぱつしていたため、反乱はんらんぐんのシンボルとなる南朝なんちょうすめらぎたね存在そんざい幕府ばくふ危惧きぐするのは自明じめいであった。

以降いこう史料しりょうとぼしく、えいとおる9ねん1437ねん)7がつ義教よしのり対立たいりつしていた大覚寺だいかくじ義昭よしあき逐電ちくでんしたさい玉川たまがわみやまもるせいいんみやこうじんもこれに同行どうこうしたとされ、その数日すうじつかれらをって逐電ちくでんした「南方みなかたみや」とは玉川たまがわみやのことをしている可能かのうせいがある。なお、同年どうねん11がつ義教よしのり側室そくしつとなっていたひがし御方おかた密通みっつうのために流罪るざいしょせられたというのも、時期じきてき南朝なんちょうすめらぎたねたいする圧力あつりょくがあったことをうかがわせる。嘉吉よしきち3ねん1443ねん玉川たまがわみやすで因幡いなばに遷っていたというが、事情じじょう不明ふめいで、その消息しょうそくられていない。

子孫しそんには、「玉川たまがわみや末孫ばっそん」という梵勝(梵卲)・梵仲兄弟きょうだいられる。ともに生年せいねんしょうであるが、将軍しょうぐん義教よしのり猶子ゆうしとしてそれぞれ5さい・4さいとき相国寺しょうこくじかつしょくとなり、衣装いしょうには将軍しょうぐんより毎年まいとし2000疋が各人かくじん支給しきゅうされたという(『かげ凉軒ろく文明ぶんめい19ねん7がつ24にちじょう)。梵勝はのちどうてらけいくも院主いんじゅとなるも、とおるとく4ねん1455ねん2がつ28にち兄弟きょうだいともに逐電ちくでんして行方ゆくえ不明ふめいになった。しばかずらもり村田むらたただしこころざしは、長禄ちょうろく元年がんねん1457ねん)の長禄ちょうろくへん殺害さつがいされた北山きたやまみや河野こうのみやがこの兄弟きょうだいたるとかんがえている。

なお、村田むらたによれば、龍泉寺りゅうせんじつたわったと推定すいていされる後醍醐天皇ごだいごてんのう木像もくぞうがあり、その厨子ずしけられたたからいさお3ねん1451ねん)の年紀としのり奥書おくがきには、ぞう作者さくしゃを「長慶ちょうけいいんさんせいみや」としるしてあったという。これが梵勝・梵仲の兄弟きょうだいたるのかはさだかでないが、すくなくとも長慶天皇ちょうけいてんのう曾孫そうそんがいたことだけはたしかであろう。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • かん政友せいゆう南山なんざんすめらぎたね」(『かん政友せいゆう全集ぜんしゅう国書刊行会こくしょかんこうかい、1907ねん
  • 村田むらたただしこころざしでん後醍醐天皇ごだいごてんのう木像もくぞうをめぐる史実しじつ」(『村田むらたただしこころざし著作ちょさくしゅう だい1かん 増補ぞうほ南北なんぼくあさ史論しろん思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、1983ねん
  • もりしげるあかつきやみ歴史れきしこう南朝なんちょう後醍醐ごだいごりゅう抵抗ていこう終焉しゅうえん』(角川かどかわ選書せんしょ284) 角川書店かどかわしょてん、1997ねんISBN 9784047032842

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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