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ぜんいん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ぜんいんしんぜんいん

三重みえとう
所在地しょざいち 岐阜ぎふけん不破ふわぐん垂井たるいまち宮代みやしろ2006
位置いち 北緯ほくい3521ふん44.2びょう 東経とうけい13630ふん57.2びょう / 北緯ほくい35.362278 東経とうけい136.515889 / 35.362278; 136.515889座標ざひょう: 北緯ほくい3521ふん44.2びょう 東経とうけい13630ふん57.2びょう / 北緯ほくい35.362278 東経とうけい136.515889 / 35.362278; 136.515889
山号さんごう 朝倉あさくらさん
宗旨しゅうし 天台宗てんだいしゅう
文化財ぶんかざい 三重みえとう本地ほんじどう梵鐘ぼんしょう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
法人ほうじん番号ばんごう 8200005005000 ウィキデータを編集
真禅院の位置(岐阜県内)
真禅院
ぜんいん
ぜんいん (岐阜ぎふけん)
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ぜんいん(しんぜんいん)は、岐阜ぎふけん不破ふわぐん垂井たるいまちにある天台宗てんだいしゅう寺院じいんである。山号さんごう朝倉あさくらさん(あさくらさん)。山号さんごうにちなみあさ倉山くらやましんぜんいん朝倉あさくらてら、またはたん朝倉あさくらさんともばれている。 かつての南宮なんぐう大社たいしゃ僧坊そうぼうであった。

本尊ほんぞん無量むりょう寿ことぶき如来にょらい阿弥陀如来あみだにょらい)、じゅういちめん観世音菩薩かんぜおんぼさつ無量むりょう寿ことぶき如来にょらい南宮なんぐう大社たいしゃ本地ほんじふつ

ふるくから霊験れいけんがあるとわれ、平安へいあん時代じだいうけたまわひらてんけいらんさい朱雀すざく天皇てんのうみことのりれいにより平将門たいらのまさかど調伏ちょうぶく祈願きがんおこなわれている。また、ぜんきゅうねんやくさい後冷泉天皇ごれいぜいてんのういのちにより安倍貞任あべのさだとう追討ついとう祈願きがんがおこなわれている。

境内けいだいには干支えとまも本尊ほんぞん守護しゅごぼとけ)がある。

西にし美濃みのさんじゅうさん霊場れいじょうだいじゅうなな札所ふだしょ美濃みの七福神しちふくじん大黒天だいこくてん

歴史れきし[編集へんしゅう]

ぜんいんは、近隣きんりんにある南宮なんぐう大社たいしゃ旧称きゅうしょう南宮なんぐう神社じんじゃ)と関係かんけいふか寺院じいんである。南宮なんぐう神社じんじゃでは近世きんせいまつまで神仏しんぶつ習合しゅうごう信仰しんこうおこなわれ、神社じんじゃない仏堂ぶつどう仏塔ぶっとう僧坊そうぼうなどがてられていた。明治めいじ初年しょねん神仏しんぶつ分離ぶんりともない、三重みえとう本地ほんじどうなどが神社じんじゃ西方せいほう現在地げんざいちうつされ、あさ倉山くらやましんぜんいんしょうするようになったものである。

伝承でんしょうによれば、ぜんいん前身ぜんしん天平てんぴょう11ねん(739ねん行基ぎょうきにより創建そうけんされたぞう山宮やまのみやしょてら(ぞうはいさんぐうしょじ)であるとされる。そののべ暦年れきねんあいだ(790ねんごろ)、みことのりれいがあり、最澄さいちょうによって南宮なんぐう神社じんじゃげん南宮なんぐう大社たいしゃ)と両部りょうぶ習合しゅうごう神仏しんぶつ習合しゅうごう)され、神宮寺じんぐうじ改称かいしょうしたという。みやしょてらは『行基ぎょうき年譜ねんぷ』にえず、創立そうりつしゃ行基ぎょうきとするのは後世こうせい付託ふたくおもわれるが、後述こうじゅつのようにみやしょてらという寺院じいん奈良なら時代じだい存在そんざいしたことは確認かくにんできる。

ぞく日本にっぽん天平てんぴょう12ねん(740ねん)12月じょうには、「さいわいみやしょてら及曳常泉つねいずみ」(みやしょてらおよび曳常いずみを(聖武天皇しょうむてんのうが)おとずれた)との記事きじがある。これにより、天平てんぴょう12ねん時点じてんいま岐阜ぎふけん垂井たるいまちに「みやしょてら」という寺院じいん存在そんざいしたこと、聖武天皇しょうむてんのうどうてらおとずれたことは史実しじつみとめられる。垂井たるい町内ちょうないにはみやところ寺跡てらあと比定ひていされる奈良なら時代じだい寺院じいんあとがあり、岐阜ぎふけん史跡しせき指定していされている。ただし、この寺院じいんあと発掘はっくつ調査ちょうさ未了みりょうのうちに宅地たくち開発かいはつすすんで遺構いこう破壊はかいされており、このてら南宮なんぐう神社じんじゃ神宮寺じんぐうじ前身ぜんしんであるかどうかは断定だんていできない。

扶桑ふそう略記りゃっきてんけい3ねん(940ねん正月しょうがつ24にちじょうには「美濃みのこく中山南なかさんな神宮寺じんぐうじ」において、延暦寺えんりゃくじそう明達めいたつ平将門たいらのまさかど調伏ちょうぶく修法しゅほうおこなったことがえる。これにより、平安へいあん時代じだいには南宮なんぐう神社じんじゃ神宮寺じんぐうじ存在そんざいしたことがあきらかである。神宮寺じんぐうじ近世きんせいまつまで存続そんぞくしたが、前述ぜんじゅつのように明治めいじ時代じだい初期しょき神仏しんぶつ分離ぶんりともな廃絶はいぜつした。南宮なんぐう神社じんじゃないには神宮寺じんぐうじ以外いがいにも仏教ぶっきょうそうぼうしゃ複数ふくすう存在そんざいしたことは絵図えずとうからもあきらかで、ぜんいんはそうした僧坊そうぼうの1つであった。

近世きんせい記録きろく(「本末ほんまつ分限ぶげんあらためちょう」)には、平将門たいらのまさかどらん調伏ちょうぶくのため、南宮なんぐう神社じんじゃ二ノ宮にのみや十禅師じゅうぜんじしゃしゃそう10めいき、そのとき建立こんりゅうされた僧坊そうぼうの1つがぜんいんであるとされている。

ぶんかめ元年がんねん(1501ねん)、火災かさい焼失しょうしつし、えいただし8ねん(1511ねん)、美濃みの国守くにもりまもる土岐ときまさしぼうにより再建さいけん慶長けいちょう5ねん(1600ねん)には関ヶ原せきがはらたたか南宮なんぐう神社じんじゃとともに焼失しょうしつした。南宮なんぐう神社じんじゃ再建さいけん江戸えど幕府ばくふ3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつにより実施じっしされ、寛永かんえい19ねん(1642ねん)に落成らくせいした。これが現存げんそんする南宮なんぐう大社たいしゃ社殿しゃでんぐんである。現存げんそんするぜんいん三重みえとう本地ほんじどうもこれら社殿しゃでん一連いちれん造営ぞうえいになるもので、元来がんらい南宮なんぐう神社じんじゃ境内けいだい南方なんぽうっていた。

明治めいじ元年がんねん(1868ねん)、神仏しんぶつ分離ぶんりにより、南宮なんぐう神社じんじゃない寺院じいん仏堂ぶつどう統廃合とうはいごうし、当時とうじぜんいん住職じゅうしょく地元じもと人々ひとびとにより現在地げんざいち移築いちくした。明治めいじ4ねん(1871ねん)までに移築いちく完了かんりょうし、あさ倉山くらやましんぜんいんとしてさい出発しゅっぱつした。

昭和しょうわ57ねん(1982ねん)から昭和しょうわ59ねん(1984ねん)にかけてさんじゅうとう修理しゅうりおこなわれた。(昭和しょうわだい修理しゅうり

平成へいせい27ねん(2015ねん)から平成へいせい30ねん(2018ねん)にかけて本地ほんじどう修理しゅうりおこなわれた。(平成へいせいだい修理しゅうり明治めいじ移築いちくさい格天井ごうてんじょう不規則ふきそくならべられていたのを今回こんかい修理しゅうり移築いちくまえ状態じょうたいもどした。さらに、塗装とそう屋根やね形状けいじょう部屋へやあいだ仕切じきりなど調査ちょうさあきらかになったものは復元ふくげん復原ふくげんおこなわれた。

伽藍がらん[編集へんしゅう]

本地ほんじどう修理しゅうりまえ
梵鐘ぼんしょう
  • 本地ほんじどう - きゅう南宮なんぐう大社たいしゃ本地ほんじどう こく重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 観音堂かんのんどう - きゅう宝珠ほうしゅいんきゅう美濃みの西国さいこくだいじゅうななばん札所ふだしょ
  • 三重みえとう - くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 鐘楼しゅろう - 岐阜ぎふけん重要じゅうよう文化財ぶんかざい梵鐘ぼんしょうくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 鉄塔てっとう - 岐阜ぎふけん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 薬師堂やくしどう - 本尊ほんぞん薬師如来やくしにょらい岐阜ぎふけん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 護摩堂ごまどう
  • 弁財天べざいてんどう
  • 十王じゅうおうどう

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

重要じゅうよう文化財ぶんかざいくに指定してい
  • 三重みえとう - 寛永かんえい19ねん(1642ねん建立こんりゅう明治めいじ初年しょねん南宮なんぐう神社じんじゃ境内けいだいから移築いちくされた。長押なげしなどに極彩色ごくさいしょく文様もんようがある。
  • 本地ほんじどう - 入母屋いりもやづくり瓦葺かわらぶき、つまり(屋根やね三角形さんかっけいえるがわ正面しょうめんとする)の仏堂ぶつどう寛永かんえい19ねん(1642ねん建立こんりゅう明治めいじ初年しょねん南宮なんぐう神社じんじゃ境内けいだいから移築いちくされた。
  • 梵鐘ぼんしょう - 無銘むめいだが撞座(つきざ)の位置いち龍頭りゅうずかたなどに古代こだいがね特有とくゆう様式ようしきしめし、奈良なら時代じだいから平安へいあん時代じだい前期ぜんき制作せいさく推定すいていされる。
岐阜ぎふけん指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 木造もくぞう薬師如来やくしにょらい立像りつぞう[1]
  • 鉄塔てっとう[2]

所在地しょざいち[編集へんしゅう]

  • 岐阜ぎふけん不破ふわぐん垂井たるいまち宮代みやしろ朝倉あさくら2006
    • 南宮なんぐう大社たいしゃ西にしやく1km。

交通こうつうアクセス[編集へんしゅう]

鉄道てつどう
バス
くるま

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 木造もくぞう薬師如来やくしにょらい立像りつぞう”. 岐阜ぎふけん. 2013ねん5がつ11にち閲覧えつらん
  2. ^ 鉄塔てっとう”. 岐阜ぎふけん. 2013ねん5がつ12にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 岐阜ぎふけん地名ちめい』、平凡社へいぼんしゃ
  • 岐阜ぎふけん百科ひゃっか事典じてん』、岐阜ぎふにちにち新聞しんぶんしゃ、1968
  • 日本にっぽんとうそうかん』、中西なかにしとおる同朋どうほうしゃ、1978
  • 解説かいせつばんしん指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい 建造けんぞうぶつI』、毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1981

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]