本 ほん 項目 こうもく では、キリスト教 きりすときょう における恩寵 おんちょう (おんちょう、ギリシア語 ご : χάρις , ラテン語 らてんご : Gratia , 英語 えいご : the divine grace , ロシア語 ご : Благодать )、すなわち神 かみ の人間 にんげん に対 たい する働 はたら きかけ[1] 、神 かみ の人類 じんるい に対 たい する慈愛 じあい を意味 いみ する[2] 概念 がいねん につき扱 あつか う。恩恵 おんけい 、聖 せい 寵 ちょう 、神 かみ の恵 めぐ み 、恵 めぐ み とも表記 ひょうき される。
キリスト教 きりすときょう の伝統 でんとう においては、生 せい の変革 へんかく をも意味 いみ することとなっていった[2] 。
旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ における記述 きじゅつ [ 編集 へんしゅう ]
「恵 めぐ み」(ヘブライ語 ご でヘーン )の語彙 ごい は、ユダヤ教 きょう とキリスト教 きりすときょう が正 せい 典 てん とする旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ にある。記述 きじゅつ 例 れい としては
主 おも 、主 おも 、憐み深 ふか く恵 めぐ みに富 と む神 かみ 、忍耐 にんたい 強 つよ く、慈 いつく しみとまことに満 み ち、幾 いく 世代 せだい にも及 およ ぶ慈 いつく しみを守 まも り、罪 つみ と背 そむ きと過 あやま ちを赦 ゆる す。(出 で エジプト記 き 34章 しょう 6〜7節 せつ 、新 しん 共同 きょうどう 訳 やく 聖書 せいしょ から)
などがある。
各 かく 言語 げんご における表記 ひょうき および概念 がいねん [ 編集 へんしゅう ]
「恩寵 おんちょう 」と「憐み」は、関連付 かんれんづ けられて論 ろん じられる事 こと もあるが、日本語 にほんご のみならず日本語 にほんご 以外 いがい の言語 げんご でも別 べつ の語彙 ごい として示 しめ される、厳密 げんみつ には別 べつ の概念 がいねん を持 も つ言葉 ことば である。
[2] 旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ のヘブライ語 ご における「ヘーン(hen)」は、七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ では「χάρις (charis)」と訳 やく され、日本 にっぽん 聖書 せいしょ 協会 きょうかい 訳 わけ 聖書 せいしょ では「恵 めぐ み」「神 かみ の恵 めぐ み」などと訳 やく される。対 たい して、ヘブライ語 ご の「ヘセド (hesed)」には七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ では「エレオス(ἔλεος , eleos)」が当 あ てられ、日本 にっぽん 聖書 せいしょ 協会 きょうかい 訳 やく 聖書 せいしょ では「憐み」などと訳 やく される。
ヘブライ語 ご における諸 しょ 概念 がいねん [ 編集 へんしゅう ]
[1] [2]
「恩寵 おんちょう (神 かみ の恵 めぐ み)」の概念 がいねん の祖 そ 形 がた はヘブライ語 ご 版 はん 旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ およびギリシア語 ご 訳 やく 旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ (七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ )に存在 そんざい する。ヘブライ語 ご 版 ばん 旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ において、「恵 めぐ み」と、これに関連 かんれん のある「憐み」とは、別 べつ の語彙 ごい でい表 いあらわ されている。
ヘーン (「恵 めぐ み」「恩寵 おんちょう 」) - 恩恵 おんけい 的 てき 意味 いみ 。神 かみ が敬虔 けいけん な者 しゃ ・苦 くる しんでいる者 もの を好意 こうい を以 もっ て省 かえり みる事 こと を意味 いみ する。旧約 きゅうやく における多 おお くの場合 ばあい に、契約 けいやく において明 あき らかになったように、選 えら ばれるに値 あたい しない民 みん が神 かみ によって選 えら ばれた事 こと をい表 いあらわ している。
ヘセド (「憐み」) - 契約 けいやく に基 もと づく親愛 しんあい の関係 かんけい 。神 かみ の民 みん に対 たい する神 かみ の態度 たいど のみならず、人々 ひとびと が助 たす け合 あ う義務 ぎむ を負 お いながら互 たが いに向 む け合 あ う感情 かんじょう などについて、誠実 せいじつ な親切心 しんせつしん といった心情 しんじょう をい表 いあらわ すために用 もち いられる。
ラハミーム - 罪 つみ のゆるしに言及 げんきゅう する。
ギリシア語 ご における諸 しょ 概念 がいねん [ 編集 へんしゅう ]
[2]
「恩寵 おんちょう (神 かみ の恵 めぐ み)」「憐み」の概念 がいねん については、キリスト教 きりすときょう において、主 おも にギリシア語 ご を用 もち いつつ発展 はってん した解釈 かいしゃく がなされていく事 こと となった。ギリシア語 ご 訳 やく 旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ (七 なな 十 じゅう 人 にん 訳 やく 聖書 せいしょ )において、ヘブライ語 ご の「ヘーン」「ヘセド」に、ギリシア語 ご の"χάρις "、"ἔλεος "が対応 たいおう して翻訳 ほんやく された。
キリスト教 きりすときょう において概念 がいねん の発展 はってん に伴 ともな い、人間 にんげん の生 せい の変革 へんかく を意味 いみ するようになる。
恩寵 おんちょう 、聖 せい 寵 ちょう 、神 かみ の恵 めぐ みなどの日本語 にほんご 表記 ひょうき [ 編集 へんしゅう ]
キリスト教 きりすときょう が日本 にっぽん に伝 つた えられた際 さい 、"ギリシア語 ご : χάρις "(英語 えいご : Grace )につき様々 さまざま な訳 わけ がなされていった。
「神 かみ の恵 めぐ み」は日本 にっぽん 聖書 せいしょ 協会 きょうかい の口語 こうご 訳 やく 聖書 せいしょ ・新 しん 共同 きょうどう 訳 やく 聖書 せいしょ 、他 ほか にも新 しん 改訳 かいやく 聖書 せいしょ などで一般 いっぱん 的 てき な表記 ひょうき であるが[4] 、正教会 せいきょうかい では恩寵 おんちょう (おんちょう)が一般 いっぱん 的 てき 表記 ひょうき である[5] 。カトリック教会 きょうかい では、かつては聖 せい 寵 ちょう (せいちょう)と訳 やく され、例 たと えば伝統 でんとう 的 てき な祈祷 きとう 文 ぶん 「アヴェ・マリア 」の文語 ぶんご 訳 やく (天使 てんし 祝詞 のりと )では「めでたし聖 せい 寵 ちょう …」と唱 とな えられていた。いまは「恩寵 おんちょう 」と表記 ひょうき される例 れい も稀 まれ にあるが[6] 、カトリック教会 きょうかい のカテキズム や公式 こうしき 文書 ぶんしょ 等 とう では「恵 めぐ み」「神 かみ の恵 めぐ み」「恩恵 おんけい 」と表記 ひょうき されている[7] 。また、プロテスタント にも「恩寵 おんちょう 」の語彙 ごい を用 もち いるものがある[8] 。古 ふる くは「恩典 おんてん 」(中国 ちゅうごく 語 ご でも「恩典 おんてん 」)などともいった。
恩寵 おんちょう (神 かみ の恵 めぐ み)については、キリスト教 きりすときょう (ことに西方 せいほう 教会 きょうかい )において様々 さまざま な議論 ぎろん がなされてきた。恩寵 おんちょう については、イエス・キリストの生涯 しょうがい 、特 とく に死 し と復活 ふっかつ を通 とお して示 しめ された神 かみ の愛 あい をい表 いあらわ す言葉 ことば であるという見解 けんかい については教派 きょうは を超 こ えた一致 いっち がみられるが、その恩寵 おんちょう を巡 めぐ る概念 がいねん ・神学 しんがく については様々 さまざま な見解 けんかい ・議論 ぎろん が起 お きてきた。
新約 しんやく 聖書 せいしょ における記述 きじゅつ [ 編集 へんしゅう ]
新約 しんやく 聖書 せいしょ に記述 きじゅつ のある箇所 かしょ (他 ほか にも沢山 だくさん の用例 ようれい がある)
概念 がいねん についての諸 しょ 見解 けんかい [ 編集 へんしゅう ]
西方 せいほう 教会 きょうかい [ 編集 へんしゅう ]
アウグスティヌス は、恩寵 おんちょう (神 かみ の恵 めぐ み、恩恵 おんけい )を強調 きょうちょう したので、「恩恵 おんけい の博士 はかせ 」(doctor gratiae)と呼 よ ばれる。ペラギウス の唱 とな えたペラギウス主義 しゅぎ が「功績 こうせき による救済 きゅうさい 」であるのに対 たい し、アウグスティヌスは「恩恵 おんけい による救済 きゅうさい 」を教 おし えた。アウグスティヌスは人間 にんげん が全的 ぜんてき に堕落 だらく し、救 すく われるためには恩寵 おんちょう によらなければならないが、神 かみ はすべての人 ひと を救 すく われるのではなく、救 すく われるべき人々 ひとびと を神 かみ があらかじめ選 えら ばれたという予 よ 定説 ていせつ を展開 てんかい した。西方 せいほう 教会 きょうかい における論争 ろんそう で、アウグスティヌスの立場 たちば が正統 せいとう であり、ペラギウスは異端 いたん であると認 みと められたが、カルタゴ教会 きょうかい 会議 かいぎ (418年 ねん )と第 だい 二 に オランジュ教会 きょうかい 会議 かいぎ (529年 ねん )で、アウグスティヌスの予定 よてい に関 かん する見解 けんかい は、緩和 かんわ された形 かたち で承認 しょうにん された[9] [10] 。ただし、アウグスティヌスを聖人 せいじん と認 みと めるカトリック教会 きょうかい ・正教会 せいきょうかい ・非 ひ カルケドン派 は 正教会 せいきょうかい においては、アウグスティヌスの見解 けんかい を予 よ 定説 ていせつ とはみなさない。
ベンジャミン・ウォーフィールド は、宗教 しゅうきょう 改革 かいかく はアウグスティヌスの教会 きょうかい 論 ろん に対 たい する彼 かれ の恩恵 おんけい 論 ろん の勝利 しょうり であると言 い った。マルティン・ルター は、アウグスティヌスの恩恵 おんけい 論 ろん を信仰 しんこう 義 ぎ 認 みとめ によって表現 ひょうげん される、「教会 きょうかい が立 た つか、倒 たお れるかの条項 じょうこう 」とみなした。[11]
改革 かいかく 派 は の考 かんが え方 かた では、恩寵 おんちょう は一般 いっぱん 恩寵 おんちょう と特別 とくべつ 恩寵 おんちょう に分 わ けられる。一般 いっぱん 啓示 けいじ は自然 しぜん 、人間 にんげん の良心 りょうしん 、歴史 れきし において啓示 けいじ されており、一般 いっぱん の人々 ひとびと に知 し られているが、一般 いっぱん 恩寵 おんちょう は堕落 だらく の結果 けっか を制御 せいぎょ するもので、人 ひと を救 すく いに導 みちび くものではない。特別 とくべつ 恩寵 おんちょう は神 かみ の特別 とくべつ 啓示 けいじ である聖書 せいしょ に啓示 けいじ されており、人 ひと を救 すく いに導 みちび く神 かみ の特別 とくべつ な恵 めぐ みである。[12] [13]
祈 いの り・歌 うた ・人名 じんめい などにおける用例 ようれい [ 編集 へんしゅう ]
祈祷 きとう 文 ぶん 「アヴェ・マリア 」では、ラテン語 らてんご 冒頭 ぼうとう 部分 ぶぶん に"Ave Maria,gratia plena" と「恩寵 おんちょう 」を意味 いみ する"gratia" が入 はい っており、かつて日本 にっぽん のカトリック教会 きょうかい で唱 とな えられていた文語 ぶんご 訳 やく の「天使 てんし 祝詞 のりと 」では「聖 せい 寵 ちょう 」と訳 やく されていた。また現在 げんざい の公式 こうしき 口語 こうご 訳 やく では「恵 めぐ み」と訳 やく されている[14] 。また、「アメイジング・グレイス 」は著名 ちょめい な賛美 さんび 歌 か で歌詞 かし 中 ちゅう の"grace"は「恩寵 おんちょう 」「神 かみ の恵 めぐ み」の意味 いみ である。正教会 せいきょうかい の聖歌 せいか で「恩寵 おんちょう 」が題名 だいめい に含 ふく まれているものとしては「恩寵 おんちょう を満 み ち被 こうむ る者 もの 」が、生神 うるかみ 女 おんな に向 む けた聖歌 せいか として代表 だいひょう 的 てき である。
英語 えいご ではグレース(「恵 めぐ み」、grace)の類語 るいご としてマーシー(「憐み」、mercy )がある。スペイン語 ご ではグラシア(「恵 めぐ み」、gracia)の類語 るいご としてメルセデス(「憐み」、mercedes )がある。英語 えいご のグレース ・マーシー 、スペイン語 ご その他 た のメルセデス などは、西欧 せいおう 諸国 しょこく で好 この んで女性 じょせい 名 めい として用 もち いられている。また日本 にっぽん でも、クリスチャンの人々 ひとびと が子供 こども に「恵 めぐみ 」(男子 だんし はめぐむ、女子 じょし はめぐみ)、「恵子 けいこ 」(女子 じょし )などの命名 めいめい をする例 れい もある。
ヨーロッパの君主 くんしゅ の称号 しょうごう においてはしばしば『神 かみ の恩寵 おんちょう による(英語 えいご 版 ばん ) 』を冠 かん する例 れい が見 み られる。これは王権 おうけん の源泉 げんせん を神 かみ に求 もと める王権 おうけん 神授 しんじゅ 説 せつ によるものである。