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かみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかん

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かみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかん

外観がいかん
地図
施設しせつ情報じょうほう
正式せいしき名称めいしょう 茅野ちの神長かみなが守矢もりや史料しりょうかん[1]
専門せんもん分野ぶんや 守矢もりや文書ぶんしょ諏訪すわ郷土きょうど
事業じぎょう主体しゅたい 茅野ちの
管理かんり運営うんえい 茅野ちの教育きょういく委員いいんかい
所在地しょざいち 391-0013
長野ながのけん茅野ちの宮川みやがわ389-1
位置いち 北緯ほくい3559ふん43.9びょう 東経とうけい1387ふん40.8びょう / 北緯ほくい35.995528 東経とうけい138.128000 / 35.995528; 138.128000座標ざひょう: 北緯ほくい3559ふん43.9びょう 東経とうけい1387ふん40.8びょう / 北緯ほくい35.995528 東経とうけい138.128000 / 35.995528; 138.128000
外部がいぶリンク 茅野ちの公式こうしきホームページ
プロジェクト:GLAM
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地図
地図ちず

かみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかん(じんちょうかんもりやしりょうかん)は、長野ながのけん茅野ちの宮川みやがわにある守矢もりや文書ぶんしょ保管ほかん公開こうかいする博物館はくぶつかん明治めいじ初期しょきまで諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろかみ長官ちょうかんつとめた守矢もりや敷地しきちない位置いちしている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

収蔵しゅうぞうぶつ[編集へんしゅう]

ほか、武田たけだ信玄しんげん武田たけだしんあきら武田たけだしんなわ村上むらかみ義清よしきよ真田さなだ昌幸まさゆきといった武将ぶしょうかんする書状しょじょう収蔵しゅうぞうされている。

ロビー展示てんじしつ[編集へんしゅう]

諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろ神事しんじあたまさいとりまつり)の神饌しんせん実物じつぶつ復元ふくげん鹿しかくびなど)が展示てんじされている。

常設じょうせつ展示てんじしつ[編集へんしゅう]

史料しりょうかんおく常設じょうせつ展示てんじしつでは書状しょじょう出土しゅつど遺物いぶつ中心ちゅうしんとした展示てんじをする企画きかくてんもよおされている。この企画きかく数ヶ月すうかげつごとに変更へんこうされ、そのさい展示てんじぶつ一新いっしんされる。 開催かいさいちゅう企画きかくてんについては下記かき外部がいぶリンクさきにて確認かくにんすることができる。

建物たてもの[編集へんしゅう]

史料しりょうかん建物たてもの郷里きょうり出身しゅっしん建築けんちくせんもん藤森ふじもりあきらしん基本きほん設計せっけいで、藤森ふじもりみずか手掛てがけた最初さいしょ建築けんちくぶつである。守矢もりや貴重きちょう史料しりょう保護ほごのため鉄筋てっきんコンクリートの耐火たいか構造こうぞうであるが、自然しぜん素材そざい地元じもとさん素材そざい建物たてものをおおっている。たとえば屋根やね諏訪すわ地方ちほう伝統でんとうの「てつ平石ひらいしき」を地元じもとさんてつ平石ひらいし使つかい50ねんぶりに復活ふっかつさせ[2]外壁がいへきはかつて屋根やね使つかわれていたわりばん技術ぎじゅつもちいたサワラのわりばんとし[2]内部ないぶにはワラりモルタル、きガラス、鍛造たんぞうによる金具かなぐなどが使用しようされている。 うしなわれた伝統でんとう人工じんこうてき再生さいせいしつつも造形ぞうけい独特どくとくで、土地とち根付ねつきながらもたんなる復古ふっこ主義しゅぎではない建物たてものとなっている。[2]

また、史料しりょうかん周辺しゅうへんには藤森ふじもりあきらしん作品さくひんである、こうあん(たかすぎあん)ていあん(ひくすぎあん)そらどろぶね(そらとぶどろぶね)があり、見物けんぶつ出来できる。内部ないぶ通常つうじょう非公開ひこうかいとなっている。

敷地しきちない様子ようす[編集へんしゅう]

ひだりこう神社じんじゃあたま御社おんしゃ宮司ぐうじ総社そうしゃ
中部ちゅうぶ地方ちほうひろがるひだりこうしんミシャグジ信仰しんこう中枢ちゅうすうとされる。しゃくさむら茅野ちの指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ
祈祷きとう殿どの
明治維新めいじいしん解職かいしょくにいたるまでかみ長官ちょうかん一子相伝いっしそうでん事柄ことがら神事しんじ秘法ひほう一族いちぞく系譜けいふなど)は真夜中まよなかのない祈祷きとう殿どのなか口移くちうつしで伝授でんじゅされた。元々もともと屋敷やしき東側ひがしがわにある建物たてもので、屋敷やしき一部いちぶとしてもと場所ばしょ西側にしがわ再建さいけんされた[3]
かみ長官ちょうかんうら古墳こふん
屋敷やしきうらにある7世紀せいき中頃なかごろ古墳こふん東西とうざいみち9.5m、南北なんぼくみち9mだが当初とうしょはさらにおおきいえんふんであったとかんがえられる。横穴よこあなしき石室いしむろ開口かいこうしている。1924ねん大正たいしょう13ねん)の調査ちょうさかん破片はへんちょくかたな小刀こがたなとう出土しゅつどし、平安へいあん時代じだい以降いこう土器どきへん後世こうせいたてまつときひんか)もわれている[4][5]家伝かでんでは丁未ていみらんのち諏訪すわ逃亡とうぼうして守矢もりや養子ようしりした物部守屋もののべのもりや次男じなんたけ麿まろはかとされている[6]。1977ねん昭和しょうわ52ねん)に茅野ちの指定してい史跡しせきとなった[7]
だいしゅく諏方すわ墓所はかしょ
諏訪すわ江戸えど時代じだい藩主はんしゅ社家しゃけわかれたのち諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろだいしゅくつとめた分家ぶんけ諏方すわ墓所はかしょふるくは神長かみなが廟所びょうしょであったが、大祝だいしゅくにここを墓地ぼちとしてもとめられ、守矢もりや屋敷やしき後方こうほうにある熊野くまのどうばれる高部たかぶむら共同きょうどう墓地ぼちうつった[8]

特記とっき事項じこう[編集へんしゅう]

開館かいかん時間じかん休館きゅうかん入館にゅうかんりょう、その利用りよう情報じょうほうについては、下記かき外部がいぶリンクさき参照さんしょうのこと。

アクセス[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 茅野ちのかみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかん条例じょうれい
  2. ^ a b c わりの建築けんちくはじまりの建築けんちく ポスト・ラディカリズムの建築けんちく言説げんせつ』(INAX出版しゅっぱん、2001ねん2がつ
  3. ^ 守矢もりや早苗さなえ守矢もりや神長かながのおはなし」『かみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかんのしおり』茅野ちのかみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかん、2017ねんだいさんはん、7, 9ぺーじ
  4. ^ だいいちしょう 古墳こふん時代じだい」『茅野ちの 上巻じょうかんはらはじめ古代こだいだいへん茅野ちの、1986ねん、738-740ぺーじ
  5. ^ 遺跡いせきレポ・かみ長官ちょうかんうら古墳こふん”. 信州しんしゅう考古学こうこがく探検たんけんたい. 2019ねん5がつ24にち閲覧えつらん
  6. ^ 守矢もりや早苗さなえ守矢もりや神長かながのおはなし」『かみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかんのしおり』茅野ちのかみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかん、2017ねんだいさんはん、6-7ぺーじ
  7. ^ かみ長官ちょうかんうら古墳こふん”. はちじゅう文化ぶんか財団ざいだん. 2019ねん5がつ24にち閲覧えつらん
  8. ^ 守矢もりや早苗さなえ守矢もりや神長かながのおはなし」『かみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかんのしおり』茅野ちのかみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかん、2017ねんだいさんはん、7-8ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 茅野ちのかみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかん へんかみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかん周辺しゅうへんガイドブック』2010ねん 
  • 茅野ちのかみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかん へんかみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかんのしおり』(だいさんはん)、2017ねん 
  • 細田ほそだたかすけけんたから守矢もりや文書ぶんしょむ―中世ちゅうせい史実しじつ歴史れきしえる』ほおずき書籍しょせき、2003ねんISBN 978-4-434-03552-4 
  • 細田ほそだたかすけけんたから守矢もりや文書ぶんしょむ―中世ちゅうせい史実しじつ歴史れきしえる2』ほおずき書籍しょせき、2003ねんISBN 978-4-434-07546-9 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]