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悪路王 - Wikipedia コンテンツにスキップ

あくおう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
あくおうめんがた彫刻ちょうこく複製ふくせい図像ずぞうしろさとまち高久たかく鹿島かしま神社じんじゃ拝殿はいでんにて

あくおう(あくろおう)は、鎌倉かまくら時代ときよしるされた東国とうごく社会しゃかい伝承でんしょう登場とうじょうする陸奥みちのくこく伝説でんせつじょう人物じんぶつ文献ぶんけんによっては、あくらいおうおもねくろおうなどともしるされている。

鎌倉かまくら時代じだい以降いこう鹿島かしま神宮じんぐう鎌倉かまくら幕府ばくふなど東国とうごく社会しゃかい文献ぶんけんにその名前なまえ登場とうじょうし、『鹿島かしま神宮じんぐう文書ぶんしょ』では「あくらいおう」が藤原ふじわらよりゆきけいによってたれたとあり、『吾妻あづまきょう』では「あくおう」は蝦夷えぞ(えみし)のぞくくびあかあたまとともに坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ藤原ふじわらとしひとしによって征伐せいばつされたとある。これら東国とうごく社会しゃかい伝承でんしょう平安京へいあんきょうまれると室町むろまち物語ものがたり御伽草子おとぎぞうし)の成立せいりつ多大ただい影響えいきょうあたえ、とくに『吾妻あづまきょう』での記述きじゅつ室町むろまち時代ときよ成立せいりつした『鈴鹿すずか物語ものがたり』など田村たむらかた世界せかいへとがれ、あくおう御伽草子おとぎぞうし登場とうじょう人物じんぶつである藤原ふじわらしゅんひとしによってたれるおにとしてえがかれた。

江戸えど時代じだい東北とうほく地方ちほうでは『田村たむら草子そうし』を底本ていほんとした『田村たむらさんだい』が、おく浄瑠璃じょうるりかた盲法師めくらほうし代表だいひょうてき演目えんもくとして各地かくち流布るふされたことでちまたひろがりをみせ、地方ちほう伝説でんせつとして伊達だてはん中心ちゅうしん岩手いわてけん宮城みやぎけん奥羽山脈おううさんみゃくえた秋田あきたけんにまで定着ていちゃく上演じょうえんされた社寺しゃじ縁起えんぎなどにまれた。おおくは坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ伝説でんせつとして伝説でんせつじょう人物じんぶつである坂上さかがみ田村丸たむらがんによって討伐とうばつされたとするもので、ひとくびまる伝説でんせつなどの後日ごじつたんまで創出そうしゅつされた。さらには九州きゅうしゅう地方ちほうにまで影響えいきょうあたえ、千葉ちばけんでは阿久あくとめおう伝説でんせつとしてさい構築こうちくされた。

あくおうどう時代じだい諏訪すわ大社たいしゃ文献ぶんけん登場とうじょうした高丸たかまる混交こんこう融合ゆうごうされた形跡けいせきもみられ、「悪事あくじ高丸たかまる」として同一どういつされることもある。また、民俗みんぞくがくからは歴史れきしじょう人物じんぶつであるアテルイあくみちおう同一どういつする論説ろんせつやモチーフとなってあくみちおう伝説でんせつまれたとする論説ろんせつがある一方いっぽうで、歴史れきしがくからは後世こうせい創出そうしゅつされた伝説でんせつであるため史料しりょうとはみとめられず俗説ぞくせつにすぎないとする論説ろんせつもあり、見解けんかいかれている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよ[編集へんしゅう]

鹿島かしま神宮じんぐう文書ぶんしょ[編集へんしゅう]

茨城いばらきけん鹿嶋かしま宮中きゅうちゅうにある鹿島かしま神宮じんぐうの「白馬はくばさい由来ゆらい」について、藤原ふじわら実久さねくによってしるされた天福てんぷく元年がんねん1233ねん)の『鹿島かしま神宮じんぐう文書ぶんしょ』の一節いっせつあくらいおう名前なまえ登場とうじょうする[げん 1][1][2]

こう堀河ほりかわいん御世みよに、関白かんぱく藤原ふじわら道家どうか朝臣あそんのご子息しそくであった征夷大将軍せいいたいしょうぐんよりゆきけいが、あくらいおう退治たいじするために関東かんとう下向げこうされたとき、鹿島かしま神宮じんぐう神託しんたくけた。以来いらい社内しゃないぞうをつくり、もろもろの神器じんぎ安置あんちしてよん祭祀さいしをおこたりなく、禁中きんちゅうおなじようにもよおすことになった — 『鹿島かしま神宮じんぐう文書ぶんしょ』 「天福てんぷく元年がんねん正月しょうがつ五日付藤原実久白馬祭由来記」より大意たいい

ここではあくらいおう退治たいじしたのは初代しょだい摂関せっかん将軍しょうぐんとなった藤原ふじわらよりゆきけい九条くじょうよりゆきけい)とされ[1]よりゆきけいによるあくらいおう退治たいじをひいて摂家せっけ将軍しょうぐん武威ぶい喧伝けんでんした[3]

この「白馬はくばさい由来ゆらい」をいたという藤原ふじわら実久さねくは、鎌倉かまくら時代じだい初期しょき有力ゆうりょく御家人ごけにん那珂なか実久さねくではないかとされる。名前なまえ一致いっちしていること、那珂なか摂家せっけ将軍しょうぐんよりゆきけい親密しんみつ関係かんけいにあったこと、那珂なか拠点きょてんである那珂西なかさいぐんにはあくおうくびぞう所蔵しょぞうする高久たかく鹿島かしま神社じんじゃがあること(高久たかく鹿島かしま神社じんじゃあくみちおうめんがた彫刻ちょうこくふし参照さんしょう)、那珂西なかさいぐん中世ちゅうせいにおいて鹿島かしま信仰しんこうタケミカヅチ伝説でんせつ先進せんしんてきかつ濃密のうみつ分布ぶんぷする地域ちいきであったことがげられる(鹿島かしま信仰しんこういたるたにくつふし参照さんしょう[3]

那珂なか同族どうぞく源義家みなもとのよしいえ主従しゅうじゅう関係かんけいむすんで武勇ぶゆうをはせた藤原ふじわらよりゆきけい摂家せっけ将軍しょうぐん九条くじょうよりゆきけいとはべつ人物じんぶつ)は中郡なかごおりとなり、その養子ようしとなった中郡なかぐんけいだかもとらん活躍かつやくしたことで常陸ひたちこく一大いちだい勢力せいりょくった。けいだかつまみなもと頼朝よりともはは姉妹しまいであり、けいだか子孫しそん鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにんとなるがさだ永年えいねんあいだ(1232 - 1233ねん)に地頭じとうしょく没収ぼっしゅうされると影響えいきょうりょく低下ていかさせた[3]黒田くろださとしは、けいだかどう時代じだい大中おおなかしん同族どうぞくで、京都きょうと畿内きないともふか関係かんけいをもち鹿島かしましん信仰しんこうけん本拠地ほんきょちとしていた那珂なか実久さねくとともに藤原鎌足ふじわらのかまたりよりゆきけい物語ものがたりをかりて藤原ふじわら摂関せっかん武威ぶい喧伝けんでんした可能かのうせい指摘してきしている[3]

入間田いりまだ宣夫のりおは、鎌倉かまくら時代じだい前期ぜんき東国とうごく社会しゃかいにおいて、征夷大将軍せいいたいしょうぐん任務にんむあくおう退治たいじにあるとの認識にんしき一般いっぱんてきとなりつつあったことのひとつの証明しょうめいではないかと指摘してきしている[1]

吾妻あづまきょう[編集へんしゅう]

てん3ねん1126ねん)3がつ24にちづけ中尊寺ちゅうそんじ供養くよう願文がんもん』で藤原清衡ふじわらのきよひらは「東夷あずまえびすとお酋」を自称じしょうし、奥州おうしゅう藤原ふじわらは「東夷あずまえびす」のあらたな文化ぶんか創出そうしゅつしようと数々かずかず事業じぎょうを1世紀せいきわたってげたが、文治ぶんじ5ねん1189ねん)のあき滅亡めつぼうする[4]。そのさまは、鎌倉かまくら時代じだい末期まっき正安まさやす2ねん1300ねんごろ成立せいりつしたとされる『吾妻あづまきょう』にしるされ、同時どうじ東北とうほく地方ちほうでの田村たむら麻呂まろ事蹟じせき田村たむらかたりもしるされる[5][6][4]

文治ぶんじ5ねん9がつ21にちじょうに、みなもと頼朝よりとも胆沢いさわぐん鎮守ちんじゅにある鎮守ちんじゅ八幡宮はちまんぐう参詣さんけいしたことをしるしている[げん 2][7]

頼朝よりとも胆沢いさわぐん鎮守ちんじゅ八幡宮はちまんぐうだい殿どのごうして瑞垣みずがき寄付きふした。この八幡宮はちまんぐう田村たむら麻呂まろ将軍しょうぐんせい東夷あずまえびす下向げこうしたときに勧請かんじょうした霊廟れいびょうである。田村たむら麻呂まろ持参じさんしていた弓箭きゅうせんむちなどをおさき、いまも宝蔵ほうぞうにあるという。頼朝よりともことあおいで今後こんご神事しんじ鎌倉かまくら幕府ばくふ御願ごがんとして執行しっこうするよういつけた — 『吾妻あづまきょう』より大意たいい

鎮守ちんじゅ八幡宮はちまんぐう創建そうけん由来ゆらいしるし、さだかん元年がんねん859ねん)に岩清水いわしみず八幡宮はちまんぐう勧進かんじんされるよりまえに、清和せいわはじめ崇敬すうけいする八幡やはたしん田村たむら麻呂まろによって鎮守ちんじゅ勧進かんじんされていたことおどろいた鎌倉かまくらかた記述きじゅつした[7]頼朝よりとも鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうだい殿どのとして、ぜん神事しんじ鎌倉かまくら幕府ばくふ御願ごがんとするようめいじた。

つづけて同年どうねん9がつ28にちじょうで、頼朝よりとも鎌倉かまくらへと帰還きかんする途中とちゅう平泉ひらいずみいたるたにくつとおったときのことがしるされているが、そこにあくみちおう名前なまえ登場とうじょうする[げん 3][8]

奥州おうしゅう合戦かっせんにて藤原ふじわらやすしやぶった頼朝よりともは、降伏ごうぶくした樋爪ひづめしゅん臣従しんじゅうさせると、鎌倉かまくらへの帰途きとさい捕虜ほりょおおくを放免ほうめんし、のこすところ30めいじゃくれていった。途中とちゅうでとあるやまった頼朝よりともは、当地とうちのいわれを捕虜ほりょたずねてみた。

捕虜ほりょいわく「田谷たやくつといいます。ここは田村たむら麿まろじんらの将軍しょうぐんみかどいのちけて蝦夷えぞせいしたとき、ぞくおもであるあくおうあかあたまらがとりでかまえていた岩屋いわやです」とおしえられた。

岩屋いわやさききたへ10数日すうじつ外濱そとはまいたる。坂上さかがみ将軍しょうぐんは、この岩屋いわやまえきゅうあいだよんめん精舎しょうじゃ建立こんりゅうして、鞍馬あんばてら模倣もほうして多聞天たもんてん安置あんちし、西光寺さいこうじ名付なづけて水田すいでん寄付きふした。寄付きふじょうには、ひがし北上川きたかみがわまで、みなみ岩井川いわいかわまでとし、西にし蔵王ざおう岩屋いわやまで、きた牛木うしき長峰ながみねまで、東西とうざいが30すう南北なんぼく20すうという — 『吾妻あづまきょう』より大意たいい

田谷たや」はタコクであり、いたるたにくつ(たっこくのいわや)を[9]。『吾妻あづまきょう』では、蝦夷えぞちょうであるあくおうあかあたま坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ藤原ふじわらとしじんによって征伐せいばつされ、田村たむら麻呂まろ鞍馬あんばてら多聞天たもんてんぞう安置あんちして西光寺さいこうじてたとある(あかあたまとの関係かんけいふし参照さんしょう[8][10]。「田村たむら麿まろ」は田村たむら麻呂まろべつ表記ひょうきだが、その100ねんほど人物じんぶつである藤原ふじわらとしじん同輩どうはいのようにかたられており、伝承でんしょう混乱こんらんられる[5][6]

阿部あべ幹男みきおは、「あくおう伝説でんせつ」が形成けいせいされていく過程かていについて、いたるたにくつ周辺しゅうへん桃源郷とうげんきょうてき農村のうそんでもぞくぬしこも要塞ようさいでもなく、安倍あべよりゆきりょう本拠ほんきょ衣川きぬがわしがらみとのさかいで、奥州おうしゅう藤原ふじわら全盛ぜんせいには平泉ひらいずみ西門にしもん位置いちし、堂宇どうう数多かずおおくあったため頼朝よりとも清水寺きよみずでら鞍馬あんばてらおな光景こうけいにしていたるたにくつ輿こしやすめたのではとしている[1]平泉ひらいずみやその周辺しゅうへん祇園ぎおん八坂やさかすずさわ東山ひがしやま大原おおはらなどきょう地名ちめいうつされたように、平泉ひらいずみきょう物語ものがたり導入どうにゅうされたことで同型どうけい物語ものがたり創出そうしゅつされた(ひめまちたきふし参照さんしょう[1]。また平泉ひらいずみ歴史れきしてき地理ちりてき役割やくわりかんがえるうえ常陸ひたちこく鹿島かしまとの交流こうりゅう念頭ねんとうかなければならないともしている(鹿島かしま信仰しんこういたるたにくつふし参照さんしょう[1]

せき幸彦さちひこは、王権おうけん所在しょざいから東方とうほう世界せかい位置いちした陸奥みちのくふく東北とうほくは「あくおう伝説でんせつ」に象徴しょうちょうされるように、古代こだい日本にっぽん律令りつりょう国家こっか東夷あずまえびす征伐せいばつすべき存在そんざいとして武威ぶい発揚はつようすることで中世ちゅうせい胚胎はいたいさせたとろんじている[11]。『陸奥みちのくはなし』で坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ伝説でんせつ浮上ふじょうし、これを継承けいしょうするように『吾妻あづまきょう』があくみちおう伝説でんせつ紹介しょうかいしたとしている[11]

室町むろまち時代ときよ[編集へんしゅう]

義経よしつね[編集へんしゅう]

南北なんぼくあさ時代じだいから室町むろまち時代じだい初期しょき成立せいりつした軍記物語ぐんきものがたり義経よしつね』では、田村たむら麻呂まろとぎじんあくみちおうあかあたま討伐とうばつしたという『吾妻あづまきょう』の記述きじゅつ引用いんようしつつ、『げんとおるしゃくしょ』に登場とうじょうする高丸たかまる混交こんこうしたことで「悪事あくじ高丸たかまる」なる人物じんぶつえられている(高丸たかまるとの関係かんけいふし参照さんしょう[げん 4]

代々だいだいみかどたからとしてきた、16かんおよ秘蔵ひぞうしょがある。 日本にっぽん武士ぶしでは、坂上さかがみ田村丸たむらがんがこれをつたえて悪事あくじ高丸たかまるり、藤原ふじわらとしじんはこれをんであかあたまよんろう将軍しょうぐんった。 — 『義経よしつね』より大意たいい

しゅう太公望たいこうぼうせんとされるろくという兵法ひょうほうしょむことで田村たむら麻呂まろ悪事あくじ高丸たかまるを、じんあかあたまよんろう将軍しょうぐんってげたとある[12]

田村たむら草子そうし[編集へんしゅう]

鈴鹿すずか物語ものがたり』『鈴鹿すずか草子そうし』『田村たむら草子そうし』などでのあくみちおうは、歴史れきしじょう人物じんぶつである藤原ふじわらとしひとしをモデルとした伝説でんせつじょう人物じんぶつである藤原ふじわらしゅんひとし討伐とうばつされたとかたられる[13][14]

しゅんじゅう将軍しょうぐんである藤原ふじわらしゅんゆうが、大蛇おろち化身けしんである美女びじょちぎってにちりゅうまるまれる。このりゅうまるは7さい近江おうみこく見馴みなれかわにいる倉光くらみつくえかいという2ひき大蛇おろち退治たいじし、天皇てんのうから将軍しょうぐん宣旨せんじあたえられて藤原ふじわらしゅんじん将軍しょうぐん名乗なのる。また17さい照日てるひ御前ごぜん結婚けっこんして2人ふたりひめもうけるが、照日てるひ御前ごぜん陸奥みちのく高山こうざんあくおううばわれる。しゅんじん鞍馬あんば多門たもんてんから宝剣ほうけんたまわり、奥州おうしゅうおもむくが、その途中とちゅう奥州おうしゅう初瀬はつせぐん田村たむらきょうしずおんなちぎり、形見かたみとして神通じんずう鏑矢かぶらやく。奥州おうしゅうあくおう退治たいじして照日てるひ御前ごぜんたすしたしゅんじんは、唐土とうどわた不動明王ふどうみょうおう敗北はいぼくする — 御伽草子おとぎぞうし田村たむら草子そうしうえ』より大意たいい

たて烏帽子えぼし[編集へんしゅう]

御伽草子おとぎぞうしたて烏帽子えぼし』でのおもねくろおう悪鬼あっきとして登場とうじょうし、坂上さかがみ田村たむら五郎ごろう利成としなり討伐とうばつされたとかたられる[15]

坂上さかがみ田村たむら五郎ごろう利成としなりは、近江おうみこく鈴鹿すずかさんおんな盗賊とうぞくたて烏帽子えぼし討伐とうばつめいじられる。しかしたて烏帽子えぼしいけちゅう三島みしまよもぎ方丈ほうじょう瀛州)に御殿ごてんがあり、渡航とこうする手立てだてがない。めあぐねた利成としなりおもいつき、蟇目ひきめ玉章ぎょくしょうけてたて烏帽子えぼし矢文やぶみ交換こうかんはじめる。たて烏帽子えぼしは、陸奥みちのくこくの「きりはたさん」におっと悪鬼あっきおもねくろおううとんじており、かのおにってくれたなら利成としなり妹背いもせちぎりをむすぶとちかけた。 たて烏帽子えぼしじんたいだまこえんでげると、たま利成としなりまえて、翌朝よくあさおもねくろおう湖水こすいあたりにあらわれるので射殺しゃさつするようおそわった利成としなりは、予告よこくどおりにあらわれた8つのあたまおおくのつ5しょくおもねくろおう射殺しゃさつして、めでたくたて烏帽子えぼしむすばれた — 御伽草子おとぎぞうしたて烏帽子えぼし』より大意たいい

この『たて烏帽子えぼし』はのう田村たむら』など鈴鹿すずかさん鬼神きじん退治たいじたん鈴鹿すずかさん大嶽おおたけまる退治たいじたん)の延長線えんちょうせんじょう作品さくひんか、『鈴鹿すずか草子そうし』から別伝べつでんとして独立どくりつしたものか成立せいりつ過程かてい不明ふめい[15]

戦国せんごく時代じだい[編集へんしゅう]

田村たむらさんだい[編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだい末期まっき天正てんしょう18ねん1590ねん)、葛西かさい大崎おおさき領有りょうゆうする陸奥みちのくこく中部ちゅうぶ宮城みやぎけん北部ほくぶ岩手いわてけん南部なんぶ)に勢力せいりょく拡大かくだいしようとした伊達だてまさしむね一揆いっき煽動せんどうし、それにじょうじて一揆いっき鎮圧ちんあつしたことで葛西かさい大崎おおさき13ぐんせいむねあたえられることになった(葛西かさい大崎おおさき一揆いっき)。しかし地元民じもとみん伊達だてたいする怨恨えんこんつよく、正室せいしつ田村たむら出身しゅっしんあいひめとするせいむねは、伊達だてによる領有りょうゆう正当せいとうせい領内りょうないひろめる目的もくてきしん領民りょうみんへのプロパガンダとして、悪逆あくぎゃくあくおう武神ぶしんとしての田村たむら麻呂まろ称揚しょうようするおく浄瑠璃じょうるり田村たむらさんだい』という仙台せんだいはん独自どくじ芸能げいのう利用りようした。『吾妻あづまきょう』の時期じきには付与ふよされてはいなかった悪逆あくぎゃく非道ひどういたるたにくつあくみちおうぞうについて、仙台せんだいはん田村たむら将軍しょうぐん鈴鹿すずかさんおに退治たいじ伝説でんせついたるたにくつえ、おく浄瑠璃じょうるり流布るふによって領内りょうないひろめたものとの論説ろんせつがある。

こうして江戸えど時代じだい東北とうほく地方ちほうさかんにえんじられた『田村たむらさんだい』はだいいちぐんだいぐんだいさんぐん分類ぶんるいされる。だいいちぐんあくおう捜索そうさく山狩やまがりが主体しゅたいとなり、中世ちゅうせいてき説話せつわ色濃いろこつたえ、御伽草子おとぎぞうし田村たむら草子そうし』からのたいのこ写本しゃほんぐんとなる[16][17]。その一方いっぽうだいぐんにはあくおう登場とうじょうせず、だいいちぐんにはない「将軍しょうぐん巻狩まきがりだん」や「塩竈しおがま神社じんじゃ縁起えんぎ」などが挿入そうにゅうされ、田村たむら利光としみつによる七ツ森ななつもりでの壮大そうだい巻狩まきがりえがかれる。しかしだいいちぐんだいぐんともにかりとおして「悪玉あくだまとのちぎり」がもたらされることから、『田村たむらさんだい』ではあくおう登場とうじょう有無うむかかわらずかり構成こうせい要素ようそとして不可欠ふかけつであった[ちゅう 1][16][17]だいぐん成立せいりつには歴史れきしてき出来事できごと反映はんえいされ、天正てんしょう19ねん1591ねん正月しょうがつ9にち奥州おうしゅう仕置しおきげた豊臣とよとみ秀次しゅうじ軍勢ぐんぜい帰途きとのおり、七ツ森ななつもりかりをおこなったと『伊達だてしげる実記じっき』にしるされ、近世きんせい東北とうほく史実しじつ江戸えど時代じだい初期しょき文芸ぶんげい趣向しゅこう反映はんえいしていることがわかる[17]。また慶安けいあん3ねん1650ねん)に伊達だてただしむね片倉かたくらしげるちょうおこなった蔵王山ざおうざん巻狩まきがり活躍かつやくした片倉かたくら良種りょうしゅ姿すがたは、『田村たむらさんだい』のかり活躍かつやくするかすみ源太げんた彷彿ほうふつとさせる。良種りょうしゅ出自しゅつじ田村丸たむらがん伝承でんしょうたずさえた田村たむら出身しゅっしんである[18]

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

日本にっぽん王代おうだい一覧いちらん[編集へんしゅう]

慶安けいあん5ねん1652ねん)にはやし鵞峰により編集へんしゅうされた歴史れきししょ日本にっぽん王代おうだい一覧いちらんまき2では、あくおう高丸たかまるふたたべつ人物じんぶつとしてしるされている。また、アテルイはこの翌年よくねんこうに「だいはかこう」という称号しょうごうれられているので、やはり別人べつじんである。

桓武かんむ天皇てんのう20ねん801ねん)。陸奥みちのくこく高丸たかまるというぞくいたるたにくつからへいこし、駿河するがこく清見きよみせきまでのぼった。坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろふしがたなたまわり、討伐とうばつた。高丸たかまる退しりぞいて陸奥みちのくきこもった。追撃ついげきかった田村たむら麻呂まろ神楽岡かぐらおかにて高丸たかまる射殺しゃさつし、またあくおうというぞく退治たいじした。 — 『日本にっぽん王代おうだい一覧いちらん』より大意たいい

まえ太平たいへい[編集へんしゅう]

正徳まさのり年間ねんかん1711ねん - 1716ねん)にひらじゅうせんやすあらわした軍記物語ぐんきものがたり前々まえまえ太平たいへい』では田村たむら麻呂まろあくみちおうりにしたとある[げん 5][19]。ここでもあくおう高丸たかまるべつ人物じんぶつとしてしるされている。

みことのりほうじた田村たむら麻呂まろのべれき20ねん(801ねん)に奥州おうしゅうはっし、ぞくちょう高丸たかまるおよあくおう駿河するが清見きよみせきあたりで合戦かっせんおよぼうとした。その武勇ぶゆうをおそれかえったかれらを追撃ついげきした田村たむら麻呂まろは、高丸たかまる射殺しゃさつし、あくおうりにした。胆沢いさわ八幡宮はちまんぐう建立こんりゅうした田村たむら麻呂まろは、弓矢ゆみや奉納ほうのう、さらにいたるたにくつ鞍馬あんばてらして多聞天たもんてんぞう安置あんちしたうえ帰京ききょうした。 よく21ねん田村たむら麻呂まろ胆沢いさわしろきずくべく再度さいど奥州おうしゅうへとおもむき、そのおり降伏ごうぶくしたえびすぞくちょうほんだいはかこうばんおおやけ、其種類しゅるいろくひゃくにんひき帰京ききょうしたとある。 — 『まえ太平たいへい』より大意たいい

一般いっぱんてきに『前々まえまえ太平たいへい』は野史やし稗史はいしとされているが史実しじつせいへの加工かこうたくみであり、歴史れきしへの演出えんしゅつ心得こころえたうえで叙述じょじゅつしている[19]のべれき21ねんかんしては『日本にっぽんりゃく』が引用いんようされている[げん 6][19]一方いっぽうでは、のべれき20ねん記録きろく中世ちゅうせいの『吾妻あづまきょう』および『げんとおるしゃくしょ』が出典しゅってんとみられる[19]。「胆沢いさわ八幡宮はちまんぐう」「弓矢ゆみや奉納ほうのう」は『吾妻あづまきょう文治ぶんじ5ねん9がつ21にちじょう[げん 2]、「あくおう」「いたるたにくつ」は『吾妻あづまきょう文治ぶんじ5ねん9がつ28にちじょう[げん 3]、「高丸たかまる」「駿河するが国清くにきよせき」「高丸たかまる射殺しゃさつ」は『げんとおるしゃくしょ』が出典しゅってんかんがえられる[げん 7][19]

だい日本にっぽん[編集へんしゅう]

だい日本にっぽんまき122の坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろこうでは、『げんとおるしゃくしょ』と『吾妻あづまきょう』の記述きじゅつ引用いんようされている。

日本にっぽんひゃくしょうでん一夕いっせきばなし[編集へんしゅう]

日本にっぽんひゃくしょうでん一夕いっせきばなしまき3の坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろこう[ちゅう 2]、『げんとおるしゃくしょ』にかたられる霊験れいけん下敷したじきにしつつ、娯楽ごらくのため大幅おおはば戦闘せんとう描写びょうしゃやしている。本書ほんしょでも高丸たかまるあくおう別人べつじんとされている。田村たむら麻呂まろなぞ童子どうじひろってもらった高丸たかまる射抜いぬいて官軍かんぐん勝利しょうりへとみちびくが、おこったあくおう決死けっし突撃とつげきおこなってなおも抵抗ていこうし、死闘しとうすえ田村たむら麻呂まろられた。

名前なまえ[編集へんしゅう]

あく = 地名ちめいせつ[編集へんしゅう]

あく」とは東北とうほく地方ちほうのある地域ちいき名称めいしょうであり、その有力ゆうりょくしゃを「あくおう」とんだのではないかというせつがある。

陸奥みちのくはなし冒頭ぼうとうに、源頼義みなもとのよりよし胆沢いさわ鎮守ちんじゅから多賀たがへと帰還きかんする過程かていで「阿久あくとしがわ」をわた場面ばめんがある[20][21]

また、『発心ほっしんしゅう』『うけたまわひさ』『平家ひらか物語ものがたり』といった鎌倉かまくら時代じだい文学ぶんがく作品さくひんなかで、「あくろ」が東北とうほく地方ちほう地名ちめい津軽つがる」「つぼのいしぶみ」とならんであつかわれていることも傍証ぼうしょうとなっている[22][23]

其後此のくにかえりてあたりはことれてみにくしとて、えびすあくろ津軽つがるつぼのいしぶみなどいふほうにのみまれけるとかや。 — 『発心ほっしんしゅうだい7「こころ戒上人跡じんせきめざること
頼朝よりともきょう度々たびたびみやこじょうリ、武芸ぶげいとくほどこせ勲功くんこう無比むひシテ、せいしんミ、みぎ近衛このえ大将たいしょうけいタリ。 西にしニハきゅうこくしまひがしニハアクロツカルえびすとうマデ靡シテ、威勢いせいいち天下てんかこうむラシメ、栄耀えいよう四海しかいうちほどこせだまフ。 — 『慈光寺じこうじほん うけたまわひさまきのぼる
いかなるあくろ、つがろ、つぼのいしぶみ、えびすがすみかなるちしまなりとも、かひなきいのちだにもあらばとおもえきゅうぞ、せめてのこととおぼへていとほしき。 — 『のべけいほん 平家へいけ物語ものがたりまき11・30

あく = 悪王子あくおうじせつ[編集へんしゅう]

悪霊あくりょうかみとしてまつり、「悪王子あくおうじ」や「若宮わかみや」としょうして有力ゆうりょく神社じんじゃ末社まっしゃえる風習ふうしゅうがあり、この悪王子あくおうじかんがかた基盤きばんとしてせいえびすのち蝦夷えぞ怨霊おんりょうしずめがおこなわれたことからあくおう伝説でんせつまれたのではないかというせつ[24][1]悪王子あくおうじせつでは「あく」は善悪ぜんあくあくではなく、「悪太郎あくたろう」「悪僧あくそう」のように「つよくかつ無道むどうな」との意味いみ[1]

史実しじつせい議論ぎろん[編集へんしゅう]

高橋たかはしたかし著書ちょしょ坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ』において、史実しじつにおけるアテルイの降伏ごうぶくたいし「史料しりょうてき裏付うらづけのとぼしい解釈かいしゃくには慎重しんちょうでありたいとねがう」と史料しりょうもとづく記述きじゅつへの配慮はいりょをしつつ、それと同時どうじあくおうなど坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ伝説でんせつ全般ぜんぱんについて「るにらぬ俗説ぞくせつ」としている。また新井あらい白石はくせきについて『読史どくしあまりろん』で陸奥みちのくえびす高丸たかまる駿河するがくに清見きよみせきまでがり、田村丸たむらがんはこれをうちり、きたって陸奥みちのく神楽岡かぐらおかったと記述きじゅつしていることについて「合理ごうりせい実証じっしょうおもんじた史学しがくしゃとして白石しらいしらしからぬ叙述じょじゅつ」と批判ひはんしている[25][26]

ももさきゆう一郎いちろう著書ちょしょ武士ぶし起源きげんきあかす: 混血こんけつする古代こだい創発そうはつされる中世ちゅうせい』において、『吾妻あづまきょう』でのあくみちおう田村たむら麻呂まろとぎじん2人ふたり討伐とうばつされたとあるが、2人ふたりおな時代じだい人物じんぶつではなく、あくおう実在じつざいした可能かのうせいがほぼないとしている。また『吾妻あづまきょう』の記述きじゅつについても、頼朝よりとも段階だんかいべつのいい加減かげん伝説でんせつかたられていたとしている[10]

地方ちほう伝説でんせつ[編集へんしゅう]

岩手いわてけん[編集へんしゅう]

ひめまちたき[編集へんしゅう]

奥羽おううかんあと聞老こころざしまき10は磐井いわいぐん旧跡きゅうせき収録しゅうろくする。前述ぜんじゅついたるたにくつのほかにも、史書ししょにはられない伝承でんしょうげられている。

かけしゅまつ
断崖だんがいうえにあるまつ。かつてあくおうがこのえだをかけ、源義家みなもとのよしいえ様子ようすをうかがったという。
著者ちょしゃ佐久間さくま義和よしかずによるちゅう田村たむら麻呂まろ間違まちがえている。
かけかずらせき
いたるたにくつよりきたに10まち (1.1km) ほどくと渓流けいりゅうる。そこにはたかさ3たけ (9m) のいわがある。あおいコケでおおわれた表面ひょうめんは、っていてのぼれそうにない。いわうえにはふるえているのがえる。かつてあくおうが、さらってきたおんなかみをこのけたという。
まちひめ瀑布ばくふ
かけかずらせきよりきたに3まち (330m) ほどくとちいさなたきる。
かつてあくおういちとうは、貴族きぞく金持かねもちのいえ夜間やかんしのはいってはむすめをさらっていたという。そのなかには葉室はむろ中納言ちゅうなごんひめもおり、両親りょうしんかなしみのあまりいのちあやうくなるほどだった。捜索そうさく家来けらいたちは東国とうごくがかりをつかみ、ひめひそかに連絡れんらくって脱出だっしゅつ計画けいかくった。ひめから「春山はるやまあそびにきましょう」とさそわれたぞくは、さくともらずにおんなたちもれて、さくら野原のはら宴会えんかいはじめた。ひめからさけすすめられたぞくいつぶれ、膝枕ひざまくらねむんでしまった。そのすきひめちかくのたきしたひかえていた家来けらい合流ごうりゅうし、もどった。目覚めざめたぞくったが、結局けっきょくいつけなかったということだ。
しろさくらばら
まちひめ瀑布ばくふより東南とうなんに4まち (440m) ほどくと、かつてあくおうがさらってきた姫君ひめぎみうたげもよおした野原のはらる。そのむかしすうひゃくかぶ山桜やまざくら爛漫らんまん絶景ぜっけいられたが、いまはもうい。 — 『奥羽おううかんあと聞老こころざし』より大意たいい

ひとくびまる伝説でんせつ[編集へんしゅう]

岩手いわてけん奥州おうしゅう江刺えさしべいさとは、かつては江刺えさしぐん米里めいりむらであり、さらにそのまえひとくびむら(ひとかべむら)とばれていた。この地名ちめいあくおうおい由来ゆらいするとされる。

地元じもと伝説でんせつによれば、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ征討せいとうによってあくおう磐井いわいで、そのおとうとだい武丸たけまる栗原くりはらにてはいしたが、だい武丸たけまる息子むすこにんくびまる(ひとこうべまる)は江刺えさしまでび、大森山おおもりやま岩屋いわや拠点きょてんとしてなおも抵抗ていこうつづけた。そのひとくびまる田原たはら阿波あわもりけんひかりへいによってついにたれ、そのほうむられたという[27]

松尾まつお長者ちょうじゃ屋敷やしき[編集へんしゅう]

岩手いわてけん八幡平やわただいら松尾まつお長者ちょうじゃ屋敷やしきは、縄文じょうもん時代じだいから平安へいあん時代じだいにかけてのふくあい遺跡いせきである[28]伝説でんせつによれば、このきょかまえていたのはだい武丸たけまる配下はいかの「高丸たかまるあく」の一族いちぞくつらなる「登喜ときもり」であるという[29]

坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ霧山きりやまだけ岩手山いわてさん)を根城ねじろとするだい武丸たけまるったのち南下なんかしていたるたにくつ高丸たかまるあく征伐せいばつかった[30]登喜ときもりきた監視かんし手薄てうすになったすきいて蜂起ほうきしたものの、田村たむら麻呂まろさい北上ほくじょうしてきたため鹿角かつの方面ほうめん逃走とうそうはかった[31]。しかし結局けっきょく登喜ときもり田村たむら麻呂まろたれることとなり、このとき田村たむら麻呂まろ血染ちぞめの太刀たちあらきよめたのが、「岩手いわて名水めいすい20せん」のひとつ「太刀たち清水しみず」とつたわる[29]

衣川きぬがわ霧山きりやま[編集へんしゅう]

岩手いわてけん奥州おうしゅう衣川きぬがわには、高丸たかまる拠点きょてんとされる洞窟どうくつがある。

衣川きぬがわ南股みなみのまたやなぎ沢向さわむかいに「霧山きりやま」があり、その山中さんちゅう洞窟どうくつ奥行おくゆきは8000メートルものながさにおよんでいた[32]霧山きりやま高丸たかまるはこの洞窟どうくつつうじていたるたにくつあくみちおうみつ連絡れんらくり、官軍かんぐんくるしめたという[32]。もっとも、霧山きりやまいたるたにくつがつながっているというのはあくまで伝説でんせつであり、そのような地下道ちかどう実在じつざいしないことはいたるたにくつ火災かさい見舞みまわれたさいあきらかとなっている[33]

平泉ひらいずみこころざし』ではこの霧山きりやま別名べつめいを「善城ぜんぎ」としているが[34]、『衣川きぬがわ古蹟こせき』では霧山きりやまから南西なんせいに30まち (3.3km) の場所ばしょにあるべつやまが「善城ぜんぎ」であり、霧山きりやま高丸たかまるあくおう巣窟そうくつだったように善城ぜんぎは「大武おおたけ麿まろ」の巣窟そうくつだったとしている[35]

大船渡おおふなと鬼越おにごえ[編集へんしゅう]

岩手いわてけん大船渡おおふなと伝承でんしょうでは、「あかあたま」が個人こじんめいではなく集団しゅうだんめいとされている。

猪川いかわまちひさ名畑なばたには、かつて盛川さかりがわめんして「鬼越おにごええ」という巨岩きょがんがあった[36]。そのむかし、このでは悪鬼あっき部族ぶぞくあかあたま」が坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ抵抗ていこうしていた[36]かれらは半年はんとしほどのたたかいののちやぶれて四散しさんし、ちょうである「高丸たかまる」もひさ名畑なばたから日頃市ひころいち方面ほうめんのがれようとした[36]。2たけ (6m) もある巨岩きょがんうえめられた高丸たかまるは、最後さいごちからしぼってかわえ、そのままったという[37]

伝説でんせつ巨岩きょがんそのものは現存げんそんしないが、跡地あとちには「鬼越おにごええふれあい広場ひろば」という公園こうえん整備せいびされている(北緯ほくい3906ふん07.2びょう 東経とうけい14141ふん28.5びょう / 北緯ほくい39.102000 東経とうけい141.691250 / 39.102000; 141.691250)。

中尊寺ちゅうそんじわらび手刀てがたな[編集へんしゅう]

平泉ひらいずみまちにある中尊寺ちゅうそんじだい長寿ちょうじゅいんには、あくおう所用しょようつたえられるながさ52センチメートルの毛抜けぬきがたわらび手刀てがたな所蔵しょぞうされている[38]

1977ねん昭和しょうわ52ねん)4がつ26にち、「とおるよこがたな(ほりすかしえのおうとう)」として岩手いわてけん指定してい文化財ぶんかざい登録とうろくされた[38]

宮城みやぎけん[編集へんしゅう]

しょうどう[編集へんしゅう]

伊達だて仙台せんだいはん4だい藩主はんしゅ伊達だて綱村つなむらいのちにより佐久間さくま義和よしかず編纂へんさんした『奥羽おううかんあと聞老こころざし』に刈田かりたぐん斎川さいかわむらにあるしょうどう勧請かんじょう由来ゆらいがみえ、そのなかあくみちおう登場とうじょうする。しょうどう佐藤さとうつぎしん忠信ちゅうしんつま凱旋がいせん装束しょうぞくして老婆ろうばなぐさめたという故事こじちなんで甲冑かっちゅうをおびた女体にょたいぞう安置あんちされている[ちゅう 3][39]

やぶあぶみざかひがしどうがあり、そのなかにはたたかえ装束しょうぞくをまとい烏帽子えぼしをかぶった女性じょせいぞうが2たいかれている。みぎぞう弓矢ゆみやひだりぞうかたなっている。まつられているのは田村たむら麻呂まろ鈴鹿すずかしんおんなであるとつたえられている。また、ゆうおうやま高福寺こうふくじという寺院じいんがある。

かつてこのには妖怪ようかいがいてひとおそっていた。のべれき14ねん795ねん東征とうせいおとずれた坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろはこれを退治たいじしようとしたが、くさむらにかくれたり洞窟どうくつひそんだりしてらえられない。田村たむら麻呂まろ鈴鹿すずかしんいのると、飛来ひらいしたかみ妖怪ようかいほろぼし、そのくびづかめた。こうしてこの平和へいわになり、鈴鹿すずかしんまつほこらてられた。そのため「しょうどう」や「将軍しょうぐんどう」とばれるのである。

一説いっせつによれば、かつてあくおうあかあたまなど凶悪きょうあくが、黄土おうどすなかざ怪物かいぶつのふりをしてひとおそっていたのであり、すべて盗賊とうぞく仕業しわざということである。あくおうきなようにらしまわったので「ゆうおうやま」とぶのだとか。

著者ちょしゃ佐久間さくま義和よしかずによるちゅう田村たむら麻呂まろ凶賊きょうぞく退治たいじ典籍てんせきさだかでない。それに鈴鹿すずかしんすなわちイザナギ田村たむら麻呂まろ一緒いっしょまつるのはありえないし、どうないぞう両方りょうほうとも女性じょせいである。このはなししんじるにりない。 — 『奥羽おううかんあと聞老こころざし』より大意たいい

この斎川さいかわむらしょうどう勧請かんじょう由来ゆらいは、田村たむらかたりが間接かんせつてき地元じもと伝説でんせつ社寺しゃじ縁起えんぎれられた典型てんけいである[39]御伽草子おとぎぞうし登場とうじょう人物じんぶつである鈴鹿すずか御前ごぜん登場とうじょうしていることから、あくおう登場とうじょうする勧請かんじょう由来ゆらい御伽草子おとぎぞうし成立せいりつした室町むろまち時代じだい以降いこう創出そうしゅつされたものであり、わせるようにままししん忠信ちゅうしんつま女体にょたいぞう田村たむら麻呂まろ鈴鹿すずかしんおんなへと変化へんかしている。

秋田あきたけん[編集へんしゅう]

出羽でわこく切畑きりはた伝説でんせつ[編集へんしゅう]

菅江すがえ真澄ますみ出羽でわこく雄勝おがつぐんにて採取さいしゅした民話みんわでは、あくおうおにとしてつたえられている。菅江すがえ土地とち老人ろうじんいたところによると、松岡まつおかの「きりはたさん」には「あくるおう」というおにんでいた。そのつま「たてゑぼし」は鈴鹿すずかさんんでいたが、かよってきていた。双方そうほうとも「田村たむらとしひと」に討伐とうばつされたという[40]

雄勝おがつぐん切畑きりはたきょう蓮華れんげたいらむら名前なまえは、あくおうがいたころ、このおおきないけがあり多数たすうのハスがいていたことに由来ゆらいするという。江戸えど時代じだいにはすでにいけはなくなっており、あと田地でんちになっていた[41]おなじく切畑きりはたきょう畑村はたむらには「おにくつ」があり、あくおうんでいたとされる[41]。また切畑きりはたにあった山田やまだじょうは、こうさんねんやく金沢かなざわじょうから敗走はいそうしてきた清原武則きよはらのたけのりもったといわれるが、それ以前いぜんあくおう居城きょじょうであり、「おにくつ」とばれる洞窟どうくつがあったともつたえられる[42]

秋田あきたけんのこはなしなかには、当初とうしょあくおう根城ねじろとしていたのは雄勝おがつぐん剪旗さん(きりはたやま)であり、田村たむら麻呂まろわれていたるたにくつに遷ったとするものもある[43]。また、いたるたにくつからげてきたあくおうが、皆瀬かいせむらきりじゅうじゅうやま(きりはたえやま)にこもったものの、追撃ついげきしてきた田村たむら麻呂まろたれたとする、ぎゃくのパターンもある[44]

秋田あきたけん湯沢ゆざわ松岡まつおかながれる切畑きりはたがわ上流じょうりゅうには「おもね黒岩くろいわ」とばれる院内いんないせき凝灰岩ぎょうかいがん)の露頭ろとうがあり、秋田あきたけんどう278ごう雄勝おがつ湯沢ゆざわせんからのぞむことができる。ここは「おもねくろおう」というおに坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろたれたわれ、がけ中腹ちゅうふくには「おもねくろおう神社じんじゃ」のほこらえられている。また松岡まつおかには、このとき田村たむら麻呂まろ戦勝せんしょう祈願きがんして建立こんりゅうしたとつたえられる白山はくさん神社じんじゃもある[45]

湯沢ゆざわ相川あいかわ東鳥海山ひがしちょうかいさん山上さんじょうには、田村たむら麻呂まろじんって戦勝せんしょう祈願きがんおこなったのを起源きげんとする東鳥海山ひがしちょうかいさん神社じんじゃがある[46]。このやまにある鬼子おにごこつ(おしこ)づかたれたあくおううでめられ、そのさいえられたいちかぶやま椿つばき後世こうせいになってもくのだという[47]

福島ふくしまけん[編集へんしゅう]

半田はんだあかあたま太郎たろう[編集へんしゅう]

福島ふくしまけん伊達だてぐん桑折こおりまちには、あかあたま(あかず)の太郎たろうという大男おおおとこ伝承でんしょうのこっており[48]ふる記録きろくにはその背景はいけいがうかがえるものがある。

信達しんだちぐんそん附録ふろく かぶとしゅうした伊達だてぐん富沢とみざわむら古事記こじきろく」によると、791ねんのべれき10ねん)に高丸たかまる郎党ろうとうである「あかあたま太郎たろう」が半田山はんだやまふもとにて射殺しゃさつされ、たたりをおそれた人々ひとびとにより「あかあたま太郎たろう明神みょうじん」としてまつられたという[48]

桑折こおりまち北半田きたはんだ熊野くまの所在しょざいする益子ましこ神社じんじゃは、大竹おおたけまるおとうとである「あかあたま太郎たろう」が明神みょうじんとしてまつられたのをはじまりとしている[49]

益子ましこ神社じんじゃから程近ほどちか桑折こおりまち北半田きたはんだどうじょうには、あかあたま太郎たろう異名いみょうである「赤瀬あかせ太郎たろう」を顕彰けんしょうしたいしぶみがある(北緯ほくい3752ふん30.7びょう 東経とうけい14031ふん25.8びょう / 北緯ほくい37.875194 東経とうけい140.523833 / 37.875194; 140.523833)。

大滝根山おおたきねやまおにあな[編集へんしゅう]

福島ふくしまけん田村たむら大滝根山おおたきねやまてこもって坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ抵抗ていこうしたおにぞくは、「だい鬼丸おにまる」とされることがおおい。しかしどう市内しない白鳥はくちょう神社じんじゃ縁起えんぎでは、刈田岳かっただけきょかまえる「あくおう大滝おおたきまる」が、妖術ようじゅつきりんだりあめらせたりして田村たむら麻呂まろくるしめたとつたわる[50]田村たむら麻呂まろはいったんかえったもののさい出陣しゅつじんし、刈田岳かっただけわれたあくおう大滝おおたきまる大滝根山おおたきねやまんでげたが、その最期さいごむかえたという[50]

ほかにも同市どうし常葉ときはまち常葉ときは小松こまつ神社じんじゃでは、大滝根山おおたきねやまの「だい高丸たかまる」がいつわりの降伏ごうぶく田村たむら麻呂まろあざむき、すきいて火攻ひぜめを仕掛しかけたものの、ワシが飛来ひらいしてあめらせたため敗北はいぼくしたとつたえられている[51]常葉ときはまち堀田ほったわし神社じんじゃにも同様どうよう伝承でんしょうがあるが、そこでのぞくは「霧島きりしまたけし高丸たかまるあくおう」である[52]

また、大滝根山おおたきねやま南西なんせい中腹ちゅうふくに「いたるたにくつ(たやのくつ)」または「おにあな」とばれる洞窟どうくつがあり、高丸たかまるあくおうらが拠点きょてんとしたとわれている[53]

茨城いばらきけん[編集へんしゅう]

鹿島かしま神宮じんぐうあくみちおうくびぞう首桶くびおけ[編集へんしゅう]

茨城いばらきけん鹿嶋かしま鹿島かしま神宮じんぐうには、あくおうくびぞう首桶くびおけおさめられている。これは、田村たむら麻呂まろ征伐せいばつしたあくおう首級しゅきゅうを、藤原ふじわらみつるせい寛文ひろふみ4ねん1664ねん)に木造もくぞう復元ふくげん奉献ほうけんしたものである[54]当社とうしゃ説明せつめいでは、あくおう蝦夷えぞ指導しどうしゃ阿弖流為あてるいすとしている。

高久たかく鹿島かしま神社じんじゃあくみちおうめんがた彫刻ちょうこく[編集へんしゅう]

茨城いばらきけんしろさとまち高久たかく鹿島かしま神社じんじゃにはあくおうめんがた彫刻ちょうこくつたわる。田村たむら麻呂まろ下野げやたちたにくつったあくおう阿弖流為あてるい)の首級しゅきゅう当社とうしゃおさめた。ミイラしたくび次第しだいいたみがひどくなったので、木製もくせいくびをつくったという[55]

いたるたにくつ所在地しょざいち陸奥みちのくこくではなく下野げやこくとされているところが伝承でんしょうことなる。三木みき日出夫ひでおはこれを栃木とちぎけん矢板やいた小字こあざ田谷たや」と関連付かんれんづけており[56]実際じっさい当地とうちには田村たむら麻呂まろにまつわる伝説でんせつのこっている(那須なす伝説でんせつふし参照さんしょう)。

栃木とちぎけん[編集へんしゅう]

那須なす伝説でんせつ[編集へんしゅう]

栃木とちぎけん矢板やいた豊田とよだは、かつて那須なすぐん野崎のさきむらであり、さらにそのまえ稗田ひえだむらばれていた。この地域ちいき東部とうぶ箒川ほうきがわ南岸なんがんにある小高こだかおかには「将軍しょうぐんづか」とがついている。づかっても古墳こふんではなく自然しぜん丘陵きゅうりょうである。伝説でんせつによれば、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ茶臼山ちゃうすざん根城ねじろとする凶賊きょうぞく高丸たかまる」の討伐とうばつおもむいたさい、このおかうえじんいたという[57]

また『須記』に収録しゅうろくされた向田むかいだむらみなみたき瀧寺たきでら千手観音せんじゅかんのん[ちゅう 4]由来ゆらいにおいても高丸たかまる登場とうじょうする。討伐とうばつかおうとする田村たむら麻呂まろ清水寺きよみずでらのべ鎮に法力ほうりき加護かごたのむくだりは『げんとおるしゃくしょ』にるが、高丸たかまる当初とうしょ近江おうみこく略奪りゃくだつはたらいていたことになっている。田村たむら麻呂まろわれた高丸たかまる駿河するが国清くにきよみずせきげ、いで那須なす茶臼ちゃうすだけてこもる。めあぐねた田村たむら麻呂まろは、のべ鎮のおしえにしたがって千手観音せんじゅかんのん遥拝ようはいすることで形勢けいせい逆転ぎゃくてんする。高丸たかまるはさらに陸奥みちのくこくまで撤退てったいするが、神楽岡かぐらおかにてられたという[58]

滋賀しがけん[編集へんしゅう]

近江おうみこく蒲生野かもうの伝説でんせつ[編集へんしゅう]

保志ほしづか古墳こふん

日本書紀にほんしょきまきだい27には、天智天皇てんぢてんのう8ねん669ねん)、自信じしんおにしつしゅう滅亡めつぼうした百済くだらからの亡命ぼうめいしゃやく700にん近江おうみこく蒲生がもうぐんうつされたとある。そうした経緯けいいから蒲生がもうぐん日野ひのにはおにしつしゅう斯のはかがあり[ちゅう 5]、そこからひがしった山中さんちゅうには「おにしつ王女おうじょ朱鳥あすかさんねん戊子ぼしさんがつじゅうななにち」ときざまれたいしぶみがあった[59]。ところが後代こうだいになると、これらが人名じんめいであることがわすられ、いしぶみの「おに」や「おう」を文字通もじどおりにった結果けっかあくおう伝説でんせつむすけられるようになった[60]

おなじく日野ひの蒲生野かもうのにはコボチづかがある[ちゅう 6]。これは雄略天皇ゆうりゃくてんのう暗殺あんさつされた市辺いちのべ押磐皇子おうじ従者じゅうしゃ佐伯さえき仲子なかこもろともめられたものを、のちになってづかをこぼち(こわし)、2人ふたりぶんそうなおしたところからいたである[61]。この由来ゆらいもまたわすられ、おにづかこわしてかばねらい、そこにみついたという伝承でんしょうとなった[60]

太平たいへいしょほんのうち、てん正本しょうほんのみにえる記述きじゅつで、コボチづかと「悪事あくじ高丸たかまる」のむすきが既成きせい事実じじつしていることが確認かくにんできる。

佐々木ささきみちほまれ佐々木ささきしげるつなてき接近せっきんきつけ、舟岡ふなおかさんのぼっててき軍勢ぐんぜいてみると、雲霞うんかのような大軍たいぐんが3かしょじんっているようだったので、自分じぶんたちも父子ふし3にんかれることにした。

一方いっぽうめん部隊ぶたい五郎左衛門ごろうざえもんじょう高秀たかひで大将たいしょうに200ほどをあてて、蒲生野かもうの小椋おぐら一族いちぞく案内あんないやくとし、悪事あくじ高丸たかまるの壊塚(こぼちづか)を背後はいごにしてじんった。 — 『てん正本まさもと 太平たへいまきだい29「八重山やえやま蒲生野かもうの合戦かっせんこと」より大意たいい

伝承でんしょう[編集へんしゅう]

神楽岡かぐらおか[編集へんしゅう]

高丸たかまる終焉しゅうえんである「神楽岡かぐらおか」の詳細しょうさい判然はんぜんとせず、『奥羽おううかんあと聞老こころざしまき10でもいたるたにちかくと推測すいそくするにまる。宮城みやぎけん遠田えんたぐん涌谷わくやまち箟岳ののたけ神楽岡かぐらおか所在しょざいする箟峯てらには、田村たむら麻呂まろあかあたま高丸たかまるあくおうってくびきょうおくったのちどうおかうえめるとともに戦死せんししゃほうむったづかきずき、そのうえ観音堂かんのんどうてたという伝説でんせつのこ[62]

しかし伊能いのうよしみのりは「いまかならずしもいち拘泥こうでいすべからず」とべている[63]。また定村さだむら忠士ただしは、『諏方すわ大明神だいみょうじん』における騎馬きば武者むしゃ流鏑馬やぶさめや『鈴鹿すずか物語ものがたり』における鈴鹿すずか御前ごぜんほしまい坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ伝説でんせつ参照さんしょう)に着目ちゃくもくし、「神楽岡かぐらおか」とは文字通もじどおり「神楽かぐら舞台ぶたい」であって実在じつざい場所ばしょではなく、箟岳ののたけ神楽岡かぐらおか先行せんこうする伝説でんせつにならってからけられた地名ちめいだろうといている[64]

考察こうさつ[編集へんしゅう]

複数ふくすうじんせつ[編集へんしゅう]

あくおうにまつわる伝承でんしょうは、異称いしょうにまつわるものもふくめれば、あまりにも多岐たきわたるため、特定とくてい一個人いっこじんすとはかんががたくなる。

伊能いのうよしみのりは、朝廷ちょうてい勢力せいりょく進出しんしゅつはげしく抵抗ていこうする蝦夷えぞのある一群いちぐんにつけられた呼称こしょうが「あくおう」であると考察こうさつしており、各地かくち所在しょざいした10にんや100にんあくみちおう事跡じせきが、なかでももっと偉大いだいであった「いたるたにくつあくみちおう」へとかえせられていったとしている[65]

鹿島かしま信仰しんこういたるたにくつ[編集へんしゅう]

ぞく日本にっぽん』には桓武かんむあさによるだいいち蝦夷えぞ征討せいとう常陸ひたち国神くにかみ賤が多賀城たがじょうへとかっていたことがしるされている[66]

桓武かんむみかど東海とうかい東山ひがしやま坂東ばんどう諸国しょこくたいし、5まん2せん800余人よにん翌年よくねんの3がつまで多賀城たがじょう集結しゅうけつさせるようめいじた。選定せんていにあっては、さきたたかいで叙勲じょくんされたものと、常陸ひたち国神くにかみ賤とを優先ゆうせんするよう指示しじした — 『ぞく日本にっぽんのべれき7ねん(788ねん)3がつ3にちじょうより大意たいい

かみ賤とは神人しんじん神戸こうべ)をし、常陸ひたち国神くにかみ賤は茨城いばらきけん鹿嶋かしま宮中きゅうちゅうにある鹿島かしま神宮じんぐうつかえた人々ひとびとである。常陸ひたち国神くにかみ賤は常陸ひたちこくからきくおお磐城いわき標葉しねは行方ゆくえ宇多うた伊具いぐ亘理わたり宮城みやぎ黒河くろかわ色麻しかま志田しだ小田おだ牡鹿おじかと38の末社まっしゃ勧請かんじょう[げん 8]奉幣ほうへいしつつ陸奥みちのくへと進軍しんぐんしている。福島ふくしまけんから宮城みやぎけんにかけて鹿島かしましん各地かくちおお祭祀さいしされている原拠げんきょとなる[66]

鹿島かしま神宮じんぐうには「鹿島かしま合戦かっせん」とよばれる物語ものがたりつたわっている[66]

大宝たいほう元年がんねん正月しょうがつ7にち羅刹らせつこくひかりそうおうは9まん8せん50のおにどもれて出発しゅっぱつし、博多はかた到着とうちゃくさんにわかれおおくの人々ひとびとらう。鹿島かしま大明神だいみょうじんより日本にっぽん66ヶ国かこくかみ々に廻状かいじょうされ鹿島かしま集結しゅうけつする。鹿島かしまだい明神みょうじん大将たいしょうとしてかみ々はちからわせてたたかおにども退治たいじした。(中略ちゅうりゃく鹿島かしまだい明神みょうじんはじめ、かみ々およろこかぎりなし、かくておにははいちにんのこきゅうふ。これより奥州おうしゅうたちたに岩屋いわやいしろうをつくり、そのなかせきて、なお覚束おぼつかなしとて108たい毘沙門びしゃもんたてきゅう — 『鹿島かしま合戦かっせん』より大意たいい

田村たむら将軍しょうぐんではなく鹿島かしましん登場とうじょうして、外国がいこく鬼神きじんたちを退治たいじ奥州おうしゅうたちたにくつおにはは毘沙門びしゃもんまつったとかたる。まつろわぬみんは「にち高見こうけんくつ」にむという古来こらい概念がいねんが、常陸ひたち国神くにかみ賤の東進とうしんとともに北上川きたかみがわ地域ちいき平泉ひらいずみいたるたにくつさだまり、あくおう伝説でんせつ創出そうしゅつつながったものとかんがえられる。この物語ものがたりまくら石寺いしてら伝来でんらいした「無明むみょうほうせい合戦かっせんじょう」や「ふつおにぐん」につらなり、ぶんほん太子たいしでん』の「守屋もりや合戦かっせん」とも関係かんけいがある。宮城みやぎけん栗原くりはらぐん長野ながのけん水内みずうちぐん群馬ぐんまけん高崎たかさきから4ほん写本しゃほん発見はっけんされていることから、東国とうごくから東北とうほくにわたるひろ伝承でんしょうけんゆうしていたと推測すいそくされる[66]

あかあたまとの関係かんけい[編集へんしゅう]

あくおう仲間なかまおもわれる「あかあたま」について、喜田きた貞吉さだきちは『吾妻あづまきょう以外いがいたしかな出典しゅってんをほとんどらないとべている[67]

伊能いのうよしみのりは、アカカシラ→アカシラ→アカラとりゃくせばアクロにつうじるので、もと1人ひとり名前なまえを2とおりの表記ひょうきしめしたものが、いつしか別々べつべつ人物じんぶつ解釈かいしゃくされるようになったのだろうとしている[68]

阿部あべ幹男みきおは、『常陸ひたちだいじょう伝記でんき』『常陸ひたちだいじょう系図けいず』のなか平国香たいらのくにか子孫しそんというたいら正幹まさみきについて「あかあたまよんろう将軍しょうぐんごうす」とあり、鎌倉かまくら時代じだいの『八幡やはたわらわ』ではちりというしゃ姿すがたを「いろあかく、あたまは8りて」と常套じょうとうてき表現ひょうげんをしているため、時代じだいてき趣向しゅこうから蝦夷えぞちょうに「あかあたま」という名前なまえ使用しようしたものであろうとしている[69]

高丸たかまるとの関係かんけい[編集へんしゅう]

あくおう坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ伝説でんせつ登場とうじょうする「高丸たかまる」と同一どういつされることもある。

今昔こんじゃく物語ものがたりしゅうまき11、『ぐんしょ類従るいじゅう所収しょしゅう藤原明衡ふじわらのあきひらせん清水寺きよみずでら縁起えんぎ」、『扶桑ふそう略記りゃっき』、『源平げんぺい盛衰せいすいまき3にみられる清水寺きよみずでら草創そうそう縁起えんぎには田村たむら麻呂まろによる蝦夷えぞ征討せいとうかんした事蹟じせきしるされていない[70]頼朝よりとも鎌倉かまくら幕府ばくふ樹立じゅりつして武家ぶけ時代じだい到来とうらいすると、げんとおる2ねん1322ねん)に臨済宗りんざいしゅうそうとらせきがまとめた日本にっぽん仏教ぶっきょうどおりげんとおるしゃくしょ』の清水寺きよみずでら草創そうそう縁起えんぎ陸奥みちのく逆賊ぎゃくぞく高丸たかまるなる人物じんぶつ登場とうじょうする[げん 7][71]高丸たかまる名前なまえもと直後ちょくご作成さくせいされた『八幡やはたわらわくん』ではちりという鬼神きじんふせ人物じんぶつとして登場とうじょうし、『諏訪すわ大明神だいみょうじん絵詞えことば』では安倍あべ悪事あくじ高丸たかまるとして安倍あべ結合けつごうするかたち登場とうじょうする[71]

諏訪すわ大社たいしゃ田村たむらかた縁起えんぎ祭礼さいれい由来ゆらいなどにれることでみずからの神威しんい高揚こうよう画策かくさくし、南北なんぼくあさ時代じだい中期ちゅうきには『神道しんとうしゅう』や『諏訪すわ大明神だいみょうじん絵詞えことば』が作成さくせいされた[72]安居あんきょいんりゅう唱導しょうどう集団しゅうだんによって14世紀せいきなかばから15世紀せいき初頭しょとう作成さくせいされた唱導しょうどう台本だいほん神道しんとうしゅう』では、奥州おうしゅうおにとして悪事あくじ高丸たかまるなる人物じんぶつ登場とうじょうする[げん 9][72]

諏方すわ大明神だいみょうじん』では東夷あずまえびす安倍あべ高丸たかまる坂上さかがみ田村丸たむらがん討伐とうばつしたとある[72]。また安藤あんどうらんについてれた箇所かしょには「武家ぶけ、その濫吹を鎮護ちんごせんために、安藤あんどうふとしうん蝦夷えぞ管領かんりょうとす。此は上古じょうこ安倍あべ悪事あくじ高丸たかまるうんける勇士ゆうし後胤こういんなり」とあり、安倍あべ高丸たかまる子孫しそんであるとしている[73]

伊能いのうよしみのりは、「悪事あくじ」は「あく」につうじるので、あくおう高丸たかまるどう一人物いちじんぶつ異称いしょうであるとかんがえられるとしている[68]

せき幸彦さちひこは、『吾妻あづまきょう』のあくみちおうは「あくる・あくろ・あくじ」と種々しゅじゅえられ、『げんとおるしゃくしょ』で登場とうじょうした「高丸たかまる」とむすけられたことで、中世ちゅうせい文学ぶんがくで「あくじの高丸たかまる」の名前なまえ誕生たんじょうしたのだろうとろんじている。江戸えど時代じだいには『まえ太平たいへい』など『吾妻あづまきょう』と『げんとおるしゃくしょ』の混合こんごうがみられるとしている[19]

だい武丸たけまる大嶽おおたけまるとの関係かんけい[編集へんしゅう]

大嶽おおたけまる東北とうほく地方ちほう拠点きょてんとするおにであることや、田村たむら麻呂まろ退治たいじされることがあくみちおう共通きょうつうしており、両者りょうしゃにはなんらかの関係かんけいがあるとおもわれる[74]

両者りょうしゃはしばしば伝承でんしょうなか混交こんこうされる。『吾妻あづまきょう』であくおうとりでとされたいたるたにくつして「大竹おおたけまるといふおに住所じゅうしょ也」とするはなしが『奥州おうしゅう紀行きこう』に記録きろくされている[75]。この「大竹おおたけまる」は「大嶽おおたけまる」の同音どうおん表記ひょうきかんがえられる[74]ぎゃくれいげると、『鈴鹿すずか物語ものがたり』で大嶽おおたけまるは「霧山きりやま」にんでいたが、『平泉ひらいずみこころざし』によれば胆沢いさわぐん上衣川かみころもがわむら霧山きりやま別名べつめい善城ぜんぎといい「高丸たかまるあくおうとう巣窟そうくつ」とわれていた[34]ひとくびまる伝説でんせつでは、あくおうと「だい武丸たけまる」が兄弟きょうだいとされている(ひとくびまる伝説でんせつふし参照さんしょう)。

伊能いのうよしみのりは、各地かくち伝承でんしょうえる大嶽おおたけまる大竹おおたけまるだい武丸たけまるだいもうまるはみな転訛てんかであり、だい高丸たかまる悪事あくじ高丸たかまるあくおうつうじるので、つまりは本来ほんらいひとつの対象たいしょうしていたと結論けつろんしている[76]

阿部あべ幹男みきおは、江戸えど時代じだい東北とうほく地方ちほう鈴鹿すずかさん大嶽おおたけまる登場とうじょうするお伽草子とぎぞうし鈴鹿すずか草子そうし』や室町むろまち物語ものがたり田村たむら草子そうし』、浄瑠璃じょうるり坂上さかがみ田村丸たむらがん誕生たんじょう』などがつたわると、これら物語ものがたり底本ていほんとし、東北とうほく各地かくちのこ坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ伝説でんせつ融合ゆうごうしておく浄瑠璃じょうるり代表だいひょうてき演目えんもく田村たむらさんだい』が成立せいりつした[77]一方いっぽう岩手山いわてさん縁起えんぎ登場とうじょうするだい武丸たけまるは、前述ぜんじゅつきゅう仙台せんだいはん北上川きたかみがわ流域りゅういき中心ちゅうしんかたられた『田村たむらさんだい』が影響えいきょうして発生はっせいした伝説でんせつではなく、南部なんぶ盛岡もりおか本拠ほんきょかまえた近世きんせい江戸えど上方かみがた興隆こうりゅうした浄瑠璃じょうるりからあらたに本地ほんじたん創出そうしゅつされた影響えいきょうから発生はっせいした伝説でんせつではないかとしている[78]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

原典げんてん[編集へんしゅう]

  1. ^ 鹿島かしま神宮じんぐう文書ぶんしょ』 「天福てんぷく元年がんねん正月しょうがつ五日付藤原実久白馬祭由来記」
  2. ^ a b 吾妻あづまきょうだいきゅうかん 文治ぶんじねんきゅうがつしょう廿にじゅういちにちつちのえとら
  3. ^ a b 吾妻あづまきょうだいきゅうかん 文治ぶんじねんきゅうがつしょう廿にじゅうはちにちおつとり
  4. ^ 義経よしつねまきだい義経よしつねおにいち法眼ほうげんところだしこと
  5. ^ 前々まえまえ太平たいへいまきはち田村たむら麻呂まろえびすぞく退治たいじ并任官位かんいこと
  6. ^ 日本にっぽん後記こうきまきだいじゅう のべれきじゅう一年夏四月庚子条
  7. ^ a b げんとおるしゃくしょまきだいきゅう清水寺きよみずでらのべ鎮伝」
  8. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん8ねん正月しょうがつ20にちじょう
  9. ^ 神道しんとうしゅうまきよん信濃しなの鎮守ちんじゅ諏訪すわ大明神だいみょうじん秋山あきやま祭事さいじ

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ だいさんぐん南部なんぶはんによっていわお鷲山わしやま信仰しんこう習合しゅうごうした写本しゃほんぐんのため、仙台せんだいはんによるだい一群いちぐんならびにだいぐんとは生成せいせい過程かていおおきくことなる
  2. ^ よしみひさし6ねん1853ねん刊行かんこう読本とくほん作者さくしゃまつていきんすい挿絵さしえ柳川やながわ重信しげのぶ
  3. ^ 宮城みやぎけん白石しらいし斎川さいかわ田村たむら神社じんじゃ (白石しらいし)
  4. ^ 栃木とちぎけん那須なす烏山うざんたき天台宗てんだいしゅう滝尾たきおさん正眼せいがんいん太平寺たいへいじ
  5. ^ 滋賀しがけん日野ひのまち小野おのおにしつ神社じんじゃ
  6. ^ 滋賀しがけんひがし近江おうみ市辺いちのべまち保志ほしづか古墳こふん

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]