甲賀こうが三郎さぶろう (伝説でんせつ)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

甲賀こうが三郎さぶろう(こうがさぶろう)は、長野ながのけん諏訪すわ地方ちほう伝説でんせつ主人公しゅじんこう名前なまえ地底ちていくにまよいこみ彷徨うろつい、のち地上ちじょうもどるも蛇体じゃたい(またはりゅう)となり諏訪すわかみになったなど、さまざまな伝説でんせつのこされている。近江おうみ舞台ぶたいにした伝説でんせつもある。

代目だいめ市川いちかわ三升みますおくじゅう代目だいめだん十郎じゅうろう)、『』の甲賀こうが三郎さぶろう

概要がいよう[編集へんしゅう]

諏訪すわりゅうへび信仰しんこう[編集へんしゅう]

手水ちょうず諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろ本宮ほんぐう

国史こくしでは諏訪すわ大社たいしゃまつられているかみは「けん御名ぎょめいかたしん」と「八坂やさかかたなうりしん」という名前なまえ登場とうじょうしており、『古事記こじき』や『先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ』ではこのけん御名ぎょめいかたしんたて雷神らいじんとのちからくらべにやぶれてしまう大国たいこく主神しゅしん次男じなんとしてえがかれている。諏訪すわでは諏訪すわかみけん御名ぎょめいかたしん)をへび(あるいはりゅう)とする伝承でんしょう民話みんわおおのこっており、けん御名ぎょめいかたかみまつ諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろ神事しんじ中世ちゅうせいまでおこなわれた御室おむろ神事しんじなど)にはりゅうへび信仰しんこう痕跡こんせき見受みうけられる[1][2][3]

伝説でんせつ成立せいりつ[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよには諏訪すわ上社かみやしろだいしゅくつとめた諏訪すわかみ)が武士ぶしして北条ほうじょうとく宗家そうけ御内おんうちじんとなり、諏訪すわ大社たいしゃ鎌倉かまくら幕府ばくふ庇護ひごけるにつれて諏訪すわ信仰しんこう全国ぜんこくひろまり、軍神ぐんしんとしておおくの武士ぶしから信仰しんこうあつめた。諏訪すわ始祖しそが8さいとき諏訪すわ明神みょうじんけん御名ぎょめいかたしん)に自分じぶんける神体しんたいとしてえらばれたという伝承でんしょうから、だいしゅく代々だいだい現人神あらひとがみ、すなわち諏訪すわ明神みょうじん後裔こうえい明神みょうじんそのものとして崇敬すうけいされた。諏訪すわがこれを利用りようして権力けんりょくるい、諏訪すわかみとうしょうされる武士ぶしだん形成けいせいしていく。しかし、幕府ばくふ滅亡めつぼうこったちゅう先代せんだいらん諏訪すわ権威けんい失墜しっついし、カリスマせいうしなっただいしゅくからじんはなれた。この時代じだいには大祝だいしゅく直伝じきでん縁起えんぎたんではなくもっと在地ざいち風景ふうけい根付ねついた縁起えんぎもとめられた影響えいきょうで、各地かくち諏訪すわだいしゅくとはがらみのないあらたな「諏訪すわ縁起えんぎ」が同時どうじ多発たはつてき発生はっせいした[4]諏訪すわかみ武士ぶしとしてえが甲賀こうが三郎さぶろう伝説でんせつはそのなかひとつである。

当時とうじは『古事記こじき』やろく国史こくし安易あんい講読こうどくできない史料しりょうであったため、中世ちゅうせい前期ぜんき諏訪すわ縁起えんぎ記紀きき神話しんわ影響えいきょうなしにあらたに編纂へんさんされたものである。実際じっさいには『先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ』にかれているけん御名ぎょめいかたしん説話せつわ諏訪すわ大社たいしゃ正式せいしき縁起えんぎとして採用さいようする文献ぶんけんは『諏方すわ大明神だいみょうじん』(1356ねん)がはじめてである[5]

はなしがた[編集へんしゅう]

はなしがた国際こくさいてき分類ぶんるいほうであるAT分類ぶんるいにおいてAT301に分類ぶんるいされることが指摘してきされている[6]

あらすじ[編集へんしゅう]

甲賀こうが三郎さぶろう伝説でんせつには主人公しゅじんこう名前なまえを「諏方すわ(よりかた)」とするものと「けん(かねいえ)」とつたえるものがあり、それぞれ内容ないようことなる。

諏訪すわ縁起えんぎ諏方すわけい[編集へんしゅう]

神道しんとうしゅう諏訪すわ縁起えんぎこと」では、甲賀こうが三郎さぶろう伝説でんせつ以下いかのようにかたられている。

近江おうみこく甲賀こうがぐん安寧天皇あんねいてんのうから5だいまご甲賀こうが権守ごんもり諏胤(よりたね)という地頭じとうそうおい使つかいとして東国とうごくの33ヶ国かこくおさめた。大和やまとこく添上そえかみぐん地頭じとう春日かすが権守ごんもり長女ちょうじょめとり3にん太郎たろう諏致・次郎じろう諏任・三郎さぶろう諏方すわ)をもうけた。

70さいあまりになった諏胤は病床びょうしょう三男さんなん三郎さぶろう諏方すわ(よりかた)を惣領そうりょうとして東海道とうかいどう15ヶ国かこくそうおい使つかいしょくあたえ、長男ちょうなん太郎たろう諏致(よりむね)に東山ひがしやま8ヶ国かこく次男じなん次郎じろう諏任(よりただ)に北陸ほくりくどう7ヶ国かこくそうおい使つかい任命にんめいする。諏胤はくなり、35にち塔婆とうば供養くようの3にち奥方おくがたくなる。

白樺湖しらかばこ蓼科山たてしなやま

三郎さぶろうちちさん回忌かいきのち三笠山みかさやま明神みょうじん参詣さんけいしたとき、春日かすが権守ごんもり孫娘まごむすめ春日しゅんじつひめちぎりをむすび、ともに甲賀こうがぐんかえった。ある春日しゅんじつひめ伊吹山いぶきやま天狗てんぐにさらわれて行方ゆくえ不明ふめいになったため、三郎さぶろうあにたちとともに全国ぜんこく山々やまやまめぐる。最後さいご信濃しなのこくにある蓼科山たてしなやま人穴ひとあなそこひめつけ、たすした。しかしひめわすれたかがみりにさんろうあなもどると、次郎じろう裏切うらぎってつなったため、あなのこされた。三郎さぶろう仕方しかたなく人穴ひとあな彷徨うろつい、地底ちていの72ヶ国かこくとおり、最後さいごに維縵(ゆいまん)こく辿たどく。三郎さぶろうは維縵こくおう好美よしみおきなすえむすめである維縵ひめむすばれて、くに風習ふうしゅうしたがって毎日まいにち鹿しかりをしてごす。一方いっぽう次郎じろう春日しゅんじつひめ自分じぶんつまにしてさんろうわって政治せいじおこない、甲賀こうがたて占拠せんきょした。春日かすがひめ次郎じろうしたがおうとしなかったため、次郎じろうぎゃくじょう家来けらい春日しゅんじつひめらせることにしたが、春日かすがひめ乳母うばいもうと婿むこたすけられて祖父そふのもとへおくとどけられる。

13ねん6ヶ月かげつ春日かすがひめことおもした三郎さぶろう地上ちじょうかえることを決意けついする。これをれた維縵ひめかれのちってしのつまかくつま)となるとった。国王こくおうからいただいた鹿しか生肝いきぎもつくったもちを1にち1まいずつせんまいべながら地上ちじょうかい、信濃しなのこく浅間山あさまやま無事ぶじかえることができた。三郎さぶろう甲賀こうがもどったが、からだへびになっていたことをり、ちちためつくった笹岡ささおか釈迦堂しゃかどう仏壇ぶつだんしたかくした。すると甲賀こうが三郎さぶろう物語ものがたりかたそうたち(正体しょうたい白山はくさん権現ごんげん富士ふじ浅間あさまだい菩薩ぼさつ熊野くまの権現ごんげんなどのかみ々)のくちからへびのがれる方法ほうほうく。そうたちにわれるとおりにした三郎さぶろう人間にんげん姿すがたもどり、春日かすがひめ再会さいかいした。2人ふたりふるえだんこくみなみにある平城ひらじろこくって「おこりなし天子てんし」より神道しんとうほうさずかって神通力じんずうりき会得えとくしたのち日本にっぽんもどって蓼科山たてしなやま到着とうちゃくする。岡屋おかやさとった三郎さぶろう諏訪すわ大明神だいみょうじん上宮かみみや諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろ)、春日かすがひめ下宮したみや諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃ)として出現しゅつげんした。(「諏訪すわ(すわ)」という名称めいしょう三郎さぶろう実名じつめいである「諏方すわ」からているという。)維縵ひめのち地上ちじょうにやってて、春日かすがひめ歓迎かんげいされて浅間あさま大明神だいみょうじんとなる。甲賀こうが三郎さぶろうあにたちは近江おうみこく鎮守ちんじゅへいぬし大明神だいみょうじん仲裁ちゅうさいし、太郎たろう下野げやこく宇都宮うつのみや示現じげん大明神だいみょうじん悔悟かいごした二郎じろう若狭わかさこく田中たなか明神みょうじんちち赤山あかやま大明神だいみょうじんはは日光にっこう権現ごんげんとしてあらわ物語ものがたり終了しゅうりょうする[7][8]

生還せいかんする甲賀こうが三郎さぶろう[編集へんしゅう]

伝説でんせつ変化へんかがたいちれい以下いかである。

醍醐天皇だいごてんのう時代じだい信濃しなのこく望月もちづきみなもとよりゆきじゅうに、武勇ぶゆうすぐれたさんにん息子むすこがいた。朝廷ちょうていいのち若狭わかさこくこうかかやまぞく退治たいじされ、三男さんなんさんろうがことのほか活躍かつやくした。こうおとうといちにんくことをねたんだあにたちはさんろうふかあなとして、帰国きこくしてしまった。三郎さぶろう気絶きぜつしたが、いきかえし、なんとか生還せいかんした。おどろいたあにたちはし、三郎さぶろうあにたちの領地りょうちいでおさめた。そのうけたまわたいららん軍功ぐんこうげたことでしゅう半分はんぶんたまわり、甲賀こうがぐんうつって甲賀こうが近江おうみもりとなった[9]

作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 伊藤いとう富雄とみお諏訪すわ神社じんじゃりゅうへび信仰しんこう」『諏訪すわ祭祀さいし氏族しぞく部族ぶぞく研究けんきゅうかいへん人間にんげんしゃ、2017ねん、191-215ぺーじ
  2. ^ 宮坂みやさか光昭みつあき諏訪すわ大社たいしゃはしら年中ねんじゅう行事ぎょうじ郷土きょうど出版しゅっぱんしゃ、1992ねん、141-143ぺーじ
  3. ^ 矢崎やさきはじめはく諏訪すわ大社たいしゃ銀河ぎんが書房しょぼう銀河ぎんがグラフィック選書せんしょ 3〉、1986ねん、97-98ぺーじ
  4. ^ 福田ふくだあきら二本松にほんまつ康宏やすひろ徳田とくた和夫かずおへん諏訪すわ信仰しんこう中世ちゅうせい神話しんわ伝承でんしょう歴史れきし三弥みつや書店しょてん、2015ねん、130-132ぺーじ
  5. ^ 井原いはら今朝男けさお鎌倉かまくら諏訪すわ神社じんじゃ関係かんけい史料しりょうにみる神道しんとう仏道ぶつどう : 中世ちゅうせい記文きぶん時代じだいてき特質とくしつについて」『国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん研究けんきゅう報告ほうこくだい139かん国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん、2008ねん3がつ、157-185ぺーじdoi:10.15024/00001521ISSN 02867400NAID 120005748619 
  6. ^ 多々たたたに有子ゆうこくまのジョン」を媒介ばいかいとした『ベーオウルフ』とはなしがたAT301「甲賀こうが三郎さぶろう伝説でんせつ」との関連かんれんについて」『関東学院大学かんとうがくいんだいがく文学部ぶんがくぶ紀要きようだい126かん関東学院大学かんとうがくいんだいがく[文学部ぶんがくぶ]人文じんぶん学会がっかい、2012ねん、129-179ぺーじISSN 02861216 
  7. ^ 諏訪すわ縁起えんぎこと」『神道しんとうしゅう貴志きし正造しょうぞうへんやく平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ 94〉、1978ねん、238-292ぺーじ
  8. ^ 松本まつもと隆信たかのぶ中世ちゅうせいにおけるほん地物ちぶつ研究けんきゅう(さん)」『斯道しどう文庫ぶんこ論集ろんしゅうだい13ごう慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく附属ふぞく研究所けんきゅうじょ斯道しどう文庫ぶんこ、1976ねん7がつ、297-386ぺーじISSN 05597927NAID 110000980567 
  9. ^ a b 糸井いとい粂助『少年しょうねん日本にっぽん伝説でんせつ読本とくほん大同だいどうかん書店しょてん、1938ねん、410-411ぺーじ
  10. ^ a b 青木あおき京子きょうこさかなふく」の素材そざい : 「甲賀こうが三郎さぶろう」をめぐって」『佛教大學ぶっきょうだいがく大學院だいがくいん紀要きようだい29ごう佛教大学ぶっきょうだいがく大学院だいがくいん、2001ねん3がつ、41-51ぺーじISSN 13442422NAID 110006472467 
  11. ^ 近松ちかまつ全集ぜんしゅうだい7かん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1926ねんhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979002/9 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]