第 だい 40航空 こうくう 突撃 とつげき 連隊 れんたい 「ヴィリー・ゼンガー」 (ドイツ語 ご : Luftsturmregiment 40 Willi Sänger, LStR-40 )は、ドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく (東 ひがし ドイツ)の国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん 地上 ちじょう 軍 ぐん が有 ゆう した降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 部隊 ぶたい である。1960年 ねん から1982年 ねん まではリューゲン島 とう プローラ に、1982年 ねん から1990年 ねん まではポツダム のレーニン演習 えんしゅう 場 じょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) (Truppenübungsplatz Lehnin)に駐屯 ちゅうとん した。連隊 れんたい に冠 かん されているヴィリー・ゼンガー (ドイツ語 ご 版 ばん ) の称号 しょうごう は、パルチザン として戦 たたか った共産 きょうさん 党員 とういん の名 な から取 と られている。
第 だい 40航空 こうくう 突撃 とつげき 連隊 れんたい は単 たん なる空挺 くうてい 部隊 ぶたい というよりは様々 さまざま な任務 にんむ に適応 てきおう しうる特殊 とくしゅ 部隊 ぶたい の1つと見 み なされており、ワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう 軍 ぐん による攻撃 こうげき 的 てき 戦略 せんりゃく の一環 いっかん を担 にな っていた。また第 だい 40航空 こうくう 突撃 とつげき 連隊 れんたい は国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん における唯一 ゆいいつ の空挺 くうてい 部隊 ぶたい であったが、ドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく の公的 こうてき 軍事 ぐんじ 機関 きかん の中 なか には他 ほか にもいくつかの空挺 くうてい 能力 のうりょく を有 ゆう する部隊 ぶたい が存在 そんざい した。例 たと えば国家 こっか 保安 ほあん 省 しょう フェリックス・ジェルジンスキー衛兵 えいへい 連隊 れんたい に所属 しょぞく した一部 いちぶ の偵察 ていさつ 部隊 ぶたい などがそれに当 あた る。
第 だい 40航空 こうくう 突撃 とつげき 連隊 れんたい の任務 にんむ はワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう 各国 かっこく 軍 ぐん の空挺 くうてい 部隊 ぶたい のそれに倣 なら ったものである。すなわち敵 てき 後方 こうほう に降下 こうか してサボタージュ活動 かつどう を行 おこな い、補給 ほきゅう の遅延 ちえん や士気 しき の低下 ていか をもたらし敵 てき の進行 しんこう を足止 あしど めする事 こと を主要 しゅよう な作戦 さくせん 方針 ほうしん と定 さだ めていた。またその中 なか でも特 とく に重視 じゅうし されたのが、敵 てき が有 ゆう する核兵器 かくへいき 等 ひとし の大量 たいりょう 破壊 はかい 兵器 へいき を確保 かくほ ・破壊 はかい する事 こと であった。彼 かれ らの活動 かつどう は大 おお きく3種類 しゅるい に分 わ ける事 こと が出来 でき る。
「偵察 ていさつ 」(Aufklärung)に分類 ぶんるい される活動 かつどう では、敵 てき 地 ち に潜入 せんにゅう して敵 てき の軍事 ぐんじ 活動 かつどう を監視 かんし し、情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう を図 はか る。具体 ぐたい 的 てき には次 つぎ のような活動 かつどう が含 ふく まれる。
対象 たいしょう 国 こく における軍事 ぐんじ 的 てき ・経済 けいざい 的 てき ・社会 しゃかい 的 てき に重要 じゅうよう な目標 もくひょう の観察 かんさつ 。
対象 たいしょう 国 こく における爆 ばく 撃 げき 機 き 部隊 ぶたい ・前線 ぜんせん 航空 こうくう 管制 かんせい ・砲兵 ほうへい 隊 たい ・ミサイル部隊 ぶたい の待機 たいき 状 じょう 況 きょう 及 およ び作戦 さくせん 目標 もくひょう の調査 ちょうさ 。
対象 たいしょう 国 こく における港湾 こうわん ・空港 くうこう ・鉄道 てつどう などインフラの監 かん 視 し とそれに基 もと づく戦略 せんりゃく 物資 ぶっし の備蓄 びちく ・使用 しよう 状 じょう 況 きょう の調査 ちょうさ 。
対象 たいしょう 国 こく における重要 じゅうよう 人物 じんぶつ の監視 かんし 及 およ び自国 じこく 内 ない における対象 たいしょう 国軍 こくぐん の活動 かつどう の調査 ちょうさ 。
「コマンド活動 かつどう 」(Kommandoeinsätze)に分類 ぶんるい される活動 かつどう では、敵 てき に対 たい する奇襲 きしゅう 攻撃 こうげき ・ゲリラ攻撃 こうげき を遂行 すいこう する。また、以後 いご の敵 てき 守備 しゅび 戦力 せんりょく による反攻 はんこう のリスクなどを考慮 こうりょ し、攻撃 こうげき に際 さい しても痕跡 こんせき は残 のこ さぬように心 こころ がけ、可能 かのう であれば正体 しょうたい の露呈 ろてい を避 さ ける事 こと とされていた。コマンド活動 かつどう の遂行 すいこう にあたっては最悪 さいあく の事態 じたい を想定 そうてい した上 うえ で、痕跡 こんせき の偽装 ぎそう 及 およ び隊員 たいいん の帰還 きかん は前提 ぜんてい 条件 じょうけん とされていた。
活動 かつどう に際 さい しては次 つぎ の様 よう な要因 よういん が特 とく に警戒 けいかい ・重要 じゅうよう 視 し された
核兵器 かくへいき 運搬 うんぱん 手段 しゅだん 及 およ び発射 はっしゃ システム、核弾頭 かくだんとう の閉鎖 へいさ 状 じょう 況 きょう 。
敵 てき 主要 しゅよう 部隊 ぶたい の監視 かんし に基 もと づき推定 すいてい される自軍 じぐん への攻撃 こうげき 計画 けいかく 、または想定 そうてい されうる総合 そうごう 的 てき な戦争 せんそう 計画 けいかく 。
連邦 れんぽう 空軍 くうぐん 航空 こうくう 指揮 しき 統制 とうせい システム(FüWES Lw)など電子 でんし 戦 せん システムの状況 じょうきょう 。
大 だい 規模 きぼ な兵器 へいき システムの状況 じょうきょう (偵察 ていさつ システム、大量 たいりょう 破壊 はかい 化学 かがく 兵器 へいき 、生物 せいぶつ 兵器 へいき など)。
橋梁 きょうりょう 、ダム、発電 はつでん 所 しょ 、放送 ほうそう 局 きょく 、港湾 こうわん 施設 しせつ 、飛行場 ひこうじょう 、高速 こうそく 道路 どうろ などインフラの位置 いち 及 およ び状況 じょうきょう 。
作戦 さくせん 上 じょう 重要 じゅうよう な物資 ぶっし が集積 しゅうせき される箇所 かしょ (弾薬 だんやく ・燃料 ねんりょう の集積 しゅうせき 所 しょ など)。
戦線 せんせん 後方 こうほう に存在 そんざい する敵 てき の重要 じゅうよう 人物 じんぶつ あるいはグループ。
後背 こうはい 地 ち における敵 てき 軍 ぐん の排除 はいじょ または確保 かくほ 。
さらに第 だい 40航空 こうくう 突撃 とつげき 連隊 れんたい は次 つぎ のような特殊 とくしゅ 作戦 さくせん にも従事 じゅうじ するものとされた。
軍事 ぐんじ 的 てき ・政治 せいじ 的 てき ・経済 けいざい 的 てき に重要 じゅうよう な人物 じんぶつ に対 たい する調査 ちょうさ ・監視 かんし 。必要 ひつよう がある場合 ばあい はこれの誘拐 ゆうかい ならびに殺害 さつがい 。
敵 てき の後背 こうはい 地 ち からのワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう における重要 じゅうよう 人物 じんぶつ の奪還 だっかん 。
敵 てき の軍事 ぐんじ ・行政 ぎょうせい ・経済 けいざい に関 かん する重要 じゅうよう 施設 しせつ への潜入 せんにゅう 。
敵 てき の後背 こうはい 地 ち におけるサボタージュ活動 かつどう 。これは宣戦 せんせん 布告 ふこく 以前 いぜん にも行 おこな われる。
1960年 ねん 初頭 しょとう 、最初 さいしょ の降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 部隊 ぶたい である降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい (Fallschirmjägerbataillon)はソ連 それん 式 しき 軍事 ぐんじ ドクトリンの元 もと で編成 へんせい され、その後 ご も何 なん 度 ど かの再 さい 編成 へんせい と改名 かいめい を繰 く り返 かえ した。1980年代 ねんだい 半 なか ばからは連隊 れんたい 規模 きぼ に拡大 かくだい されたが、設立 せつりつ 当初 とうしょ より採用 さいよう されていた小 しょう 部隊 ぶたい 編成 へんせい を重視 じゅうし する活動 かつどう 隊 たい 戦術 せんじゅつ (Einsatzgruppentaktik)などのドクトリンは引 ひ き続 つづ き維持 いじ された。
忠誠 ちゅうせい 宣誓 せんせい を行 おこな う降下 こうか 猟 りょう 兵 へい
当初 とうしょ は地上 ちじょう 軍 ぐん の標準 ひょうじゅん 的 てき な軽 けい 歩兵 ほへい 大隊 だいたい と同様 どうよう の編成 へんせい を取 と っており、中隊 ちゅうたい などの下級 かきゅう 編成 へんせい が含 ふく まれた。その後 ご 、他国 たこく の空挺 くうてい 部隊 ぶたい 編成 へんせい からの影響 えいきょう を受 う けつつ、徐々 じょじょ に小規模 しょうきぼ 戦闘 せんとう 団 だん による戦闘 せんとう を意識 いしき した編成 へんせい に移 うつ っていき、5人 にん から12人 にん の小隊 しょうたい 編成 へんせい が行 おこな われるようになる。これは国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん が採用 さいよう していた活動 かつどう 隊 たい 戦術 せんじゅつ (Einsatzgruppentaktik)の概念 がいねん に従 したが った編成 へんせい である。この概念 がいねん においては活動 かつどう 隊 たい と呼 よ ばれる複数 ふくすう の小規模 しょうきぼ 戦闘 せんとう 団 だん 同士 どうし が協同 きょうどう する事 こと で任務 にんむ を達成 たっせい するものとされており、必要 ひつよう とされる場合 ばあい に降下 こうか 猟 りょう 兵 へい として空挺 くうてい 作戦 さくせん を遂行 すいこう しうる事 こと が求 もと められた。ヘリコプター や輸送 ゆそう 機 き が不足 ふそく していたこともあり、国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん における活動 かつどう 隊 たい 戦術 せんじゅつ は長 なが らく限定 げんてい 的 てき にしか実現 じつげん されず、降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい は空挺 くうてい 作戦 さくせん 以外 いがい にも様々 さまざま な任務 にんむ に従事 じゅうじ する特殊 とくしゅ 部隊 ぶたい として運用 うんよう された。その為 ため 、訓練 くんれん において特 とく に重要 じゅうよう 視 し されていたのが体力 たいりょく 練 ねり 成 なり や白兵戦 はくへいせん 、そして様々 さまざま な銃器 じゅうき の射撃 しゃげき 訓練 くんれん である。無線 むせん 士 し や狙撃 そげき 手 しゅ 、水中 すいちゅう 工作 こうさく 員 いん など特殊 とくしゅ 兵科 へいか 要因 よういん の育成 いくせい も行 おこな われた。降下 こうか 訓練 くんれん は1年 ねん あたり10回 かい から15回 かい 行 おこな われた。多 おお くの隊員 たいいん は無線 むせん 技士 ぎし 、発破 はっぱ 工作 こうさく 員 いん 、山岳 さんがく 兵 へい 、スキー兵 へい などの資格 しかく を有 ゆう していた。これらの能力 のうりょく が維持 いじ されているかどうか、半年 はんとし ごとに地上 ちじょう 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ による評価 ひょうか を受 う ける事 こと が定 さだ められていた。
空挺 くうてい 部隊 ぶたい としての能力 のうりょく を向上 こうじょう させるべく、隊員 たいいん には通常 つうじょう の地上 ちじょう 軍 ぐん 訓練 くんれん 課程 かてい に加 くわ えて複数 ふくすう の専門 せんもん 課程 かてい が義務付 ぎむづ けられていた。少 すく なくとも3年 ねん 以内 いない に1つの課程 かてい を修了 しゅうりょう することとされており、大抵 たいてい の隊員 たいいん は2つないし3つを修了 しゅうりょう した。
自動車 じどうしゃ 及 およ び装甲車 そうこうしゃ 輌 りょう 技術 ぎじゅつ 士 し 教育 きょういく 課程 かてい (Kfz- und panzertechnischer Lehrgang
狙撃 そげき 手 しゅ 教育 きょういく 課程 かてい (Scharfschützenlehrgang)
戦術 せんじゅつ 教育 きょういく 教育 きょういく 課程 かてい (Taktiklehrgang)
白兵戦 はくへいせん 専門 せんもん 教育 きょういく 課程 かてい (Nahkampflehrgang für Spezialisten) - 通常 つうじょう 訓練 くんれん 課程 かてい の拡張 かくちょう 。
医療 いりょう 研修 けんしゅう 教育 きょういく 課程 かてい (Sanitätslehrgang) - 通常 つうじょう 訓練 くんれん 課程 かてい の拡張 かくちょう 。
NATO軍 ぐん に対 たい する偵察 ていさつ 及 およ び特殊 とくしゅ 作戦 さくせん の教育 きょういく 課程 かてい (Lehrgang zur Aufklärung und Spezialtaktik der NATO-Streitkräfte)
ソ連 それん 式 しき 航空 こうくう 突撃 とつげき 戦術 せんじゅつ を取 と り入 い れた後 のち も、行動 こうどう 隊 たい 戦術 せんじゅつ の思想 しそう は一部 いちぶ に残 のこ されていた。また新 しん 戦術 せんじゅつ の導入 どうにゅう に従 したが い航空 こうくう 輸送 ゆそう 戦力 せんりょく も増強 ぞうきょう され、降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい はいずれの戦術 せんじゅつ の元 もと でも任務 にんむ にも従事 じゅうじ することが可能 かのう となったのである。
1972年 ねん 、降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい は第 だい 5軍 ぐん 管区 かんく に配置 はいち されたが、すぐに地上 ちじょう 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ 直属 ちょくぞく 戦力 せんりょく となっている。この際 さい に第 だい 40航空 こうくう 突撃 とつげき 連隊 れんたい (LStR-40)と改名 かいめい された。またコードネームは「はんだ 」(Lötzinn)であった。空挺 くうてい 部隊 ぶたい の訓練 くんれん 施設 しせつ としてマクデブルク 近郊 きんこう に設置 せっち された第 だい 40降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 訓練 くんれん 所 しょ (Fallschirmjägerausbildungsbasis 40, FJABas-40)も、部隊 ぶたい と共 とも に何 なん 度 ど か名称 めいしょう が変更 へんこう されている。訓練 くんれん 施設 しせつ のコードネームは「フキタンポポ 」(Huflattich)であった。
国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん の空挺 くうてい 部隊 ぶたい では、全 ぜん 期間 きかん を通 つう じて軽量 けいりょう な火器 かき が求 もと められており、様々 さまざま な火器 かき の調達 ちょうたつ を行 おこ なっている。また制服 せいふく は他 た の地上 ちじょう 軍 ぐん 部隊 ぶたい と多少 たしょう 異 こと なっていた。
当初 とうしょ 、空挺 くうてい 部隊 ぶたい の標準 ひょうじゅん 火器 かき は7.62x39mm弾 だん を使用 しよう するMPi-KMS-72 突撃 とつげき 銃 じゅう であった。これはソ連 それん 製 せい AKMS 突撃 とつげき 銃 じゅう に改良 かいりょう を加 くわ えた上 うえ で国産 こくさん 化 か したもので、60年代 ねんだい 前半 ぜんはん に導入 どうにゅう された。1985年 ねん からは5.45x39mm弾 だん を使用 しよう するMPi-AKS-74N 突撃 とつげき 銃 じゅう (AKS-74U の東独 とうどく 製 せい 改良 かいりょう 型 がた )に更新 こうしん され、これに合 あ わせて7.62x39mm弾 だん を使用 しよう するRPK機関 きかん 銃 じゅう は5.45x39mm弾 だん を使用 しよう するK-500機関 きかん 銃 じゅう (RPK-74機関 きかん 銃 じゅう に相当 そうとう する東独 とうどく 製 せい 機関 きかん 銃 じゅう )に更新 こうしん された。1個 いっこ 降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 小隊 しょうたい には2つの対 たい 戦車 せんしゃ 弾 だん (RPG-2 、後 のち にRPG-7D やRPG-18 など)と1つの機関 きかん 銃 じゅう (RPDなど)が配備 はいび されていた。またF-1 やRGD-5 などの手榴弾 しゅりゅうだん やコンバットナイフなどの短剣 たんけん も各 かく 兵員 へいいん が装備 そうび した。それ以外 いがい にも他 た のワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう 各国 かっこく 軍 ぐん と同様 どうよう 、マカロフ拳銃 けんじゅう などのソ連 それん 製 せい 兵器 へいき が多 おお く配備 はいび された。またドラグノフ狙撃 そげき 銃 じゅう などが特別 とくべつ 任務 にんむ の為 ため に配備 はいび される事 こと もあった。1985年 ねん 以降 いこう 、MPi-AKS-74Nに狙撃 そげき 用 よう 照準 しょうじゅん 器 き を取 と り付 つ けたものが使用 しよう された例 れい も知 し られる。
第 だい 5自動車 じどうしゃ 化 か 狙撃 そげき 兵 へい 大隊 だいたい (Mot-Schützenbataillon 5, MSB 5)や第 だい 5降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい (Fallschirmjägerbataillon 5, FJB5)と呼 よ ばれていた編成 へんせい 当初 とうしょ や1986年 ねん の再編 さいへん 以降 いこう は重 じゅう 支援 しえん 火器 かき の配備 はいび が行 おこな われていた。ここにはM-43迫撃 はくげき 砲 ほう (82mm)や、RG-82無 む 反動 はんどう 砲 ほう (82mm)、RG-107無 む 反動 はんどう 砲 ほう (107mm)、メティス対戦 たいせん 車 しゃ 誘導 ゆうどう 弾 だん やファゴット対戦 たいせん 車 しゃ 誘導 ゆうどう 弾 だん などが含 ふく まれる。無 む 反動 はんどう 砲 ほう では成形 せいけい 炸薬 さくやく 弾 だん や榴弾 りゅうだん などが使用 しよう されていた他 ほか 、SPG-9D 対戦 たいせん 車 しゃ 無 む 反動 はんどう 砲 ほう (73mm)なども少数 しょうすう 保有 ほゆう していた。これらの一部 いちぶ はUAZ-469 などの車輌 しゃりょう に搭載 とうさい された。その他 た 、携帯 けいたい 対空 たいくう 誘導 ゆうどう 弾 だん のストレラ2 が防空 ぼうくう 装備 そうび として使用 しよう され、任務 にんむ によってはTNT やセムテックス などの爆発 ばくはつ 物 ぶつ も各種 かくしゅ 信管 しんかん と共 とも に使用 しよう された。
車輌 しゃりょう 類 るい は他 た の地上 ちじょう 軍 ぐん 部隊 ぶたい と同様 どうよう のものが配備 はいび されていた。一方 いっぽう 、航空 こうくう 輸送 ゆそう 力 りょく の慢性 まんせい 的 てき な不足 ふそく は国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん 編成 へんせい 時 じ からの問題 もんだい だったが、それでも第 だい 40航空 こうくう 突撃 とつげき 連隊 れんたい での運用 うんよう を見越 みこ して航空 こうくう 軍 ぐん には可能 かのう な限 かぎ りの供給 きょうきゅう が行 おこな われていた。主 おも にソ連 それん 製 せい のIl-14 、An-8 、An-12 、An-26 、An-2 などの輸送 ゆそう 機 はた やMi-4 及 およ びMi-8 のような輸送 ゆそう ヘリコプターが使用 しよう されていた。また降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 150名 めい を搭載 とうさい しうるAn-22 は国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん が有 ゆう した最大 さいだい の輸送 ゆそう 機 き であった。これに加 くわ えて、訓練 くんれん ではしばしばドレスデン の第 だい 24輸送 ゆそう 航空 こうくう 隊 たい (Transportfliegerstaffel 24, TS 24)所属 しょぞく のAn-26 が使用 しよう された。
第 だい 11回 かい SED党 とう 大会 たいかい に出席 しゅっせき した降下 こうか 猟 りょう 兵 へい ら(奥 おく のベレー帽 ぼう を被 こうむ った一団 いちだん 。手前 てまえ は国境警備隊 こっきょうけいびたい の兵士 へいし 。1986年 ねん 4月 がつ 20日 はつか )
降下 こうか 猟 りょう 兵 へい は基本 きほん 的 てき に地上 ちじょう 軍 ぐん の制服 せいふく 及 およ び戦闘 せんとう 服 ふく を着用 ちゃくよう していたが、青 あお 灰色 はいいろ の迷彩 めいさい を施 ほどこ した野戦 やせん 偵察 ていさつ 用 よう の戦闘 せんとう 服 ふく や編上 あみあげ 靴 くつ (Schnürschuhe)、革 かわ 製 せい の鉄 てつ 帽 ぼう 覆 くつがえ など専用 せんよう 装備 そうび も支給 しきゅう された。1964年 ねん には降下 こうか 猟 りょう 兵 へい に独自 どくじ の制服 せいふく が制定 せいてい され、落下傘 らっかさん の襟章 えりしょう や橙色 だいだいいろ の兵科 へいか 色 しょく が与 あた えられた。また1969年 ねん にはベレー帽 ぼう が制帽 せいぼう として採用 さいよう された。
降下 こうか 猟 りょう 兵 へい は5回 かい 、10回 かい 、25回 かい 、30回 かい 、35回 かい 、40回 かい 、50回 かい 、75回 かい 、100回 かい 、150回 かい の降下 こうか 時 じ に1つずつ降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 記章 きしょう (Fallschirmsprungabzeichen)が与 あた えられ、その後 ご も50回 かい ごとに新 あら たな記章 きしょう が与 あた えられた。
1972年 ねん 、国防 こくぼう 大臣 だいじん 命令 めいれい に基 もと づき服飾 ふくしょく 規定 きてい が改定 かいてい されると装備 そうび の一部 いちぶ が他 た の地上 ちじょう 軍 ぐん 部隊 ぶたい と統合 とうごう される。新 あら たに制定 せいてい された汎用 はんよう 戦闘 せんとう 服 ふく は、上着 うわぎ 、ズボン、戦闘 せんとう ベスト、レインジャケットの4つから成 な り、レインドロップ迷彩 めいさい の通称 つうしょう で知 し られるEin-Strich-kein-Strichパターンの迷彩 めいさい が施 ほどこ されていた。
降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 用 よう の兵科 へいか 章 あきら (Dienstlaufbahnabzeichen)
初期 しょき に使用 しよう されていた兵科 へいか 章 あきら 。
降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 記章 きしょう 。左 ひだり は1967年 ねん ~1973年 ねん のデザイン。右 みぎ は1973年 ねん ~1990年 ねん のデザイン。
ホーネッカー 議長 ぎちょう と
握手 あくしゅ する
降下 こうか 猟 りょう 兵 へい がレインドロップ
迷彩 めいさい の
戦闘 せんとう 服 ふく を
着用 ちゃくよう している。この
戦闘 せんとう 服 ふく は
後 のち に
地上 ちじょう 軍 ぐん の
汎用 はんよう 戦闘 せんとう 服 ふく として
採用 さいよう された。
弾倉 だんそう 等 とう を収 おさ めるための降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 用 よう 戦闘 せんとう ベスト。
降下 こうか 猟 りょう 兵 へい の装備 そうび を再現 さいげん したマネキン。
降下 こうか 準備 じゅんび を行 おこな う降下 こうか 猟 りょう 兵 へい
ドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく における降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 部隊 ぶたい の編成 へんせい には第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん を生 い き抜 ぬ いた旧 きゅう 軍 ぐん の降下 こうか 猟 りょう 兵 へい が関与 かんよ しており、大戦 たいせん で得 え た降下 こうか 作戦 さくせん に関 かん する様々 さまざま な戦 せん 訓 くん が活 い かされた。また1952年 ねん にはスポーツ技術 ぎじゅつ 協会 きょうかい (ドイツ語 ご 版 ばん ) (Gesellschaft für Sport und Technik, GST)によって落下傘 らっかさん 降下 こうか に関 かん する軍事 ぐんじ 教練 きょうれん が実行 じっこう されている。すなわち、1956年 ねん の国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん 設立 せつりつ の段階 だんかい で既 すで に経験 けいけん を積 つ んだ降下 こうか 猟 りょう 兵 へい が存在 そんざい していたのである。彼 かれ らによって編成 へんせい された部隊 ぶたい は創成 そうせい 期 き の国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん にて唯一 ゆいいつ の有力 ゆうりょく な偵察 ていさつ 部隊 ぶたい として活動 かつどう していた。
No.
部隊 ぶたい 名 めい
期間 きかん
1.
第 だい 5自動車 じどうしゃ 化 か 狙撃 そげき 兵 へい 大隊 だいたい (Mot.-Schützenbataillon 5, MSB-5)
1960年 ねん 3月 がつ 1日 にち ~
第 だい 5軍 ぐん 管区 かんく 司令 しれい 部 ぶ 直属 ちょくぞく
2.
第 だい 5降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい (Fallschirmjägerbataillon 5, FJB-5)
1962年 ねん 2月 がつ 28日 にち ~
3.
第 だい 2降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい (Fallschirmjägerbataillon 2, FJB-2)
1972年 ねん 12月1日 にち ~
4.
第 だい 40降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい (Fallschirmjägerbataillon 40, FJB-40)
1972年 ねん 11月8日 にち ~
地上 ちじょう 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ 直属 ちょくぞく
5.
第 だい 40航空 こうくう 突撃 とつげき 連隊 れんたい (Luftsturmregiment 40, LStR-40)
1986年 ねん 12月1日 にち ~
連隊 れんたい 規模 きぼ に拡大 かくだい
1950年代 ねんだい 後半 こうはん 、国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん を含 ふく むワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう 各国 かっこく 軍 ぐん は空挺 くうてい 部隊 ぶたい の編成 へんせい に着手 ちゃくしゅ し始 はじ めていた。これはソ連 それん 当局 とうきょく の意向 いこう によるところが大 おお きかったが、一方 いっぽう でドイツ連邦 れんぽう 軍 ぐん (西 にし ドイツ軍 ぐん )が1955年 ねん に設立 せつりつ され、航空 こうくう 部隊 ぶたい 及 およ び降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 部隊 ぶたい の編成 へんせい に着手 ちゃくしゅ していた事 こと も関係 かんけい している。
1960年 ねん 3月 がつ 1日 にち 、第 だい 5自動車 じどうしゃ 化 か 狙撃 そげき 兵 へい 大隊 だいたい (Motorisierte Schützenbataillon 5, MSB-5)がリューゲン島 とう プローラ にて設置 せっち された。同 どう 大隊 だいたい の任務 にんむ は空挺 くうてい 部隊 ぶたい 設置 せっち の準備 じゅんび を整 ととの える事 こと であり、少 すく なくとも降下 こうか 猟 りょう 兵 へい を連隊 れんたい 規模 きぼ 、すなわち300人 にん 程度 ていど まで確保 かくほ する事 こと が必要 ひつよう とされていた。兵舎 へいしゃ にはナチス・ドイツ 時代 じだい に歓喜 かんき 力行 りっこう 団 だん (KdF)が建設 けんせつ した巨大 きょだい ホテルが流用 りゅうよう され、多 おお くの訓練 くんれん は秘密裏 ひみつり に行 おこな われていた。
1961年 ねん 9月 がつ 、Il-14輸送 ゆそう 機 き を始 はじ めとする各種 かくしゅ のソ連 それん 製 せい 空挺 くうてい 機材 きざい 一式 いっしき がリューゲン島 とう に届 とど く。この時点 じてん での兵力 へいりょく は80人 にん で、これによって2個 こ 中隊 ちゅうたい が編成 へんせい されていた。また中隊 ちゅうたい は3個 こ 小隊 しょうたい 、小隊 しょうたい は3個 こ 分隊 ぶんたい で構成 こうせい されていた。
1962年 ねん 2月 がつ 15日 にち 、第 だい 5降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい (Fallschirmjägerbataillon 5, FJB-5)と改名 かいめい される。この部隊 ぶたい は国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん 及 およ び国防省 こくぼうしょう に直属 ちょくぞく し、いずれの軍 ぐん 種 しゅ からも独立 どくりつ した部隊 ぶたい として扱 あつか われた。同年 どうねん 中 ちゅう からワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう の合同 ごうどう 演習 えんしゅう への参加 さんか を開始 かいし し、翌年 よくねん には灰色 はいいろ のベレー帽 ぼう など独自 どくじ の制服 せいふく を採用 さいよう することが認 みと められた。なお、1969年 ねん 以降 いこう 、ベレーの色 いろ は赤色 あかいろ に改 あらた められた。
1984年 ねん 、部隊 ぶたい 訪問 ほうもん の折 おり に記念 きねん 品 ひん を手渡 てわた すホーネッカー 議長 ぎちょう
降下 こうか 猟 りょう 兵 へい と握手 あくしゅ するホーネッカー議長 ぎちょう
1970年代 ねんだい 初頭 しょとう まで、部隊 ぶたい は第 だい 5軍 ぐん 管区 かんく (ドイツ語 ご 版 ばん ) に所属 しょぞく した。1971年 ねん 12月1日 にち には部隊 ぶたい 名 めい が第 だい 2降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい (Fallschirmjägerbataillon 2, FJB-2)となる。また1972年 ねん 11月8日 にち には第 だい 40降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい (Fallschirmjägerbataillon 40, FJB-40)に改名 かいめい され、12月1日 にち 以降 いこう は新設 しんせつ の地上 ちじょう 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ によって直接 ちょくせつ 運用 うんよう された。国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん 地上 ちじょう 軍 ぐん において40という部隊 ぶたい 番号 ばんごう は地上 ちじょう 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ 付 づけ を意味 いみ し、また部隊 ぶたい 番号 ばんごう 40が付 ふ された各 かく 部隊 ぶたい はいかなる場合 ばあい においても他 た の下級 かきゅう 司令 しれい 部 ぶ の指揮 しき 下 か に移 うつ らず、地上 ちじょう 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ によって直接 ちょくせつ 運用 うんよう されるものとされた。戦時 せんじ 及 およ び特別 とくべつ の命令 めいれい が下 くだ された場合 ばあい 、ワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう 各国 かっこく 軍 ぐん は戦力 せんりょく の統合 とうごう を図 はか ることとされており、第 だい 40降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい はベルリンを中心 ちゅうしん に展開 てんかい するものとされていた。
地上 ちじょう 軍 ぐん は部隊 ぶたい を大 おお きく第 だい 3軍 ぐん 管区 かんく (ドイツ語 ご 版 ばん ) と第 だい 5軍 ぐん 管区 かんく に分 わ けており、当初 とうしょ はこれら軍 ぐん 管区 かんく ごとに降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい が編成 へんせい される予定 よてい だった。しかし計画 けいかく 上 じょう の失敗 しっぱい から、いずれの軍 ぐん 管区 かんく の要請 ようせい にも対応 たいおう しうる中央 ちゅうおう 部隊 ぶたい として司令 しれい 部 ぶ 直属 ちょくぞく に1個 いっこ の降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい だけが設 もう けられたのである。当時 とうじ の調査 ちょうさ から2個 こ 大隊 だいたい に相当 そうとう する人的 じんてき 資源 しげん の確保 かくほ は不可能 ふかのう と見 み なされていたが、1970年代 ねんだい には部隊 ぶたい の拡張 かくちょう が決定 けってい された。これに従 したが って新 あら たな訓練 くんれん 専門 せんもん 部隊 ぶたい の編成 へんせい が行 おこな われ、予備 よび 役 やく 兵 へい 及 およ び下士官 かしかん の訓練 くんれん が行 おこな われた。この隊 たい は水中 すいちゅう 爆破 ばくは 員 いん 小隊 しょうたい (Sprengtaucherzug)と呼 よ ばれていたが、後 のち に偵察 ていさつ 小隊 しょうたい (Aufklärungszug)と改名 かいめい された。1978年 ねん 末 まつ 、ドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく 北部 ほくぶ は大 だい 雪害 せつがい (ドイツ語 ご 版 ばん ) に襲 おそ われた。第 だい 40降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい はこれを救援 きゅうえん するべく出動 しゅつどう し[ 1] 、降下 こうか 猟 りょう 兵 へい らはヘリコプターとスキーを駆使 くし して孤立 こりつ した集落 しゅうらく や農場 のうじょう に食料 しょくりょう 及 およ び物資 ぶっし を送 おく り届 とど けた。
1980年 ねん 12月 がつ 以降 いこう 、第 だい 40降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい はベルリン ・シュトラウスベルク に駐屯 ちゅうとん 地 ち を移 うつ し、国防 こくぼう 大臣 だいじん を筆頭 ひっとう とした国防省 こくぼうしょう 高官 こうかん や高級 こうきゅう 将校 しょうこう らの居住 きょじゅう 区 く の護衛 ごえい の任 にん についた。ここに暮 く らしていた著名 ちょめい な高級 こうきゅう 将校 しょうこう としてはフリッツ・シュトレーレッツ 、ヴォルフガング・ラインホルト などが知 し られる。以前 いぜん から警護 けいご を担 にな っていたフーゴー・エーバーライン衛兵 えいへい 連隊 れんたい は、第 だい 40降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい と交代 こうたい する形 かたち で任務 にんむ を離 はな れた。この配置 はいち 転換 てんかん は当時 とうじ の国防 こくぼう 大臣 だいじん カール=ハインツ・ホフマン 将軍 しょうぐん によって行 おこな われた。ホフマンは党 とう 幹部 かんぶ の居住 きょじゅう 区 く であるヴァンドリッツ地区 ちく から離 はな れて暮 く らす政治 せいじ 局 きょく メンバーの1人 ひとり であり、自身 じしん が個人 こじん 的 てき に信頼 しんらい 出来 でき る部隊 ぶたい によって護衛 ごえい されることを望 のぞ み降下 こうか 猟 りょう 兵 へい を呼 よ び寄 よ せたのだとされている。
この任務 にんむ を与 あた えられた後 のち 、部隊 ぶたい は増員 ぞういん されると共 とも に新 あら たに中隊 ちゅうたい 編成 へんせい が行 おこな われた。当時 とうじ は1個 いっこ 降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 中隊 ちゅうたい を4個 こ 降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 小隊 しょうたい によって構成 こうせい していた。しかし1983年 ねん になると降下 こうか 猟 りょう 兵 へい たる任務 にんむ と国防省 こくぼうしょう 高官 こうかん の護衛 ごえい を両立 りょうりつ する事 こと は不可能 ふかのう と判断 はんだん され、護衛 ごえい 任務 にんむ は再 ふたた び衛兵 えいへい 連隊 れんたい に引 ひ き継 つ がれた。ただし、その後 ご も8週間 しゅうかん ごとに2週間 しゅうかん の特別 とくべつ 警護 けいご (Sonderwache)の任務 にんむ を受 う けてシュトラウスベルクに派遣 はけん された。特別 とくべつ 警護 けいご 任務 にんむ における1回 かい あたりの勤務 きんむ 時間 じかん は48時 じ 間 あいだ とされており、それ以外 いがい の時間 じかん はシュトラウスベルク近郊 きんこう に設置 せっち された施設 しせつ における訓練 くんれん に費 ついや された。
1981年 ねん 、第 だい 40降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい はポツダムのレーニン演習 えんしゅう 場 じょう に駐屯 ちゅうとん 地 ち を移 うつ す。この施設 しせつ は国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん が有 ゆう した演習 えんしゅう 場 じょう のうち、最先端 さいせんたん の設備 せつび を有 ゆう するものであった。同 どう 演習 えんしゅう 場 じょう は降下 こうか 猟 りょう 兵 へい らの要望 ようぼう を取 と り入 い れ、リューゲン島 とう よりも整備 せいび された市街 しがい 戦 せん 訓練 くんれん 施設 しせつ やヘリポートを備 そな えていた。ただし兵舎 へいしゃ の完成 かんせい は遅 おく れ、部隊 ぶたい の移動 いどう 後 ご も1年間 ねんかん は防空壕 ぼうくうごう を臨時 りんじ の兵舎 へいしゃ として使用 しよう していた。
1980年代 ねんだい 後半 こうはん 、ミハイル・ゴルバチョフ がソ連邦 それんぽう 共産党 きょうさんとう 書記 しょき 長 ちょう に就任 しゅうにん して権力 けんりょく を掌握 しょうあく する。ゴルバチョフの提唱 ていしょう したペレストロイカ はワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう 各国 かっこく 軍 ぐん の軍事 ぐんじ 政策 せいさく にも影響 えいきょう を及 およ ぼし、ソ連 それん 軍 ぐん の配置 はいち 及 およ び任務 にんむ も徐々 じょじょ に防御 ぼうぎょ 重視 じゅうし のものに移 うつ り始 はじ めた。例 たと えば爆 ばく 撃 げき 機 き 部隊 ぶたい の任務 にんむ も、空爆 くうばく そのものより情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう に重点 じゅうてん が置 お かれるようになったのである。ドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく もまた国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん の改革 かいかく に着手 ちゃくしゅ し、この中 なか で降下 こうか 猟 りょう 兵 へい の任務 にんむ も変化 へんか していく。1986年 ねん 12月1日 にち 、第 だい 40航空 こうくう 突撃 とつげき 連隊 れんたい (Luftsturmregiment 40, LStR-40)に改名 かいめい される。
1989年 ねん 秋 あき の月曜 げつよう デモ では、第 だい 40航空 こうくう 突撃 とつげき 連隊 れんたい に対 たい して最初 さいしょ にして最後 さいご の公的 こうてき な実戦 じっせん 出動 しゅつどう 命令 めいれい が発令 はつれい されている。当時 とうじ 既 すで に影響 えいきょう 力 りょく を喪失 そうしつ していたSED当局 とうきょく にとって、降下 こうか 猟 りょう 兵 へい は国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん の中 なか でも特 とく に政治 せいじ 的 てき 信頼 しんらい 性 せい に足 た る部隊 ぶたい の1つであり、党 とう 政府 せいふ 及 およ び軍 ぐん の施設 しせつ をデモ隊 たい から護衛 ごえい する任務 にんむ を与 あた えられたのである。デモが行 おこな われる数日 すうじつ 前 まえ 、数 すう 百 ひゃく 名 めい の降下 こうか 猟 りょう 兵 へい がライプツィヒに派遣 はけん され人民 じんみん 警察 けいさつ 及 およ び国家 こっか 保安 ほあん 省 しょう テロ対策 たいさく 部門 ぶもん などと合同 ごうどう で訓練 くんれん を行 おこな っていたとされる[ 2] 。
1989年 ねん 12月、国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん を始 はじ めとするドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく が有 ゆう する全 すべ ての軍事 ぐんじ 組織 そしき の解体 かいたい が始 はじ まった。多 おお くの将兵 しょうへい はこれを西側 にしがわ による侮辱 ぶじょく と捉 とら え、実際 じっさい に解体 かいたい が行 おこな われる前 まえ に自 みずか ら職 しょく を辞 じ した。第 だい 40航空 こうくう 突撃 とつげき 連隊 れんたい でもおよそ半数 はんすう の降下 こうか 猟 りょう 兵 へい が部隊 ぶたい を去 さ ったが、その後 ご も連隊 れんたい の維持 いじ は続 つづ けられた。1990年 ねん 1月 がつ 31日 にち 、2人 ふたり の元 もと 降下 こうか 猟 りょう 兵 へい がイーザーローン に駐屯 ちゅうとん する連邦 れんぽう 陸軍 りくぐん 第 だい 271降下 こうか 猟 りょう 兵 へい 大隊 だいたい (Fallschirmjägerbataillon 271)にて採用 さいよう される。翌月 よくげつ 以降 いこう はより多 おお くの元 もと 降下 こうか 猟 りょう 兵 へい が教官 きょうかん や顧問 こもん としてドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく を始 はじ めとする各国 かっこく の軍 ぐん ・警察 けいさつ 組織 そしき で採用 さいよう され始 はじ めた。
1990年 ねん 9月 がつ 、最後 さいご の降下 こうか 訓練 くんれん が行 おこな われる。10月3日 にち 、ドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく が崩壊 ほうかい し、国家 こっか 人民 じんみん 軍 ぐん も完全 かんぜん に連邦 れんぽう 軍 ぐん へ統合 とうごう される。訓練 くんれん 中 ちゅう だった新兵 しんぺい など最後 さいご まで残 のこ されていた100名 めい の隊員 たいいん は全員 ぜんいん が連邦 れんぽう 陸軍 りくぐん に残留 ざんりゅう した。これらの隊員 たいいん によって東部 とうぶ 司令 しれい 部 ぶ 配下 はいか に新 あら たな空挺 くうてい 部隊 ぶたい が編成 へんせい される予定 よてい だったが、この計画 けいかく は中止 ちゅうし され、隊員 たいいん らは他 た の陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい に分散 ぶんさん して配属 はいぞく された。
^ Phoenix-Film ab Minute 7:00
^ Honeckers Elitetruppe. Die Fallschirmjäger . Ein Film von Axel Friedrich (gesendet auf Phoenix )
Karl-Heinz Dissberger u. a.: Vom Himmel auf die Erde ins Gefecht. Fallschirmjäger der Nationalen Volksarmee. 2. verbesserte Auflage. Kabinett Verlag, Zürich u. a. 1999, ISBN 3-906572-15-3 .