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だい40航空こうくう突撃とつげき連隊れんたい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
だい40航空こうくう突撃とつげき連隊れんたい
Luftsturmregiment 40
航空こうくう突撃とつげき連隊れんたい徽章きしょうなんかデザインが変更へんこうされている。
創設そうせつ 1960ねん3月1にち - 1991ねん6月30にち
国籍こくせき 東ドイツの旗 ひがしドイツ
ぐんしゅ 降下こうかりょうへい(Fallschirmjäger)
上級じょうきゅう部隊ぶたい 国家こっか人民じんみんぐん地上ちじょうぐん
基地きち レーニン演習えんしゅうじょうドイツばん(Truppenübungsplatz Lehnin)
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だい40航空こうくう突撃とつげき連隊れんたい「ヴィリー・ゼンガー」ドイツ: Luftsturmregiment 40 Willi Sänger, LStR-40)は、ドイツ民主みんしゅ共和きょうわこくひがしドイツ)の国家こっか人民じんみんぐん地上ちじょうぐんゆうした降下こうかりょうへい部隊ぶたいである。1960ねんから1982ねんまではリューゲンとうプローラに、1982ねんから1990ねんまではポツダムレーニン演習えんしゅうじょうドイツばん(Truppenübungsplatz Lehnin)に駐屯ちゅうとんした。連隊れんたいかんされているヴィリー・ゼンガードイツばん称号しょうごうは、パルチザンとしてたたかった共産きょうさん党員とういんからられている。

概要がいよう

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だい40航空こうくう突撃とつげき連隊れんたいたんなる空挺くうてい部隊ぶたいというよりは様々さまざま任務にんむ適応てきおうしうる特殊とくしゅ部隊ぶたいの1つとなされており、ワルシャワ条約じょうやく機構きこうぐんによる攻撃こうげきてき戦略せんりゃく一環いっかんになっていた。まただい40航空こうくう突撃とつげき連隊れんたい国家こっか人民じんみんぐんにおける唯一ゆいいつ空挺くうてい部隊ぶたいであったが、ドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく公的こうてき軍事ぐんじ機関きかんなかにはほかにもいくつかの空挺くうてい能力のうりょくゆうする部隊ぶたい存在そんざいした。たとえば国家こっか保安ほあんしょうフェリックス・ジェルジンスキー衛兵えいへい連隊れんたい所属しょぞくした一部いちぶ偵察ていさつ部隊ぶたいなどがそれにあたる。

任務にんむ

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だい40航空こうくう突撃とつげき連隊れんたい任務にんむワルシャワ条約じょうやく機構きこう各国かっこくぐん空挺くうてい部隊ぶたいのそれにならったものである。すなわちてき後方こうほう降下こうかしてサボタージュ活動かつどうおこない、補給ほきゅう遅延ちえん士気しき低下ていかをもたらしてき進行しんこう足止あしどめすること主要しゅよう作戦さくせん方針ほうしんさだめていた。またそのなかでもとく重視じゅうしされたのが、てきゆうする核兵器かくへいきひとし大量たいりょう破壊はかい兵器へいき確保かくほ破壊はかいすることであった。かれらの活動かつどうおおきく3種類しゅるいけること出来できる。

偵察ていさつ

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偵察ていさつ」(Aufklärung)に分類ぶんるいされる活動かつどうでは、てき潜入せんにゅうしててき軍事ぐんじ活動かつどう監視かんしし、情報じょうほう収集しゅうしゅうはかる。具体ぐたいてきにはつぎのような活動かつどうふくまれる。

  • 対象たいしょうこくにおける軍事ぐんじてき経済けいざいてき社会しゃかいてき重要じゅうよう目標もくひょう観察かんさつ
  • 対象たいしょうこくにおけるばくげき部隊ぶたい前線ぜんせん航空こうくう管制かんせい砲兵ほうへいたい・ミサイル部隊ぶたい待機たいきじょうきょうおよ作戦さくせん目標もくひょう調査ちょうさ
  • 対象たいしょうこくにおける港湾こうわん空港くうこう鉄道てつどうなどインフラのかんとそれにもとづく戦略せんりゃく物資ぶっし備蓄びちく使用しようじょうきょう調査ちょうさ
  • 対象たいしょうこくにおける重要じゅうよう人物じんぶつ監視かんしおよ自国じこくないにおける対象たいしょう国軍こくぐん活動かつどう調査ちょうさ

コマンド活動かつどう

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「コマンド活動かつどう」(Kommandoeinsätze)に分類ぶんるいされる活動かつどうでは、てきたいする奇襲きしゅう攻撃こうげき・ゲリラ攻撃こうげき遂行すいこうする。また、以後いごてき守備しゅび戦力せんりょくによる反攻はんこうのリスクなどを考慮こうりょし、攻撃こうげきさいしても痕跡こんせきのこさぬようにこころがけ、可能かのうであれば正体しょうたい露呈ろていけることとされていた。コマンド活動かつどう遂行すいこうにあたっては最悪さいあく事態じたい想定そうていしたうえで、痕跡こんせき偽装ぎそうおよ隊員たいいん帰還きかん前提ぜんてい条件じょうけんとされていた。

活動かつどうさいしてはつぎよう要因よういんとく警戒けいかい重要じゅうようされた

  • 核兵器かくへいき運搬うんぱん手段しゅだんおよ発射はっしゃシステム、核弾頭かくだんとう閉鎖へいさじょうきょう
  • てき主要しゅよう部隊ぶたい監視かんしもとづき推定すいていされる自軍じぐんへの攻撃こうげき計画けいかく、または想定そうていされうる総合そうごうてき戦争せんそう計画けいかく
  • 連邦れんぽう空軍くうぐん航空こうくう指揮しき統制とうせいシステム(FüWES Lw)など電子でんしせんシステムの状況じょうきょう
  • だい規模きぼ兵器へいきシステムの状況じょうきょう(偵察ていさつシステム、大量たいりょう破壊はかい化学かがく兵器へいき生物せいぶつ兵器へいきなど)。
  • 橋梁きょうりょう、ダム、発電はつでんしょ放送ほうそうきょく港湾こうわん施設しせつ飛行場ひこうじょう高速こうそく道路どうろなどインフラの位置いちおよ状況じょうきょう
  • 作戦さくせんじょう重要じゅうよう物資ぶっし集積しゅうせきされる箇所かしょ(弾薬だんやく燃料ねんりょう集積しゅうせきしょなど)。
  • 戦線せんせん後方こうほう存在そんざいするてき重要じゅうよう人物じんぶつあるいはグループ。
  • 後背こうはいにおけるてきぐん排除はいじょまたは確保かくほ

各種かくしゅ特殊とくしゅ任務にんむ

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さらにだい40航空こうくう突撃とつげき連隊れんたいつぎのような特殊とくしゅ作戦さくせんにも従事じゅうじするものとされた。

  • 軍事ぐんじてき政治せいじてき経済けいざいてき重要じゅうよう人物じんぶつたいする調査ちょうさ監視かんし必要ひつようがある場合ばあいはこれの誘拐ゆうかいならびに殺害さつがい
  • てき後背こうはいからのワルシャワ条約じょうやく機構きこうにおける重要じゅうよう人物じんぶつ奪還だっかん
  • てき軍事ぐんじ行政ぎょうせい経済けいざいかんする重要じゅうよう施設しせつへの潜入せんにゅう
  • てき後背こうはいにおけるサボタージュ活動かつどう。これは宣戦せんせん布告ふこく以前いぜんにもおこなわれる。

1960ねん初頭しょとう最初さいしょ降下こうかりょうへい部隊ぶたいである降下こうかりょうへい大隊だいたい(Fallschirmjägerbataillon)はソ連それんしき軍事ぐんじドクトリンのもと編成へんせいされ、そのなんかのさい編成へんせい改名かいめいかえした。1980年代ねんだいなかばからは連隊れんたい規模きぼ拡大かくだいされたが、設立せつりつ当初とうしょより採用さいようされていたしょう部隊ぶたい編成へんせい重視じゅうしする活動かつどうたい戦術せんじゅつ(Einsatzgruppentaktik)などのドクトリンはつづ維持いじされた。

組織そしき

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忠誠ちゅうせい宣誓せんせいおこな降下こうかりょうへい

当初とうしょ地上ちじょうぐん標準ひょうじゅんてきけい歩兵ほへい大隊だいたい同様どうよう編成へんせいっており、中隊ちゅうたいなどの下級かきゅう編成へんせいふくまれた。その他国たこく空挺くうてい部隊ぶたい編成へんせいからの影響えいきょうけつつ、徐々じょじょ小規模しょうきぼ戦闘せんとうだんによる戦闘せんとう意識いしきした編成へんせいうつっていき、5にんから12にん小隊しょうたい編成へんせいおこなわれるようになる。これは国家こっか人民じんみんぐん採用さいようしていた活動かつどうたい戦術せんじゅつ(Einsatzgruppentaktik)の概念がいねんしたがった編成へんせいである。この概念がいねんにおいては活動かつどうたいばれる複数ふくすう小規模しょうきぼ戦闘せんとうだん同士どうし協同きょうどうすること任務にんむ達成たっせいするものとされており、必要ひつようとされる場合ばあい降下こうかりょうへいとして空挺くうてい作戦さくせん遂行すいこうしうることもとめられた。ヘリコプター輸送ゆそう不足ふそくしていたこともあり、国家こっか人民じんみんぐんにおける活動かつどうたい戦術せんじゅつながらく限定げんていてきにしか実現じつげんされず、降下こうかりょうへい大隊だいたい空挺くうてい作戦さくせん以外いがいにも様々さまざま任務にんむ従事じゅうじする特殊とくしゅ部隊ぶたいとして運用うんようされた。そのため訓練くんれんにおいてとく重要じゅうようされていたのが体力たいりょくねりなり白兵戦はくへいせん、そして様々さまざま銃器じゅうき射撃しゃげき訓練くんれんである。無線むせん狙撃そげきしゅ水中すいちゅう工作こうさくいんなど特殊とくしゅ兵科へいか要因よういん育成いくせいおこなわれた。降下こうか訓練くんれんは1ねんあたり10かいから15かいおこなわれた。おおくの隊員たいいん無線むせん技士ぎし発破はっぱ工作こうさくいん山岳さんがくへい、スキーへいなどの資格しかくゆうしていた。これらの能力のうりょく維持いじされているかどうか、半年はんとしごとに地上ちじょうぐん司令しれいによる評価ひょうかけることさだめられていた。

空挺くうてい部隊ぶたいとしての能力のうりょく向上こうじょうさせるべく、隊員たいいんには通常つうじょう地上ちじょうぐん訓練くんれん課程かていくわえて複数ふくすう専門せんもん課程かてい義務付ぎむづけられていた。すくなくとも3ねん以内いないに1つの課程かてい修了しゅうりょうすることとされており、大抵たいてい隊員たいいんは2つないし3つを修了しゅうりょうした。

  • 自動車じどうしゃおよ装甲車そうこうしゃりょう技術ぎじゅつ教育きょういく課程かてい(Kfz- und panzertechnischer Lehrgang
  • 狙撃そげきしゅ教育きょういく課程かてい(Scharfschützenlehrgang)
  • 戦術せんじゅつ教育きょういく教育きょういく課程かてい(Taktiklehrgang)
  • 白兵戦はくへいせん専門せんもん教育きょういく課程かてい(Nahkampflehrgang für Spezialisten) - 通常つうじょう訓練くんれん課程かてい拡張かくちょう
  • 医療いりょう研修けんしゅう教育きょういく課程かてい(Sanitätslehrgang) - 通常つうじょう訓練くんれん課程かてい拡張かくちょう
  • NATOぐんたいする偵察ていさつおよ特殊とくしゅ作戦さくせん教育きょういく課程かてい(Lehrgang zur Aufklärung und Spezialtaktik der NATO-Streitkräfte)

ソ連それんしき航空こうくう突撃とつげき戦術せんじゅつれたのちも、行動こうどうたい戦術せんじゅつ思想しそう一部いちぶのこされていた。またしん戦術せんじゅつ導入どうにゅうしたが航空こうくう輸送ゆそう戦力せんりょく増強ぞうきょうされ、降下こうかりょうへい大隊だいたいはいずれの戦術せんじゅつもとでも任務にんむにも従事じゅうじすることが可能かのうとなったのである。

1972ねん降下こうかりょうへい大隊だいたいだい5ぐん管区かんく配置はいちされたが、すぐに地上ちじょうぐん司令しれい直属ちょくぞく戦力せんりょくとなっている。このさいだい40航空こうくう突撃とつげき連隊れんたい(LStR-40)と改名かいめいされた。またコードネームは「はんだ」(Lötzinn)であった。空挺くうてい部隊ぶたい訓練くんれん施設しせつとしてマクデブルク近郊きんこう設置せっちされただい40降下こうかりょうへい訓練くんれんしょ(Fallschirmjägerausbildungsbasis 40, FJABas-40)も、部隊ぶたいともなん名称めいしょう変更へんこうされている。訓練くんれん施設しせつのコードネームは「フキタンポポ」(Huflattich)であった。

装備そうび

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国家こっか人民じんみんぐん空挺くうてい部隊ぶたいでは、ぜん期間きかんつうじて軽量けいりょう火器かきもとめられており、様々さまざま火器かき調達ちょうたつおこなっている。また制服せいふく地上ちじょうぐん部隊ぶたい多少たしょうことなっていた。

火器かき

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当初とうしょ空挺くうてい部隊ぶたい標準ひょうじゅん火器かき7.62x39mmだん使用しようするMPi-KMS-72突撃とつげきじゅうであった。これはソ連それんせいAKMS突撃とつげきじゅう改良かいりょうくわえたうえ国産こくさんしたもので、60年代ねんだい前半ぜんはん導入どうにゅうされた。1985ねんからは5.45x39mmだん使用しようするMPi-AKS-74N突撃とつげきじゅうAKS-74U東独とうどくせい改良かいりょうがた)に更新こうしんされ、これにわせて7.62x39mmだん使用しようするRPK機関きかんじゅうは5.45x39mmだん使用しようするK-500機関きかんじゅうRPK-74機関きかんじゅう相当そうとうする東独とうどくせい機関きかんじゅう)に更新こうしんされた。1個いっこ降下こうかりょうへい小隊しょうたいには2つのたい戦車せんしゃだん(RPG-2のちRPG-7DRPG-18など)と1つの機関きかんじゅう(RPDなど)が配備はいびされていた。またF-1RGD-5などの手榴弾しゅりゅうだんやコンバットナイフなどの短剣たんけんかく兵員へいいん装備そうびした。それ以外いがいにものワルシャワ条約じょうやく機構きこう各国かっこくぐん同様どうようマカロフ拳銃けんじゅうなどのソ連それんせい兵器へいきおお配備はいびされた。またドラグノフ狙撃そげきじゅうなどが特別とくべつ任務にんむため配備はいびされることもあった。1985ねん以降いこう、MPi-AKS-74Nに狙撃そげきよう照準しょうじゅんけたものが使用しようされたれいられる。

だい5自動車じどうしゃ狙撃そげきへい大隊だいたい(Mot-Schützenbataillon 5, MSB 5)やだい5降下こうかりょうへい大隊だいたい(Fallschirmjägerbataillon 5, FJB5)とばれていた編成へんせい当初とうしょや1986ねん再編さいへん以降いこうじゅう支援しえん火器かき配備はいびおこなわれていた。ここにはM-43迫撃はくげきほう(82mm)や、RG-82反動はんどうほう(82mm)、RG-107反動はんどうほう(107mm)、メティス対戦たいせんしゃ誘導ゆうどうだんファゴット対戦たいせんしゃ誘導ゆうどうだんなどがふくまれる。反動はんどうほうでは成形せいけい炸薬さくやくだん榴弾りゅうだんなどが使用しようされていたほかSPG-9D対戦たいせんしゃ反動はんどうほう(73mm)なども少数しょうすう保有ほゆうしていた。これらの一部いちぶUAZ-469などの車輌しゃりょう搭載とうさいされた。その携帯けいたい対空たいくう誘導ゆうどうだんストレラ2防空ぼうくう装備そうびとして使用しようされ、任務にんむによってはTNTセムテックスなどの爆発ばくはつぶつ各種かくしゅ信管しんかんとも使用しようされた。

車輌しゃりょう航空機こうくうき

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車輌しゃりょうるい地上ちじょうぐん部隊ぶたい同様どうようのものが配備はいびされていた。一方いっぽう航空こうくう輸送ゆそうりょく慢性まんせいてき不足ふそく国家こっか人民じんみんぐん編成へんせいからの問題もんだいだったが、それでもだい40航空こうくう突撃とつげき連隊れんたいでの運用うんよう見越みこして航空こうくうぐんには可能かのうかぎりの供給きょうきゅうおこなわれていた。おもソ連それんせいIl-14An-8An-12An-26An-2などの輸送ゆそうはたMi-4およMi-8のような輸送ゆそうヘリコプターが使用しようされていた。また降下こうかりょうへい150めい搭載とうさいしうるAn-22国家こっか人民じんみんぐんゆうした最大さいだい輸送ゆそうであった。これにくわえて、訓練くんれんではしばしばドレスデンだい24輸送ゆそう航空こうくうたい(Transportfliegerstaffel 24, TS 24)所属しょぞくAn-26使用しようされた。

制服せいふく野戦やせんふく

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だい11かいSEDとう大会たいかい出席しゅっせきした降下こうかりょうへいら(おくのベレーぼうこうむった一団いちだん手前てまえ国境警備隊こっきょうけいびたい兵士へいし。1986ねん4がつ20日はつか

降下こうかりょうへい基本きほんてき地上ちじょうぐん制服せいふくおよ戦闘せんとうふく着用ちゃくようしていたが、あお灰色はいいろ迷彩めいさいほどこした野戦やせん偵察ていさつよう戦闘せんとうふく編上あみあげくつ(Schnürschuhe)、かわせいてつぼうくつがえなど専用せんよう装備そうび支給しきゅうされた。1964ねんには降下こうかりょうへい独自どくじ制服せいふく制定せいていされ、落下傘らっかさん襟章えりしょう橙色だいだいいろ兵科へいかしょくあたえられた。また1969ねんにはベレーぼう制帽せいぼうとして採用さいようされた。

降下こうかりょうへいは5かい、10かい、25かい、30かい、35かい、40かい、50かい、75かい、100かい、150かい降下こうかに1つずつ降下こうかりょうへい記章きしょう(Fallschirmsprungabzeichen)があたえられ、そのも50かいごとにあらたな記章きしょうあたえられた。

1972ねん国防こくぼう大臣だいじん命令めいれいもとづき服飾ふくしょく規定きてい改定かいていされると装備そうび一部いちぶ地上ちじょうぐん部隊ぶたい統合とうごうされる。あらたに制定せいていされた汎用はんよう戦闘せんとうふくは、上着うわぎ、ズボン、戦闘せんとうベスト、レインジャケットの4つからり、レインドロップ迷彩めいさい通称つうしょうられるEin-Strich-kein-Strichパターンの迷彩めいさいほどこされていた。

歴史れきし

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降下こうか準備じゅんびおこな降下こうかりょうへい

ドイツ民主みんしゅ共和きょうわこくにおける降下こうかりょうへい部隊ぶたい編成へんせいにはだい世界せかい大戦たいせんいたきゅうぐん降下こうかりょうへい関与かんよしており、大戦たいせん降下こうか作戦さくせんかんする様々さまざませんくんかされた。また1952ねんにはスポーツ技術ぎじゅつ協会きょうかいドイツばん(Gesellschaft für Sport und Technik, GST)によって落下傘らっかさん降下こうかかんする軍事ぐんじ教練きょうれん実行じっこうされている。すなわち、1956ねん国家こっか人民じんみんぐん設立せつりつ段階だんかいすで経験けいけんんだ降下こうかりょうへい存在そんざいしていたのである。かれらによって編成へんせいされた部隊ぶたい創成そうせい国家こっか人民じんみんぐんにて唯一ゆいいつ有力ゆうりょく偵察ていさつ部隊ぶたいとして活動かつどうしていた。

部隊ぶたいめい変遷へんせん

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No. 部隊ぶたいめい 期間きかん
1. だい5自動車じどうしゃ狙撃そげきへい大隊だいたい(Mot.-Schützenbataillon 5, MSB-5) 1960ねん3がつ1にち だい5ぐん管区かんく司令しれい直属ちょくぞく
2. だい5降下こうかりょうへい大隊だいたい(Fallschirmjägerbataillon 5, FJB-5) 1962ねん2がつ28にち
3. だい2降下こうかりょうへい大隊だいたい(Fallschirmjägerbataillon 2, FJB-2) 1972ねん12月1にち
4. だい40降下こうかりょうへい大隊だいたい(Fallschirmjägerbataillon 40, FJB-40) 1972ねん11月8にち 地上ちじょうぐん司令しれい直属ちょくぞく
5. だい40航空こうくう突撃とつげき連隊れんたい(Luftsturmregiment 40, LStR-40) 1986ねん12月1にち 連隊れんたい規模きぼ拡大かくだい

1960ねん~1972ねん

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1950年代ねんだい後半こうはん国家こっか人民じんみんぐんふくむワルシャワ条約じょうやく機構きこう各国かっこくぐん空挺くうてい部隊ぶたい編成へんせい着手ちゃくしゅはじめていた。これはソ連それん当局とうきょく意向いこうによるところがおおきかったが、一方いっぽうドイツ連邦れんぽうぐん西にしドイツぐん)が1955ねん設立せつりつされ、航空こうくう部隊ぶたいおよ降下こうかりょうへい部隊ぶたい編成へんせい着手ちゃくしゅしていたこと関係かんけいしている。

1960ねん3がつ1にちだい5自動車じどうしゃ狙撃そげきへい大隊だいたい(Motorisierte Schützenbataillon 5, MSB-5)がリューゲンとうプローラにて設置せっちされた。どう大隊だいたい任務にんむ空挺くうてい部隊ぶたい設置せっち準備じゅんびととのえることであり、すくなくとも降下こうかりょうへい連隊れんたい規模きぼ、すなわち300にん程度ていどまで確保かくほすること必要ひつようとされていた。兵舎へいしゃにはナチス・ドイツ時代じだい歓喜かんき力行りっこうだん(KdF)が建設けんせつした巨大きょだいホテルが流用りゅうようされ、おおくの訓練くんれん秘密裏ひみつりおこなわれていた。

1961ねん9がつIl-14輸送ゆそうはじめとする各種かくしゅソ連それんせい空挺くうてい機材きざい一式いっしきがリューゲンとうとどく。この時点じてんでの兵力へいりょくは80にんで、これによって2中隊ちゅうたい編成へんせいされていた。また中隊ちゅうたいは3小隊しょうたい小隊しょうたいは3分隊ぶんたい構成こうせいされていた。

1962ねん2がつ15にちだい5降下こうかりょうへい大隊だいたい(Fallschirmjägerbataillon 5, FJB-5)と改名かいめいされる。この部隊ぶたい国家こっか人民じんみんぐんおよ国防省こくぼうしょう直属ちょくぞくし、いずれのぐんしゅからも独立どくりつした部隊ぶたいとしてあつかわれた。同年どうねんちゅうからワルシャワ条約じょうやく機構きこう合同ごうどう演習えんしゅうへの参加さんか開始かいしし、翌年よくねんには灰色はいいろのベレーぼうなど独自どくじ制服せいふく採用さいようすることがみとめられた。なお、1969ねん以降いこう、ベレーのいろ赤色あかいろあらためられた。

1972ねん~1986ねん

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1984ねん部隊ぶたい訪問ほうもんおり記念きねんひん手渡てわたホーネッカー議長ぎちょう
降下こうかりょうへい握手あくしゅするホーネッカー議長ぎちょう

1970年代ねんだい初頭しょとうまで、部隊ぶたいだい5ぐん管区かんくドイツばん所属しょぞくした。1971ねん12月1にちには部隊ぶたいめいだい2降下こうかりょうへい大隊だいたい(Fallschirmjägerbataillon 2, FJB-2)となる。また1972ねん11月8にちにはだい40降下こうかりょうへい大隊だいたい(Fallschirmjägerbataillon 40, FJB-40)に改名かいめいされ、12月1にち以降いこう新設しんせつ地上ちじょうぐん司令しれいによって直接ちょくせつ運用うんようされた。国家こっか人民じんみんぐん地上ちじょうぐんにおいて40という部隊ぶたい番号ばんごう地上ちじょうぐん司令しれいづけ意味いみし、また部隊ぶたい番号ばんごう40がされたかく部隊ぶたいはいかなる場合ばあいにおいても下級かきゅう司令しれい指揮しきうつらず、地上ちじょうぐん司令しれいによって直接ちょくせつ運用うんようされるものとされた。戦時せんじおよ特別とくべつ命令めいれいくだされた場合ばあい、ワルシャワ条約じょうやく機構きこう各国かっこくぐん戦力せんりょく統合とうごうはかることとされており、だい40降下こうかりょうへい大隊だいたいはベルリンを中心ちゅうしん展開てんかいするものとされていた。

地上ちじょうぐん部隊ぶたいおおきくだい3ぐん管区かんくドイツばんだい5ぐん管区かんくけており、当初とうしょはこれらぐん管区かんくごとに降下こうかりょうへい大隊だいたい編成へんせいされる予定よていだった。しかし計画けいかくじょう失敗しっぱいから、いずれのぐん管区かんく要請ようせいにも対応たいおうしうる中央ちゅうおう部隊ぶたいとして司令しれい直属ちょくぞく1個いっこ降下こうかりょうへい大隊だいたいだけがもうけられたのである。当時とうじ調査ちょうさから2大隊だいたい相当そうとうする人的じんてき資源しげん確保かくほ不可能ふかのうなされていたが、1970年代ねんだいには部隊ぶたい拡張かくちょう決定けっていされた。これにしたがってあらたな訓練くんれん専門せんもん部隊ぶたい編成へんせいおこなわれ、予備よびやくへいおよ下士官かしかん訓練くんれんおこなわれた。このたい水中すいちゅう爆破ばくはいん小隊しょうたい(Sprengtaucherzug)とばれていたが、のち偵察ていさつ小隊しょうたい(Aufklärungszug)と改名かいめいされた。1978ねんまつ、ドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく北部ほくぶだい雪害せつがいドイツばんおそわれた。だい40降下こうかりょうへい大隊だいたいはこれを救援きゅうえんするべく出動しゅつどう[1]降下こうかりょうへいらはヘリコプターとスキーを駆使くしして孤立こりつした集落しゅうらく農場のうじょう食料しょくりょうおよ物資ぶっしおくとどけた。

1980ねん12がつ以降いこうだい40降下こうかりょうへい大隊だいたいベルリンシュトラウスベルク駐屯ちゅうとんうつし、国防こくぼう大臣だいじん筆頭ひっとうとした国防省こくぼうしょう高官こうかん高級こうきゅう将校しょうこうらの居住きょじゅう護衛ごえいにんについた。ここにらしていた著名ちょめい高級こうきゅう将校しょうこうとしてはフリッツ・シュトレーレッツヴォルフガング・ラインホルトなどがられる。以前いぜんから警護けいごになっていたフーゴー・エーバーライン衛兵えいへい連隊れんたいは、だい40降下こうかりょうへい大隊だいたい交代こうたいするかたち任務にんむはなれた。この配置はいち転換てんかん当時とうじ国防こくぼう大臣だいじんカール=ハインツ・ホフマン将軍しょうぐんによっておこなわれた。ホフマンはとう幹部かんぶ居住きょじゅうであるヴァンドリッツ地区ちくからはなれてらす政治せいじきょくメンバーの1人ひとりであり、自身じしん個人こじんてき信頼しんらい出来でき部隊ぶたいによって護衛ごえいされることをのぞ降下こうかりょうへいせたのだとされている。

この任務にんむあたえられたのち部隊ぶたい増員ぞういんされるとともあらたに中隊ちゅうたい編成へんせいおこなわれた。当時とうじ1個いっこ降下こうかりょうへい中隊ちゅうたいを4降下こうかりょうへい小隊しょうたいによって構成こうせいしていた。しかし1983ねんになると降下こうかりょうへいたる任務にんむ国防省こくぼうしょう高官こうかん護衛ごえい両立りょうりつすること不可能ふかのう判断はんだんされ、護衛ごえい任務にんむふたた衛兵えいへい連隊れんたいがれた。ただし、そのも8週間しゅうかんごとに2週間しゅうかん特別とくべつ警護けいご(Sonderwache)の任務にんむけてシュトラウスベルクに派遣はけんされた。特別とくべつ警護けいご任務にんむにおける1かいあたりの勤務きんむ時間じかんは48あいだとされており、それ以外いがい時間じかんはシュトラウスベルク近郊きんこう設置せっちされた施設しせつにおける訓練くんれんついやされた。

1981ねんだい40降下こうかりょうへい大隊だいたいはポツダムのレーニン演習えんしゅうじょう駐屯ちゅうとんうつす。この施設しせつ国家こっか人民じんみんぐんゆうした演習えんしゅうじょうのうち、最先端さいせんたん設備せつびゆうするものであった。どう演習えんしゅうじょう降下こうかりょうへいらの要望ようぼうれ、リューゲンとうよりも整備せいびされた市街しがいせん訓練くんれん施設しせつやヘリポートをそなえていた。ただし兵舎へいしゃ完成かんせいおくれ、部隊ぶたい移動いどうも1年間ねんかん防空壕ぼうくうごう臨時りんじ兵舎へいしゃとして使用しようしていた。

1986ねん~1991ねん

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1980年代ねんだい後半こうはんミハイル・ゴルバチョフソ連邦それんぽう共産党きょうさんとう書記しょきちょう就任しゅうにんして権力けんりょく掌握しょうあくする。ゴルバチョフの提唱ていしょうしたペレストロイカはワルシャワ条約じょうやく機構きこう各国かっこくぐん軍事ぐんじ政策せいさくにも影響えいきょうおよぼし、ソ連それんぐん配置はいちおよ任務にんむ徐々じょじょ防御ぼうぎょ重視じゅうしのものにうつはじめた。たとえばばくげき部隊ぶたい任務にんむも、空爆くうばくそのものより情報じょうほう収集しゅうしゅう重点じゅうてんかれるようになったのである。ドイツ民主みんしゅ共和きょうわこくもまた国家こっか人民じんみんぐん改革かいかく着手ちゃくしゅし、このなか降下こうかりょうへい任務にんむ変化へんかしていく。1986ねん12月1にちだい40航空こうくう突撃とつげき連隊れんたい(Luftsturmregiment 40, LStR-40)に改名かいめいされる。

1989ねんあき月曜げつようデモでは、だい40航空こうくう突撃とつげき連隊れんたいたいして最初さいしょにして最後さいご公的こうてき実戦じっせん出動しゅつどう命令めいれい発令はつれいされている。当時とうじすで影響えいきょうりょく喪失そうしつしていたSED当局とうきょくにとって、降下こうかりょうへい国家こっか人民じんみんぐんなかでもとく政治せいじてき信頼しんらいせい部隊ぶたいの1つであり、とう政府せいふおよぐん施設しせつをデモたいから護衛ごえいする任務にんむあたえられたのである。デモがおこなわれる数日すうじつまえすうひゃくめい降下こうかりょうへいがライプツィヒに派遣はけんされ人民じんみん警察けいさつおよ国家こっか保安ほあんしょうテロ対策たいさく部門ぶもんなどと合同ごうどう訓練くんれんおこなっていたとされる[2]

1989ねん12月、国家こっか人民じんみんぐんはじめとするドイツ民主みんしゅ共和きょうわこくゆうするすべての軍事ぐんじ組織そしき解体かいたいはじまった。おおくの将兵しょうへいはこれを西側にしがわによる侮辱ぶじょくとらえ、実際じっさい解体かいたいおこなわれるまえみずかしょくした。だい40航空こうくう突撃とつげき連隊れんたいでもおよそ半数はんすう降下こうかりょうへい部隊ぶたいったが、その連隊れんたい維持いじつづけられた。1990ねん1がつ31にち2人ふたりもと降下こうかりょうへいイーザーローン駐屯ちゅうとんする連邦れんぽう陸軍りくぐんだい271降下こうかりょうへい大隊だいたい(Fallschirmjägerbataillon 271)にて採用さいようされる。翌月よくげつ以降いこうはよりおおくのもと降下こうかりょうへい教官きょうかん顧問こもんとしてドイツ連邦れんぽう共和きょうわこくはじめとする各国かっこくぐん警察けいさつ組織そしき採用さいようされはじめた。

1990ねん9がつ最後さいご降下こうか訓練くんれんおこなわれる。10月3にちドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく崩壊ほうかいし、国家こっか人民じんみんぐん完全かんぜん連邦れんぽうぐん統合とうごうされる。訓練くんれんちゅうだった新兵しんぺいなど最後さいごまでのこされていた100めい隊員たいいん全員ぜんいん連邦れんぽう陸軍りくぐん残留ざんりゅうした。これらの隊員たいいんによって東部とうぶ司令しれい配下はいかあらたな空挺くうてい部隊ぶたい編成へんせいされる予定よていだったが、この計画けいかく中止ちゅうしされ、隊員たいいんらは陸軍りくぐん部隊ぶたい分散ぶんさんして配属はいぞくされた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Phoenix-Film ab Minute 7:00
  2. ^ Honeckers Elitetruppe. Die Fallschirmjäger. Ein Film von Axel Friedrich (gesendet auf Phoenix)

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Karl-Heinz Dissberger u. a.: Vom Himmel auf die Erde ins Gefecht. Fallschirmjäger der Nationalen Volksarmee. 2. verbesserte Auflage. Kabinett Verlag, Zürich u. a. 1999, ISBN 3-906572-15-3.

外部がいぶリンク

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