せいペテロと教皇きょうこうアレクサンデル6せい、ペーザロ司教しきょう

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せいペテロと教皇きょうこうアレクサンデル6せい、ペーザロ司教しきょう
イタリア: Saint Peter, Alexander VI e il Vescovo di Pesaro
英語えいご: Saint Peter, Alexander VI and the Bishop of Pesaro
作者さくしゃティツィアーノ・ヴェチェッリオ
製作せいさくねん1503ねん-1512ねん
種類しゅるい油彩ゆさいキャンバス
寸法すんぽう146 cm × 184 cm (57 in × 72 in)
所蔵しょぞうアントウェルペン王立おうりつ美術館びじゅつかんアントウェルペン

せいペテロと教皇きょうこうアレクサンデル6せい、ペーザロ司教しきょう』(せいペテロときょうこうアレクサンデル6せい、ペーザロしきょう、: JSaint Peter, Alexander VI e il Vescovo di Pesaro, らん: Sint Pieter, Alexander VI en de bisschop van Pesaro, えい: Saint Peter, Alexander VI and the Bishop of Pesaro)は、イタリアルネサンスヴェネツィア巨匠きょしょうティツィアーノ・ヴェチェッリオが1503ねんから1512ねん制作せいさくした絵画かいがである。油彩ゆさいヴェネツィア貴族きぞくであるペーザロPesaro family)の出身しゅっしんであり、当時とうじヴェネツィアの領土りょうどであったキプロスとう都市としパフォス司教しきょうつとめていたヤコポ・ペーザロ(Jacopo Pesaro)によって、1502ねん8がつヴェネツィアオスマン帝国ていこくとの海戦かいせん勝利しょうりしたことを感謝かんしゃするために発注はっちゅうされた[1][2][3]。ティツィアーノのもっと初期しょき作品さくひんの1つであり、1503ねんさかのぼるとかんがえられることもあったが、現在げんざいではしんじられておらず、1510ねんから1511ねんちか年代ねんだい可能かのうせいたかいとおもわれる。現在げんざいベルギー美術館びじゅつかん所有しょゆうする唯一ゆいいつのティツィアーノの作品さくひんとして[4][5]アントウェルペン王立おうりつ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうされている[2][3][4][5][6][7][8]

制作せいさく経緯けいい[編集へんしゅう]

ヴェネツィアは1499ねんから1503ねんだいオスマン=ヴェネツィア戦争せんそうにおいて、オスマン帝国ていこく提督ていとくケマル・レイス英語えいごばんまえに、1499ねんゾンキオの海戦かいせん英語えいごばんと1500ねんモドンの海戦かいせん英語えいごばんというおおきな海戦かいせんでいずれも敗北はいぼくしていた。しかし1502ねん6がつのサンタ・マウラの海戦かいせんでは、ヴェネツィアはオスマン帝国ていこくたいしてサンタ・マウラとう奪還だっかんにつながる稀有けう勝利しょうりおさめた。この海戦かいせん司令しれいかんつとめたのがパフォス司教しきょうヤコポ・ペーザロであった。かれローマ教皇きょうこうアレクサンデル6せいによって、パフォス司教しきょう[1][9][10]教皇きょうこう特使とくし英語えいごばん教皇きょうこう艦隊かんたい司令しれいかん任命にんめいされた[11]。またヴェネツィア艦隊かんたい指揮しきかんはヤコポの従兄弟いとこベネデット・ペーザロ英語えいごばんであった[12][13]絵画かいがはペーザロ司教しきょうによって発注はっちゅうされたが、宗教しゅうきょうてき外観がいかんそなえているにもかかわらず教会きょうかい対象たいしょうとしたものではなく、海戦かいせん勝利しょうりした記念きねんであり、教皇きょうこうアレクサンドル6せい後援こうえんたいする感謝かんしゃのしるしであった[5]

作品さくひん[編集へんしゅう]

パフォス司教しきょうヤコポ・ペーザロ(ディテール)。
せいペテロの玉座ぎょくざ設置せっちされた台座だいざと、そのうえかれた天国てんごくかぎ側面そくめん浮彫うきぼり意味いみ判然はんぜんとしない(ディテール)。

せいペテロ画面がめんひだり台座だいざうえ設置せっちされた玉座ぎょくざし、左手ひだりて書物しょもつひざうえててち、アトリビュートであるキリストより授与じゅよされたかねぎん天国てんごくかぎ英語えいごばんを、足元あしもと台座だいざうえいている。台座だいざ適切てきせつにペトラ、すなわちおおきな石盤せきばん制作せいさくされ、その側面そくめんには浮彫うきぼほどこされている。教皇きょうこうアレクサンデル6せいたたかいにさいし、ひざまずいているヤコポ・ペーザロ司教しきょうせいペテロにわせている。ペーザロ司教しきょうはペーザロ自身じしん紋章もんしょう教皇きょうこうアレクサンデル6せい紋章もんしょうはいったはたかかげている[5]台座だいざ古典こてん様式ようしき浮彫うきぼりはの『ひじりあいぞくあい』(Amor sacro e Amor profano)にられる同様どうよう浮彫うきぼりと同様どうように、その正確せいかく主題しゅだい意味いみはいまだ特定とくていされていないが、ヴィーナスキューピッドしゅたる特徴とくちょうがあるとおもわれる。これはたん古典こてん時代じだいにヴィーナスの聖域せいいきがあったパフォスを暗示あんじしているだけかもしれない[4][10]。あるいは、美術館びじゅつかん示唆しさしているように、「ペーザロ司教しきょうかみたいするあいとおして、どのようにしてサンタ・マウラで勝利しょうりおさめたのかをあきらかにする」寓意ぐういであるのかもしれない[4]。またあるいは古代こだい神話しんわきざんだ台座だいざうえせいペテロがすわり、浮彫うきぼ中央ちゅうおうのキューピッドのうえ天国てんごくかぎくことで、古代こだいかみ々にたいするキリスト教きりすときょう勝利しょうり象徴しょうちょうしている[4]

ペーザロ司教しきょういだかぶと台座だいざよこかれている。アレクサンデル6せい戦争せんそう努力どりょく英語えいごばんとして13せきガレーせん出兵しゅっぺいした。ペーザロ司教しきょう頭部とうぶきよしペテロのあいだ海上かいじょう風景ふうけいには、たたかうガレーせん実際じっさい戦場せんじょう移動いどうする様子ようすえる。アレクサンデル6せい右側みぎがわにさらにうみひろがり、レフカダの都市とし、あるいはおそらくパフォスの都市としえる[注釈ちゅうしゃく 1]。これらの細部さいぶは1502ねん海戦かいせん勝利しょうり暗示あんじしている[8]

この構図こうずは、とくにティツィアーノがしばらく工房こうぼうはたらいたジョヴァンニ・ベッリーニ発展はってんさせた、守護しゅご聖人せいじんとおして聖母せいぼマリアわせられた寄進きしんしゃ奉納ほうのうひん英語えいごばんささげるという、通常つうじょうのヴェネツィアのやりかた採用さいようしている[10]美術館びじゅつかんはベッリーニがほん作品さくひん構図こうずをデザインし、制作せいさくはティツィアーノにまかせたと示唆しさしている[9][4]間違まちがいなく、せいペテロの姿すがたは、教皇きょうこうのポーズと同様どうように、ベッリーニの様式ようしきつよおもさせる。後者こうしゃ特徴とくちょうあきらかにメダルやその図像ずぞうから複製ふくせいされたものであり、そのためかれきとえがかれたペーザロ司教しきょうよりもはるかに生々なまなましい外観がいかん獲得かくとくしていない[14][15]

画面がめん中央ちゅうおう下辺かへん銘板めいばんから追加ついかされたもので、制作せいさくしゃ特定とくていし、主題しゅだいを(いちじるしく曖昧あいまい言葉ことばで)説明せつめいしている。

Ritratto di uno di casa Pesaro in Venetia che fu fatto generale di S.ta Chiesa. Tiziano F.[ecit]
神聖しんせいなる教会きょうかい司令しれいかん任命にんめいされたヴェネツィアのペーザロ一人ひとり肖像しょうぞう。ティツィアーノがこれを制作せいさくした[14][10]。)

完成かんせいした絵画かいがにはいくつかの欠点けってんがあったにもかかわらず、ペーザロ司教しきょう十分じゅうぶん満足まんぞくし、1518ねんから1519ねんにかけてティツィアーノに、画家がか成長せいちょうかぎとなることになる作品さくひんであり、ふたたび1502ねん勝利しょうりについてれ、現在げんざいサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂せいどう所蔵しょぞうされている重要じゅうよう作品さくひんペーザロ祭壇さいだん』(Pala Pesaro)の制作せいさく依頼いらいしたにちがいない[14][16]

制作せいさく年代ねんだい[編集へんしゅう]

おなじくヤコポ・ペーザロ司教しきょうによって発注はっちゅうされた『ペーザロ祭壇さいだん』。サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂せいどう所蔵しょぞう

制作せいさく年代ねんだい伝統でんとうてきに1506ねんから1511ねんとされているが、むしろティツィアーノの現存げんそんする最古さいこ作品さくひんとなるであろう1503ねんから1506ねん作品さくひんではないかという提案ていあんがある。ティツィアーノの生年せいねん記録きろく文書ぶんしょとしてのこされていないが、通常つうじょうは1488ねんから1490ねんごろ推定すいていされており、この場合ばあい、20さいにもたないころ作品さくひんということになる[9]。しかし、かれ生年せいねん推定すいてい通常つうじょうもっとおそく、1503ねんという制作せいさくねん画家がかが13さいか14さいであったことを意味いみするが、ほとんど信憑しんぴょうせいがない。初期しょき日付ひづけについては、ジョヴァンニ・バティスタ・カヴァルカゼル英語えいごばんアドルフォ・ヴェントゥーリ英語えいごばんゲオルク・グロナウフランス語ふらんすごばん支持しじしたが、ロドルフォ・パッルッキーニイタリアばんロベルト・ロンギ英語えいごばん、アントニオ・モラッシ(Antonio Morassi)らは反対はんたいした。ジョヴァンニ・ベッリーニによる公式こうしき介入かいにゅう想定そうていしたルイ・ウールチック英語えいごばんは1515ねんとし、ウィルヘルム・スイダ英語えいごばんは1512ねんから1520ねん推定すいていしている。しかし、Xせん撮影さつえい使用しようした科学かがくてき調査ちょうさでは均一きんいつ色彩しきさい質感しつかんあきらかになり[17]複数ふくすう画家がかによって時間じかんをかけて拡張かくちょうされた下書したがきであるという仮説かせつ矛盾むじゅんすることをあきらかにした。

2003ねん直前ちょくぜん修復しゅうふくにより、「1510ねんから1511ねんごろ発展はってんしたティツィアーノの記念きねんてき様式ようしき」とより密接みっせつ関連かんれんしていることが確認かくにんされた[16]

世俗せぞくてき軍国ぐんこく主義しゅぎてき教皇きょうこうアレクサンドル6せいが1503ねん死去しきょし、そのとき以来いらいかれ一種いっしゅダムナティオ・メモリアエかたち公式こうしきでの表現ひょうげん禁止きんしされたため、戦闘せんとう直後ちょくごの1503ねん以前いぜん発注はっちゅうされたにちがいないと主張しゅちょうされた[18]。しかしながら、ペーザロ司教しきょうがヴェネツィアに帰国きこくしたのは1506ねんであり[14]、そのうえ図像ずぞう禁止きんしがヴェネツィアに影響えいきょうおよぼしたとしたら、カンブレー同盟どうめい戦争せんそうでヴェネツィアと教皇きょうこうちょう対立たいりつしていた1508ねんから1510ねんにこのような作品さくひん発注はっちゅうされることはなかったであろう。一般いっぱんてきにアレクサンドル6せい死後しご軽蔑けいべつ」されたが、ペーザロ司教しきょう後援こうえんしゃ記憶きおく忠実ちゅうじつでありつづけ、1542ねんかれ遺言ゆいごんはアレクサンドル6せいたましいいのりをささげる大衆たいしゅうのために財産ざいさんのこしている[1]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

絵画かいがは17世紀せいき初頭しょとうまでヴェネツィアのペーザロ所有しょゆうしており、おそらく最初さいしょはペーザロの邸宅ていたくかざられていた[16]アンソニー・ヴァン・ダイクは1623ねんにヴェネツィアで絵画かいが模写もしゃしており、これがこの作品さくひん最古さいこ記録きろくとなった[14]。そのイングランド国王こくおうチャールズ1せいのコレクションにあったことが記録きろくされているが、1652ねんのチャールズ1せい処刑しょけいにスペイン王室おうしつコレクションとして購入こうにゅうされ、マドリードせいパスカル修道院しゅうどういんスペインばん貸与たいよされた。1823ねん初代しょだいオランダ国王こくおうウィレム1せいのコレクションとなり、ウィレム1せいによって美術館びじゅつかん寄贈きぞうされた[17]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ガレーせん戦闘せんとうちゅうであるとわれているが[10]実際じっさい絵画かいがではあまりあきらかではなく、遠征えんせいのために出港しゅっこうしたところをえがいているのかもしれない。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c Hale, p.217.
  2. ^ a b 西洋せいよう絵画かいが作品さくひんめい辞典じてん』p.393。
  3. ^ a b イアン・G・ケネディー 2009ねん、p,26-27。
  4. ^ a b c d e f Jacopo Pesaro, bisschop van Paphos, door paus Alexander VI Borgia voorgesteld aan de heilige Petrus”. アントウェルペン王立おうりつ美術館びじゅつかん公式こうしきサイト. 2023ねん11月11にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c d Titian, Jacopo Pesaro, bishop of Paphos, being presented by Pope Alexander VI to Saint Peter, 1503 - 1510, KMSKA”. Vlaamse Kunstcollectie. 2023ねん11月11にち閲覧えつらん
  6. ^ attributed to Tiziano, Jacopo Pesaro, bishop of Paphos, being introduced by pope Alexander VI Borgia to Saint Peter, na 1502”. オランダ美術びじゅつ研究所けんきゅうじょ(RKD)公式こうしきサイト. 2023ねん11月11にち閲覧えつらん
  7. ^ Jacopo Pesaro présenté à saint Pierre par le pape - Titien”. Le projet Utpictura18. 2023ねん11月11にち閲覧えつらん
  8. ^ a b Titian”. Cavallini to Veronese. 2023ねん11月11にち閲覧えつらん
  9. ^ a b c Hale, p.62.
  10. ^ a b c d Jaffé, p.78.
  11. ^ "Titian's Madonna of the Pesaro Family". Smarthistory at Khan Academy”. ウェブアーカイブ. 2023ねん11月11にち閲覧えつらん
  12. ^ Whatley, p.205.
  13. ^ Chambers, pp.100-101.
  14. ^ a b c d e Hale, p.63.
  15. ^ Jaffé, p.78-79.
  16. ^ a b c Jaffé, p.79.
  17. ^ a b Valcanover, p.91.
  18. ^ Gentili, p.6.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 西洋せいよう絵画かいが作品さくひんめい辞典じてん黒江くろえ光彦みつひこ監修かんしゅう三省堂さんせいどう(1994ねん
  • イアン・G・ケネディー『ティツィアーノ』Taschen(2009ねん
  • Hale, Sheila, Titian, His Life, 2012, Harper Press, ISBN 978-0-00717582-6
  • Jaffé, David (ed), Titian, The National Gallery Company/Yale, 2003, London (#3, catalogue entry by Caroline Campbell), ISBN 1 857099036
  • Whatley, Laura J, ed. The Crusades and Visual Culture. Routledge, 2015
  • Chambers, David, Popes, Cardinals and War: The Military Church in Renaissance and Early Modern Europe, 2006, I.B.Tauris, ISBN 085771581X, 9780857715814, google books
  • Valcanover, Francesco, L'opera completa di Tiziano, Rizzoli, Milano 1969
  • Gentili, August, Tiziano, collana Dossier d'art, Firenze, Giunti, 1990

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]