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薬師やくしめぐみ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

薬師やくし めぐみ(くすし の えにち、なま没年ぼつねんしょう)は、飛鳥あすか時代ときよかんじん医師いし高句麗こうくりけい渡来とらいじんとくらい(とこらい)の5せいまご

経歴けいれき

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めぐみせい祖先そせんであるとくらいは、もと高句麗こうくりひとであったがのちに百済くだら移住いじゅう[1]。さらに、雄略天皇ゆうりゃくてんのう7ねん463ねん雄略天皇ゆうりゃくてんのう命令めいれいけて吉備きび上道あがりみちおとうとくん吉備きび海部かいふ赤尾あかおらが、百済くだらたいして今来こんらいざい(いまきのてひと)[2]こうじん)をもとめたさい[3]とくらい百済くだらから日本にっぽん渡来とらいしたという[1]

推古天皇すいこてんのう16ねん608ねんだいさんかいずい使において、めぐみ小野妹子おののいもこ随行ずいこうしてずいわた医術いじゅつ修得しゅうとくする[4][5][1]留学りゅうがくちゅう618ねんずい滅亡めつぼうとう建国けんこくきた。推古天皇すいこてんのう31ねん623ねん)ともに医術いじゅつまなんだやまとかんぶくいん学問がくもんそうめぐみひとしめぐみひかりらとともに、しん使つかいさとしあらいなんじしたがって日本にっぽん帰国きこくする[6]

そのめぐみ薬師くすしとなり、ついには薬師くすしせいとした。舒明天皇てんのう2ねん630ねんだいいち遣唐使けんとうしにて、大使たいし犬上いぬかみ三田みたしたがってふたた大陸たいりくわたる(このときかんむり大仁おおひと[7]以前いぜんめぐみ建言けんげんどおり、舒明天皇てんのう4ねん632ねん遣唐使けんとうしぶしいちぎょう学問がくもんそうれいくもみんかちとりやしなえらをれて帰国きこくする[8]。なお、このとき帰国きこくしなかった留学生りゅうがくせい高向玄理たかむこのくろまろ南淵請安みなぶちのしょうあんは、舒明天皇てんのう12ねん640ねん)になって百済くだらしん使者ししゃとともにしん経由けいゆ帰国きこくしている[9]

孝徳たかのりあさしろ5ねん654ねんだいさん遣唐使けんとうしでは副使ふくしにんぜられ、みたび大陸たいりくわたった[10]。なお、このときかんむり大山下おおやましもしたがえろく相当そうとう)で、以前いぜん大仁おおひとせい相当そうとう)より下位かいになっていることから、なにかの理由りゆう降格こうかくされた可能かのうせいがある[11]

医書いしょとして、ずいから『やまいげんこうろん』 、とうから『千金せんきんかた』 をつたえたとされる[4]子孫しそん難波なんば薬師くすしとした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c ぞく日本にっぽん天平てんぴょうたから2ねん4がつ28にちじょう
  2. ^ あるいは、まつ(たなすえ)ざい
  3. ^ 日本書紀にほんしょき雄略天皇ゆうりゃくてんのう7ねんとしじょう
  4. ^ a b 『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん
  5. ^ ただし、『日本書紀にほんしょき推古天皇すいこてんのう16ねん9がつ5にちじょう記載きさいされる隨行ずいこうした学生がくせい学問がくもんそうけい8めいなかには、高向玄理たかむこのくろまろ南淵請安みなぶちのしょうあんみん名前なまえがあり、またやまとかんぶくいん記述きじゅつ一緒いっしょ登場とうじょうするが、めぐみ名前なまえあたらない。
  6. ^ 日本書紀にほんしょき推古天皇すいこてんのう31ねん7がつじょう
  7. ^ 日本書紀にほんしょき』舒明天皇てんのう2ねん8がつ5にちじょう
  8. ^ 日本書紀にほんしょき』舒明天皇てんのう4ねん8がつじょう
  9. ^ 日本書紀にほんしょき』舒明天皇てんのう12ねん10がつ11にちじょう
  10. ^ 日本書紀にほんしょきしろ雉5ねん2がつじょう
  11. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん

参考さんこう文献ぶんけん

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