藤井ふじいげんふち

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤井ふじい げんふち
(ふじい げんえん)
生誕せいたん 生年せいねん不明ふめい
死没しぼつ 文政ぶんせい10ねん12月13にち西暦せいれき1828ねん1がつ29にち
日本の旗 日本にっぽん
居住きょじゅう 久保田くぼたはん仙北せんぼくぐん六郷東根ろくごうひがしね仙北せんぼくぐん大曲おおまがりむら江戸えど下谷しもたに佐竹さたけげん
研究けんきゅう分野ぶんや 漢方かんぽう
プロジェクト:人物じんぶつでん
テンプレートを表示ひょうじ

藤井ふじい げんふち(ふじい げんえん、生年せいねんしょう - 文政ぶんせい10ねん12月13にち西暦せいれき1828ねん1がつ29にち)は、日本にっぽん医師いし出羽でわこく久保田くぼたはんはん[1]りゅうかく創始そうししゃ[1]

略歴りゃくれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

佐竹さたけ藩主はんしゅとする出羽でわこく久保田くぼたはんはんで、仙北せんぼくぐん六郷東根ろくごうひがしねむらげん美郷みさとまち)に[1]仙北せんぼくぐん大曲おおまがりむらげん大仙だいせん)にもながくおり、のちに江戸えど久保田くぼたはん屋敷やしきのある下谷しもたに佐竹さたけげん現在げんざい台東たいとう上野うえの)にきょかまえた[1]藤井ふじいげんしんひろし元年がんねん7がつ22にち西暦せいれき1844ねん9月4にち)に死去しきょ享年きょうねん48さい)》がはんいのち蘭学らんがくまなんだことから、その知識ちしき漢方薬かんぽうやくれ、りゅうかく原型げんけいとなるくすり開発かいはつしたという[1]当時とうじ将軍しょうぐんにも、このくすり献上けんじょうしている[1]げんふちげんしんはかは、大曲おおまがり所在しょざいする浄土真宗じょうどしんしゅう大谷おおや寺院じいん安養寺あんようじにある[1]

べつせつ[編集へんしゅう]

  • 六郷ろくごうまち下巻げかんには『りゅうかく藤井ふじい父子ふしによってつくられた。藤井ふじいげんふち代々だいだいごうとしたいえまれ、はじめは六郷東根ろくごうひがしね居住きょじゅうし、のち江戸えどへもでた』といてある。かた大曲おおまがりには『佐竹さたけ秋田あきた当時とうじ六郷東根ろくごうひがしね居住きょじゅう。のちに大曲おおまがりながみ、江戸えど佐竹さたけげんみ、医者いしゃとして開業かいぎょうした』とのこと。
  • あんばいこう(無明むみょうしゃ出版しゅっぱん)「しょく文化ぶんかあきたこう」には、藤井ふじい佐竹さたけ義宣よしのぶしたが水戸みとから大曲おおまがりうつり、代々だいだい秋田あきたはんてんつとめたとある。

親族しんぞく[編集へんしゅう]

  • 藤井ふじい代々だいだい秋田あきた大曲おおまがりんでいた(出典しゅってん:『人事じんじ興信録こうしんろく』4はんと8はん[3][4]三森みもり英逸えいいつの『大曲おおまがりのまちなみと住人じゅうにん歴史れきし』によると、藤井ふじい大曲おおまがりくすりおろしで、りゅうかく当家とうけ出身しゅっしん明治めいじ時代じだい東京とうきょうて、代々だいだい得三郎とくさぶろう」を名乗なのったという。
  • 現在げんざい小林こばやし製薬せいやくとともに販売はんばいルートを確立かくりつしていった[5]とのこと。

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

わらびミュージカル『りゅうかくPresents・ゴホン!といえば』(2022ねん脚本きゃくほん演出えんしゅつマキノノゾミ藤井ふじいげんふちせいちんやく戎本えびすもとみろ[6]

ミュージカルのあらすじ[編集へんしゅう]

  • 物語ものがたり江戸えど後期こうき六郷ろくごう藤井ふじいげんしん江戸えど遊学ゆうがく希望きぼうしていたが、ちちげんふちはそれをゆるさず、きびしい修行しゅぎょうをいいわたしていた。そんな日々ひびなかげんしん医術いじゅつ大切たいせつさを実感じっかんし、はん秘伝ひでんやく改良かいりょうくわえることをおも[7][注釈ちゅうしゃく 1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ [史実しじつもとにしたフィクションとのこと]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 井上いのうえ隆明たかあき監修かんしゅう しる秋田魁新報社あきたさきがけしんぽうしゃ へん秋田あきた人名じんめいだい事典じてんだいはん)』秋田魁新報社あきたさきがけしんぽうしゃ、2000ねん7がつISBN 4-87020-206-9 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]