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藤原重家 (刑部卿) - Wikipedia コンテンツにスキップ

藤原ふじわらしげる (刑部おさかべきょう)

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藤原ふじわら しげる
時代じだい 平安へいあん時代じだい後期こうき
生誕せいたん 大治おおはる3ねん1128ねん
死没しぼつ うけたまわ4ねん12月21にち[1][2]1181ねん1がつ8にち
改名かいめい ひかり輔(はつ)→じゅうはちすさびまたははちす法名ほうみょう
別名べつめい ろくじょう
官位かんい したがえさんだいおさむ大弐だいに
主君しゅくん 後白河天皇ごしらかわてんのう二条天皇にじょうてんのうろくじょう天皇てんのう高倉天皇たかくらてんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらきたすえしげりゅうろくじょうふじ
父母ちちはは ちち藤原ふじわらあらわははいえ女房にょうぼう
兄弟きょうだい あらわけんきよしよりゆきじゅうけいあらわなりしんちょうさとし近衛このえはじめしつ九条くじょうけんしつ
やしなえ兄弟きょうだい顕昭けんしょう
つま 藤原ふじわらなりむすめ
けい顕家あきいえ有家ありやなりえんひとしかい中山なかやまけんむねしつ
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藤原ふじわら しげる(ふじわら の しげいえ)は、平安へいあん時代じだい後期こうき公卿くぎょう歌人かじん藤原ふじわらきたすえしげりゅう左京さきょう大夫たいふ藤原ふじわらあらわ官位かんいしたがえさんだいおさむ大弐だいにはつひかりろくじょうごうす。ろくじょうふじ4だい

経歴けいれき

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ちちあきら輔はみずからと年齢ねんれいちか長男ちょうなんきよしとは微妙びみょう関係かんけいにあり、そのぶんじゅうらに愛情あいじょうふかかったという。周防すおうこく筑前ちくぜんこくなどの国司こくし歴任れきにんするが、二条天皇にじょうてんのう側近そっきんなされたことから、おう2ねん1162ねん)にこう白河しらかわ法皇ほうおう意向いこうかいかんされる。その復権ふっけんし、じんやす3ねん1168ねん)に昇殿しょうでんゆるされ、よしみおう2ねん1170ねん正月しょうがつしたがえさん昇進しょうしん公卿くぎょうれっす。うけたまわやす元年がんねん1171ねん)にだいおさむ大弐だいに安元やすもと2ねん1176ねん)6がつ17にち[1][3]出家しゅっけして退ずさかくれ法名ほうみょうはちすさびまたははちす

和歌わか漢詩かんし管弦かんげんひいでた才人さいじんとして名声めいせいたかく、とく和歌わか方面ほうめんでは、あにきよし輔よりひと麿まろかげきょう相伝そうでんされろくじょうふじぐ。数々かずかず歌合うたあわせえいし、九条くじょうけんいえひゃくしゅでははんしゃつとめた。『千載せんざい和歌集わかしゅう』(3しゅ以下いか勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうに29しゅいれしゅう[4]家集かしゅうに『だいおさむだいじゅう家集かしゅう』がある。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b たま
  2. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』では20日はつか
  3. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』では25にち
  4. ^ 勅撰ちょくせん作者さくしゃ部類ぶるい