野崎のさき欣一郎きんいちろう

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野崎のさき 欣一郎きんいちろう
のざき きんいちろう
生年月日せいねんがっぴ 1922ねん1がつ16にち
出生しゅっしょう 滋賀しがけん
ぼつ年月日ねんがっぴ (1975-04-01) 1975ねん4がつ1にち(53さいぼつ
出身しゅっしんこう 京都きょうと帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ
所属しょぞく政党せいとう 無所属むしょぞく

滋賀県の旗 公選こうせんだい6-7だい 滋賀しが県知事けんちじ
当選とうせん回数かいすう 2かい
在任ざいにん期間きかん 1966ねん12月7にち - 1974ねん12月6にち
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野崎のさき 欣一郎きんいちろう(のざき きんいちろう、1922ねん1がつ16にち - 1975ねん4がつ1にち[1])は、日本にっぽん政治せいじもと滋賀しが県知事けんちじ(2)。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

滋賀しがけん出身しゅっしん姫路ひめじ高等こうとう学校がっこうて、1943ねん京都きょうと帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょう滋賀しがけんいれちょう総務そうむ部長ぶちょうて、ふく知事ちじ就任しゅうにん

1966ねん自民党じみんとう社会党しゃかいとう民社党みんしゃとう推薦すいせん滋賀しが県知事けんちじはつ当選とうせん。44さい全国ぜんこく最年少さいねんしょう知事ちじとなった。

1972ねん建設けんせつしょう琵琶湖びわこのダム計画けいかく撤回てっかいさせ、総額そうがく4,250おくえんにおよぶ開発かいはつ事業じぎょう投入とうにゅうする「琵琶湖びわこ総合そうごう開発かいはつ特別とくべつ措置そちほう」を成立せいりつさせた。県民けんみんだい多数たすうはこれを野崎のさき勝利しょうりとみなした[2]

しかし野崎のさき県政けんせい後期こうきには、上田うえだ建設けんせつ隠然いんぜんたる勢力せいりょくほこり、けん大口おおぐち入札にゅうさつについてはすべて同社どうしゃ上田うえだ茂男しげお社長しゃちょうりしきるようになっていた。さらに上田うえだは、大学生だいがくせいだった長男ちょうなん上田うえだ茂行しげゆき田中たなか角栄かくえい秘書ひしょとしてはくをつけさせ、1972ねん衆院しゅういんせん滋賀しがけん全県ぜんけん自由民主党じゆうみんしゅとう公認こうにん立候補りっこうほさせ、膨大ぼうだい金力きんりょく県庁けんちょうをバックにしたちから当選とうせんさせた。また、琵琶湖びわこ総合そうごう開発かいはつ事業じぎょうにからむ滋賀しがけん土地とち開発かいはつ公社こうしゃ土地とち売買ばいばい介入かいにゅう上田うえだ建設けんせつは、公社こうしゃ予定よてい土地とち事前じぜん土地とちころがしして価格かかくをつり巨利きょりていた。その結果けっか土地とち開発かいはつ公社こうしゃ負債ふさいは1974年度ねんどまつには借入金かりいれきん206おくえん未払みはらきん272おくえんけい478おくえんたっし、県政けんせい破産はさん寸前すんぜん状態じょうたいになった[3]

1974ねん野崎のさき県政けんせい上田うえだ建設けんせつ癒着ゆちゃく最大さいだい攻撃こうげき目標もくひょうに、八日市ようかいちちょう武村たけむら正義まさよし知事ちじ選挙せんきょ革新かくしん統一とういつ候補こうほ社会党しゃかいとう民社党みんしゃとう共産党きょうさんとう公明党こうめいとう推薦すいせん)にされた。投票とうひょう1週間しゅうかんまえかくマスコミの世論せろん調査ちょうさでは、平均へいきん3~5まんひょう野崎のさき有利ゆうりており、野崎のさきの3せん確実かくじつとみられた。開票かいひょうはやかった町村ちょうそんではほぼ野崎のさきっていたが、最終さいしゅう段階だんかいはいって大津おおつ八日市ようかいちひょうくつがえ[4]同年どうねん11がつやく8,300ひょう僅差きんさ武村たけむらやぶれた。

引退いんたいしても騒動そうどうつづいた。としけて1975ねんけんは1がつ15にち支払しはら予定よてい県庁けんちょう職員しょくいん教職員きょうしょくいん警察官けいさつかん月給げっきゅうはらえないとう事態じたいおちいった。新聞しんぶん一斉いっせいに「滋賀しがけん金庫きんこはカラッポで、やく2まんにん公務員こうむいん給与きゅうよはらえない」と報道ほうどうした。武村たけむら職員しょくいん給与きゅうよげることで急場きゅうばをしのいだ[5]

同年どうねん3がつ旅行りょこうさき台湾たいわん持病じびょう糖尿とうにょうびょう肝硬変かんこうへん悪化あっか。4月1にち肝硬変かんこうへんのため死去しきょした。53さいぼつ

野崎のさきはすでにこのにいなかったが、大津おおつ地検ちけんけんやく209おくえんもの損害そんがいあたえた背任はいにんざいとして関係かんけいしゃ起訴きそし、竿ざお山重やましげりょう検事正けんじせいは「わがくに犯罪はんざい史上しじょう最高さいこう背任はいにんがくである」とくわえた。土地とちころがし事件じけんけん幹部かんぶ3にん業者ぎょうしゃがわ4にん逮捕たいほされ刑事けいじ事件じけんとして決着けっちゃくをみた[6]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 上田うえだ金脈きんみゃく徹底的てっていてき追及ついきゅうする資料集しりょうしゅう上田うえだ金脈きんみゃく徹底的てっていてき追及ついきゅうする市民しみんかい、1976ねん
  • 特集とくしゅう滋賀しが土地とちころがし」 『朝日あさひジャーナル』1976ねん2がつ27にちごう
  • 武村たけむら正義まさよしわたしはニッポンを洗濯せんたくしたかった』毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2006ねん1がつ30にちISBN 978-4620317502 
  • 高畠たかはた通敏みちとし地方ちほう王国おうこく潮出版社うしおしゅっぱんしゃ、1986ねん6がつ5にち 
公職こうしょく
先代せんだい
谷口たにぐち久次郎きゅうじろう
滋賀県の旗滋賀しが県知事けんちじ
公選こうせんだい6-7だい:1966ねん - 1974ねん
次代じだい
武村たけむら正義まさよし