やなぎ藤太とうた

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やなぎ藤太とうた

やなぎ 藤太とうた(さやなぎ とうた、1870ねん10月14にち明治めいじ3ねん9がつ20日はつか[1] - 1925ねん大正たいしょう14ねん2がつ24にち)は、日本にっぽん内務ないむ官僚かんりょう政治せいじ官選かんせん県知事けんちじ熊本くまもと市長しちょう小樽おたるちょう

経歴けいれき[編集へんしゅう]

讃岐さぬきこく多度たどぐんのち仲多度なかたどぐん豊原とよはらむらげん多度津たどつまち)でまれる。だいさん高等こうとう学校がっこうて、1892ねん東京とうきょうほう学院がくいん卒業そつぎょう1894ねん弁護士べんごし試験しけん合格ごうかく1895ねん11月、文官ぶんかん高等こうとう試験しけん行政ぎょうせい試験しけん合格ごうかく1896ねん内務省ないむしょうはいけんきょくぞくとなる。

以後いご新潟にいがたけん内務ないむだいいち課長かちょう山形やまがたけん内務ないむ部長ぶちょう福岡ふくおかけん事務じむかん内務ないむ部長ぶちょうなどを歴任れきにん

1912ねん12月、滋賀しがけん知事ちじ就任しゅうにん1914ねん4がつ千葉ちばけん知事ちじてんじた。米作べいさく教育きょういく社会しゃかい教育きょういく振興しんこうつくした。1917ねん1がつどう県知事けんちじ退官たいかん。その熊本くまもと市長しちょう小樽おたる市長しちょう歴任れきにん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 人事じんじ興信録こうしんろく 5はん』(人事じんじ興信所こうしんじょ、1918ねん)さ31ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 上田うえだただしあきら日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん講談社こうだんしゃ、2001ねん
  • 歴代れきだい知事ちじ編纂へんさんかいへん新編しんぺん日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ歴代れきだい知事ちじ編纂へんさんかい、1991ねん
  • はたいくへん日本にっぽん官僚かんりょうせい総合そうごう事典じてん:1868 - 2000』東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2001ねん
公職こうしょく
先代せんだい
依田よだあきら
熊本くまもと市長しちょう
だい6だい:1917ねん - 1921ねん
次代じだい
高橋たかはし守雄もりお