(Translated by https://www.hiragana.jp/)
藤島正健 - Wikipedia コンテンツにスキップ

藤島ふじしまただしけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤島ふじしまただしけん

藤島ふじしま ただしけん(ふじしま まさたけ、1845ねんひろし2ねん3がつ) - 1904ねん明治めいじ37ねん10月15にち)は、日本にっぽん大蔵おおくら官僚かんりょう官選かんせん県知事けんちじ

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

熊本くまもと藩士はんし藤島ふじしま昌和まさかず長男ちょうなんとして熊本くまもと高田原たかたばらまれる。

明治めいじ5ねん1872ねん)、政府せいふ出仕しゅっし検事けんじきょくじゅうとう出仕しゅっしとなる。以後いご紙幣しへいりょうだいぞくきゅうとう出仕しゅっし紙幣しへい権助ごんすけ大蔵おおくらけんしょう書記官しょきかん大蔵おおくらしょう書記官しょきかん大蔵おおくらけんだい書記官しょきかんけん員外いんがいかんなどを歴任れきにん

1884ねん4がつフランスパリ在留ざいりゅう領事りょうじ就任しゅうにん1886ねん3月、大蔵省おおくらしょう復帰ふっき大蔵おおくら書記官しょきかんとなる。以後いご総務そうむきょく文書ぶんしょ課長かちょう銀行ぎんこう局長きょくちょうつとめた。

1888ねん10月、富山とやま県知事けんちじ就任しゅうにん1890ねん7がつ千葉ちば県知事けんちじてんじた。1892ねん2がつだい2かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょにおいて選挙せんきょ干渉かんしょうおこなって死傷ししょうしゃした。1893ねん3月、千葉ちば県知事けんちじ退任たいにん1897ねん6がつ日本にっぽん勧業かんぎょう銀行ぎんこうふく総裁そうさいとなり1900ねんまで在任ざいにん

栄典えいてん受章じゅしょう受賞じゅしょう

[編集へんしゅう]
位階いかい
勲章くんしょうとう

血縁けつえん

[編集へんしゅう]

はは藤島ふじしま茂登子もとこは、矢嶋やじま直明なおあき鶴子つるこ夫妻ふさい長女ちょうじょで、いもうと横井よこいつせ横井よこい小楠しょうなんつま)・徳富とくとみ久子ひさこ徳富とくとみ一敬かずたかつま)・竹崎たけざき順子じゅんこ矢嶋やじま楫子かじこがいた。したがって、藤島ふじしまただしけん徳富とくとみ蘇峰そほうとくとみ蘆花ろか兄弟きょうだいとは、母方ははかた従兄弟いとこ同士どうしであった。酒田さかた正敏まさとし坂野さかのじゅんへん徳富とくとみ蘇峰そほう関係かんけい文書ぶんしょ山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ近代きんだい日本にっぽん史料しりょう選書せんしょ7-2、1985ねんかんには、神奈川かながわけん二宮にのみやまち徳富とくとみ蘇峰そほう記念きねんかん所蔵しょぞうする徳富とくとみ蘇峰そほうあて藤島ふじしまただしけん書簡しょかん83つう収録しゅうろくされている。

長女ちょうじょ雪子ゆきこ佐佐木ささき信綱のぶつなとついだ。したがって佐佐木ささき治綱はるつな外孫そとまご佐佐木ささき幸綱ゆきつな曾孫そうそんということになる。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 官報かんぽうだい2207ごう叙任じょにん及辞れい」1890ねん11月6にち
  2. ^ 官報かんぽうだい2992ごう叙任じょにん及辞れい」1893ねん6がつ21にち
  3. ^ 官報かんぽうだい1027ごう叙任じょにん」1886ねん12月1にち
  4. ^ 官報かんぽうだい1932ごう叙任じょにん及辞れい」1889ねん12月5にち
  5. ^ 官報かんぽうだい2703ごう叙任じょにん及辞れい」1892ねん7がつ2にち

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 上田うえだただしあきら日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん講談社こうだんしゃ、2001ねん
  • 歴代れきだい知事ちじ編纂へんさんかいへん新編しんぺん日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ歴代れきだい知事ちじ編纂へんさんかい、1991ねん