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信太しだなお

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信太しだなお

信太しだ なお(しのだ ときなお[1]1877ねん明治めいじ10ねん1がつ[1] - 1922ねん大正たいしょう11ねん9月23にち[1])は、日本にっぽん内務ないむ官僚かんりょう[1]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

秋田あきたけん出身しゅっしん士族しぞく柿岡かきおかみなもと十郎じゅうろう二男じなんとしてまれる。信太しだには養子ようしはいった[1]

だい高等こうとう学校がっこう[2]て、1902ねん明治めいじ35ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく卒業そつぎょう同年どうねん11がつ文官ぶんかん高等こうとう試験しけん及第きゅうだい[1]司法省しほうしょう司法官しほうかん試補しほから内務省ないむしょうてんじた[2]

以後いご和歌山わかやま福井ふくい山梨やまなしかくけん事務じむかん[1]滋賀しがけんみなとつとむ部長ぶちょう[3]島根しまねけん内務ないむ部長ぶちょう長崎ながさきけん港湾こうわん部長ぶちょう歴任れきにんするが、このあいだ呼吸こきゅうわずらい2ねんほどの休養きゅうようをとっている[1]

その高知こうちけん内務ないむ部長ぶちょう長崎ながさきけん内務ないむ部長ぶちょうて、1921ねん大正たいしょう10ねん)12月、富山とやま県知事けんちじ任命にんめいされ、翌年よくねん1がつ12にち着任ちゃくにんした。しかし着任ちゃくにんあいだもなく病気びょうき再発さいはつして入院にゅういん[1]信太しだ就任しゅうにんまえすで着手ちゃくしゅされていた常願寺川じょうがんじがわ水系すいけい水力すいりょく発電はつでんしょ建設けんせつ計画けいかく改革かいかくはかり、その更生こうせいあん作成さくせいするなどしたが[4]在任ざいにん期間きかんのほとんどを病臥びょうが[5]1922ねん大正たいしょう11ねん)9がつ23にち知事ちじ在任ざいにんのまま死去しきょした[1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j 日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ だい2かんじょう』p.145
  2. ^ a b 戦前せんぜん日本にっぽん官僚かんりょうせい制度せいど組織そしき人事じんじ』p.455
  3. ^ 日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ』p.145による。『富山とやまけん 通史つうしへん VI』p.10では滋賀しがけん内務ないむ部長ぶちょう
  4. ^ 富山とやまけん 通史つうしへん VI』pp.95-99
  5. ^ 富山とやまけん 通史つうしへん VI』p.443

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 歴代れきだい知事ちじ編纂へんさんかいへん日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ だい2かんじょう歴代れきだい知事ちじ編纂へんさんかい、1981ねん
  • はたいくしる戦前せんぜん官僚かんりょうせい研究けんきゅうかいへん戦前せんぜん日本にっぽん官僚かんりょうせい制度せいど組織そしき人事じんじ東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1981ねん
  • 富山とやまけんへん富山とやまけん 通史つうしへん VI 近代きんだい富山とやまけん、1984ねん