金子 かねこ 太郎 たろう (かねこ たろう、1925年 ねん 8月 がつ 30日 にち - 2020年 ねん 12月26日 にち )は、日本 にっぽん の大蔵 おおくら 官僚 かんりょう 。環境庁 かんきょうちょう (当時 とうじ )事務次官 じむじかん 、丸三証券 まるさんしょうけん 社長 しゃちょう 、会長 かいちょう 、エコノミスト、株式 かぶしき 投資 とうし のプロ。フィランソロピストとして、財団 ざいだん の理事 りじ を務 つと めた。
中国 ちゅうごく 山東 さんとう 省 しょう 青島 ちんたお で生 う まれ。父 ちち (金子 かねこ 慶治 けいじ )は新潟 にいがた 県 けん 刈羽 かりわ 郡 ぐん 南 みなみ 鯖石 さばいし 村 むら (現 げん 柏崎 かしわざき 市 し )出身 しゅっしん で、当時 とうじ 日本 にっぽん 最大 さいだい の鈴木 すずき 商店 しょうてん を経 へ て独立 どくりつ ビジネスや不動産 ふどうさん 投資 とうし で成功 せいこう し、戦後 せんご 、東京 とうきょう ・田園調布 でんえんちょうふ の邸宅 ていたく を連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ)に一時 いちじ 没収 ぼっしゅう されていた。母 はは (旧姓 きゅうせい 城野 しろの 民子 たみこ )は博多 はかた の商家 しょうか の出身 しゅっしん 。賢母 けんぼ の母 はは に連 つ れられ終戦 しゅうせん より前 まえ に帰国 きこく 後 ご 、八幡 やはた 小学校 しょうがっこう 、旧制 きゅうせい 横浜 よこはま 第 だい 一 いち 中学校 ちゅうがっこう 、第一高等学校 だいちこうとうがっこう (旧制 きゅうせい ) を経 へ て、東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 法学部 ほうがくぶ に入 はい り、1949年 ねん 3月 がつ に東京大学 とうきょうだいがく 法学部 ほうがくぶ 政治 せいじ 学科 がっか を卒業 そつぎょう 。同年 どうねん 4月 がつ に大蔵省 おおくらしょう 入省 にゅうしょう 。理財 りざい 局 きょく 経済 けいざい 課 か 配属 はいぞく [1] [2] 。入省 にゅうしょう から3か月 げつ 後 ご に見返 みかえし 資金 しきん 課 か が増設 ぞうせつ され、見返 みかえし 資金 しきん 課 か 配属 はいぞく となった。
大蔵 おおくら 官僚 かんりょう 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
天皇 てんのう 家 か が私的 してき 財産 ざいさん を持 も つことが法律 ほうりつ 上 じょう できないため、政府 せいふ の予算 よさん で出費 しゅっぴ を予想 よそう することが合理 ごうり 的 てき でないと考 かんが え、大蔵省 おおくらしょう から宮内庁 くないちょう に出向 しゅっこう している間 あいだ に、大蔵省 おおくらしょう と交渉 こうしょう し、内廷 ないてい 費 ひ という項目 こうもく を設定 せってい し、残余 ざんよ 部分 ぶぶん の資産 しさん 運用 うんよう を始 はじ めた。大蔵省 おおくらしょう から宮内庁 くないちょう への出向 しゅっこう はそれまで2年 ねん であったが、当時 とうじ の宮内庁 くないちょう 長官 ちょうかん から「お上 かみ (昭和 しょうわ 天皇 てんのう )のご意向 いこう 」として1年 ねん の出向 しゅっこう 期間 きかん 延長 えんちょう を求 もと められ、合計 ごうけい 3年間 ねんかん 宮内庁 くないちょう に出向 しゅっこう していた。当初 とうしょ の内廷 ないてい 費 ひ の資産 しさん 運用 うんよう は、日本 にっぽん 経済 けいざい 団体 だんたい 連合 れんごう 会 かい の会長 かいちょう の石坂 いしざか 泰三 たいぞう を運用 うんよう 責任 せきにん 者 しゃ と定 さだ めたが、石坂 いしざか 泰三 たいぞう は、金子 かねこ 太郎 たろう の株式 かぶしき 市場 いちば の分析 ぶんせき と資産 しさん 運用 うんよう の才能 さいのう を見抜 みぬ き、一任 いちにん していた。内廷 ないてい 費 ひ は、テニスが好 す きで、当時 とうじ 皇太子 こうたいし だった上皇 じょうこう ともプレイする機会 きかい があったが、他 た の宮内庁 くないちょう 職員 しょくいん がやや手加減 てかげん するところ金子 かねこ だけは試合 しあい に勝 か ってしまい、のちに平成 へいせい の時代 じだい 天皇 てんのう に面会 めんかい した際 さい 「たしか、金子 かねこ さんには、テニスで負 ま けたままになっていましたね」と言 い われて返答 へんとう に窮 きゅう した。[要 よう 出典 しゅってん ]
金子 かねこ が入省 にゅうしょう した当時 とうじ の大蔵省 おおくらしょう では、証券 しょうけん 取引 とりひき 委員 いいん 会 かい が置 お かれていたが[3] 、当時 とうじ 人気 にんき のなかった証券 しょうけん 取引 とりひき 委員 いいん 会 かい に、自 みずか ら配属 はいぞく を希望 きぼう した。後 ご の銀行 ぎんこう 局長 きょくちょう になる徳田 とくた 博美 ひろみ と一緒 いっしょ に、日本 にっぽん の金融 きんゆう や資本 しほん 市場 いちば をニューヨークやロンドンに追 お いつかせるため、さまざまな政策 せいさく を提言 ていげん し、実行 じっこう した。日本 にっぽん の高度 こうど 成長 せいちょう 期 き の金融 きんゆう を支 ささ えた有 ゆう 言 げん 実行 じっこう のリーダーの一人 ひとり に数 かぞ えられている。海外 かいがい での評判 ひょうばん も高 たか く、1980年代 ねんだい に東京 とうきょう 証券 しょうけん 取引 とりひき 所 しょ に上場 じょうじょう している銘柄 めいがら の時価 じか 総額 そうがく の合計 ごうけい が、アメリカを抜 ぬ き、トップになった。1989年 ねん には、世界 せかい の時価 じか 総額 そうがく のトップは、日本興業銀行 にほんこうぎょうぎんこう 、住友銀行 すみともぎんこう 、富士銀行 ふじぎんこう 、第一勧業銀行 だいいちかんぎょうぎんこう の4社 しゃ で独占 どくせん した。[要 よう 出典 しゅってん ]
戦時 せんじ 中 ちゅう 特殊 とくしゅ 潜航 せんこう 艇 てい (人間 にんげん 魚雷 ぎょらい )であと何 なん 日 にち かで死 し ぬことになっていたという経験 けいけん からか、大蔵省 おおくらしょう 主計 しゅけい 局 きょく 勤務 きんむ 当時 とうじ 、現場 げんば の実情 じつじょう 把握 はあく の重要 じゅうよう 性 せい を説 と き、厚生省 こうせいしょう (当時 とうじ )主計 しゅけい 官 かん としては異例 いれい の回数 かいすう 、全国 ぜんこく の施設 しせつ を見 み て回 まわ り、社会 しゃかい 福祉 ふくし 施設 しせつ ・児童 じどう 養護 ようご 施設 しせつ 充実 じゅうじつ の必要 ひつよう 性 せい を自 みずか ら説 と いた。[要 よう 出典 しゅってん ]
また、主計 しゅけい 官 かん 時代 じだい には、運輸省 うんゆしょう (当時 とうじ )が昭和 しょうわ 47年度 ねんど 予算 よさん 要求 ようきゅう にあたり、大都市 だいとし における民 みん 鉄線 てっせん の輸送 ゆそう 基盤 きばん 整備 せいび のため「大都市 だいとし 基盤 きばん 施設 しせつ 整備 せいび 事業 じぎょう 団 だん 」を新設 しんせつ する方針 ほうしん をまとめたものの、時 とき の政府 せいふ の方針 ほうしん として特殊 とくしゅ 法人 ほうじん の新設 しんせつ に大蔵省 おおくらしょう が難色 なんしょく を示 しめ し計画 けいかく がとん挫 ざ した際 さい のものがある。のちの金子 かねこ 本人 ほんにん の懐 ふところ 述 じゅつ によると、整備 せいび 候補 こうほ 路線 ろせん の1つである「新玉川線 しんたまがせん 計画 けいかく 」を抱 かか える東急 とうきゅう 電鉄 でんてつ 当時 とうじ 社長 しゃちょう の五島 ごしま 昇 のぼる が単身 たんしん 直接 ちょくせつ 主計 しゅけい 局 きょく を訪 おとず れ、金子 かねこ に「君 きみ が予算 よさん 担当 たんとう か。ではあなたに直接 ちょくせつ 言 い う。君 くん は鉄道 てつどう の現場 げんば の混雑 こんざつ 状 じょう 況 きょう を知 し っているのか。君 くん はこのような状況 じょうきょう のままでよいと思 おも っているのか。このままでは民 みん 鉄 てつ 各社 かくしゃ は必要 ひつよう な輸送 ゆそう 力 りょく 増強 ぞうきょう ができない。国 くに に金 かね がないなら知恵 ちえ を出 しゅっ せ。それが官僚 かんりょう の矜持 きょうじ のはずだ」との主張 しゅちょう に応 おう じ、部下 ぶか である主計 しゅけい 局 きょく 担当 たんとう 者 しゃ と知恵 ちえ を巡 めぐ らせた結果 けっか 、法人 ほうじん の新設 しんせつ がだめなら日本鉄道建設公団 にほんてつどうけんせつこうだん (当時 とうじ )に部署 ぶしょ を1つ新設 しんせつ するだけでいい、として、いわゆる「P線 せん 工事 こうじ 方式 ほうしき 」を編 あ み出 だ した、と日本 にっぽん 民営 みんえい 鉄道 てつどう 協会 きょうかい 三 さん 十 じゅう 年 ねん 史 し に載 の っている。このP線 せん 工事 こうじ を活用 かつよう して、大都市 だいとし に数 すう 多 おお くの鉄道 てつどう が建設 けんせつ され、このときの五島 ごしま 昇 のぼる との知己 ちき が、富士裾野 ふじすその 会 かい の会長 かいちょう を含 ふく め、のちの金子 かねこ を財界 ざいかい へと引 ひ き寄 よ せてゆく要因 よういん の一 ひと つとなったと五島 ごしま 昇 のぼる が房 ぼう 広治 ひろじ に1988年 ねん ロンドンで述 の べている。 [要 よう 出典 しゅってん ]
金子 かねこ 太郎 たろう は、正義 せいぎ 感 かん が強 つよ く、なれ合 あ いや接待 せったい されるのが嫌 きら いで、大蔵省 おおくらしょう の先輩 せんぱい に対 たい しても、はっきりと物 もの を言 い うことで、大蔵省 おおくらしょう 内 ない では「ケンカ太郎 たろう 」と呼 よ ばれた。これは、大蔵省 おおくらしょう 内 ない で幅広 はばひろ い支持 しじ を得 え た愛称 あいしょう であると思 おも われ、かなり年次 ねんじ の若 わか い世代 せだい まで浸透 しんとう していた。1998年 ねん の大蔵省 おおくらしょう 接待 せったい 汚職 おしょく 事件 じけん で、大蔵省 おおくらしょう がマスコミから叩 たた かれた時 とき には、接待 せったい は意味 いみ のないものと接待 せったい をほとんど受 う けたことのない大蔵 おおくら OBの金子 かねこ のコメントに助 たす けられたという後輩 こうはい は多 おお い[要 よう 出典 しゅってん ] 。
大蔵省 おおくらしょう に勤 つと めている時 とき から、省内 しょうない での許可 きょか を取 と り、給与 きゅうよ のほとんどをコンプライアンス上 じょう の問題 もんだい のない個別 こべつ 銘柄 めいがら への投資 とうし をし、当時 とうじ から、プロのファンドマネジャーよりも良 よ い成績 せいせき を誇 ほこ っていた[要 よう 出典 しゅってん ] 。
また、型破 かたやぶ りの法律 ほうりつ と実務 じつむ が理解 りかい できている天才 てんさい 的 てき な逸話 いつわ も数多 かずおお く残 のこ している。
田中 たなか 角栄 かくえい 大蔵 おおくら 大臣 だいじん (当時 とうじ )の時 とき に起 お こった金融 きんゆう 危機 きき に対 たい して、日銀 にちぎん 特 とく 融 とおる という法律 ほうりつ をどのように使 つか えばよいかを熟知 じゅくち していた金子 かねこ がこれ使 つか い、当時 とうじ 老舗 しにせ の山一證券 やまいちしょうけん を救済 きゅうさい し、金融 きんゆう 危機 きき を乗 の り越 こ えた。これは、日本 にっぽん では1997年 ねん に量的 りょうてき 金融 きんゆう 緩和 かんわ 政策 せいさく という名前 なまえ で、日本銀行 にっぽんぎんこう が無 む 担保 たんぽ で無 む 制限 せいげん の金融 きんゆう を提供 ていきょう するという手法 しゅほう と同 おな じである。量的 りょうてき 金融 きんゆう 緩和 かんわ 政策 せいさく は、のちに、アメリカやヨーロッパなど主要 しゅよう 各国 かっこく で、クレジットクライシス(リーマン・ショック )の時 とき に使 つか われた。[要 よう 出典 しゅってん ] 。
日本 にっぽん のM&A の草分 くさわ け的 てき な存在 そんざい と称 しょう される、ミネベア 社長 しゃちょう (当時 とうじ )の高橋 たかはし 高見 たかみ は、大蔵省 おおくらしょう 資本 しほん 市場 いちば 課 か の課長 かちょう であった金子 かねこ に、M&Aの相談 そうだん をし、金子 かねこ をM&Aや資本 しほん 市場 いちば のアドバイザーのような稀有 けう な官僚 かんりょう と信頼 しんらい をよせていた。[要 よう 出典 しゅってん ]
また、小糸製作所 こいとせいさくしょ が、グリーンメーラー と当時 とうじ 称 しょう されていたT・ブーン・ピケンズにより、株 かぶ の買 か い占 し めに遭遇 そうぐう した時 とき にも、金子 かねこ が小糸製作所 こいとせいさくしょ のアドバイスをし、難 なん を逃 のが れたと小糸製作所 こいとせいさくしょ の当時 とうじ 常務 じょうむ の青山 あおやま は述 の べている[要 よう 出典 しゅってん ] 。
丸三証券 まるさんしょうけん 社長 しゃちょう を退 しりぞ き、会長 かいちょう になってからも、法律 ほうりつ と実践 じっせん を駆使 くし した独創 どくそう 的 てき なビM&Aビジネスを展開 てんかい 。日本 にっぽん の上場 じょうじょう 会社 かいしゃ の市場 いちば の透明 とうめい 性 せい を増 ま すために1990年 ねん 12月に、5%ルールと株式 かぶしき 公開 こうかい 買付 かいつ け の法律 ほうりつ が導入 どうにゅう された直後 ちょくご の、法律 ほうりつ 改正 かいせい 後 ご の最初 さいしょ の上場 じょうじょう 会社 かいしゃ の経営 けいえい 権 けん が移動 いどう したケースでも金子 かねこ が登場 とうじょう する。対象 たいしょう 会社 かいしゃ 日本 にっぽん ドーバーの50.1%を保有 ほゆう していたアメリカのコングロマリットのドーバー社 しゃ のアドバイザーを、当時 とうじ 丸三証券 まるさんしょうけん の会長 かいちょう であった金子 かねこ 自 みずか らが勤 つと めた。買 か い手 て TIグループ (TI Group。現 げん Smiths Group Plc)側 がわ のアドバイザーには、S.G.Warburg & Co.がつき、成功 せいこう に導 みちび いた。S. G. Warburg & Co.(現 げん UBS証券 しょうけん )は、白洲 しらす 次郎 じろう が初代 しょだい 日本人 にっぽんじん アドバイザーとなった、インベストメントバンクであった。S. G. Warburg & Co.は、世界 せかい 最初 さいしょ に敵対 てきたい 的 てき 買収 ばいしゅう をアドバイスした名門 めいもん インベストメントバンクで、当時 とうじ 、海外 かいがい の日本 にっぽん の上場 じょうじょう 企業 きぎょう のM&A案件 あんけん ではトップの実績 じっせき を誇 ほこ っていた。本件 ほんけん は、日本 にっぽん のM&Aのケーススタディとして、M&Aの専門 せんもん 書 しょ に紹介 しょうかい された。金子 かねこ は後 のち にUBSの日本 にっぽん 法人 ほうじん の監査 かんさ 役 やく に就任 しゅうにん している。[要 よう 出典 しゅってん ] 。
官僚 かんりょう 時代 じだい に、日本経済新聞 にほんけいざいしんぶん の大 だい 機 き 小 しょう 機 き で、明快 めいかい な経済 けいざい 解説 かいせつ を定期 ていき 的 てき に掲載 けいさい していた。また、民間 みんかん 企業 きぎょう のトップになった後 のち も、論文 ろんぶん やインタビュー記事 きじ が多数 たすう 残 のこ っている。
環境省 かんきょうしょう から丸三証券 まるさんしょうけん へ転身 てんしん [ 編集 へんしゅう ]
丸三証券 まるさんしょうけん 創業 そうぎょう 者 しゃ の長男 ちょうなん である長尾 ながお 貫一 かんいち 社長 しゃちょう が、病床 びょうしょう から自 みずか らの余命 よめい が短 みじか いことと貫 つらぬけ 一 いち の長男 ちょうなん 栄次郎 えいじろう との繋 つな ぎとして、自 みずか ら、当時 とうじ 環境庁 かんきょうちょう 事務次官 じむじかん の金子 かねこ に社長 しゃちょう 就任 しゅうにん を懇願 こんがん 。大蔵省 おおくらしょう が金子 かねこ の退職 たいしょく 後 ご ポジションを用意 ようい をしていたとみられるが、金子 かねこ 本人 ほんにん は自 みずか らの天下 あまくだ りには否定 ひてい 的 てき で、のちに「退官 たいかん 後 ご はすっぱりやめたい。役所 やくしょ の用意 ようい する特殊 とくしゅ 法人 ほうじん に行 い くよりも、慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく で教鞭 きょうべん をとることについて内諾 ないだく を得 え ていた」と語 かた っていた。長尾 ながお 貫一 かんいち の「私 わたし は兜 かぶと 町 まち で50年 ねん 、人 ひと を見 み てきた。私 わたし の目 め に狂 くる いはない。あなたはこの仕事 しごと が務 つと まるし、好 す きなはずだ」との口説 くど き文句 もんく を受 う け、1981年 ねん に急遽 きゅうきょ 丸三証券 まるさんしょうけん の社長 しゃちょう に就任 しゅうにん 。その直後 ちょくご に長尾 ながお 貫一 かんいち が死去 しきょ 。社長 しゃちょう 就任 しゅうにん 後 ご 、直 す ぐに、日本生命保険 にほんせいめいほけん と日本興業銀行 にほんこうぎょうぎんこう (現 げん みずほ銀行 ぎんこう )から資本 しほん 調達 ちょうたつ をし、資本 しほん 増強 ぞうきょう し、中堅 ちゅうけん 証券 しょうけん として上場 じょうじょう 。証券 しょうけん 会社 かいしゃ の経営 けいえい 者 しゃ としての矢継 やつ ぎ早 ばや の施策 しさく で、バブル時代 じだい の優良 ゆうりょう 証券 しょうけん 会社 かいしゃ の一 いち 社 しゃ に数 かぞ えられるまでになった。[要 よう 出典 しゅってん ]
松本 まつもと 和男 かずお の『現代 げんだい の株 かぶ 名人 めいじん ー人生 じんせい と相場 そうば 哲学 てつがく を語 かた る』(日本経済新聞社 にほんけいざいしんぶんしゃ 、1989年 ねん )には、日本 にっぽん を代表 だいひょう する相場 そうば 師 し 4名 めい の一人 ひとり として描 えが かれている[要 よう ページ番号 ばんごう ] 。
丸三証券 まるさんしょうけん 会長 かいちょう を退 しりぞ いてからは、日本 にっぽん の若者 わかもの の金融 きんゆう リテラシーをあげるため、講演 こうえん を続 つづ けていた。
2020年 ねん 12月26日 にち 、死去 しきょ [4] 。95歳 さい 没 ぼつ 。
1949年 ねん 4月 がつ :大蔵省 おおくらしょう 入省 にゅうしょう 。
1949年 ねん 7月 がつ :理財 りざい 局 きょく 見返 みかえし 資金 しきん 課 か 。
1951年 ねん 4月 がつ :理財 りざい 局 きょく 外債 がいさい 課 か 。
1951年 ねん 4月 がつ :大阪 おおさか 国税局 こくぜいきょく 調査 ちょうさ 査察 ささつ 部 ぶ 調査 ちょうさ 第 だい 二 に 課 か 。
1952年 ねん 7月 がつ :大蔵 おおくら 国税局 こくぜいきょく 総務 そうむ 部 ぶ 総務 そうむ 課 か 。
1953年 ねん 7月 がつ :伊勢崎 いせざき 税務署 ぜいむしょ 長 ちょう 。
1954年 ねん 12月:主税局 しゅぜいきょく 税関 ぜいかん 部 ぶ 業務 ぎょうむ 課長 かちょう 補佐 ほさ 心得 こころえ 。
1955年 ねん 7月 がつ :主税局 しゅぜいきょく 税関 ぜいかん 部 ぶ 業務 ぎょうむ 課長 かちょう 補佐 ほさ 。
1957年 ねん 9月:主税局 しゅぜいきょく 税関 ぜいかん 部 ぶ 業務 ぎょうむ 課長 かちょう 補佐 ほさ 兼 けん 主税局 しゅぜいきょく 税関 ぜいかん 部 ぶ 調査 ちょうさ 統計 とうけい 課長 かちょう 補佐 ほさ 。
1958年 ねん 1月 がつ :主税局 しゅぜいきょく 税関 ぜいかん 部 ぶ 業務 ぎょうむ 課長 かちょう 補佐 ほさ 。
1958年 ねん 8月 がつ :主計 しゅけい 局 きょく 主計 しゅけい 官 かん 補佐 ほさ (社会 しゃかい 保険 ほけん ・労働 ろうどう 係 がかり )。
1959年 ねん 8月 がつ :主計 しゅけい 局 きょく 主計 しゅけい 官 かん 補佐 ほさ (労働 ろうどう 係 がかり )。
1960年 ねん 7月 がつ :主計 しゅけい 局 きょく 主計 しゅけい 官 かん 補佐 ほさ (農林 のうりん 係 がかり )。
1962年 ねん 6月 がつ :主計 しゅけい 局 きょく 主計 しゅけい 官 かん 補佐 ほさ (厚生 こうせい 係 がかり )。
1964年 ねん 7月 がつ :宮内庁 くないちょう 長官 ちょうかん 官房 かんぼう 主計 しゅけい 課長 かちょう 。
1967年 ねん 8月 がつ :大臣 だいじん 官房 かんぼう 参事官 さんじかん 。
1968年 ねん 6月 がつ :主計 しゅけい 局 きょく 調査 ちょうさ 課長 かちょう 。
1969年 ねん 7月 がつ :主計 しゅけい 局 きょく 調査 ちょうさ 課長 かちょう 兼 けん 主計 しゅけい 局 きょく 予算 よさん 科学 かがく 分析 ぶんせき 室長 しつちょう 。
1970年 ねん 7月 がつ :主計 しゅけい 局 きょく 主計 しゅけい 官 かん (運輸 うんゆ 、郵政 ゆうせい 、専売 せんばい 公社 こうしゃ 、電信 でんしん 電話 でんわ 担当 たんとう )。
1972年 ねん 6月 がつ :証券 しょうけん 局 きょく 総務 そうむ 課長 かちょう 。
1973年 ねん 6月26日 にち :東京 とうきょう 税関 ぜいかん 長 ちょう 。
1974年 ねん 7月 がつ 15日 にち :大臣 だいじん 官房 かんぼう 審議 しんぎ 官 かん (証券 しょうけん 局 きょく 担当 たんとう ) 兼 けん 関東 かんとう 財務局 ざいむきょく 東京 とうきょう 証券 しょうけん 取引 とりひき 所 しょ 監理 かんり 官 かん 。
1975年 ねん 7月 がつ :環境庁 かんきょうちょう 長官 ちょうかん 官房 かんぼう 長 ちょう 。
1978年 ねん 6月 がつ :環境庁 かんきょうちょう 自然 しぜん 保護 ほご 局長 きょくちょう 。
1979年 ねん 7月 がつ :環境庁 かんきょうちょう 企画 きかく 調整 ちょうせい 局長 きょくちょう 。
1980年 ねん 6月17日 にち :環境 かんきょう 事務次官 じむじかん 。
1981年 ねん 7月 がつ 10日 とおか :退官 たいかん 。
大蔵省 おおくらしょう 同期 どうき 入省 にゅうしょう [ 編集 へんしゅう ]
入省 にゅうしょう 同期 どうき に高橋 たかはし 元 はじめ (日本開発銀行 にほんかいはつぎんこう 総裁 そうさい 、事務次官 じむじかん 、主税局 しゅぜいきょく 長 ちょう 、経済企画庁 けいざいきかくちょう 長官 ちょうかん 官房 かんぼう 長 ちょう )、徳田 とくた 博美 ひろみ (野村 のむら 総研 そうけん 理事 りじ 長 ちょう 、銀行 ぎんこう 局長 きょくちょう )、戸塚 とつか 岩夫 いわお (関税 かんぜい 局長 きょくちょう 、理財 りざい 局 きょく 次長 じちょう (旧 きゅう 理財 りざい 担当 たんとう ))、北田 きただ 栄作 えいさく (退官 たいかん 後 ご は電源 でんげん 開発 かいはつ 理事 りじ 。造幣局 ぞうへいきょく 長 ちょう )ら戦後 せんご の日本 にっぽん の経済 けいざい をけん引 いん した大蔵 おおくら 官僚 かんりょう がいる。同期 どうき の徳田 とくた 博美 ひろみ によると、金子 かねこ は同期 どうき の北田 きただ らとトップ4名 めい の一人 ひとり として入省 にゅうしょう 。
出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2021年 ねん 1月 がつ )
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