金子かねこ太郎たろう (大蔵おおくら官僚かんりょう)

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金子かねこ 太郎たろう(かねこ たろう、1925ねん8がつ30にち - 2020ねん12月26にち)は、日本にっぽん大蔵おおくら官僚かんりょう環境庁かんきょうちょう当時とうじ事務次官じむじかん丸三証券まるさんしょうけん社長しゃちょう会長かいちょう、エコノミスト、株式かぶしき投資とうしのプロ。フィランソロピストとして、財団ざいだん理事りじつとめた。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

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中国ちゅうごく山東さんとうしょう青島ちんたおまれ。ちち金子かねこ慶治けいじ)は新潟にいがたけん刈羽かりわぐんみなみ鯖石さばいしむらげん柏崎かしわざき出身しゅっしんで、当時とうじ日本にっぽん最大さいだい鈴木すずき商店しょうてん独立どくりつビジネスや不動産ふどうさん投資とうし成功せいこうし、戦後せんご東京とうきょう田園調布でんえんちょうふ邸宅ていたく連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ)に一時いちじ没収ぼっしゅうされていた。はは旧姓きゅうせい城野しろの民子たみこ)は博多はかた商家しょうか出身しゅっしん賢母けんぼははれられ終戦しゅうせんよりまえ帰国きこく八幡やはた小学校しょうがっこう旧制きゅうせい横浜よこはまだいいち中学校ちゅうがっこう第一高等学校だいちこうとうがっこう (旧制きゅうせい)て、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶはいり、1949ねん3がつ東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶ政治せいじ学科がっか卒業そつぎょう同年どうねん4がつ大蔵省おおくらしょう入省にゅうしょう理財りざいきょく経済けいざい配属はいぞく[1][2]入省にゅうしょうから3かげつ見返みかえし資金しきん増設ぞうせつされ、見返みかえし資金しきん配属はいぞくとなった。

大蔵おおくら官僚かんりょう時代じだい[編集へんしゅう]

天皇てんのう私的してき財産ざいさんつことが法律ほうりつじょうできないため、政府せいふ予算よさん出費しゅっぴ予想よそうすることが合理ごうりてきでないとかんがえ、大蔵省おおくらしょうから宮内庁くないちょう出向しゅっこうしているあいだに、大蔵省おおくらしょう交渉こうしょうし、内廷ないていという項目こうもく設定せっていし、残余ざんよ部分ぶぶん資産しさん運用うんようはじめた。大蔵省おおくらしょうから宮内庁くないちょうへの出向しゅっこうはそれまで2ねんであったが、当時とうじ宮内庁くないちょう長官ちょうかんから「おかみ昭和しょうわ天皇てんのう)のご意向いこう」として1ねん出向しゅっこう期間きかん延長えんちょうもとめられ、合計ごうけい3年間ねんかん宮内庁くないちょう出向しゅっこうしていた。当初とうしょ内廷ないてい資産しさん運用うんようは、日本にっぽん経済けいざい団体だんたい連合れんごうかい会長かいちょう石坂いしざか泰三たいぞう運用うんよう責任せきにんしゃさだめたが、石坂いしざか泰三たいぞうは、金子かねこ太郎たろう株式かぶしき市場いちば分析ぶんせき資産しさん運用うんよう才能さいのう見抜みぬき、一任いちにんしていた。内廷ないていは、テニスがきで、当時とうじ皇太子こうたいしだった上皇じょうこうともプレイする機会きかいがあったが、宮内庁くないちょう職員しょくいんがやや手加減てかげんするところ金子かねこだけは試合しあいってしまい、のちに平成へいせい時代じだい天皇てんのう面会めんかいしたさい「たしか、金子かねこさんには、テニスでけたままになっていましたね」とわれて返答へんとうきゅうした。[よう出典しゅってん]

金子かねこ入省にゅうしょうした当時とうじ大蔵省おおくらしょうでは、証券しょうけん取引とりひき委員いいんかいかれていたが[3]当時とうじ人気にんきのなかった証券しょうけん取引とりひき委員いいんかいに、みずか配属はいぞく希望きぼうした。銀行ぎんこう局長きょくちょうになる徳田とくた博美ひろみ一緒いっしょに、日本にっぽん金融きんゆう資本しほん市場いちばをニューヨークやロンドンにいつかせるため、さまざまな政策せいさく提言ていげんし、実行じっこうした。日本にっぽん高度こうど成長せいちょう金融きんゆうささえたゆうげん実行じっこうのリーダーの一人ひとりかぞえられている。海外かいがいでの評判ひょうばんたかく、1980年代ねんだい東京とうきょう証券しょうけん取引とりひきしょ上場じょうじょうしている銘柄めいがら時価じか総額そうがく合計ごうけいが、アメリカをき、トップになった。1989ねんには、世界せかい時価じか総額そうがくのトップは、日本興業銀行にほんこうぎょうぎんこう住友銀行すみともぎんこう富士銀行ふじぎんこう第一勧業銀行だいいちかんぎょうぎんこうの4しゃ独占どくせんした。[よう出典しゅってん]

戦時せんじちゅう特殊とくしゅ潜航せんこうてい人間にんげん魚雷ぎょらい)であとなんにちかでぬことになっていたという経験けいけんからか、大蔵省おおくらしょう主計しゅけいきょく勤務きんむ当時とうじ現場げんば実情じつじょう把握はあく重要じゅうようせいき、厚生省こうせいしょう当時とうじ主計しゅけいかんとしては異例いれい回数かいすう全国ぜんこく施設しせつまわり、社会しゃかい福祉ふくし施設しせつ児童じどう養護ようご施設しせつ充実じゅうじつ必要ひつようせいみずかいた。[よう出典しゅってん]

また、主計しゅけいかん時代じだいには、運輸省うんゆしょう当時とうじ)が昭和しょうわ47年度ねんど予算よさん要求ようきゅうにあたり、大都市だいとしにおけるみん鉄線てっせん輸送ゆそう基盤きばん整備せいびのため「大都市だいとし基盤きばん施設しせつ整備せいび事業じぎょうだん」を新設しんせつする方針ほうしんをまとめたものの、とき政府せいふ方針ほうしんとして特殊とくしゅ法人ほうじん新設しんせつ大蔵省おおくらしょう難色なんしょくしめ計画けいかくがとんしたさいのものがある。のちの金子かねこ本人ほんにんふところじゅつによると、整備せいび候補こうほ路線ろせんの1つである「新玉川線しんたまがせん計画けいかく」をかかえる東急とうきゅう電鉄でんてつ当時とうじ社長しゃちょう五島ごしまのぼる単身たんしん直接ちょくせつ主計しゅけいきょくおとずれ、金子かねこに「きみ予算よさん担当たんとうか。ではあなたに直接ちょくせつう。くん鉄道てつどう現場げんば混雑こんざつじょうきょうっているのか。くんはこのような状況じょうきょうのままでよいとおもっているのか。このままではみんてつ各社かくしゃ必要ひつよう輸送ゆそうりょく増強ぞうきょうができない。くにかねがないなら知恵ちえしゅっせ。それが官僚かんりょう矜持きょうじのはずだ」との主張しゅちょうおうじ、部下ぶかである主計しゅけいきょく担当たんとうしゃ知恵ちえめぐらせた結果けっか法人ほうじん新設しんせつがだめなら日本鉄道建設公団にほんてつどうけんせつこうだん当時とうじ)に部署ぶしょを1つ新設しんせつするだけでいい、として、いわゆる「Pせん工事こうじ方式ほうしき」をした、と日本にっぽん民営みんえい鉄道てつどう協会きょうかいさんじゅうねんっている。このPせん工事こうじ活用かつようして、大都市だいとしすうおおくの鉄道てつどう建設けんせつされ、このときの五島ごしまのぼるとの知己ちきが、富士裾野ふじすそのかい会長かいちょうふくめ、のちの金子かねこ財界ざいかいへとせてゆく要因よういんひとつとなったと五島ごしまのぼるぼう広治ひろじに1988ねんロンドンでべている。[よう出典しゅってん]

金子かねこ太郎たろうは、正義せいぎかんつよく、なれいや接待せったいされるのがきらいで、大蔵省おおくらしょう先輩せんぱいたいしても、はっきりとものうことで、大蔵省おおくらしょうないでは「ケンカ太郎たろう」とばれた。これは、大蔵省おおくらしょうない幅広はばひろ支持しじ愛称あいしょうであるとおもわれ、かなり年次ねんじわか世代せだいまで浸透しんとうしていた。1998ねん大蔵省おおくらしょう接待せったい汚職おしょく事件じけんで、大蔵省おおくらしょうがマスコミからたたかれたときには、接待せったい意味いみのないものと接待せったいをほとんどけたことのない大蔵おおくらOBの金子かねこのコメントにたすけられたという後輩こうはいおお[よう出典しゅってん]

大蔵省おおくらしょうつとめているときから、省内しょうないでの許可きょかり、給与きゅうよのほとんどをコンプライアンスじょう問題もんだいのない個別こべつ銘柄めいがらへの投資とうしをし、当時とうじから、プロのファンドマネジャーよりも成績せいせきほこっていた[よう出典しゅってん]

また、型破かたやぶりの法律ほうりつ実務じつむ理解りかいできている天才てんさいてき逸話いつわ数多かずおおのこしている。

田中たなか角栄かくえい大蔵おおくら大臣だいじん(当時とうじ)のときこった金融きんゆう危機ききたいして、日銀にちぎんとくとおるという法律ほうりつをどのように使つかえばよいかを熟知じゅくちしていた金子かねこがこれ使つかい、当時とうじ老舗しにせ山一證券やまいちしょうけん救済きゅうさいし、金融きんゆう危機ききえた。これは、日本にっぽんでは1997ねん量的りょうてき金融きんゆう緩和かんわ政策せいさくという名前なまえで、日本銀行にっぽんぎんこう担保たんぽ制限せいげん金融きんゆう提供ていきょうするという手法しゅほうおなじである。量的りょうてき金融きんゆう緩和かんわ政策せいさくは、のちに、アメリカやヨーロッパなど主要しゅよう各国かっこくで、クレジットクライシス(リーマン・ショック)のとき使つかわれた。[よう出典しゅってん]

M&Aの草分くさわ[編集へんしゅう]

日本にっぽんM&A草分くさわてき存在そんざいしょうされる、ミネベア社長しゃちょう当時とうじ)の高橋たかはし高見たかみは、大蔵省おおくらしょう資本しほん市場いちば課長かちょうであった金子かねこに、M&Aの相談そうだんをし、金子かねこをM&Aや資本しほん市場いちばのアドバイザーのような稀有けう官僚かんりょう信頼しんらいをよせていた。[よう出典しゅってん]

また、小糸製作所こいとせいさくしょが、グリーンメーラー当時とうじしょうされていたT・ブーン・ピケンズにより、かぶめに遭遇そうぐうしたときにも、金子かねこ小糸製作所こいとせいさくしょのアドバイスをし、なんのがれたと小糸製作所こいとせいさくしょ当時とうじ常務じょうむ青山あおやまべている[よう出典しゅってん]

丸三証券まるさんしょうけん社長しゃちょう退しりぞき、会長かいちょうになってからも、法律ほうりつ実践じっせん駆使くしした独創どくそうてきなビM&Aビジネスを展開てんかい日本にっぽん上場じょうじょう会社かいしゃ市場いちば透明とうめいせいすために1990ねん12月に、5%ルールと株式かぶしき公開こうかい買付かいつ法律ほうりつ導入どうにゅうされた直後ちょくごの、法律ほうりつ改正かいせい最初さいしょ上場じょうじょう会社かいしゃ経営けいえいけん移動いどうしたケースでも金子かねこ登場とうじょうする。対象たいしょう会社かいしゃ日本にっぽんドーバーの50.1%を保有ほゆうしていたアメリカのコングロマリットのドーバーしゃのアドバイザーを、当時とうじ丸三証券まるさんしょうけん会長かいちょうであった金子かねこみずからがつとめた。TIグループ (TI Group。げんSmiths Group Plc)がわのアドバイザーには、S.G.Warburg & Co.がつき、成功せいこうみちびいた。S. G. Warburg & Co.(げんUBS証券しょうけん)は、白洲しらす次郎じろう初代しょだい日本人にっぽんじんアドバイザーとなった、インベストメントバンクであった。S. G. Warburg & Co.は、世界せかい最初さいしょ敵対てきたいてき買収ばいしゅうをアドバイスした名門めいもんインベストメントバンクで、当時とうじ海外かいがい日本にっぽん上場じょうじょう企業きぎょうのM&A案件あんけんではトップの実績じっせきほこっていた。本件ほんけんは、日本にっぽんのM&Aのケーススタディとして、M&Aの専門せんもんしょ紹介しょうかいされた。金子かねこのちにUBSの日本にっぽん法人ほうじん監査かんさやく就任しゅうにんしている。[よう出典しゅってん]

マスコミとのかかわ[編集へんしゅう]

官僚かんりょう時代じだいに、日本経済新聞にほんけいざいしんぶんだいしょうで、明快めいかい経済けいざい解説かいせつ定期ていきてき掲載けいさいしていた。また、民間みんかん企業きぎょうのトップになったのちも、論文ろんぶんやインタビュー記事きじ多数たすうのこっている。

環境省かんきょうしょうから丸三証券まるさんしょうけん転身てんしん[編集へんしゅう]

丸三証券まるさんしょうけん創業そうぎょうしゃ長男ちょうなんである長尾ながお貫一かんいち社長しゃちょうが、病床びょうしょうからみずからの余命よめいみじかいこととつらぬけいち長男ちょうなん栄次郎えいじろうとのつなぎとして、みずから、当時とうじ環境庁かんきょうちょう事務次官じむじかん金子かねこ社長しゃちょう就任しゅうにん懇願こんがん大蔵省おおくらしょう金子かねこ退職たいしょくポジションを用意よういをしていたとみられるが、金子かねこ本人ほんにんみずからの天下あまくだりには否定ひていてきで、のちに「退官たいかんはすっぱりやめたい。役所やくしょ用意よういする特殊とくしゅ法人ほうじんくよりも、慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく教鞭きょうべんをとることについて内諾ないだくていた」とかたっていた。長尾ながお貫一かんいちの「わたしかぶとまちで50ねんひとてきた。わたしくるいはない。あなたはこの仕事しごとつとまるし、きなはずだ」との口説くど文句もんくけ、1981ねん急遽きゅうきょ丸三証券まるさんしょうけん社長しゃちょう就任しゅうにん。その直後ちょくご長尾ながお貫一かんいち死去しきょ社長しゃちょう就任しゅうにんぐに、日本生命保険にほんせいめいほけん日本興業銀行にほんこうぎょうぎんこう(げんみずほ銀行ぎんこう)から資本しほん調達ちょうたつをし、資本しほん増強ぞうきょうし、中堅ちゅうけん証券しょうけんとして上場じょうじょう証券しょうけん会社かいしゃ経営けいえいしゃとしての矢継やつばや施策しさくで、バブル時代じだい優良ゆうりょう証券しょうけん会社かいしゃいちしゃかぞえられるまでになった。[よう出典しゅってん]

松本まつもと和男かずおの『現代げんだいかぶ名人めいじん人生じんせい相場そうば哲学てつがくかたる』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1989ねん)には、日本にっぽん代表だいひょうする相場そうば4めい一人ひとりとしてえがかれている[ようページ番号ばんごう]

丸三証券まるさんしょうけん会長かいちょう退しりぞいてからは、日本にっぽん若者わかもの金融きんゆうリテラシーをあげるため、講演こうえんつづけていた。

2020ねん12月26にち死去しきょ[4]。95さいぼつ

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

  • 1949ねん4がつ大蔵省おおくらしょう入省にゅうしょう
  • 1949ねん7がつ理財りざいきょく見返みかえし資金しきん
  • 1951ねん4がつ理財りざいきょく外債がいさい
  • 1951ねん4がつ大阪おおさか国税局こくぜいきょく調査ちょうさ査察ささつ調査ちょうさだい
  • 1952ねん7がつ大蔵おおくら国税局こくぜいきょく総務そうむ総務そうむ
  • 1953ねん7がつ伊勢崎いせざき税務署ぜいむしょちょう
  • 1954ねん12月:主税局しゅぜいきょく税関ぜいかん業務ぎょうむ課長かちょう補佐ほさ心得こころえ
  • 1955ねん7がつ主税局しゅぜいきょく税関ぜいかん業務ぎょうむ課長かちょう補佐ほさ
  • 1957ねん9月:主税局しゅぜいきょく税関ぜいかん業務ぎょうむ課長かちょう補佐ほさ けん 主税局しゅぜいきょく税関ぜいかん調査ちょうさ統計とうけい課長かちょう補佐ほさ
  • 1958ねん1がつ主税局しゅぜいきょく税関ぜいかん業務ぎょうむ課長かちょう補佐ほさ
  • 1958ねん8がつ主計しゅけいきょく主計しゅけいかん補佐ほさ社会しゃかい保険ほけん労働ろうどうがかり)。
  • 1959ねん8がつ主計しゅけいきょく主計しゅけいかん補佐ほさ労働ろうどうがかり)。
  • 1960ねん7がつ主計しゅけいきょく主計しゅけいかん補佐ほさ農林のうりんがかり)。
  • 1962ねん6がつ主計しゅけいきょく主計しゅけいかん補佐ほさ厚生こうせいがかり)。
  • 1964ねん7がつ宮内庁くないちょう長官ちょうかん官房かんぼう主計しゅけい課長かちょう
  • 1967ねん8がつ大臣だいじん官房かんぼう参事官さんじかん
  • 1968ねん6がつ主計しゅけいきょく調査ちょうさ課長かちょう
  • 1969ねん7がつ主計しゅけいきょく調査ちょうさ課長かちょう けん 主計しゅけいきょく予算よさん科学かがく分析ぶんせき室長しつちょう
  • 1970ねん7がつ主計しゅけいきょく主計しゅけいかん運輸うんゆ郵政ゆうせい専売せんばい公社こうしゃ電信でんしん電話でんわ担当たんとう)。
  • 1972ねん6がつ証券しょうけんきょく総務そうむ課長かちょう
  • 1973ねん6月26にち東京とうきょう税関ぜいかんちょう
  • 1974ねん7がつ15にち大臣だいじん官房かんぼう審議しんぎかん証券しょうけんきょく担当たんとうけん 関東かんとう財務局ざいむきょく東京とうきょう証券しょうけん取引とりひきしょ監理かんりかん
  • 1975ねん7がつ環境庁かんきょうちょう長官ちょうかん官房かんぼうちょう
  • 1978ねん6がつ環境庁かんきょうちょう自然しぜん保護ほご局長きょくちょう
  • 1979ねん7がつ環境庁かんきょうちょう企画きかく調整ちょうせい局長きょくちょう
  • 1980ねん6月17にち環境かんきょう事務次官じむじかん
  • 1981ねん7がつ10日とおか退官たいかん

大蔵省おおくらしょう同期どうき入省にゅうしょう[編集へんしゅう]

入省にゅうしょう同期どうき高橋たかはしはじめ日本開発銀行にほんかいはつぎんこう総裁そうさい事務次官じむじかん主税局しゅぜいきょくちょう経済企画庁けいざいきかくちょう長官ちょうかん官房かんぼうちょう)、徳田とくた博美ひろみ野村のむら総研そうけん理事りじちょう銀行ぎんこう局長きょくちょう)、戸塚とつか岩夫いわお関税かんぜい局長きょくちょう理財りざいきょく次長じちょうきゅう理財りざい担当たんとう))、北田きただ栄作えいさく退官たいかん電源でんげん開発かいはつ理事りじ造幣局ぞうへいきょくちょう)ら戦後せんご日本にっぽん経済けいざいをけんいんした大蔵おおくら官僚かんりょうがいる。同期どうき徳田とくた博美ひろみによると、金子かねこ同期どうき北田きただらとトップ4めい一人ひとりとして入省にゅうしょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 大蔵省おおくらしょう人名じんめいろく明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ大蔵おおくら財務ざいむ協会きょうかい、1973ねん発行はっこう、49ぺーじ
  2. ^ 国際こくさい金融きんゆう 1159ごう一般いっぱん財団ざいだん法人ほうじん外国がいこく為替かわせ貿易ぼうえき研究けんきゅうかい、2004ねん9がつ14にち発行はっこう、4ぺーじ
  3. ^ だい1せつ 大蔵省おおくらしょう設置せっちほう以前いぜん だい7しょう 大蔵省おおくらしょう機構きこう変遷へんせん 財務ざいむ総合そうごう政策せいさく研究所けんきゅうじょ
  4. ^ 金子かねこ太郎たろう死去しきょ もと丸三証券まるさんしょうけん会長かいちょうもと環境庁かんきょうちょうげん環境省かんきょうしょう事務次官じむじかん. 時事通信社じじつうしんしゃ. (2021ねん1がつ4にち). https://web.archive.org/web/20210109195231/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021010400931&g=obt 2021ねん1がつ4にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

先代せんだい
出原いではら孝夫たかお
環境庁かんきょうちょう自然しぜん保護ほご局長きょくちょう
1978ねん - 1979ねん
次代じだい
藤森ふじもり昭一しょういち
先代せんだい
上村うえむらはじめ
環境庁かんきょうちょう企画きかく調整ちょうせい局長きょくちょう
1979ねん - 1980ねん
次代じだい
藤森ふじもり昭一しょういち
先代せんだい
上村うえむらはじめ
環境かんきょう事務次官じむじかん
1980ねん - 1981ねん
次代じだい
藤森ふじもり昭一しょういち