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ぜに兵衛ひょうえ

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ぜに兵衛ひょうえ

ぜに 兵衛ひょうえ(ぜにや ごへえ、安永やすなが2ねん11月25にち1774ねん1がつ7にち) - よしみひさし5ねん11月21にち1852ねん12月31にち))は、江戸えど時代じだい後期こうき加賀かが商人しょうにん海運かいうん業者ぎょうしゃ金沢かなざわはん御用ごよう商人しょうにんつとめた。姓名せいめいりゃくから「ぜに」ともばれる。幼名ようみょう茂助もすけ。「兵衛ひょうえ」はぜに代々だいだい当主とうしゅ襲名しゅうめいする通称つうしょうだが、このこうではもっと著名ちょめい最後さいご当主とうしゅさん代目だいめ)について説明せつめいする。

略歴りゃくれき

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周延しゅうえん教導きょうどう立志りっしもと ちかこ」(1886ねん)。ぜに兵衛ひょうえ孫娘まごむすめちかこは、みつ貿易ぼうえきつみ獄中ごくちゅうにあった兵衛ひょうえ無罪むざい放免ほうめんねがってかわげたという説話せつわをもとにえがかれた浮世絵うきよえ。「教導きょうどう立志りっしもと」は教育きょういくよう日本にっぽん偉人いじん紹介しょうかいするシリーズ

ぜに戦国せんごく時代じだい滅亡めつぼうした朝倉あさくら末裔まつえい自称じしょうし、初代しょだい吉右衛門きちえもん金沢かなざわ移住いじゅうして以来いらい両替りょうがえしょうのほか醤油じょうゆ醸造じょうぞう古着ふるぎしょうなどを手広てびろいとなんだ家系かけいであった。ちち兵衛ひょうえ)が金沢かなざわ外港がいこうである宮腰みやこし本拠ほんきょ海運かいうんぎょうはじめたが、不振ふしんとなりいったん廃業はいぎょう兵衛ひょうえが39さいとき質流しちながれのふね調達ちょうたつして海運かいうんぎょう再開さいかいした(文化ぶんか8ねん1811ねんごろ))。

宮腰みやこし現在げんざい金石かねいし)は当時とうじ隆盛りゅうせいした北前きたまえせん航路こうろ重要じゅうよう中継ちゅうけいみなとであり、べい売買ばいばい中心ちゅうしんあきないをひろげ、最盛さいせいにはせん石積いしつみのせんを20そう以上いじょうぜん所有しょゆう船舶せんぱく200そう所有しょゆうし、全国ぜんこくに34店舗てんぽ支店してんかまえる豪商ごうしょうとなった。ライバル商人しょうにんとの商戦しょうせんや、ふね難破なんぱなどの苦難くなん各地かくちでの商売しょうばい様子ようすなど、兵衛ひょうえ商業しょうぎょう記録きろくかれ手記しゅき年々ねんねんとめ』に詳細しょうさいしるされている。また、各地かくち用地ようち買収ばいしゅうして新田にった開発かいはつ事業じぎょうや、支店してん開設かいせつするなど業種ぎょうしゅ商業しょうぎょうけんひろげ、将来しょうらい経済けいざいかい変動へんどうそなえたリスクヘッジもおこなっていた。

またぜには、外国がいこくとのみつ貿易ぼうえきおこなっていたということでも有名ゆうめいである。もちろん当時とうじ鎖国さこく体制たいせい外国がいこくとの交易こうえき厳禁げんきんされていたが、金沢かなざわはんへの献上けんじょうきんへの見返みかえりとして黙認もくにんされていたとわれる。ぜに本多ほんだ利明としあき経済けいざいろんや、からくりとしてられた大野おおのべんきちなどに影響えいきょうけていたとわれ、海外かいがい交易こうえき必要ひつようせい痛感つうかんしていた。蝦夷えぞ樺太からふとではアイヌつうじてやま交易こうえきを(礼文島れぶんとうには「ぜに兵衛ひょうえ貿易ぼうえき」のいしぶみてられている)、国後くなしり場所ばしょ択捉えとろふ場所ばしょぞくした択捉島えとろふとう近海きんかいではロシア抜荷ぬけに取引とりひきし、またみずか香港ほんこんアモイまで出向でむいたり、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく商人しょうにんとも交易こうえきしたといい、オーストラリアタスマニアしまには領地りょうちっていたともいう(同地どうちにはぜに石碑せきひがあったという。現在げんざい紛失ふんしつ[1]伝説でんせつすらある。これらの「ぜに伝説でんせつ」のなかには信憑しんぴょうせい疑問ぎもんがあるものもすくなくないが、ある程度ていどまでは事実じじつであったとおもわれる。地元じもと金沢かなざわでは、金沢かなざわはん勝手かってかた御用ごようかけとして藩政はんせい実務じつむのトップにあった奥村おくむらさかえむすび、御用ごようぎん調達ちょうたつ任務にんむにあたるとともに、はんせん裁許さいきょすなわちはん所有しょゆうする商船しょうせん管理人かんりにんとなって、商売しょうばいおこな巨利きょりたという。しかし奥村おくむらがやがて死亡しぼうし、対立たいりつする改革かいかくくろ羽織はおりとうはん実権じっけんにぎると、兵衛ひょうえ立場たちば微妙びみょうとなる。兵衛ひょうえ河北潟かほくがた(かほくがた)の干拓かんたく開発かいはつ工事こうじうが、労働ろうどうしゃとしてやとった地域ちいき住民じゅうみん賃金ちんぎんのことなどでめたあげく、地域ちいき住民じゅうみん全員ぜんいん解雇かいこし、能登のとこく宝達ほうだつしゃげんたからいたる志水しみずまち在住ざいじゅうしゃ)を労務者ろうむしゃとしてやとれた。しかしなん工事こうじうえ地域ちいき住民じゅうみん妨害ぼうがいなどにより工事こうじおくれ、兵衛ひょうえ自身じしんからだおとろえもあり、完成かんせいあせった。そこで兵衛ひょうえらと相談そうだんし、てに石灰せっかい使つかった。石灰せっかいべつどくではないが、んだ箇所かしょさかな窒息ちっそくすることがある。これをていた住民じゅうみんぜにどくながしたといたてた。周辺しゅうへん農民のうみん漁民ぎょみんからもう反発はんぱつけ、兵衛ひょうえようぞうら11めいとともに投獄とうごくされた。兵衛ひょうえうわさ否定ひていしたが、結局けっきょく獄死ごくしし(享年きょうねん80)、獄死ごくし6めい・はりつけ2めいえいろう2めいなど、ぜに財産ざいさん没収ぼっしゅう家名かめい断絶だんぜつとされた。三男さんなんはちろうはゴールドラッシュのうわさきつけて1847ねんころからひそかにアメリカにわたり、1851ねん帰国きこくしていたが、鎖国さこくやぶりのつみ磔刑たっけいしょしてしまった。また、嘆願たんがんによって放免ほうめんになった長男ちょうなん喜太郎きたろうは、たよるところもなくみなみ砺市きゅう城端じょうはた善徳寺ぜんとくじまいり、福野ふくの安居あんきょてらかう途中とちゅう自害じがいした。そのに、石碑せきひてられぜに冥福めいふくいのられている(みなみ砺市福光ふくみつぜにいしぶみがある)。江戸えど幕府ばくふ鎖国さこく政策せいさくあらため、開国かいこく転換てんかんする日米にちべい和親わしん条約じょうやく締結ていけつの、わずか2ねんまえのことであった。

民俗みんぞく学者がくしゃ宮本みやもと常一つねいち昭和しょうわ25ねん1950ねん)7がつ下旬げじゅん対馬つしま豆酘つつ(つつ)むら浅藻あざもむ、80をえるという梶田かじた富五郎とみごろうたずねてききとったものとして、以下いかはなし紹介しょうかいされている。かつて朝鮮人参ちょうせんにんじん仕入しいれるためのみつ貿易ぼうえきおこなわれていたが、その大将たいしょうぜに兵衛ひょうえであった。加賀かがぜにぜに加賀かがかといわれるほどの加賀かが一番いちばん大金持おおがねもちで、またおおきな廻船かいせん問屋とんやであった。対馬つしままでは日本にっぽん服装ふくそうでやってきたが、対馬つしまぎると朝鮮ちょうせん服装ふくそう変装へんそうし、朝鮮ちょうせんじんになりすまして朝鮮ちょうせんへわたった。これをまねるものが当時とうじすうれぬほどおおく、対馬つしま役人やくにんをかすめては朝鮮ちょうせんったという。

墓所はかしょ金沢かなざわちょういさおてらほんりゅうてら野田山のだやま墓地ぼちにある。

評価ひょうか

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死後しご兵衛ひょうえ海外かいがいとのみつ貿易ぼうえきおこなって巨利きょりたということで、悪徳あくとく商人しょうにん典型てんけいとされ酷評こくひょうされたが、明治維新めいじいしんこうはむしろ、鎖国さこく体制たいせい海外かいがい交易こうえきこころみた先駆せんくしゃとして評価ひょうかたかまった。ぜに挫折ざせつした河北潟かほくがた干拓かんたく昭和しょうわ28ねん1953ねん)から国営こくえい事業じぎょうとしておこなわれ、昭和しょうわ60ねん1985ねん)に完成かんせいした。なお現在げんざい石川いしかわけん金沢かなざわぜに旧宅きゅうたく一部いちぶは「ぜにかん」として公開こうかいされており、隣接りんせつして「ぜに兵衛ひょうえ記念きねんかん」が併設へいせつされている。

ぜに兵衛ひょうえ題材だいざいとした作品さくひん

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うえ ISBN 4-313-75031-2した ISBN 4-313-75032-0
うえ ISBN 4-103-76103-2ISBN 4-101-10020-9ISBN 4-313-75199-8した ISBN 4-103-76104-0ISBN 4-101-10021-7ISBN 4-313-75200-5

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ このはなし概要がいようつぎのとおり。明治めいじ24ねんすうねんまえ豪州ごうしゅうった日本にっぽん軽業師かるわざしが、タスマニアで5、6碑石ひせきつけた。こけをはがして確認かくにんすると「かしうぜにやごへいりようち」(加州かしゅうぜに兵衛ひょうえ領地りょうち)の文字もじあらわれ、人々ひとびとおどろいた。しかしそのはなし現地げんち英国えいこくじんつたわり、碑石ひせき英国えいこくじんただちに撤去てっきょされた。それら碑石ひせき所在しょざいした場所ばしょ土地とち境界きょうかいであれば、ぜに兵衛ひょうえ領地りょうちはタスマニアの13およぶと推定すいていされる(梅原うめはら忠蔵ちゅうぞう へん帝国ていこく実業じつぎょう立志りっしへん』347ぺーじ以下いかあかり24,図書としょ出版しゅっぱん会社かいしゃ))。このはなしについて、そのころタスマニアにわたった日本にっぽん軽業師かるわざし存在そんざい自体じたいうたがわしいとされることもあったが、ノンフィクション作家さっか遠藤えんどう雅子まさこ調査ちょうさにより、タスマニアの地元じもと・「マーキュリー(en:The Mercury (Hobart))」の明治めいじ20ねん(1887ねん)1がつ13にち~18にちづけ紙面しめんおよび「ローンセストン・イグザミナー(en:Launceston Examiner)」の同年どうねん1がつ12にちづけ紙面しめんに、日本人にっぽんじん興行こうぎょうだん「ジャパニーズ・ビレッジ」のいちぎょうのタスマニア訪問ほうもんについてかれた記事きじ存在そんざいすることが確認かくにんされた(遠藤えんどう雅子まさこまぼろし石碑せきひ』113-115ぺーじ,214-215ぺーじ(1993,サイマル出版しゅっぱんかい))。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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  1. ^ 齋藤さいとうけんかせぐにいつく貧乏びんぼうなし : 浅野あさの総一郎そういちろう浅野あさの財閥ざいばつ東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ、1998ねん、9ぺーじISBN 4492061061NCID BA38856030