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やま交易こうえき

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やま交易こうえき(さんたんこうえき)とは、江戸えど時代じだいやまひとやまだんやま靼ともく。おもウリチぞく大陸たいりくニヴフなど黒竜江こくりゅうこうめい:アムールがわ下流かりゅう民族みんぞく)と樺太からふとアイヌあいだおこなわれた交易こうえきのこと。アイヌが交易こうえき入手にゅうしゅしたやまにしきなどは、北海道ほっかいどうアイヌつうじて松前まさきはんにも流入りゅうにゅうした[1]

やまじんとは

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やま(さんたん)のかたりは、当初とうしょアジア大陸たいりく北部ほくぶから樺太からふと来航らいこうするひとびととかれらが居住きょじゅうする地域ちいき具体ぐたいてきには黒竜江こくりゅうこうしも流域りゅういき)をしていた。語源ごげんは、ニヴフのヤントというかたりにあるといわれる。それがアイヌのシャンタ、ないしサンタより日本にっぽんつたわってやまやま靼、やまだん)と表記ひょうきされるようになったという。このかたり日本にっぽん史料しりょう登場とうじょうするのは18世紀せいきであり、18世紀せいき後半こうはん普及ふきゅうしたが、それ以前いぜんはこの地方ちほうは「ひがし韃」と呼称こしょうされていた[2]文化ぶんか6ねん1809ねん)の間宮まみや林蔵りんぞう調査ちょうさにより、カザマーの村落そんらくからジャレーの村落そんらくにいたる地域ちいき居住きょじゅうしていることが判明はんめいした[2][注釈ちゅうしゃく 1]現在げんざいウリチ[注釈ちゅうしゃく 2](ウルチャ、もしくはオルチャ)はその末裔まつえいかんがえられる[注釈ちゅうしゃく 3]。なお「やま交易こうえき」という用語ようごは、1928ねん昭和しょうわ3ねん日本にっぽんにおける朝鮮ちょうせん研究けんきゅう開拓かいたくしゃである末松すえまつたもつによりはじめて使用しようされた[3]。ちなみに、やまじん地域ちいきやまこくともばれていた。

概要がいよう

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タマサイ(アイヌ女性じょせいネックレス)。やま交易こうえきとうガラスだま(アイヌだま)が使用しようされている。

やま交易こうえき以前いぜんは、平安へいあん時代じだい安倍あべ奥州おうしゅう藤原ふじわらじゅうさんみなと拠点きょてんとし水軍すいぐんようした鎌倉かまくら室町むろまち蝦夷えぞ管領かんりょう安東あんどうなど奥羽おうう豪族ごうぞくが、日本海にほんかいめんする大陸たいりく直接ちょくせつ取引とりひきした北方ほっぽう貿易ぼうえきおこなわれていた。

やま交易こうえきは、1680年代ねんだい当時とうじ松前まさきはん交易こうえきせん蝦夷えぞ最奥さいおう宗谷そうや現在げんざい北海道ほっかいどう宗谷そうや総合そうごう振興しんこうきょく)においてアイヌをかいしておこなわれていた。たかられき年間ねんかん1751ねん - 1763ねん)になると会所かいしょうん上屋うわや)のある樺太からふと南端なんたん集落しゅうらくしろぬし(しらぬし、ほんぐんこうじんむらしろぬし)に交易こうえきせん派遣はけんはじまり、寛政かんせい3ねん(1791ねん)より樺太からふと場所ばしょ開設かいせつされ交易こうえき宗谷そうやからしろぬし西にしトンナイおよび久春ひさはる古丹こたんうつった。

やまじんは、清朝せいちょうてんかわ上納じょうのうするわりに下賜かしされた官服かんぷく布地ぬのじわしはね青玉せいぎょくなどを持参じさんして蝦夷えぞ樺太からふと宗谷そうや来航らいこうした。

一方いっぽう、アイヌはりょう毛皮けがわや、会所かいしょうん上屋うわや)でおこなわれるオムシャなどで和人わじんよりもたらされたてつ製品せいひんべいさけひとしを、やまじん大陸たいりくからんだ品々しなじな交換こうかんした。また、18世紀せいきなかばからやま交易こうえき改革かいかくころまでは、きた樺太からふとちかくに一部いちぶ樺太からふとアイヌなかにはやま交易こうえきをするばかりではなく、まくはん体制たいせい役職やくしょくったまま間宮まみや海峡かいきょうえて黒竜江こくりゅうこう下流かりゅう(デレン)に渡航とこうし、直接ちょくせつ貿易ぼうえき朝貢ちょうこう交易こうえき)をおこなものもいた。

記録きろくのこるアイヌと和人わじん交易こうえきは、もともとは飛鳥あすか時代ときよ阿倍比羅夫あべのひらふ国家こっか出先でさき機関きかん政所まんどころ」や「こおりりょう」をいた後方こうほう羊蹄ぎしぎし(しりべし)」はじまり、中世ちゅうせい安東あんどう和人わじん蠣崎かきざきなどをて、松前まさきしろしたにおいてもおこなわれていた(城下じょうか交易こうえきせい)。慶長けいちょう8ねん1603ねん宗谷そうやかれた松前まさきはん役宅やくたく宗谷そうや樺太からふと管轄かんかつするようになり、そのしょうじょう場所ばしょ知行ちぎょうせいうつりどちらも宗谷そうや場所ばしょふくまれた。

やま交易こうえき改革かいかく

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文化ぶんか4ねん(1807ねん)に蝦夷えぞ江戸えど幕府ばくふ直轄ちょっかつりょうとなり、それまでのアイヌのやまじんたいする負債ふさい表面ひょうめん問題もんだいとなった。従来じゅうらい交易こうえきが、やまじん交易こうえきひんけて、翌年よくねんにそれに見合みあ毛皮けがわてる方式ほうしき採用さいようしており、累積るいせき債務さいむなどが要因よういんで、やまじん借金しゃっきんのかたに樺太からふとアイヌをやまじん居住きょじゅういき下人げにんとして使役しえきしたり、家財かざいうばるなど軋轢あつれきつよまっていたからである。これは当時とうじひがしアジア地域ちいきでは普通ふつうられた習慣しゅうかんだが、最上もがみ徳内とくないなどは、この負債ふさいはアイヌが松前まさきはんからのやま渡来とらいひん催促さいそく強要きょうようこたえるために、無理むり買物かいものをしたためだとも認識にんしきしていた[4]文化ぶんか6ねん(1809ねん)に松前まさき奉行ぶぎょう支配しはい下役したやく元締もとじめ松田まつだでん十郎じゅうろう負債ふさい調査ちょうさし、アイヌが自力じりき返済へんさい不能ふのう部分ぶぶん江戸えど幕府ばくふ肩代かたがわりするようりはからった[5][6]。これにより負債ふさい完済かんさいするが、その一方いっぽう交易こうえきしろぬし会所かいしょあつかいの直営ちょくえいとなり、アイヌは従来じゅうらいのような来航らいこうするやまじんとの直接ちょくせつ交易こうえききんじられた。同時どうじに、幕府ばくふ松前まさき奉行ぶぎょう)は、アイヌの大陸たいりく黒竜江こくりゅうこう流域りゅういき交易こうえきデレンへの渡航とこう貿易ぼうえき朝貢ちょうこう交易こうえき)もきんじた。

また、この改革かいかく以降いこうしろぬし会所かいしょおこなわれるやま交易こうえきは、やまじんにとって事実じじつじょう江戸えど幕府ばくふたいする朝貢ちょうこうとなった。

なお、間宮まみや林蔵りんぞうにより口述こうじゅつされ、村上むらかみ貞助さだすけによってふでろくされて文化ぶんか8ねん(1811ねん)に幕府ばくふ提出ていしゅつされた『ひがし地方ちほう紀行きこうちゅうまき(「デレン在留ざいりゅうちゅうごと」)には、黒竜江こくりゅうこう下流かりゅうのデレンの集落しゅうらく清朝せいちょうによってもうけられた「満州まんしゅうかり」におけるやま交易こうえき北方ほっぽうしょ民族みんぞく清朝せいちょう役人やくにん進貢しんこうするようすが詳細しょうさい解説かいせつぶんイラストレーションによって描写びょうしゃされている[7][8]

文政ぶんせい5ねん(1822ねん)、蝦夷えぞ松前まさきはんふくりょうし、安政あんせい元年がんねん(1855ねん)にまた幕府ばくふ直轄ちょっかつりょうとなっても交易こうえきがれた。間宮まみや海峡かいきょう対岸たいがんでは、1860ねん清国きよくにロシアとうむすんだ不平等ふびょうどう条約じょうやくのひとつ北京ぺきん条約じょうやくによりやまじん黒竜江こくりゅうこう下流かりゅう割譲かつじょうされロシアりょう沿海州えんかいしゅうとなるが、慶応けいおう3ねん(1867ねん)までやまじんしろぬし会所かいしょ来航らいこうした記録きろくがある。やま交易こうえき幕府ばくふ崩壊ほうかいまでつづいたが、1868ねん成立せいりつ明治めいじ政府せいふによって廃止はいしされた。現在げんざいも、黒竜江こくりゅうこう流域りゅういきにはアイヌの子孫しそん名乗なのものもいるが、事実じじつであれば、かれらはやまじんられたものたちのわす形見がたみであろう。

やまふく

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やまふく

やま交易こうえきられた中国ちゅうごく本土ほんどきよし物産ぶっさんは、ひがしまわ航路こうろ西にしまわ航路こうろつうじて江戸えど大坂おおさかなどにもはこばれ、珍重ちんちょうされた。そのなかでとく有名ゆうめいなのが「やまふく」ないし「蝦夷えぞにしき」としょうされる華麗かれい刺繍ししゅうほどこされたまんしゅうぞくふう清朝せいちょう官服かんぷくであった。これは、松前まさきはん藩主はんしゅから幕府ばくふ将軍しょうぐん献上けんじょうされたこともあった。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ カザマーより下流かりゅうにはスメレンクルえびす、ジャレーより上流じょうりゅうにはウルゲーとばれるひとびとがんでいた。
  2. ^ ウリチ現在げんざいおもハバロフスク地方ちほうウリチ地区ちく居住きょじゅうしている。
  3. ^ 使用しよう言語げんごは、池上いけがみりょう研究けんきゅうにより、アムール・ツングース一種いっしゅ今日きょうウリチちか言語げんごであったろうとかんがえられている。

参照さんしょう

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  1. ^ コトバンク
  2. ^ a b 佐々木ささき 松前まさきやま交易こうえき大陸たいりくとの経済けいざい文化ぶんか交流こうりゅうにおける松前まさきはん役割やくわりについて-」
  3. ^ 佐々木ささき 松前まさきやま交易こうえき大陸たいりくとの経済けいざい文化ぶんか交流こうりゅうにおける松前まさきはん役割やくわりについて-」はら出典しゅってんは(末松すえまつたもつ近世きんせいける北方ほっぽう問題もんだい進展しんてん至文しぶんどう國史こくし研究けんきゅう叢書そうしょ だい6へん〉、1928ねんdoi:10.11501/1224047NCID BN05996003全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:46088142https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1224047 
  4. ^ 菊池きくち『アイヌ民族みんぞく日本人にっぽんじん』(1994)p.162。はら出典しゅってん最上もがみ徳内とくないちょ蝦夷えぞ草紙ぞうし後編こうへん
  5. ^ 樺太からふとつめ松田まつだでん十郎じゅうろうやま交易こうえき改革かいかく 稚内わっかない
  6. ^ 池添いけぞえ博彦ひろひこきた蝦夷えぞ紀行きこうしょく文化ぶんかこう きたえびすだんについて帯広大谷短期大学おびひろおおたにたんきだいがく紀要きよう』 1995ねん 32かん p.33-48, doi:10.20682/oojc.32.0_33
  7. ^ 菊池きくち蝦夷えぞ探検たんけん開発かいはつ」(1993)pp.784-785
  8. ^ 西見にしみ 「『きたえびす分界ぶんかい餘話よわ』『ひがし地方ちほう紀行きこう解説かいせつ

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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