黒田くろだ重隆しげたか

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黒田くろだ 重隆しげたか
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん えいただし5ねん1508ねん
死没しぼつ えいろく7ねん2がつ6にち1564ねん3月18にち
えいろく7ねん8がつ17にち1564ねん10月2にち[1]
改名かいめい 重隆しげたかそうぼく[2]
戒名かいみょう 霊光れいこう院覚いんかくさとしせいさとるだい禅定ぜんじょうもん[1]
墓所はかしょ 黒田くろだ重隆しげたかびょう兵庫ひょうごけん姫路ひめじちゃく
妙興寺みょうこうじ岡山おかやまけん瀬戸内せとうち長船おさふねまち
荘厳寺しょうごんじ兵庫ひょうごけん西脇にしわき 黒田庄くろだしょうまち
しんこうてら兵庫ひょうごけん姫路ひめじ
官位かんい 下野しものまもる[2]したがえ[1]
主君しゅくん 赤松あかまつ政秀まさひで小寺こでら政隆まさたかぶんまわししょくせいしょく
氏族しぞく 黒田くろだ自称じしょう宇多うたはじめ
父母ちちはは ちち黒田くろだだかせい[3](または黒田くろだしげるはん[1]
兄弟きょうだい 安保あぼ和泉いずみもりしつ[4]重隆しげたか重行しげゆき[1]
つま まつほまれ禅尼ぜんにつま鹿しか
比延ひえつねはんむすめ[1]
しょくたかし(識隆)こうともきゅうゆめ井手いでとも松井まつい重孝しげたか[ちゅう 1]
異説いせつおさむたかし孝高よしたか[1]
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黒田くろだ 重隆しげたか(くろだ しげたか)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう小寺こでら家臣かしん

出自しゅつじぜん半生はんせい[編集へんしゅう]

黒田くろだ』『こうはじめ武鑑ぶかん』などによると、わかころ山陽さんよう地方ちほう随一ずいいち商業しょうぎょう都市としとして繁栄はんえいしていた備前びぜんこく福岡ふくおかげん岡山おかやまけん瀬戸内せとうち長船おさふねまち)に在住ざいじゅうしていたとつたわる。そのだいひさし5ねん1525ねん)に備前びぜんみだれると播磨はりまこくうつり、姫路ひめじこうみね神社じんじゃ神官しんかん井口いぐち太夫たゆう共謀きょうぼうして目薬めぐすりることでざいし、播磨はりま国人くにびとになったという。はじめ龍野たつのじょうおも赤松あかまつ政秀まさひでつかえたが、ほどなくちゃくじょうおも小寺こでらまさししょくあるじえ、しょくたかし重用じゅうようされて姫路城ひめじじょう城代しろだいとなったとされる。ただし実際じっさいは、重隆しげたか自身じしん小寺こでら家臣かしんとしての発給はっきゅう文書ぶんしょのこっているため、重隆しげたか自身じしん小寺こでら重臣じゅうしんとしてつかえていた。また『播磨はりまちゃくぐん』によると、しょくたかし小寺こでらまさししょく祖父そふ政隆まさたか養女ようじょめとって政隆まさたか養子ようしとなっていたとしている[ちゅう 2]

つまつま鹿しかで、えいろく2ねん9月22にち1559ねん11月1にち)にぼっしている。

小寺こでら武将ぶしょうとして[編集へんしゅう]

とおるろく4ねん1531ねん)の大物おおものくずでは赤松あかまつまさしゆうぐんしたがって出陣しゅつじん[4]当時とうじ小寺こでら当主とうしゅ政隆まさたかであるのりしょくだった。そのさい近江おうみはじめ佐々木ささき末裔まつえいである重隆しげたかは、坂東ばんどうたいら梶原かじはら末裔まつえいである播磨はりま高砂たかさごじょうおも梶原かじはらけいそく先陣せんじんあらそって一触即発いっしょくそくはつ状況じょうきょうになったと「赤松あかまつろく」はつたえている。これは源平げんぺい合戦かっせん時分じぶん宇治川うじがわたたかいで佐々木ささき高綱たかつな梶原かじはらけい先陣せんじんあらそいをしたものの再来さいらいとされているが、真偽しんぎ不明ふめい[ちゅう 3]

天文てんもん14ねん1545ねん)、のりしょくせいしょくだいになると、小寺こでら一門いちもん小寺こでらのりたかし小寺こでら家臣かしん八代やしろみちけいとも姫路城ひめじじょう経営けいえいにあたる。のち単独たんどく姫路ひめじ城主じょうしゅとなったというせつもあるが、弘治こうじ2ねん1556ねん)にしょくたかし姫路ひめじ城主じょうしゅになったというせつもあるため実際じっさい不明ふめい。いずれにせよしょくたかし家督かとくゆずったのちちゃく城下じょうか屋敷やしきもどり、えいろく7ねん1564ねん)に同地どうちくなった。享年きょうねん57。墓所はかしょ岡山おかやまけん瀬戸内せとうち長船おさふねまち妙興寺みょうこうじにある。近世きんせい大名だいみょうとなった筑前ちくぜん黒田くろだ実質じっしつじょういえである。

ちゃくじょう跡地あとちにある黒田くろだ重隆しげたか(左側ひだりがわ)と如水にょすいはは明石あかしはか

とおる2ねん(1802ねん)、福岡ふくおかはん10代藩主はんしゅ黒田くろだ斉清なりきよ治世ちせいちゅうに、福岡ふくおかはん姫路ひめじちゃく墓所はかしょあらたに造営ぞうえいしている(黒田くろだ廟所びょうしょ姫路ひめじ指定してい文化財ぶんかざい))。この廟所びょうしょにはまごこうだかははである明石あかし墓標ぼひょう重隆しげたかともまつられている。

また、福岡ふくおか光雲こううん神社じんじゃ摂社せっしゃけんばん神社じんじゃよんかみいちはしらとしてほうじられまつられている。[5]

異説いせつ[編集へんしゅう]

こうはじめ武鑑ぶかん』などの史料しりょうによるとちちこうせいしたがって先述せんじゅつ流浪るろうをしたとされるが、播磨はりまこく多可たかぐん黒田庄くろだしょうげん兵庫ひょうごけん西脇にしわき出身しゅっしんというせつもある[1]地元じもと寺院じいん播磨はりま黒田くろだかんする系図けいず黒田くろだしょくたかし黒田くろだ重隆しげたか位牌いはいもある。そのせつによると、黒田くろだ旧来きゅうらいわれる近江おうみ佐々木ささきすえではなく、赤松あかまつかれの土豪どごうとされており、黒田庄くろだしょうにあった黒田くろだじょうしゅ8代目だいめであったとされる。またの9代目だいめおさむたかしだい石原いしはら赤井あかいとの戦闘せんとう討死うちじにし、黒田くろだじょう落城らくじょうしていええたという。またおさむたかしおとうとこうたかしがおり、小寺こでらしょくたかし養子ようしとなって姫路城ひめじじょうぬしとなったとしている[ちゅう 4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 以上いじょう、『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』より[2]
  2. ^ なお政隆まさたかとおるろく2ねん1529ねん)、重隆しげたか12さいときぼっしている。
  3. ^ なお曾孫そうそんにあたる黒田くろだ長政ながまさ藤原ふじわらしょうしている史料しりょう存在そんざいするため、黒田くろだ自体じたい藤原ふじわら出自しゅつじであるともかんがえられている。
  4. ^ 通説つうせつではしょくたかし重隆しげたかこうたかし孝高よしたか)は重隆しげたかまごである。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h 荘厳寺しょうごんじほん黒田くろだりゃく系図けいず」より。西脇にしわき観光かんこう協会きょうかいのWEBサイトじょう翻刻ほんこくされたものが掲載けいさいされている[1]どう系図けいず信憑しんぴょうせいについては史料しりょうとの乖離かいりおおきいため、否定ひていする意見いけんもある。
  2. ^ a b c しんてい 寛政かんせい だいなな 1965, p. 201.
  3. ^ 一般いっぱん偽書ぎしょとされる『こうはじめ武鑑ぶかん』による。そのためこうせい存在そんざい自体じたい否定ひていする意見いけんもある。
  4. ^ a b 播磨はりまちゃくぐん』より。
  5. ^ 光雲こううん神社じんじゃ公式こうしきホームページ”. 光雲こううん神社じんじゃ. 2022ねん4がつ6にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]