1922ねんのメジャーリーグベースボール

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
1922ねん野球やきゅうから転送てんそう
1922ねん > 1922ねんのスポーツ > 1922ねんのメジャーリーグベースボール

以下いかは、メジャーリーグベースボール(MLB)における1922ねんのできごとをしるす。1922ねん4がつ12にち開幕かいまく10月8にちぜん日程にっていえ、ナショナルリーグニューヨーク・ジャイアンツが2ねん連続れんぞく10度目どめのリーグ優勝ゆうしょうアメリカンリーグニューヨーク・ヤンキースが、2ねん連続れんぞく2度目どめのリーグ優勝ゆうしょうであった。

ワールドシリーズは、2ねん連続れんぞくニューヨーク同士どうし対戦たいせんとなりジャイアンツがヤンキースを4しょう1けで2ねん連続れんぞくせいし、3度目どめのシリーズ制覇せいはとなった。

1921ねんのメジャーリーグベースボール - 1922ねんのメジャーリーグベースボール - 1923ねんのメジャーリーグベースボール

できごと[編集へんしゅう]

ナショナル・リーグは、ジャイアンツが前年ぜんねんレギュラーとなり盗塁とうるいおう獲得かくとくしたフランキー・フリッシュがこのとし打率だりつ.327で連続れんぞく3わりち、ほかにも前年ぜんねん本塁打ほんるいだおうジョージ・ケリー、ハイニー・グローら3わり2ふんだい選手せんしゅが4にんいて2レッズに7ゲームをつけて優勝ゆうしょうした。

アメリカン・リーグではヤンキースが優勝ゆうしょうしたが、前年ぜんねんあきにジャイアンツやヤンキースの選手せんしゅたちがだいリーグ選抜せんばつ世界せかい一周いっしゅう旅行りょこう招待しょうたいされていたがケネソー・ランディスコミッショナーがみとめない方針ほうしんめたときに、ベーブ・ルースが拒否きょひする姿勢しせいしめしたことからランディス・コミッショナーはルースらヤンキースの選手せんしゅ3にん1922ねんシーズンの最初さいしょの6週間しゅうかん出場しゅつじょう停止ていしとした。そして5がつ20日はつか処分しょぶんけたルースは、ヤンキースのキャプテンに就任しゅうにんするも、その5にちに、審判しんぱんどろげて退場たいじょう処分しょぶんけ、さらには観客かんきゃく乱闘らんとう事態じたいとなり、キャプテンは剥奪はくだつされた。このとしルースは110試合しあい出場しゅつじょうし、打率だりつ.315、35本塁打ほんるいだ、99打点だてん結果けっか無冠むかんわった。そのためこのとしにジョージ・シスラーとケン・ウィリアムズが打撃だげきタイトルを独占どくせんしたセントルイス・ブラウンズの追撃ついげきくるしめられ1ゲームでしのいだシーズンであった。

ワールドシリーズでは、ジャイアンツのジョン・マグロー監督かんとくのベーブ・ルース対策たいさく徹底てっていされて、ルースは17打数だすう2安打あんだ打点だてん1で本塁打ほんるいだ0にわり、完全かんぜんおさまれ、ヤンキースは1しょうてずにわった。

  • ジョージ・シスラー
    • セントルイス・ブラウンズのジョージ・シスラーはこのとしタイ・カッブはげしい首位しゅい打者だしゃあらそいをひろげ、打率だりつ.420、246安打あんだ、51盗塁とうるい記録きろくし、首位しゅい打者だしゃ盗塁とうるいおうくわえて、このとしからはじまったMVP最初さいしょかがやいた選手せんしゅとなった。また41試合しあい連続れんぞく安打あんだ記録きろく達成たっせいしており、これは1941ねんジョー・ディマジオが56試合しあい連続れんぞく安打あんだ達成たっせいするまで20世紀せいき近代きんだい野球やきゅう最高さいこう記録きろくであった。
  • ケン・ウイリアムズ
    • おなじセントルイス・ブラウンズのケン・ウィリアムズは、1918ねんからセントルイス・ブラウンズでジョージ・シスラーらとともにプレーし、この1922ねん打率だりつ.332(リーグ6)、39本塁打ほんるいだ(1)、155打点だてん(1)、37盗塁とうるい(2)を記録きろくし、メジャー史上しじょうはつの「30-30」を達成たっせいした。
  • ロジャース・ホーンスビー
    • ロジャース・ホーンスビー前年ぜんねんは154試合しあい出場しゅつじょうし、安打あんだすう得点とくてん二塁打にるいだ三塁打さんるいだ打点だてん126、打率だりつ.397、出塁しゅつるいりつ長打ちょうだりつでいずれもリーグトップで首位しゅい打者だしゃ打点だてんおうとなった(本塁打ほんるいだおうはジョージ・ケリーの23ほんでホーンスビーは21ほんであった)。そしてよく1922ねん打率だりつはついに4わりたっし.401、打点だてん150でそれまでの首位しゅい打者だしゃ打点だてんおうくわえてリーグ最多さいたの42本塁打ほんるいだはなったホーンスビーは、自身じしんはつ打撃だげき三冠王さんかんおうとなり、それだけでなく盗塁とうるいおうのぞいて主要しゅよう打撃だげき部門ぶもんのリーグ1をほぼ独占どくせんする成績せいせきおさめた。これは1909ねんのタイ・カッブに匹敵ひってきするとともに、本塁打ほんるいだ9ほん三冠王さんかんおうとなったカップにくらべてこのとし42ほんでしかも打率だりつが4わりたっした成績せいせき特筆とくひつすべきもので、1922ねんロジャース・ホーンスビー最初さいしょ打撃だげき三冠王さんかんおうであるとする見解けんかいもある。

ぶボールの時代じだい[編集へんしゅう]

このとしのアメリカンおよびナショナルのりょうリーグのそう本塁打ほんるいだすうは1055ほんになり、5ねんまえの1917ねんの339ほんからやく3ばいえた。これはアメリカンリーグは1920ねんから、ナショナルリーグは1921ねんからぶボールにえたことがおおきな理由りゆうだが、もうひとつは1920ねんからスピットボールなどが禁止きんしされたことももといんしているとわれている。

試合しあいちゅうのトレード[編集へんしゅう]

このとしのナショナルリーグで、シカゴ・カブスの本拠地ほんきょちリグレー・フィールドでシカゴ・カブスとセントルイス・カージナルスのダブルヘッダーがおこなわれ、だい1試合しあいわったのちに、カブスのマックス・フラック外野がいやしゅ監督かんとくばれた。そこで監督かんとくからカージナルスとの交渉こうしょうまり、フラック外野がいやしゅをカージナルスに移籍いせきすることがまったとつたえられた。相手あいてのカージナルスはクリフ・ヒースコート外野がいやしゅがフラックとの交換こうかんでカブスにることになった。フラックはそのままカージナルスのクラブハウスにき、ユニフォームをカブスからカージナルスのユニフォームに着替きがえ、ヒースコートもおなじようにカブスのユニフォームに着替きがえて、だい2試合しあいはそれぞれ相手あいてがわ選手せんしゅとしてダグアウトにあらわれて出場しゅつじょうし、観客かんきゃくせきのシカゴのファンはどっといた。ユニフォームに背番号せばんごうけるようになったのはこの7ねんの1929ねんだったので、ユニフォームの着替きがえが簡単かんたんにいけた時代じだいのトレードであった。

60ねんの1982ねんには、おなじリグレー・フィールドのデーゲームの試合しあいちゅう球団きゅうだん代表だいひょうから電話でんわでトレードをらされて、この選手せんしゅいそ飛行機ひこうきって2あいだ飛行ひこうにフィラデルフィアの相手あいてさきのチームにかい、ナイターの途中とちゅうからベンチにはいって出場しゅつじょうし、おなちが都市としで2つのゲームに出場しゅつじょうしたれいがある。しかもどちらの試合しあいもこの選手せんしゅ安打あんだ記録きろくしている。しかし愛用あいようのグラブはシカゴの球場きゅうじょうのロッカーにわすれていた。

最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょう(MVP)[編集へんしゅう]

そのとしのシーズンに活躍かつやくした選手せんしゅ表彰ひょうしょうする制度せいどは、過去かこに1911ねんからチャルマーズしょう(デトロイトの自動車じどうしゃ会社かいしゃ社長しゃちょうヒュー・チャルマーズにちなむ)がはじまり、該当がいとうしゃ選出せんしゅつはアメリカ野球やきゅう記者きしゃ協会きょうかい委託いたくされてすすめられたが、この制度せいどは1914ねんまででわずか4年間ねんかんわった。そのこの1922ねんにリーグ(連盟れんめい)がMVPの表彰ひょうしょうおこなかたちでスタートした。そして最初さいしょのこのとしはアメリカンリーグのセントルイス・ブラウンズジョージ・シスラー選手せんしゅがその最初さいしょ栄誉えいよになったが、ナショナルリーグは選出せんしゅつされなかった。このとしのナショナルリーグには打撃だげき部門ぶもん三冠王さんかんおうとなり、しかも4わり打率だりつだったセントルイス・カージナルスのロジャース・ホーンスビー がいたにもかかわらずであった。

これはこの制度せいどではかくチームから投票とうひょうけん代表だいひょう選手せんしゅ1めいめてぜんチームから選考せんこう投票とうひょうおこない、多数たすうひょう獲得かくとくしたもの選出せんしゅつされるかたちで、ひょう分散ぶんさんした場合ばあい該当がいとうしゃしになる場合ばあいがあり、しかも投票とうひょうけん代表だいひょう選手せんしゅかならずしもどういちリーグの選手せんしゅえら規定きていく、たとえばナショナルリーグのチームからの代表だいひょう選手せんしゅがアメリカンリーグの選手せんしゅ投票とうひょうすることもあったためにこった事態じたいであった。また当初とうしょ一度いちど受賞じゅしょうした選手せんしゅ翌年よくねんから対象たいしょうがいとなるため、かならずしもそのとしだい活躍かつやくした選手せんしゅえらばれるというものではなかった。このとしより5ねんの1927ねんのアメリカンリーグの最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅは60ほん本塁打ほんるいだったベーブ・ルースではなく、打点だてん175のルー・ゲーリッグにまったのは、このときはルースがすでに1923ねん受賞じゅしょうしたために1927ねんでは受賞じゅしょう対象たいしょうがいとされたためであった。ただしこのいちかぎりの規定きていはそのくなったために、最後さいごの1929ねんには、2度目どめ三冠王さんかんおうになった1925ねんすで受賞じゅしょうしていたロジャース・ホーンスビー(このときシカゴ・カブス在籍ざいせき)にひょうあつまり、ホーンスビーだけが表彰ひょうしょうされる事態じたいとなって、この選手せんしゅ選考せんこう投票とうひょうめる最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょう(MVP)は1929ねんかぎりで中止ちゅうしされた。

独占どくせん禁止きんしほう違反いはんおよ選手せんしゅ保留ほりゅうけんかんする最高裁さいこうさい判断はんだん[編集へんしゅう]

1914ねんにフェデラル・リーグとアメリカンリーグおよびナショナル・リーグとのあいだきた選手せんしゅきにかんするトラブルから、りょうリーグあいだ訴訟そしょう問題もんだい発展はってんした。そしてよく1915ねんにランディス判事はんじ裁定さいていりょうリーグとフェデラル・リーグとのあいだ係争けいそういちけん落着らくちゃくした。ほぼフェデラル・リーグがわ自壊じかいちかかたちではあったが、フェデラル・リーグのボルチモア・テラピンズのオーナーのネッド・ハンロンはメジャーリーグのオーナー、そしてかれらから多額たがく金額きんがくけて有利ゆうりけいらいをけたフェデラル・リーグのオーナー3めいたいして訴訟そしょうこし、それは独占どくせん禁止きんしほう違反いはんボルチモア・テラピンズ損害そんがいけたというもので90まんドルの損害そんがい賠償ばいしょうもとめるものであった。コロンビア地区ちく連邦れんぽう裁判所さいばんしょはネッド・ハンロンのうったえをみとめ、独占どくせん禁止きんしほうもとづいて賠償金ばいしょうきん8まんドルを支払しはらいをめいじた。このなか重要じゅうようなポイントであったのは選手せんしゅ保留ほりゅうけんかんしてで、ボルチモア・テラピンズがわ保留ほりゅう条項じょうこう選手せんしゅすのは不法ふほう行為こういであり、1890ねんの「シャーマンはんトラストほう」(独占どくせん禁止きんしほう)違反いはんであるとしたもので裁判所さいばんしょはこれをみとめたことになった。

そこでメジャーリーグがわがコロンビア地区ちく連邦れんぽう控訴こうそ裁判所さいばんしょ控訴こうそし、今度こんどはメジャーリーグがわ主張しゅちょうみとめられて、野球やきゅうはスポーツであって商業しょうぎょうではなく、独占どくせん禁止きんしほう対象たいしょうがいである判断はんだんしめした。そこでネッド・ハンロンは連邦れんぽう最高さいこう裁判所さいばんしょんだ。そして1922ねん5がつ29にちにアメリカ連邦れんぽう最高さいこう裁判所さいばんしょは、野球やきゅうはビジネスであっても「もっぱらしゅうおこなわれる行事ぎょうじ」であり、独占どくせん禁止きんしほう抵触ていしょくするしゅうぎわ通商つうしょうにはたらず、シャーマンほうやクレイトンほう対象たいしょうがいであると裁定さいていした。これでメジャーリーグの独占どくせん禁止きんしほう免除めんじょ確立かくりつされた。

この野球やきゅう適用てきよう除外じょがいはその50ねん以上いじょうつづくことになった。選手せんしゅのトレードにかんしての紛争ふんそうはこののちもたびたびこったが、つねにこの「1922ねん最高裁さいこうさい判断はんだん」が重要じゅうよう根拠こんきょとなった。のちにヤンキースのマイナー球団きゅうだんのジョージ・トゥールソン選手せんしゅ訴訟そしょうこし1953ねん最高裁さいこうさいまであらそわれ、またカージナルスのカート・フラッド選手せんしゅがトレード拒否きょひからこした訴訟そしょうも1972ねん最高裁さいこうさいまれ、いずれも「1922ねん最高裁さいこうさい判断はんだん」をもとに選手せんしゅがわうったえを却下きゃっかしている。

記録きろく[編集へんしゅう]

最終さいしゅう成績せいせき[編集へんしゅう]

レギュラーシーズン[編集へんしゅう]

アメリカンリーグ[編集へんしゅう]

じゅん チーム 勝利しょうり 敗戦はいせん 勝率しょうりつ G
1 ニューヨーク・ヤンキース 94 60 .610 --
2 セントルイス・ブラウンズ 93 61 .604 1.0
3 デトロイト・タイガース 79 75 .513 15.0
4 クリーブランド・インディアンス 78 76 .506 16.0
5 シカゴ・ホワイトソックス 77 77 .500 17.0
6 ワシントン・セネタース 69 85 .448 25.0
7 フィラデルフィア・アスレチックス 65 89 .422 29.0
8 ボストン・レッドソックス 61 93 .393 33.0

ナショナルリーグ[編集へんしゅう]

じゅん チーム 勝利しょうり 敗戦はいせん 勝率しょうりつ G
1 ニューヨーク・ジャイアンツ 93 61 .604 --
2 シンシナティ・レッズ 86 68 .558 7.0
3 ピッツバーグ・パイレーツ 85 69 .552 8.0
4 セントルイス・カージナルス 85 69 .552 8.0
5 シカゴ・カブス 80 74 .519 13.0
6 ブルックリン・ロビンス 76 78 .494 17.0
7 フィラデルフィア・フィリーズ 57 96 .373 35.5
8 ボストン・ブレーブス 53 100 .346 39.5

ワールドシリーズ[編集へんしゅう]

  • ジャイアンツ 4 - 1 - 0 ヤンキース
10/4 – ヤンキース 2 - 3 ジャイアンツ
10/5 – ジャイアンツ 3 - 3 ヤンキース (延長えんちょう10かい)
10/6 – ヤンキース 0 - 3 ジャイアンツ
10/7 – ジャイアンツ 4 - 3 ヤンキース
10/8 – ヤンキース 3 - 5 ジャイアンツ

個人こじんタイトル[編集へんしゅう]

アメリカンリーグ[編集へんしゅう]

打者だしゃ成績せいせき[編集へんしゅう]

項目こうもく 選手せんしゅ 記録きろく
打率だりつ ジョージ・シスラー (SLA) .420
本塁打ほんるいだ ケン・ウィリアムズ (SLA) 39
打点だてん ケン・ウィリアムズ (SLA) 155
得点とくてん ジョージ・シスラー (SLA) 134
安打あんだ ジョージ・シスラー (SLA) 246
盗塁とうるい ジョージ・シスラー (SLA) 51

投手とうしゅ成績せいせき[編集へんしゅう]

項目こうもく 選手せんしゅ 記録きろく
勝利しょうり エディ・ロンメル (PHA) 27
敗戦はいせん スリム・ハリス (PHA) 20
防御ぼうぎょりつ レッド・フェイバー (CWS) 2.81
だつ三振さんしん アーバン・ショッカー (SLA) 149
投球とうきゅうかい レッド・フェイバー (CWS) 352
セーブ サッドサム・ジョーンズ (NYY) 8

ナショナルリーグ[編集へんしゅう]

打者だしゃ成績せいせき[編集へんしゅう]

項目こうもく 選手せんしゅ 記録きろく
打率だりつ ロジャース・ホーンスビー (STL) .401
本塁打ほんるいだ ロジャース・ホーンスビー (STL) 42
打点だてん ロジャース・ホーンスビー (STL) 152
得点とくてん ロジャース・ホーンスビー (STL) 141
安打あんだ ロジャース・ホーンスビー (STL) 250
盗塁とうるい マックス・キャリー (PIT) 51

投手とうしゅ成績せいせき[編集へんしゅう]

項目こうもく 選手せんしゅ 記録きろく
勝利しょうり エッパ・リクシー (CIN) 25
敗戦はいせん ドルフ・ルケ (CIN) 23
防御ぼうぎょりつ フィル・ダグラス (NYG) 2.63
だつ三振さんしん ダジー・ヴァンス (BRO) 134
投球とうきゅうかい エッパ・リクシー (CIN) 313⅓
セーブ クラウド・ジョナルド (NYG) 5

表彰ひょうしょう[編集へんしゅう]

シーズンMVP

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  • 『アメリカ・プロ野球やきゅうだい4しょう 栄光えいこう日々ひびとその余韻よいん 109-110P参照さんしょう 鈴木すずきたけしじゅ ちょ 1971ねん9がつ発行はっこう  さんいち書房しょぼう
  • べいだいリーグ かがやける1世紀せいき~その歴史れきしとスター選手せんしゅ~』≪ジョージ・シスラー≫ 66P参照さんしょう 週刊しゅうかんベースボール 1978ねん6がつ25にち増刊ぞうかんごう ベースボールマガジンしゃ
  • べいだいリーグ かがやける1世紀せいき~その歴史れきしとスター選手せんしゅ~』≪1922ねん≫ 67P参照さんしょう 
  • べいだいリーグ かがやける1世紀せいき~その歴史れきしとスター選手せんしゅ~』≪ロジャース・ホーンスビー≫ 70P参照さんしょう
  • べいだいリーグ かがやける1世紀せいき~その歴史れきしとスター選手せんしゅ~』≪フランク・フリッシュ≫ 82P参照さんしょう
  • 『メジャーリーグ ワールドシリーズ伝説でんせつ』 1905-2000  上田うえだりゅう ちょ 92P参照さんしょう 2001ねん10がつ発行はっこう ベースボールマガジンしゃ
  • 実録じつろく メジャーリーグの法律ほうりつとビジネス』52-57P参照さんしょう ロジャー・I・エイブラムちょ 大坪おおつぼ正則まさのり 監訳かんやく 中尾なかおゆかり わけ  2006ねん4がつ発行はっこう 大修館書店たいしゅうかんしょてん
  • 『アメリカだいリーグ』ダブルヘッダーの試合しあい 53-54P参照さんしょう 伊東いとう一雄かずお ちょ 1978ねん5がつ発行はっこう サンケイ出版しゅっぱん
  • 野球やきゅう言葉ことばのスポーツ』さすらいじんたち 180P参照さんしょう 伊東いとう一雄かずお馬立うまたてかち ちょ  1991ねん4がつ発行はっこう 中公新書ちゅうこうしんしょ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]