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カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ

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Can-Amから転送てんそう
カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ
カテゴリ スポーツレーシング
くに地域ちいき カナダの旗 カナダ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ
開始かいしねん 1966ねん
終了しゅうりょうねん 1987ねん
1973ねんエドモントン・インターナショナル・スピードウェイでのレース

カナディアン-アメリカン・チャレンジカップCanadian-American Challenge Cup)、通称つうしょうカンナムCan-Am)は、かつてカナダアメリカおこなわれていたスポーツレーシングカーによるプロフェッショナルドライバーズ選手権せんしゅけん年間ねんかんシリーズである。

概要がいよう

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北米ほくべいスポーツレーシングカーの最高峰さいこうほうカテゴリとしてアメリカ・スポーツカークラブ (えい: Sport Car Club of America, SCCA) と カナダ自動車じどうしゃスポーツクラブ英語えいごばんえい: Canadian Automobile Sport Clubs, CASC)が共同きょうどう開催かいさいした選手権せんしゅけんシリーズである。1966ねんから1974ねんまでのだいいち(9年間ねんかん)と、1977ねんから1987ねんまでのだい(11年間ねんかん)にけられる。

参加さんか資格しかく車両しゃりょうだいいち国際こくさい自動車じどうしゃ連盟れんめい (ふつ: Fédération Internationale de l'Automobile, FIA) 既定きてい座席ざせきレーシングカーをロードスターに限定げんていしたSCCA独自どくじのスポーツレーシングとスポーツカーで、エンジン排気はいきりょうは2.5リットル (L) 以上いじょうであったが、だいからはフォーミュラ5000をフェンダー一体いったいのボディカウルに転換てんかんした車両しゃりょう (FIA規定きていではフォーミュラ・リブレ分類ぶんるいされる) が許容きょようされ、エンジン排気はいきりょうは5.0 L以下いかとなった。さらに1984ねんにはFIAしん規定きていグループCもとにしたカンナム・クーペが許容きょようされ、エンジン排気はいきりょうは6.0 L以下いかとなった。

200マイル(322キロメートル)前後ぜんこうのレース距離きょりをドライバー1めい走破そうはする。北米ほくべい各地かくちのサーキットロードを転戦てんせんし、年間ねんかん獲得かくとくポイント合計ごうけいにより年間ねんかん順位じゅんい決定けっていしていた。

だいいちのエンジン排気はいきりょう下限かげんこそあれ上限じょうげんなしというルールが象徴しょうちょうするように技術ぎじゅつめん自由じゆうたかく、だい排気はいきりょうマシンの豪快ごうかいなレース展開てんかい人気にんきあつめた。北米ほくべい独自どくじのシリーズながら、最盛さいせいにはF1スポーツカー世界せかい選手権せんしゅけん比較ひかくされるほど注目ちゅうもくされた。ヨーロッパの有力ゆうりょくコンストラクターが北米ほくべいでのシェア拡大かくだい目指めざして参戦さんせんし、「賞金しょうきん総額そうがく世界一せかいいち」をうた報酬ほうしゅうにひかれて一流いちりゅうドライバーも数多かずおお出場しゅつじょうした。

歴史れきし

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だい1

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1963ねんから1964ねんにかけてアメリカ・スポーツカークラブ (Sport Car Club of America, SCCA) はアマチュアの全米ぜんべい選手権せんしゅけんスポーツカーシリーズからプロフェッショナルの合衆国がっしゅうこくロードレース選手権せんしゅけんへシリーズせん移行いこうすすめていた。そして1966ねんから国際こくさい自動車じどうしゃ連盟れんめいがSCCAの改造かいぞう部門ぶもんスポーツカーを座席ざせきレーシングカーとして国際こくさい規定きていすることをうけ、その前年ぜんねんの1965ねんにオートウィーク選手権せんしゅけん[1]をカナダ自動車じどうしゃスポーツクラブと共同きょうどうぜん6せん開催かいさいした[2]。これが先行せんこう興行こうぎょうとなり、よく1966ねんから本格ほんかくてき開始かいししたプロフェッショナル国際こくさい選手権せんしゅけんがカナディアンアメリカン・チャレンジカップである。初期しょき世界せかいてきなモータースポーツシーズンの終盤しゅうばんにあたる9がつから11がつにかけて年間ねんかん6せんのスケジュールでおこなわれたが、1969ねんからは合衆国がっしゅうこくロードレース選手権せんしゅけん廃止はいししてその興行こうぎょう日程にっていむことで6がつから10がつにかけて10せん前後ぜんこうおこなわれるようになった。

ドライバーはジャッキー・スチュワートジャック・ブラバムグラハム・ヒルフィル・ヒルジョン・サーティースデニス・ハルムといったF1チャンピオン経験けいけんしゃ参戦さんせんし、ダン・ガーニーマリオ・アンドレッティパーネリ・ジョーンズマーク・ダナヒューピーター・レブソン地元じもとぜいきそった。

おもなコンストラクターはヨーロッパぜいローラマクラーレンポルシェや、アメリカのシャパラルシャドウなど。このほかフェラーリBRMマーチ小規模しょうきぼながら参戦さんせんした。自製じせいエンジン搭載とうさいしゃ以外いがいシボレーフォード量産りょうさん乗用車じょうようしゃようVがた8気筒きとうエンジンを改造かいぞうして使用しようする事例じれいおおかった。

マクラーレン黄金おうごん

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マクラーレンM8D

1966ねん開幕かいまくシーズン英語えいごばん接戦せっせんすえローラるジョン・サーティースが初代しょだいチャンピオンとなったが、翌年よくねんから1971ねんにかけてはマクラーレンいきおい独擅場どくせんじょうとなった。ブルース・マクラーレンとデニス・ハルムはオレンジイエローしょくワークスマシンで独走どくそうげきかさね、「ブルース・アンド・デニー・ショー」とばれた(1969ねんシーズンは2人ふたりで11せん全勝ぜんしょう)。また、プライベーターへのマシン供給きょうきゅうにより出走しゅっそう台数だいすう半数はんすう以上いじょうをマクラーレンぜいめ、コンストラクターとして23連勝れんしょうという記録きろくのこした。チームオーナーけんドライバーのブルース・マクラーレンが1970ねんのテストちゅう事故死じこしするという不運ふうん見舞みまわれたが、F1での成功せいこう先駆さきがけて名門めいもんチームとしての地位ちいかためることになった。

ファン・カー、シャパラル2J

また、石油せきゆおうジム・ホールひきいるシャパラル独創どくそうてきなマシン設計せっけいによりカンナム人気にんきのシンボルとなった。優勝ゆうしょうこそ1のみだったが、セミオートマチックトランスミッション、ハイマウント・可動かどうしきリアウイング(ペダルで調節ちょうせつ可能かのう)、サッカー・カー(ファン・カー、グラウンドエフェクトの)などの斬新ざんしん技術ぎじゅつはF1などのカテゴリのマシンにもおおきな影響えいきょうあたえた[3]

シャパラルのほかにもオートコーストのチタニウムせいシャーシ[4]や、マックス・イット・スペシャルのスノーモービルもちい2気筒きとうエンジンを4搭載とうさいしたよんりん駆動くどうしゃといった実験じっけんてきなアイデアもみられた。

ポルシェの挑戦ちょうせん

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ポルシェ917-30

1972ねんメイクス世界せかい選手権せんしゅけん前年ぜんねんまでのメイクス国際こくさい選手権せんしゅけん)の規定きてい変更へんこうをうけ、耐久たいきゅうレースのゆうポルシェがカンナムに本格ほんかく参戦さんせんする(ワークスの運営うんえいペンスキー・レーシング代行だいこう)。シボレーせいVがた8気筒きとうエンジンぜい(7.0から8.5 L、600馬力ばりき (PS) から900 PS)にたいして、ターボチャージャー装着そうちゃくした5 L水平すいへい対向たいこう12気筒きとうエンジンは公称こうしょう1,100 PSのパワーを発揮はっきした(のちに5.4 Lに拡大かくだいし、ピークは1,580 PSにもたっするとわれた)。ポルシェぜいがこのシーズンを席巻せっけんし、マクラーレンはワークス活動かつどう休止きゅうしいやられた。よく1973ねんもポルシェの圧勝あっしょうつづいたが、燃費ねんぴ規制きせい導入どうにゅうされることで意欲いよくうしない、ワークス活動かつどうから撤退てったいすることになる。

マクラーレンとポルシェがった1974ねんシャドウジャッキー・オリバー(のちのアロウズ代表だいひょう)がせいした。しかしオイルショック余波よは年間ねんかん5せんしかおこなわれず、1975ねんはシリーズ自体じたい休止きゅうしいこまれた。

だい2

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2年間ねんかんのブランクののち、1977ねんよりエンジン排気はいきりょうを5.0 L以下いかとし、たん座席ざせきしゃ許容きょようされてシリーズが再開さいかいされた。単座たんざせきしゃはローラやダラーラ旧式きゅうしきF5000ようシャーシをフルカウルに改造かいぞうしたものである。あわせてF2のシャシを流用りゅうようしたスポーツ2000(エンジン排気はいきりょう2.0 L以下いか)も併設へいせつされた。

その11シーズン開催かいさいされ、1984ねんからはエンジン排気はいきりょうを6.0 L以下いか変更へんこうし、国際こくさい規定きてい発効はっこうから3ねんとなるグループCもとにしたカンナム・クーペもれたが、だいいちほどの人気にんきあつめられなかった。そして1981ねんから国際こくさいモータースポーツ協会きょうかい (International Motor Sports Association, IMSA) のGTシリーズにグランドツーリング・プロトタイプのクラスがくわわったことで、観衆かんしゅう北米ほくべいノンオープンホイールレースへの関心かんしんもそちらにうつっていき、カンナムは1987ねん最後さいご以降いこう開催かいさいされなくなった。

日本にっぽんとカンナム

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トヨタ7ターボ

1960年代ねんだいまつ日本にっぽん国内こくないのスポーツカーレースではトヨタ日産にっさん開発かいはつ競争きょうそう過熱かねつしていた[5]りょう陣営じんえいはスポーツカー世界せかい選手権せんしゅけん進出しんしゅつ視野しやれていたが、エンジンのだい排気はいきりょうにともない座席ざせきレーシングカー規定きていのカンナムシリーズ参戦さんせん計画けいかく浮上ふじょうする。

1968ねん1969ねんにはNAC(日本にっぽんオートクラブ)主催しゅさいにより、富士ふじスピードウェイ選手権せんしゅけんの「ワールドチャレンジカップ・富士ふじ200マイル」(通称つうしょう日本にっぽんCan-Am)が開催かいさいされた。本場ほんばカンナムシリーズのマシン・ドライバーが来日らいにちし、サーキットを通常つうじょうとはぎゃくはん時計とけいまわりで走行そうこうした。1968ねんはマクラーレンM6Bにピーター・レブソン優勝ゆうしょう日本にっぽんぜいトヨタ7(3.0 L)の福沢ふくさわ幸雄ゆきおの4(7しゅうおくれ)が最高さいこうだったが、よく1969ねんのレースではトヨタ7(5.0 L)に川合かわいみのる優勝ゆうしょうした。

トヨタは1970ねん日本にっぽんグランプリ中止ちゅうしもカンナムシリーズ挑戦ちょうせん目指めざしてトヨタ7ターボを開発かいはつした。富士ふじ1000キロメートルでデモ走行そうこうおこな参戦さんせん発表はっぴょう寸前すんぜんとなったが、同年どうねん8がつ川合かわいがテストちゅう事故死じこししたため計画けいかくまぼろしわった。このマシンは長年ながねん非公開ひこうかいとされたが、近年きんねんふたたびイベントなどで一般いっぱん公開こうかいされている。また、ライバルの日産にっさんR383開発かいはつしたが、同様どうよう参戦さんせんをとりやめたといわれる[6]

日本人にっぽんじんドライバーではふなひろしがスポット参戦さんせん風戸かざとひろしは1971ねん本格ほんかく参戦さんせんし、年間ねんかんランキング10成績せいせきおさめた。

歴代れきだいチャンピオン

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シーズン ドライバー チーム マシン
1966ねん ジョン・サーティース チーム・サーティース ローラ・T70英語えいごばんシボレー
1967ねん ブルース・マクラーレン ブルース・マクラーレン・モーターレーシング マクラーレン・M6A英語えいごばん・シボレー
1968ねん デニス・ハルム ブルース・マクラーレン・モーターレーシング マクラーレン・M8A英語えいごばん・シボレー
1969ねん ブルース・マクラーレン ブルース・マクラーレン・モーターレーシング マクラーレン・M8B・シボレー
1970ねん デニス・ハルム ブルース・マクラーレン・モーターレーシング マクラーレン・M8D・シボレー
1971ねん ピーター・レブソン ブルース・マクラーレン・モーターレーシング マクラーレン・M8F・シボレー
1972ねん ジョージ・フォルマー ペンスキー・レーシング ポルシェ・917/10
1973ねん マーク・ダナヒュー ペンスキー・レーシング ポルシェ・917/30KL
1974ねん ジャッキー・オリバー シャドウ・レーシング・カーズ シャドウ・DN4A英語えいごばん・シボレー
1975 - 1976ねん 中断ちゅうだん
1977ねん パトリック・タンベイ ハース・ホール・レーシング ローラ・T333CS英語えいごばん・シボレー
1978ねん アラン・ジョーンズ ハース・ホール・レーシング ローラ・T333CS・シボレー
1979ねん ジャッキー・イクス カール・ハース・レーシング ローラ・T333CS・シボレー
1980ねん パトリック・タンベイ カール・ハース・レーシング ローラ・T530英語えいごばん・シボレー
1981ねん ジェフ・ブラバム チームVDS ローラ・T530・シボレー / VDS・001英語えいごばん・シボレー
1982ねん アル・アンサーJr. ギャレス・レーシング フリスビー・GR3英語えいごばん・シボレー
1983ねん ジャック・ヴィルヌーヴSr. カナディアン・タイヤ フリスビー・GR3・シボレー
1984ねん マイケル・ロー ドン・ウォーカー VDS・002英語えいごばん・シボレー / VDS・004英語えいごばん・シボレー
1985ねん リック・ミアスキーヴィッツ英語えいごばん モスキート・オートスポート フリスビー・GR3・シボレー
1986ねん ホルスト・クロール クロール・レーシング フリスビー・KR3英語えいごばん・シボレー
1987ねん ビル・テンペロ英語えいごばん テキサス・アメリカン・レーシングチーム マーチ・85C英語えいごばん・シボレー

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 自動車じどうしゃ雑誌ざっしAutoweekの出版しゅっぱんしゃかんむりスポンサーとなって実現じつげん
  2. ^ George Levy, CAN-AM 60th Anniversary: Flat Out with North America's Greatest Race Series 1966-74, Minneapolis: Quarto Publishing Group USA, 2016, p. 27.
  3. ^ F1においてハイマウントウイングは1968ねんだい流行りゅうこうし、フロント・リア2本立ほんだしき登場とうじょうする。ファン・カーは1978ねんブラバム模倣もほうしてデビューせん優勝ゆうしょうした。ただしFIAはこれらの装置そうち使用しよう禁止きんしとした。
  4. ^ チタンの元素げんそ記号きごう原子げんし番号ばんごうにちなんでマシンめいは「Ti22」。
  5. ^ このあらそいにプライベーターのタキ・レーシングくわわり「TNT戦争せんそう」とばれた。
  6. ^ 日本にっぽん自動車じどうしゃ年表ねんぴょう』 グランプリ出版しゅっぱん 2006ねん ISBN 4876872864

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 日本にっぽんめいレース100せん 005 '68日本にっぽんCan-Am』 イデア 2006ねん ISBN 4779600111
  • Racing On 2008ねん6がつごう 特集とくしゅう:Can-Am」 イデア 2008ねん
  • George Levy, CAN-AM 60th Anniversary: Flat Out with North America's Greatest Race Series 1966-74, Minneapolis: Quarto Publishing Group USA, 2016
  • The Sports Car Club of America, General Competition Rules 1965 edition, Westport, Connecticut: Sports Car Club of America, 1965
  • The Sports Car Club of America, General Competition Rules 1982 edition, Englewood, Colorado: Sports Car Club of America, 1982
  • The Sports Car Club of America, SCCA Professional Racing 1984 regulations, Englewood, Colorado: Sports Car Club of America, 1984

関連かんれん項目こうもく

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