H・L・ハンリー
H・L・ハンリーの絵 え 。ジョージ・S・クックが1863年 ねん に撮影 さつえい した写真 しゃしん をもとに描 えが かれた
基本 きほん 情報 じょうほう 建造 けんぞう 所 しょ
ホレス・L・ハンリー 運用 うんよう 者 しゃ
アメリカ連合 れんごう 国 こく 海軍 かいぐん 艦 かん 歴 れき 起工 きこう
1863年 ねん 初期 しょき 進水 しんすい
1863年 ねん 7月 がつ 就役 しゅうえき
1864年 ねん 2月 がつ 17日 にち 最期 さいご
1864年 ねん 2月 がつ 17日 にち 沈没 ちんぼつ 現況 げんきょう
2000年 ねん に引揚 ひきあ げ、調査 ちょうさ 後 ご 保存 ほぞん 要目 ようもく 排水 はいすい 量 りょう
7.5米 めーとる トン(6.8 メトリックトン ) 長 なが さ
39.5フィート(12.0 m) 幅 はば
3.83フィート(1.17 m) 推進 すいしん
手回 てまわ しプロペラ 速力 そくりょく
4ノット(7.4 km/h)(海上 かいじょう ) 乗員 じょういん
士官 しかん 1名 めい 、兵士 へいし 7名 めい 兵 へい 装 そう
外装 がいそう 水雷 すいらい 1基 き テンプレートを表示 ひょうじ
H・L・ハンリー (英 えい : H. L. Hunley 、以下 いか 、単 たん にハンリーと表記 ひょうき )は、アメリカ連合 れんごう 国 こく の潜水 せんすい 艦 かん である。
南北戦争 なんぼくせんそう において実戦 じっせん 投入 とうにゅう され、北 きた 軍 ぐん (アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく )のスループ艦 かん 1隻 せき を撃沈 げきちん したが、帰投 きとう することなく沈没 ちんぼつ した。「史上 しじょう 初 はじ めて敵艦 てきかん を撃沈 げきちん した潜水 せんすい 艦 かん 」であり、戦争 せんそう で果 は たした役割 やくわり こそ小 ちい さかったものの、海戦 かいせん の歴史 れきし においては多大 ただい な役割 やくわり を果 は たした艦 かん である。
ハンリーは敵艦 てきかん 船 せん を沈没 ちんぼつ させた最初 さいしょ の戦闘 せんとう 用 よう 潜水 せんすい 艦 かん となった。しかし一方 いっぽう で完全 かんぜん に潜水 せんすい できずに沈没 ちんぼつ 、または攻撃 こうげき 成功 せいこう 後 ご に自身 じしん も沈没 ちんぼつ してしまった。その短 みじか い就役 しゅうえき 期間 きかん の間 あいだ に3度 ど 沈没 ちんぼつ し、合計 ごうけい 21人 にん の乗組 のりくみ 員 いん が死亡 しぼう 。海面 かいめん 下 か での戦闘 せんとう のメリットとデメリットを示 しめ した潜水 せんすい 艦 かん である。
艇 てい 長 ちょう 40フィート(12.0 m)弱 じゃく 、アラバマ州 しゅう モービル で建造 けんぞう され、1863年 ねん 7月 がつ に進水 しんすい した。その後 ご 、鉄道 てつどう で8月 がつ 13日 にち にサウスカロライナ州 しゅう チャールストン に運 はこ ばれ、南 みなみ 軍 ぐん (アメリカ連合 れんごう 国軍 こくぐん )管理 かんり 下 か に入 はい り、そして就役 しゅうえき 直後 ちょくご に既 すで に死去 しきょ していた設計 せっけい 者 しゃ ホレス・ローソン・ハンリー (英語 えいご 版 ばん ) にちなみ「H・L・ハンリー」と名付 なづ けられた。
設計 せっけい 者 しゃ のホレス自身 じしん の3隻 せき 目 め の設計 せっけい 艦 かん であったと同時 どうじ に、その建 けん 艦 かん 資金 しきん は民間 みんかん 人 じん だったホレスの自費 じひ で賄 まかな われており、目的 もくてき は南 みなみ 軍 ぐん が北 きた 軍 ぐん の軍艦 ぐんかん 撃沈 げきちん に賭 か けた報奨 ほうしょう 金 きん 目当 めあ てだった。建 けん 艦 かん 後 ご 、1863年 ねん 7月 がつ 31日 にち に攻撃 こうげき 力 りょく のデモンストレーションとして古 ふる い「はしけ」を撃沈 げきちん することに成功 せいこう している。その後 ご チャールストンで南 みなみ 軍 ぐん の将軍 しょうぐん だったボーリガード将軍 しょうぐん に展示 てんじ され、南 みなみ 軍 ぐん の管理 かんり 化 か に入 はい った。
乗員 じょういん は8名 めい だが、実戦 じっせん で使用 しよう される前 まえ に3度 ど 交代 こうたい している。1組 くみ 目 め は南 みなみ 軍 ぐん に引 ひ き渡 わた される以前 いぜん である初期 しょき の運用 うんよう 試験 しけん 中 ちゅう に、開 ひら いた乗船 じょうせん ハッチが偶然 ぐうぜん 別 べつ の船 ふね の航跡 こうせき と重 かさ なったことで浸水 しんすい し、脱出 だっしゅつ できなかった5名 めい が死亡 しぼう した。2組 くみ 目 め は南 みなみ 軍 ぐん 所属 しょぞく の8名 めい がチャールストンで採用 さいよう されたが、1863年 ねん 10月15日 にち 、軍事 ぐんじ 演習 えんしゅう 中 なか に沈没 ちんぼつ し全員 ぜんいん が死亡 しぼう 、翌年 よくねん 実戦 じっせん に向 む かうこととなる3組 くみ 目 め の8名 めい が新 あら たに乗組 のりくみ 員 いん として乗艦 じょうかん している。
1864年 ねん 2月 がつ 17日 にち 、チャールストン外港 がいこう で封鎖 ふうさ 任務 にんむ にあたっていた北 きた 軍 ぐん (アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく )のスクリュー推進 すいしん スループ 艦 かん USSフーサトニック (英語 えいご 版 ばん ) (排水 はいすい 量 りょう 1,240 ショートトン 1,124 メトリックトン )[2] )を撃沈 げきちん し、フーサトニックの乗員 じょういん 5名 めい が死亡 しぼう した。
しかし、フーサトニック撃沈 げきちん 後 ご にハンリー自身 じしん もまた帰還 きかん することなく理由 りゆう 不明 ふめい ながら沈没 ちんぼつ 、3組 くみ 目 め の乗組 のりくみ 員 いん 8人 にん 全 すべ ても戦死 せんし した。その136年 ねん 後 ご の2000年 ねん 8月 がつ 8日 にち 、沈 しず んでいたハンリーの残骸 ざんがい は引 ひ き上 あ げられ、2004年 ねん 4月 がつ 17日 にち 、DNA鑑定 かんてい の終 お わった8人 にん の乗組 のりくみ 員 いん の遺骸 いがい は軍 ぐん 葬 そう の礼 れい によってチャールストンのマグノリア墓地 ぼち に埋葬 まいそう された。
ハンリーとその前 まえ に製作 せいさく された2隻 せき の潜水 せんすい 艦 かん は、ホレス・L・ハンリー、ジェイムズ・マクリントックおよびバクスター・ワトソンが民間 みんかん 人 じん として開発 かいはつ し、資金 しきん も賄 まかな われていた。
ハンリーより前 まえ の潜水 せんすい 艦 かん [ 編集 へんしゅう ]
ハンリー、マクリントックおよびワトソンの3人 にん は先 ま ずルイジアナ州 しゅう ニューオーリンズ でパイオニアと名付 なづ けた小 ちい さな潜水 せんすい 艦 かん を建造 けんぞう した。パイオニアは1862年 ねん 2月 がつ にミシシッピ川 がわ で試験 しけん され、さらに試験 しけん するためにポンチャートレイン湖 こ に曳航 えいこう された。しかし、北 きた 軍 ぐん がニューオーリンズに侵攻 しんこう してきたために、開発 かいはつ は中止 ちゅうし されパイオニアは自沈 じちん させられた。記録 きろく が確 たし かなものではないが、バイユー・セントジョンと名付 なづ けられた南 みなみ 軍 ぐん の潜水 せんすい 艦 かん がパイオニアとほぼ同 おな じ時期 じき に建造 けんぞう された可能 かのう 性 せい がある。
3人 にん の発明 はつめい 家 か はモービルに移動 いどう し、そこで機械 きかい 工 こう のトマス・パークとトマス・ライアンズと合流 ごうりゅう した。彼等 かれら は間 ま もなく2代目 だいめ の潜水 せんすい 艦 かん アメリカンダイバーの開発 かいはつ を始 はじ めた。その活動 かつどう はアメリカ連合 れんごう 国軍 こくぐん に支援 しえん された。第 だい 21アラバマ歩兵 ほへい 連隊 れんたい のウィリアム・アレクサンダー中尉 ちゅうい がこの計画 けいかく の監督 かんとく 任務 にんむ を与 あた えられた。開発 かいはつ チームは先 ま ず電磁 でんじ 動力 どうりょく や蒸気 じょうき 動力 どうりょく による推進 すいしん 法 ほう を試 ため したが、結局 けっきょく は単純 たんじゅん な手回 てまわ しクランクによる推進 すいしん 法 ほう に落 お ち着 つ いた。アメリカンダイバーは1863年 ねん 1月 がつ には港 みなと での試験 しけん の用意 ようい ができていたが、速度 そくど が遅 おそ すぎて実用 じつよう 的 てき ではないことが分 わ かった。2月には北 きた 軍 ぐん による海上 かいじょう 封鎖 ふうさ への攻撃 こうげき が試 こころ みられたが成功 せいこう しなかった。2月遅 おそ くに到来 とうらい した嵐 あらし のためにアメリカンダイバーはモービル湾口 わんこう で沈 しず み、引 ひ き揚 あ げられることは無 な かった。
ハンリーの建造 けんぞう と試験 しけん [ 編集 へんしゅう ]
アメリカンダイバーが失 うしな われてから直 す ぐにハンリーの建造 けんぞう が始 はじ まった。この段階 だんかい では「フィッシュボート」「フィッシュ・トーピードウ・ボート」あるいは「パーパス(ネズミイルカ)」など様々 さまざま に呼 よ ばれていた。長 なが く続 つづ く伝説 でんせつ では、ハンリーは廃棄 はいき された蒸気 じょうき ボイラー の胴体 どうたい で造 つく られていたことになっている。これはおそらく、実機 じっき を見 み たことのあるウィリアム・アレクサンダーが描 えが いた断面 だんめん 図 ず では短 みじか くずんぐりした機械 きかい を示 しめ していたからだった。実際 じっさい のハンリーはその役目 やくめ に合 あ うように設計 せっけい され建造 けんぞう されていたので、1902年 ねん にP・G・スカーレットが描 えが いた図面 ずめん に見 み られる流線型 りゅうせんけい で現代 げんだい 風 ふう の艇 てい が正確 せいかく な描写 びょうしゃ になっている。ハンリーは8人 にん の乗組 のりくみ 員 いん で設計 せっけい された。7人 にん が手回 てまわ しクランク推進 すいしん のプロペラを回 まわ し、1人 ひとり が舵 かじ を握 にぎ って船 ふね の針路 しんろ を決 き めることになっていた。船 ふね の両 りょう 端 はし にはバラストタンク が備 そな えられ、バルブを開 あ けて水 みず を満 み たしたり手動 しゅどう ポンプ で水 みず を排出 はいしゅつ したりできるように設計 せっけい された。船 ふね 殻 から の下 した にも鉄 てつ の錘 おもり をボルト止 ど めしてバラストに使 つか われた。潜水艦 せんすいかん が急 きゅう 浮上 ふじょう するために浮力 ふりょく が必要 ひつよう な時 とき は、船 ふね の中 なか からボルトの頭 あたま を落 お として錘 おもり を落 お とすことが出来 でき るようにした。
船内 せんない の断面 だんめん 図 ず と平面 へいめん 図 ず 、ウィリアム・アレクサンダー中尉 ちゅうい のスケッチによる、1863年 ねん 作図 さくず
ハンリーには前 ぜん と後 ご の低 ひく い船橋 ふなばし の上 うえ にそれぞれ水密 すいみつ ハッチがあり、小 ちい さな舷窓 げんそう と細長 ほそなが くて三角形 さんかっけい の水切 みずき り板 ばん が付 つ いていた。ハッチは14ないし15インチ (36 ないし 38 cm) と大変 たいへん 小 ちい さなものであり、船 ふね 殻 から への出入 でい りが難 むずか しかった。船 ふね 殻 から の高 たか さは4フィート3インチ (1.2 m) しかなかった。
ハンリーは1863年 ねん 7月 がつ には公 おおやけ 試 ためし 可能 かのう になった。南 みなみ 軍 ぐん の提督 ていとく フランクリン・ブキャナン の監督 かんとく 下 か で、モービル湾 わん で石炭 せきたん 用 よう 平底 ひらぞこ 船 せん を攻撃 こうげき して成功 せいこう させた。この公 おおやけ 試 ためし 後 ご に鉄道 てつどう でサウスカロライナ州 しゅう チャールストンに運 はこ ばれ、8月 がつ 12日 にち に到着 とうちゃく した。
南 みなみ 軍 ぐん はハンリーがチャールストンに到着 とうちゃく してから直 す ぐ、その民間 みんかん 人 じん 建造 けんぞう 者 しゃ かつ所有 しょゆう 者 しゃ からこの艦 かん を押収 おうしゅう し、アメリカ連合 れんごう 国 こく 陸軍 りくぐん に引 ひ き渡 わた した。この時点 じてん からハンリーはアメリカ連合 れんごう 国 こく 陸軍 りくぐん の艦艇 かんてい として運用 うんよう されることになるが、ホレス・ハンリーとその共同 きょうどう 事業 じぎょう 者 しゃ はこの潜水 せんすい 艦 かん の試験 しけん や運航 うんこう に関 かか わり続 つづ けた。南 みなみ 軍 ぐん の艦船 かんせん としてCSSハンリーと呼 よ ばれることがあるが、アメリカ連合 れんごう 国 こく 政府 せいふ が公式 こうしき にこの艦艇 かんてい に就役 しゅうえき 命令 めいれい を出 だ したことは無 な かった。
アメリカ連合 れんごう 国 こく 海軍 かいぐん CSS チコーラ 乗 の り組 く みの大尉 たいい ジョン・A・ペインがハンリーのスキッパー(艦長 かんちょう )を志願 しがん し、この潜水 せんすい 艦 かん を操艦 そうかん するためにチコーラとCSS パルメット・ステート から7人 にん の志願 しがん 乗組 のりくみ 員 いん が集 あつ められた。8月29日 にち 、ハンリーの新 あたら しい乗組 のりくみ 員 いん は潜水 せんすい 艦 かん の操艦 そうかん 法 ほう を覚 おぼ えるために試験 しけん 潜航 せんこう の準備 じゅんび をしていたが、乗組 のりくみ 員 いん が艇 てい を漕 こ いで走 はし っている時 とき にペイン大尉 たいい が誤 あやま って潜航 せんこう 板 ばん を制御 せいぎょ するレバーを踏 ふ みつけてしまった。このときハッチが開 ひら いたままでハンリーが潜航 せんこう し、艇 てい の中 なか は水 みず に浸 つ かった。ペインの他 ほか に2人 ふたり が脱出 だっしゅつ できたが、残 のこ り5人 にん は溺死 できし した。
10月15日 にち 、ハンリーが仮想 かそう 攻撃 こうげき を行 おこな っているときに浮上 ふじょう に失敗 しっぱい し、ホレス・ハンリーと乗組 のりくみ 員 いん 7人 にん が死 し んだ。どちらの事故 じこ のときもアメリカ連合 れんごう 国 こく 海軍 かいぐん がハンリーを引 ひ き揚 あ げ、任務 にんむ に復帰 ふっき させた。
ハンリーは当初 とうしょ 、艇 てい の後端 こうたん の長 なが いロープの端 はし に結 むす びつけた接触 せっしょく 信管 しんかん を備 そな えた浮遊 ふゆう 式 しき 水雷 すいらい で攻撃 こうげき することを意図 いと していた。ハンリーが敵艦 てきかん に接近 せっきん してその下 した に潜航 せんこう し、敵艦 てきかん の向 む こう側 がわ で浮上 ふじょう する。そのまま敵艦 てきかん から離 はな れていけば、引 ひ っ張 ぱ られている水雷 すいらい が敵艦 てきかん の舷側 げんそく に当 あ たって爆発 ばくはつ することになっていた。しかし、このやり方 かた では引 ひ き綱 つな がハンリーのスクリューに絡 から みつくか、自艦 じかん の方 ほう に流 なが れてきて自艦 じかん そのものが危 あぶ なくなる可能 かのう 性 せい があるために、実行 じっこう 不可能 ふかのう と判断 はんだん された。
浮遊 ふゆう 式 しき 水雷 すいらい の代 か わりに外装 がいそう 水雷 すいらい が採用 さいよう された。これは90ポンド(41 kg)の火薬 かやく を入 い れた樽 たる を長 なが さ22フィート(6.7 m)の木製 もくせい 円柱 えんちゅう の先 さき に付 つ けたものだった。その形態 けいたい は当時 とうじ の潜水 せんすい 艦 かん の絵 え で見 み ることができる。この外装 がいそう 水雷 すいらい はハンリーの船首 せんしゅ の上 うえ に載 の せられ、潜水 せんすい 艦 かん が水面 すいめん 下 か 6フィート(1.8 m)以上 いじょう 沈 しず んだときに使 つか えるようになっていた。水雷 すいらい の先端 せんたん には鉤 かぎ 針 はり が付 つ いており、敵 てき 船 せん に当 あ ててその舷側 げんそく に引 ひ っ掛 か けるように考 かんが えられた。当初 とうしょ の設計 せっけい では潜水 せんすい 艦 かん が敵 てき 船 せん から離 はな れてから爆発 ばくはつ するように、紐 ひも で引 ひ っ張 ぱ る機械 きかい 的 てき な引 ひ き金 がね が付 つ けられていた。しかし引 ひ き上 あ げられたハンリーの調査 ちょうさ では、一 いち 巻 ま きの銅 どう 線 せん や電池 でんち の部品 ぶひん が見 み つかっており、電気 でんき 的 てき に爆発 ばくはつ させた可能 かのう 性 せい がある。ホレス・ハンリーの死後 しご 、P・G・T・ボーリガード 将軍 しょうぐん はこの潜水 せんすい 艦 かん では水面 すいめん 下 か から敵 てき 船 せん を攻撃 こうげき させないという命令 めいれい を出 だ した。この命令 めいれい に対応 たいおう して、潜水 せんすい 艦 かん の船首 せんしゅ に鉄製 てつせい パイプが取 と り付 つ けられ、その先端 せんたん が下方 かほう に曲 ま げられており、水雷 すいらい が効果 こうか を出 だ しやすいだけの水深 すいしん で引 ひ っ掛 か けられるように工夫 くふう された。この方法 ほうほう はそれより前 まえ にCSSデイビッドタイプの水上 すいじょう 艦 かん のために開発 かいはつ されたもので、北 きた 軍 ぐん のUSSニューアイアンサイドに対 たい して成功 せいこう していた。1902年 ねん 発行 はっこう の雑誌 ざっし 「コンフェデレイト・ベテラン(南 みなみ 軍 ぐん の古参 こさん 兵 へい )」では他 た の技師 ぎし 達 たち と共 とも にマーシャル砲台 ほうだい に詰 つ めていたある技師 ぎし の回想 かいそう 記 き が載 の せられ、ハンリーが1864年 ねん 2月 がつ 17日 にち の最後 さいご の任務 にんむ で出港 しゅっこう する前 まえ に鉄製 てつせい パイプの構造 こうぞう を調整 ちょうせい したと述 の べている。鉄製 てつせい パイプ円柱 えんちゅう の絵 え はデイビッドタイプの装置 そうち を肯定 こうてい するものであり、潜水 せんすい 艦 かん の軍事 ぐんじ 史 し 初期 しょき 出版 しゅっぱん 物 ぶつ の幾 いく つかに掲載 けいさい された。
USSフーサトニックへの攻撃 こうげき [ 編集 へんしゅう ]
ハンリーは1864年 ねん 2月 がつ 17日 にち の夜 よる に、その最初 さいしょ で最後 さいご の生 い きた標的 ひょうてき への攻撃 こうげき を行 おこな った。その標的 ひょうてき がUSSフーサトニック だった。USSフーサトニックは排水 はいすい 量 りょう 1,240 ショートトン(1,124 メトリックトン[2] )、蒸気 じょうき 駆動 くどう で大砲 たいほう 12門 もん を搭載 とうさい したスループ・オブ・ウォーであり、チャールストン港 こう 入口 いりくち の沖合 おきあい 約 やく 5マイル(8 km)に停泊 ていはく していた。チャールストンの海上 かいじょう 封鎖 ふうさ を破 やぶ るための動 うご きとして、ジョージ・E・ディクソン海軍 かいぐん 大尉 たいい と7人 にん の志願 しがん 兵 へい 乗組 のりくみ 員 いん がフーサトニックに挑 いど み、その船 ふね 殻 から にうまく鉤 かぎ 針 はり 付 つ き外装 がいそう 水雷 すいらい を引 ひ っかけさせた。ハンリーが十分 じゅうぶん 遠 とお ざかってから水雷 すいらい を爆発 ばくはつ させ、それから5分 ぶん の内 ない にフーサトニックを沈 しず ませた。フーサトニックの乗組 のりくみ 員 いん 5人 にん が艦 かん と運命 うんめい を共 とも にしたが、残 のこ りは救命 きゅうめい ボートに乗 の り移 うつ ったり、マストに上 のぼ って救出 きゅうしゅつ を待 ま ったりして助 たす かった。
ハンリーは攻撃 こうげき を成功 せいこう させたが、そのまま未 み 帰還 きかん となった。攻撃 こうげき を開始 かいし した午後 ごご 8時 じ 45分 ふん から、約 やく 1時 じ 間 あいだ 後 ご まではハンリーが健在 けんざい だったとする証言 しょうげん がある。攻撃 こうげき の翌日 よくじつ 、マーシャル砲台 ほうだい の指揮 しき 官 かん は潜水 せんすい 艇 てい が帰投 きとう しつつあるという「所定 しょてい の信号 しんごう 」を受信 じゅしん したと報告 ほうこく した[3] 。その信号 しんごう が具体 ぐたい 的 てき に何 なに だったのかは示 しめ されていない。戦後 せんご の記事 きじ によればその信号 しんごう とは「二 ふた つの青 あお い光 ひかり 」であり[4] 、フーサトニックの見張 みはり 員 いん もフーサトニックの沈没 ちんぼつ 後 ご に海上 かいじょう で青 あお い光 ひかり を見 み たと述 の べている[5] 。1864年 ねん 当時 とうじ の米 べい 海軍 かいぐん で「青 あお い光 ひかり 」と言 い えば発火 はっか 信号 しんごう を指 さ したが[6] [7] 、後世 こうせい の出版 しゅっぱん 物 ぶつ では誤 あやま って青 あお い角灯 かくとう だとされた。発見 はっけん されたハンリーの角灯 かくとう のレンズは青 あお ではなく無色 むしょく だった[8] 。青 あお い発火 はっか 信号 しんごう であれば、ハンリーがフーサトニックを攻撃 こうげき した地点 ちてん とマーシャル砲台 ほうだい の間 あいだ の距離 きょり 約 やく 4マイルなら容易 ようい に視認 しにん できた筈 はず である[9] [10] 。
ディクソンは信号 しんごう の発信 はっしん 後 ご サリバン島 とう まで戻 もど るため艇 てい を潜航 せんこう させた筈 はず だが、その後 ご 何 なに があったのかは判 わか っていない。ハンリーの発見 はっけん 者 しゃ らはフーサトニックの乗員 じょういん を救助 きゅうじょ しに来 き た連邦 れんぽう の軍艦 ぐんかん カナンダイグア号 ごう に意図 いと せず衝突 しょうとつ されたのではないかと指摘 してき したが、引 ひ き揚 あ げられたハンリーの艇 てい 体 たい にそのような損傷 そんしょう は見当 みあ たらなかった[11] 。
もう1つの可能 かのう 性 せい として、水雷 すいらい は攻撃 こうげき 中 ちゅう に故障 こしょう して意図 いと 通 どお りに爆発 ばくはつ しなかったのかもしれない。元 もと の想定 そうてい では、水雷 すいらい はハンリーが150フィート(46m)ほど離 はな れた時点 じてん で爆発 ばくはつ するよう考 かんが えられていた[12] 。しかしフーサトニック上 じょう にいた乗組 のりくみ 員 いん の目撃 もくげき 証言 しょうげん によれば、水雷 すいらい の爆発 ばくはつ 時点 じてん でハンリーは100フィート(31m)も離 はな れていなかった。
2008年 ねん 10月 がつ 、科学 かがく 者 しゃ 達 たち の報告 ほうこく によると、ハンリーの乗組 のりくみ 員 いん は排水 はいすい ポンプを作動 さどう させておらず、浸水 しんすい していなかったらしい。サウスカロライナ・ハンリー調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい の委員 いいん 長 ちょう は「こうなると、乗組 のりくみ 員 いん が酸素 さんそ 不足 ふそく で失神 しっしん したとする説 せつ の信憑 しんぴょう 性 せい が高 たか まる」と語 かた った。「乗組 のりくみ 員 いん はクランクを回 まわ して艦 かん を動 うご かしていた筈 はず で、酸素 さんそ 残 ざん 量 りょう を計算 けいさん 違 ちが いしていたのかも知 し れない」[13] 。
2013年 ねん 1月 がつ 、ハンリーの管理 かんり 員 いん であるポール・マーディキアンは、ハンリーの艇 てい 首 くび から伸 の びる長 なが い支持 しじ 棒 ぼう の先端 せんたん に銅 どう 製 せい スリーブの痕跡 こんせき を見付 みつ けた。これによりハンリーの水雷 すいらい は支持 しじ 棒 ぼう に直接 ちょくせつ 装着 そうちゃく されていたことが判 わか り、水雷 すいらい の爆発 ばくはつ 時点 じてん でハンリーはフーサトニックから6mも離 はな れていなかったことが判明 はんめい した[14] 。この結果 けっか 、明 あき らかに乗員 じょういん は爆傷 ばくしょう で即死 そくし したものだとする論文 ろんぶん が2017年 ねん 8月 がつ に出版 しゅっぱん された[15] 。乗員 じょういん の死因 しいん は臓器 ぞうき 損傷 そんしょう と推測 すいそく され、特 とく に肺 はい 挫傷 ざしょう や脳 のう 挫傷 ざしょう が考 かんが えられる[16] 。
ハンリーの乗組 のりくみ 員 いん は全滅 ぜんめつ したが、戦闘 せんとう で1隻 せき の艦船 かんせん を沈 しず めた最初 さいしょ の潜水 せんすい 艦 かん として、海中 かいちゅう 戦闘 せんとう の歴史 れきし に確 かく たる足跡 あしあと を残 のこ した。
ハンリーの発見 はっけん について、海軍 かいぐん 歴史 れきし センターの海軍 かいぐん 史 し ディレクター、ウィリアム・ダドレー博士 はかせ は、「おそらく20世紀 せいき のアメリカで最 もっと も重要 じゅうよう な水中 すいちゅう 考古学 こうこがく 的 てき 発見 はっけん 」と表現 ひょうげん した[17] 。このちっぽけな潜水 せんすい 艦 かん とその中身 なかみ は4,000万 まん ドル以上 いじょう の価値 かち があるとされてきており、その発見 はっけん とそれに続 つづ く寄付 きふ は、サウスカロライナ州 しゅう がかつて経験 けいけん したこともないような重要 じゅうよう で価値 かち ある貢献 こうけん としている。
H・L・ハンリー、チャールストン港 こう でクレーンで引 ひ き揚 あ げられているところ、2000年 ねん 8月 がつ 8日 にち (写真 しゃしん はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 海軍 かいぐん 歴史 れきし センター提供 ていきょう )
ハンリー発見 はっけん については2人 ふたり の個人 こじん が別々 べつべつ に報告 ほうこく している。海洋 かいよう 研究 けんきゅう 協会 きょうかい の水中 すいちゅう 考古 こうこ 学者 がくしゃ E・リー・スペンスが1970年 ねん にハンリーを発見 はっけん したとされている[18] [19] 。これには1980年 ねん 7月 がつ 8日 にち の市民 しみん 海事 かいじ 裁判所 さいばんしょ 審理 しんり [20] を含 ふく め、幾 いく つかの立証 りっしょう 証拠 しょうこ もある[21] 。
1976年 ねん 9月 がつ 13日 にち 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 国立 こくりつ 公園 こうえん 局 きょく は海洋 かいよう 研究 けんきゅう 協会 きょうかい (スペンス)の報告 ほうこく したH・L・ハンリーの沈 しず んでいる場所 ばしょ を、国定 こくてい 歴史 れきし 登録 とうろく 財 ざい に含 ふく めることを提案 ていあん した。H・L・ハンリーを登録 とうろく 財 ざい に載 の せることが1978年 ねん 12月29日 にち に公式 こうしき のものとなり、スペンスの主張 しゅちょう するその場所 ばしょ が公式 こうしき 記録 きろく となった。1995年 ねん 1月 がつ に出版 しゅっぱん されたスペンスの著書 ちょしょ 『南 みなみ 軍 ぐん 海岸 かいがん の宝物 ほうもつ 』ではハンリー発見 はっけん に1章 しょう を割 さ いており、残骸 ざんがい の場所 ばしょ を示 しめ す"X"印 しるし の入 はい った地図 ちず も載 の せられている[22] 。
1995年 ねん 4月 がつ 、小説 しょうせつ 家 か クライブ・カッスラー が資金 しきん を出 だ した国立 こくりつ 海中 かいちゅう 海洋 かいよう 機関 きかん の潜水 せんすい チームを潜水 せんすい 夫 おっと ラルフ・ウィルバンクスが率 ひき いているときに、残骸 ざんがい を発見 はっけん したと主張 しゅちょう した[23] 。クライブ・カッスラーはこれは新 あたら しい発見 はっけん であると主張 しゅちょう し[24] 、初 はじ めその場所 ばしょ はフーサトニックよりも1マイル(1.6 km)以上 いじょう 海岸 かいがん 側 がわ の水深 すいしん 約 やく 18フィート(5 m)であると主張 しゅちょう したが、後 のち にこれは誤 あやま りだったと認 みと めた[25] 。実際 じっさい にはスペンスが地図 ちず 化 か して報告 ほうこく していたように、フーサトニックよりも沖合 おきあい 、水深 すいしん 約 やく 27フィート(8 m)にあった[26] 。ウィルバンクスは潜水 せんすい 艦 かん が数 すう フィートの沈泥に埋 う まっており、それが100年 ねん 以上 いじょう も艇 てい 体 たい を隠 かく し保護 ほご していたと主張 しゅちょう した。この潜水 せんすい 夫 おっと は前方 ぜんぽう ハッチと通気 つうき 箱 ばこ (シュノーケルを取 と り付 つ けるための空気 くうき 箱 ばこ )を砂 すな から出 だ して、潜水 せんすい 艦 かん を特定 とくてい した。潜水 せんすい 艦 かん は右舷 うげん 側 がわ に約 やく 45度 ど 傾 かたむ いており、厚 あつ さ4分 ぶん の1ないし4分 ぶん の3インチ(0.6- ないし 1.9-cm)の錆 さび で覆 おお われ、砂 すな や貝殻 かいがら の破片 はへん が付 つ いていた。考古 こうこ 学者 がくしゃ が船体 せんたい の左舷 さげん 側 がわ を掘 ほ り出 だ し、船首 せんしゅ の潜航 せんこう 用 よう 翼 つばさ も発見 はっけん した。さらなる調査 ちょうさ で全長 ぜんちょう 約 やく 37フィート(11 m)の艇 てい がそのまま沈泥の下 した に保存 ほぞん されていることが分 わ かった[27] 。
1995年 ねん 9月 がつ 14日 にち 、サウスカロライナ・ハンリー調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい の委員 いいん 長 ちょう でアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 上院 じょういん 議員 ぎいん のグレン・F・マコネルの公式 こうしき 要請 ようせい に応 こた えて[28] 、E・リー・スペンスはサウスカロライナ州 しゅう 検事 けんじ 総長 そうちょう チャールズ・M・コンドンと共 とも にハンリーをサウスカロライナ州 しゅう に寄付 きふ する調印 ちょういん を行 おこな った[29] [30] [31] 。その後 ご 間 あいだ もなく国立 こくりつ 海中 かいちゅう 海洋 かいよう 機関 きかん が政府 せいふ 当局 とうきょく にウィルバンクスによって沈船があるとされた場所 ばしょ を明 あき らかにし、それが2000年 ねん 10月 がつ に公 おおやけ にされたとき、スペンスが1970年 ねん に示 しめ した場所 ばしょ と標準 ひょうじゅん 的 てき な地図 ちず の誤差 ごさ 内 ない にあることが分 わ かった[32] 。スペンスは1970年 ねん にハンリーを発見 はっけん しただけでなく、1971年 ねん とさらには1979年 ねん にもそこを訪 おとず れて地図 ちず 化 か し、1995年 ねん の著書 ちょしょ でその場所 ばしょ を掲載 けいさい した後 のち は、国立 こくりつ 海中 かいちゅう 海洋 かいよう 機関 きかん (実際 じっさい にはクライブ・カッスラーではなく、マーク・M・ニューウェル博士 はかせ が指導 しどう したサウスカロライナ州 しゅう 考古学 こうこがく 考古学 こうこがく 人類 じんるい 学 がく 研究所 けんきゅうじょ の遠征 えんせい 隊 たい の一部 いちぶ だった[33] [34] )が独自 どくじ にハンリーとして残骸 ざんがい を発見 はっけん したことを明 あき らかにし、国立 こくりつ 海中 かいちゅう 海洋 かいよう 機関 きかん はそれを発見 はっけん したと主張 しゅちょう すべきではないとしている。ニューウェル博士 はかせ はスペンスの地図 ちず を使 つか って国立 こくりつ 海中 かいちゅう 海洋 かいよう 機関 きかん とサウスカロライナ州 しゅう 考古学 こうこがく 人類 じんるい 学 がく 研究所 けんきゅうじょ の合同 ごうどう チームに指示 しじ を出 だ したこと、最初 さいしょ の発見 はっけん の功 こう はスペンスにあること、彼 かれ の探査 たんさ チームは公式 こうしき 確認 かくにん のためのみに行動 こうどう したことを宣誓 せんせい のもとに証言 しょうげん した[35] 。このことは後 のち に政治 せいじ 操作 そうさ の陳述 ちんじゅつ 、役所 やくしょ の職権 しょっけん 乱用 らんよう 、およびその他 た 疑問 ぎもん のある行動 こうどう を伴 ともな い議論 ぎろん を続 つづ かせるもとになった。
ハンリーをそこに置 お いたままでの水中 すいちゅう 考古学 こうこがく 的 てき 調査 ちょうさ と掘削 くっさく の後 のち で、2000年 ねん 8月 がつ 8日 にち にハンリーを引 ひ き揚 あ げることになった。海軍 かいぐん 歴史 れきし センターの水中 すいちゅう 考古 こうこ 学部 がくぶ 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 国立 こくりつ 公園 こうえん 局 きょく 、およびサウスカロライナ州 しゅう 考古学 こうこがく 人類 じんるい 学 がく 研究所 けんきゅうじょ からの学者 がくしゃ チームに様々 さまざま な個人 こじん も加 くわ わって、引 ひ き揚 あ げ前 まえ に潜水 せんすい 艦 かん を調査 ちょうさ し、測量 そくりょう し、文書 ぶんしょ 化 か した。現地 げんち 調査 ちょうさ が完了 かんりょう すると、鋼索 こうさく を潜水 せんすい 艦 かん の下 した に通 とお し、オーシャニアリング会社 かいしゃ が設計 せっけい したトラスが取 と り付 つ けられた。最後 さいご の鋼索 こうさく が取 と り付 つ けられた後 のち 、引 ひ き揚 あ げ船 せん カーリッサ・Bのクレーンで海底 かいてい からハンリーを引 ひ き揚 あ げた[36] [37] 。ハンリーはチャールストン港口 こうこう の外 そと にあるサリバン島 とう から3.5海里 かいり (6 km)以上 いじょう 外側 そとがわ にある大西洋 たいせいよう の海原 うなばら に上 あ がってきた。30年 ねん 前 まえ に沈船の場所 ばしょ を特定 とくてい するために六分儀 ろくぶんぎ や携帯 けいたい コンパスを使 つか っていたにも関 かか わらずスペンス博士 はかせ の示 しめ した地点 ちてん の精度 せいど は誤差 ごさ 52 m で、その場所 ばしょ は全長 ぜんちょう 64 m の引 ひ き揚 あ げバージの範囲 はんい 内 ない にあることが分 わ かった[38] [39] 。2000年 ねん 8月 がつ 8日 にち 午前 ごぜん 8時 じ 27分 ふん 、この潜水 せんすい 艦 かん は136年 ねん の眠 ねむ りの後 のち で初 はじ めて水面 すいめん に現 あらわ れ、岸 きし の群衆 ぐんしゅう や周辺 しゅうへん の水上 すいじょう 船 せん に歓呼 かんこ で迎 むか えられた。ハンリーは一旦 いったん 輸送 ゆそう 用 よう バージに固定 こてい され、チャールストンに曳航 えいこう された。この回収 かいしゅう 作業 さぎょう はハンリーが元 もと チャールストン海軍 かいぐん 造船 ぞうせん 所 しょ 、現在 げんざい はウォーレン・ラッシュ保管 ほかん センターの特別 とくべつ に設計 せっけい された清水 しみず タンク内部 ないぶ に保管 ほかん されたときに終 お わり、その後 ご は保存 ほぞん されている。
ハンリーの乗組 のりくみ 員 いん は、指揮 しき 官 かん のジョージ・E・ディクソン海軍 かいぐん 大尉 たいい 、フランク・コリンズ、ジョセフ・F・リッジャウェイ、ジェイムズ・A・ウィックス、アーノルド・ベッカー、C・F・カールソン伍長 ごちょう 、C・ランプキンおよびミラー(ファーストネームは未 いま だ明 あき らかでない)という男性 だんせい だった[40] 。
指揮 しき 官 かん であるジョージ・E・ディクソン海軍 かいぐん 大尉 たいい は別 べつ として、ハンリーの志願 しがん 乗組 のりくみ 員 いん の出自 しゅつじ については長 なが い間 あいだ 解明 かいめい されないままだった。スミソニアン博物館 はくぶつかん の国立 こくりつ 自然 しぜん 史 し 博物館 はくぶつかん で働 はたら いている自然 しぜん 人類 じんるい 学 がく 者 もの ダグラス・オーズリーが遺骸 いがい の調査 ちょうさ を行 おこな い、食物 しょくもつ の主成分 しゅせいぶん によってその歯 は や骨 ほね に残 のこ された化学 かがく 的 てき 特長 とくちょう に基 もと づき、4人 にん はアメリカ生 う まれ、他 た の4人 にん はヨーロッパ生 う まれと結論 けつろん 付 つ けた。4人 にん はアメリカ食 しょく であるトウモロコシを豊富 ほうふ に食 た べており、他 た の4人 にん はヨーロッパ食 しょく である小麦 こむぎ やライ麦 らいむぎ を多 おお く食 た べていた。法医学 ほういがく 系図 けいず 学者 がくしゃ のリンダ・エイブラムスが南北戦争 なんぼくせんそう 中 ちゅう の記録 きろく を調 しら べ、血縁 けつえん 者 しゃ の可能 かのう 性 せい がある者 もの とのDNA型 がた 鑑定 かんてい を行 おこな うことにより、ディクソンとコリンズ、リッジャウェイおよびウィックスの4人 にん のアメリカ人 じん の遺体 いたい を特定 とくてい できた。ヨーロッパ人 じん 乗組 のりくみ 員 いん の特定 とくてい は困難 こんなん だったが、2004年 ねん 後半 こうはん に解決 かいけつ された。遺骸 いがい のあった位置 いち からは、乗組 のりくみ 員 いん がその持 も ち場 ば で死 し んでおり、沈 しず みゆく潜水 せんすい 艦 かん から脱出 だっしゅつ しようとはしていなかったことが分 わ かった。
2004年 ねん 4月 がつ 17日 にち 、ハンリーの乗組 のりくみ 員 いん の遺骸 いがい は軍 ぐん 葬 そう の礼 れい でチャールストンのマグノリア墓地 ぼち に埋葬 まいそう された。「南 みなみ 軍 ぐん 最後 さいご の葬礼 そうれい 」とも呼 よ ばれたこのときの会葬 かいそう 者 しゃ は35,000人 にん とも50,000人 にん とも言 い われ、中 なか には1万 まん 人 にん の軍人 ぐんじん と市民 しみん の時代 じだい 再現 さいげん 者 しゃ もいた。ジョージ・E・ディクソン海軍 かいぐん 大尉 たいい はフリーメイソン だったので、当時 とうじ 所属 しょぞく したアラバマ州 しゅう モービルの支部 しぶ メンバーによってフリーメイソンの典礼 てんれい に従 したが って葬 ほうむ られた。ディクソンの祈念 きねん のために毎年 まいとし 4月 がつ にモービル湾口 わんこう にあるドーフィン島 とう の南北戦争 なんぼくせんそう 史跡 しせき であるゲインズ砦 とりで で特別 とくべつ の屋外 おくがい 行事 ぎょうじ が行 おこな われている。この行事 ぎょうじ には毎年 まいとし 全国 ぜんこく のフリーメイソンが多 おお く集 あつ まってくる。
ハンリーはさらなる研究 けんきゅう と保存 ほぞん のためにウォーレン・ラッシュ保管 ほかん センターに置 お かれている。その後 ご の研究 けんきゅう で潜水 せんすい 艦 かん のバラストとポンプの仕組 しく み、舵 かじ と潜行 せんこう 装置 そうち および最終 さいしゅう 的 てき 組立 くみた ての構造 こうぞう など予期 よき しなかった発見 はっけん があった。
2002年 ねん にある研究 けんきゅう 者 しゃ がディクソン大尉 たいい の見 み つかった場所 ばしょ 近 ちか くを検査 けんさ しているときに、歪 いが んだ20ドル金貨 きんか を見 み つけた。これは1850年 ねん の鋳造 ちゅうぞう であり、「シャイロー、1862年 ねん 4月 がつ 6日 にち 、私 わたし の命 いのち の守護 しゅご 者 しゃ G・E・D」という刻印 こくいん があった。また法医学 ほういがく 系図 けいず 学者 がくしゃ がディクソンの腰骨 こしぼね に治癒 ちゆ された傷跡 きずあと を見 み つけた。これはディクソンの家系 かけい に伝 つた えられた伝説 でんせつ と一致 いっち しており、ディクソンの恋人 こいびと クィーニー・ベネットが彼 かれ を守 まも るためにその金貨 きんか を渡 わた していた。ディクソンはシャイローの戦 たたか い のときにその金貨 きんか を身 み につけており、1862年 ねん 4月 がつ 6日 にち に太腿 ふともも を負傷 ふしょう していた。弾丸 だんがん がそのポケットにあった金貨 きんか に当 あ たり、彼 かれ の足 あし と恐 おそ らくは命 いのち さえも救 すく った。ディクソンはその金貨 きんか に刻印 こくいん を打 う ち、お守 まも りとして携行 けいこう した[41] [42] 。
毎週 まいしゅう 末 まつ 、ウォーレン・ラッシュ保管 ほかん センターのハンリーを収容 しゅうよう している保存 ほぞん 研究 けんきゅう 室 しつ にはガイド付 つ きツアーで入 はい ることができる。ここではハンリーの中 なか で見 み つかった工作 こうさく 物 ぶつ や潜水艦 せんすいかん に関 かん する展示 てんじ 品 ひん およびビデオを見 み ることができる。
大衆 たいしゅう 文化 ぶんか の中 なか で[ 編集 へんしゅう ]
CBS テレビの番組 ばんぐみ 『グレート・アドベンチャー』の第 だい 1回 かい で、ハンリーの最後 さいご の任務 にんむ とそれに繋 つな がる出来事 できごと を脚色 きゃくしょく して放送 ほうそう した。ディクソンの役 やく はジャッキー・クーパー が演 えん じた[43] 。
1999年 ねん 、ターナー・ネットワーク・テレビジョン がケーブルテレビ用 よう 映画 えいが 『ザ・ハンリー』(The Hunley,邦題 ほうだい は『潜水 せんすい 艦 かん CSSハンレー』)を制作 せいさく した。これはチャールストンの基地 きち におけるH・L・ハンリーの最後 さいご の任務 にんむ を映像 えいぞう 化 か したものである。ディクソン役 やく でアーマンド・アサンテ 、ディクソンの上官 じょうかん でハンリー計画 けいかく を指導 しどう したボーリガード将軍 しょうぐん 役 やく でドナルド・サザーランド が出演 しゅつえん した[44] 。
南 みなみ 軍 ぐん 古参 こさん 兵 へい の息子 むすこ 達 たち のH・L・ハンリー若年 じゃくねん 予備 よび 役 やく 将校 しょうこう 訓練 くんれん 司令 しれい 部 ぶ 賞 しょう はハンリーの事跡 じせき に因 ちな むものであり、学校 がっこう 時代 じだい にその部隊 ぶたい に大 おお きな価値 かち 、栄誉 えいよ 、勇気 ゆうき 、行動 こうどう を示 しめ した士官 しかん 候補 こうほ 生 せい に与 あた えられている[45] 。
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