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H・L・ハンリー (潜水せんすいてい)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
H・L・ハンリー
H・L・ハンリーの絵。ジョージ・S・クックが1863年に撮影した写真をもとに描かれた
H・L・ハンリーの。ジョージ・S・クックが1863ねん撮影さつえいした写真しゃしんをもとにえがかれた
基本きほん情報じょうほう
建造けんぞうしょ ホレス・L・ハンリー
運用うんようしゃ  アメリカ連合れんごうこく海軍かいぐん
かんれき
起工きこう 1863ねん初期しょき
進水しんすい 1863ねん7がつ
就役しゅうえき 1864ねん2がつ17にち
最期さいご 1864ねん2がつ17にち沈没ちんぼつ
現況げんきょう 2000ねん引揚ひきあげ、調査ちょうさ保存ほぞん
要目ようもく
排水はいすいりょう 7.5めーとるトン(6.8 メトリックトン
なが 39.5フィート(12.0 m)
はば 3.83フィート(1.17 m)
推進すいしん 手回てまわしプロペラ
速力そくりょく 4ノット(7.4 km/h)(海上かいじょう
乗員じょういん 士官しかん1めい兵士へいし7めい
へいそう 外装がいそう水雷すいらい 1
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H・L・ハンリーえい: H. L. Hunley以下いかたんにハンリーと表記ひょうき)は、アメリカ連合れんごうこく潜水せんすいかんである。

南北戦争なんぼくせんそうにおいて実戦じっせん投入とうにゅうされ、きたぐんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく)のスループかん1せき撃沈げきちんしたが、帰投きとうすることなく沈没ちんぼつした。「史上しじょうはじめて敵艦てきかん撃沈げきちんした潜水せんすいかん」であり、戦争せんそうたした役割やくわりこそちいさかったものの、海戦かいせん歴史れきしにおいては多大ただい役割やくわりたしたかんである。

かんれき[編集へんしゅう]

ハンリーは敵艦てきかんせん沈没ちんぼつさせた最初さいしょ戦闘せんとうよう潜水せんすいかんとなった。しかし一方いっぽう完全かんぜん潜水せんすいできずに沈没ちんぼつ、または攻撃こうげき成功せいこう自身じしん沈没ちんぼつしてしまった。そのみじか就役しゅうえき期間きかんあいだに3沈没ちんぼつし、合計ごうけい21にん乗組のりくみいん死亡しぼう海面かいめんでの戦闘せんとうのメリットとデメリットをしめした潜水せんすいかんである。

ていちょう40フィート(12.0 m)じゃくアラバマしゅうモービル建造けんぞうされ、1863ねん7がつ進水しんすいした。その鉄道てつどうで8がつ13にちサウスカロライナしゅうチャールストンはこばれ、みなみぐんアメリカ連合れんごう国軍こくぐん管理かんりはいり、そして就役しゅうえき直後ちょくごすで死去しきょしていた設計せっけいしゃホレス・ローソン・ハンリー英語えいごばんにちなみ「H・L・ハンリー」と名付なづけられた。

設計せっけいしゃのホレス自身じしんの3せき設計せっけいかんであったと同時どうじに、そのけんかん資金しきん民間みんかんじんだったホレスの自費じひまかなわれており、目的もくてきみなみぐんきたぐん軍艦ぐんかん撃沈げきちんけた報奨ほうしょうきん目当めあてだった。けんかん1863ねん7がつ31にち攻撃こうげきりょくのデモンストレーションとしてふるい「はしけ」を撃沈げきちんすることに成功せいこうしている。そのチャールストンでみなみぐん将軍しょうぐんだったボーリガード将軍しょうぐん展示てんじされ、みなみぐん管理かんりはいった[1]

乗員じょういんは8めいだが、実戦じっせん使用しようされるまえに3交代こうたいしている。1くみみなみぐんわたされる以前いぜんである初期しょき運用うんよう試験しけんちゅうに、ひらいた乗船じょうせんハッチが偶然ぐうぜんべつふね航跡こうせきかさなったことで浸水しんすいし、脱出だっしゅつできなかった5めい死亡しぼうした。2くみみなみぐん所属しょぞくの8めいがチャールストンで採用さいようされたが、1863ねん10月15にち軍事ぐんじ演習えんしゅうなか沈没ちんぼつ全員ぜんいん死亡しぼう翌年よくねん実戦じっせんかうこととなる3くみの8めいあらたに乗組のりくみいんとして乗艦じょうかんしている[1]

1864ねん2がつ17にち、チャールストン外港がいこう封鎖ふうさ任務にんむにあたっていたきたぐんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく)のスクリュー推進すいしんスループかんUSSフーサトニック英語えいごばん排水はいすいりょう1,240 ショートトン 1,124 メトリックトン[2])を撃沈げきちんし、フーサトニックの乗員じょういん5めい死亡しぼうした。

しかし、フーサトニック撃沈げきちんにハンリー自身じしんもまた帰還きかんすることなく理由りゆう不明ふめいながら沈没ちんぼつ、3くみ乗組のりくみいん8にんすべても戦死せんしした。その136ねん2000ねん8がつ8にちしずんでいたハンリーの残骸ざんがいげられ、2004ねん4がつ17にちDNA鑑定かんていわった8にん乗組のりくみいん遺骸いがいぐんそうれいによってチャールストンのマグノリア墓地ぼち埋葬まいそうされた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

ハンリーとそのまえ製作せいさくされた2せき潜水せんすいかんは、ホレス・L・ハンリー、ジェイムズ・マクリントックおよびバクスター・ワトソンが民間みんかんじんとして開発かいはつし、資金しきんまかなわれていた。

ハンリーよりまえ潜水せんすいかん[編集へんしゅう]

ハンリー、マクリントックおよびワトソンの3にんルイジアナしゅうニューオーリンズでパイオニアと名付なづけたちいさな潜水せんすいかん建造けんぞうした。パイオニアは1862ねん2がつミシシッピがわ試験しけんされ、さらに試験しけんするためにポンチャートレイン曳航えいこうされた。しかし、きたぐんニューオーリンズに侵攻しんこうしてきたために、開発かいはつ中止ちゅうしされパイオニアは自沈じちんさせられた。記録きろくたしかなものではないが、バイユー・セントジョンと名付なづけられたみなみぐん潜水せんすいかんがパイオニアとほぼおな時期じき建造けんぞうされた可能かのうせいがある。

3にん発明はつめいはモービルに移動いどうし、そこで機械きかいこうのトマス・パークとトマス・ライアンズと合流ごうりゅうした。彼等かれらもなく2代目だいめ潜水せんすいかんアメリカンダイバーの開発かいはつはじめた。その活動かつどうはアメリカ連合れんごう国軍こくぐん支援しえんされた。だい21アラバマ歩兵ほへい連隊れんたいのウィリアム・アレクサンダー中尉ちゅういがこの計画けいかく監督かんとく任務にんむあたえられた。開発かいはつチームは電磁でんじ動力どうりょく蒸気じょうき動力どうりょくによる推進すいしんほうためしたが、結局けっきょく単純たんじゅん手回てまわしクランクによる推進すいしんほういた。アメリカンダイバーは1863ねん1がつにはみなとでの試験しけん用意よういができていたが、速度そくどおそすぎて実用じつようてきではないことがかった。2月にはきたぐんによる海上かいじょう封鎖ふうさへの攻撃こうげきこころみられたが成功せいこうしなかった。2月おそくに到来とうらいしたあらしのためにアメリカンダイバーはモービル湾口わんこうしずみ、げられることはかった。

ハンリーの建造けんぞう試験しけん[編集へんしゅう]

アメリカンダイバーがうしなわれてからぐにハンリーの建造けんぞうはじまった。この段階だんかいでは「フィッシュボート」「フィッシュ・トーピードウ・ボート」あるいは「パーパス(ネズミイルカ)」など様々さまざまばれていた。ながつづ伝説でんせつでは、ハンリーは廃棄はいきされた蒸気じょうきボイラー胴体どうたいつくられていたことになっている。これはおそらく、実機じっきたことのあるウィリアム・アレクサンダーがえがいた断面だんめんではみじかくずんぐりした機械きかいしめしていたからだった。実際じっさいのハンリーはその役目やくめうように設計せっけいされ建造けんぞうされていたので、1902ねんにP・G・スカーレットがえがいた図面ずめんられる流線型りゅうせんけい現代げんだいふうてい正確せいかく描写びょうしゃになっている。ハンリーは8にん乗組のりくみいん設計せっけいされた。7にん手回てまわしクランク推進すいしんのプロペラをまわし、1人ひとりかじにぎってふね針路しんろめることになっていた。ふねりょうはしにはバラストタンクそなえられ、バルブをけてみずたしたり手動しゅどうポンプみず排出はいしゅつしたりできるように設計せっけいされた。ふねからしたにもてつおもりをボルトめしてバラストに使つかわれた。潜水艦せんすいかんきゅう浮上ふじょうするために浮力ふりょく必要ひつようときは、ふねなかからボルトのあたまとしておもりとすことが出来できるようにした。

船内せんない断面だんめん平面へいめん、ウィリアム・アレクサンダー中尉ちゅういのスケッチによる、1863ねん作図さくず

ハンリーにはぜんひく船橋ふなばしうえにそれぞれ水密すいみつハッチがあり、ちいさな舷窓げんそう細長ほそながくて三角形さんかっけい水切みずきばんいていた。ハッチは14ないし15インチ (36 ないし 38 cm) と大変たいへんちいさなものであり、ふねからへの出入でいりがむずかしかった。ふねからたかさは4フィート3インチ (1.2 m) しかなかった。

ハンリーは1863ねん7がつにはおおやけためし可能かのうになった。みなみぐん提督ていとくフランクリン・ブキャナン監督かんとくで、モービルわん石炭せきたんよう平底ひらぞこせん攻撃こうげきして成功せいこうさせた。このおおやけためし鉄道てつどうでサウスカロライナしゅうチャールストンにはこばれ、8がつ12にち到着とうちゃくした。

みなみぐんはハンリーがチャールストンに到着とうちゃくしてからぐ、その民間みんかんじん建造けんぞうしゃかつ所有しょゆうしゃからこのかん押収おうしゅうし、アメリカ連合れんごうこく陸軍りくぐんわたした。この時点じてんからハンリーはアメリカ連合れんごうこく陸軍りくぐん艦艇かんていとして運用うんようされることになるが、ホレス・ハンリーとその共同きょうどう事業じぎょうしゃはこの潜水せんすいかん試験しけん運航うんこうかかわりつづけた。みなみぐん艦船かんせんとしてCSSハンリーとばれることがあるが、アメリカ連合れんごうこく政府せいふ公式こうしきにこの艦艇かんてい就役しゅうえき命令めいれいしたことはかった。

アメリカ連合れんごうこく海軍かいぐんCSS チコーラみの大尉たいいジョン・A・ペインがハンリーのスキッパー(艦長かんちょう)を志願しがんし、この潜水せんすいかん操艦そうかんするためにチコーラとCSS パルメット・ステートから7にん志願しがん乗組のりくみいんあつめられた。8月29にち、ハンリーのあたらしい乗組のりくみいん潜水せんすいかん操艦そうかんほうおぼえるために試験しけん潜航せんこう準備じゅんびをしていたが、乗組のりくみいんていいではしっているときにペイン大尉たいいあやまって潜航せんこうばん制御せいぎょするレバーをみつけてしまった。このときハッチがひらいたままでハンリーが潜航せんこうし、ていなかみずかった。ペインのほか2人ふたり脱出だっしゅつできたが、のこり5にん溺死できしした。

10月15にち、ハンリーが仮想かそう攻撃こうげきおこなっているときに浮上ふじょう失敗しっぱいし、ホレス・ハンリーと乗組のりくみいん7にんんだ。どちらの事故じこのときもアメリカ連合れんごうこく海軍かいぐんがハンリーをげ、任務にんむ復帰ふっきさせた。

武装ぶそう[編集へんしゅう]

ハンリーは当初とうしょてい後端こうたんながいロープのはしむすびつけた接触せっしょく信管しんかんそなえた浮遊ふゆうしき水雷すいらい攻撃こうげきすることを意図いとしていた。ハンリーが敵艦てきかん接近せっきんしてそのした潜航せんこうし、敵艦てきかんこうがわ浮上ふじょうする。そのまま敵艦てきかんからはなれていけば、られている水雷すいらい敵艦てきかん舷側げんそくたって爆発ばくはつすることになっていた。しかし、このやりかたではつながハンリーのスクリューにからみつくか、自艦じかんほうながれてきて自艦じかんそのものがあぶなくなる可能かのうせいがあるために、実行じっこう不可能ふかのう判断はんだんされた。

浮遊ふゆうしき水雷すいらいわりに外装がいそう水雷すいらい採用さいようされた。これは90ポンド(41 kg)の火薬かやくれたたるながさ22フィート(6.7 m)の木製もくせい円柱えんちゅうさきけたものだった。その形態けいたい当時とうじ潜水せんすいかんることができる。この外装がいそう水雷すいらいはハンリーの船首せんしゅうえせられ、潜水せんすいかん水面すいめん6フィート(1.8 m)以上いじょうしずんだときに使つかえるようになっていた。水雷すいらい先端せんたんにはかぎはりいており、てきせんててその舷側げんそくけるようにかんがえられた。当初とうしょ設計せっけいでは潜水せんすいかんてきせんからはなれてから爆発ばくはつするように、ひも機械きかいてきがねけられていた。しかしげられたハンリーの調査ちょうさでは、いちきのどうせん電池でんち部品ぶひんつかっており、電気でんきてき爆発ばくはつさせた可能かのうせいがある。ホレス・ハンリーの死後しごP・G・T・ボーリガード将軍しょうぐんはこの潜水せんすいかんでは水面すいめんからてきせん攻撃こうげきさせないという命令めいれいした。この命令めいれい対応たいおうして、潜水せんすいかん船首せんしゅ鉄製てつせいパイプがけられ、その先端せんたん下方かほうげられており、水雷すいらい効果こうかしやすいだけの水深すいしんけられるように工夫くふうされた。この方法ほうほうはそれよりまえにCSSデイビッドタイプの水上すいじょうかんのために開発かいはつされたもので、きたぐんのUSSニューアイアンサイドにたいして成功せいこうしていた。1902ねん発行はっこう雑誌ざっし「コンフェデレイト・ベテラン(みなみぐん古参こさんへい)」では技師ぎしたちともにマーシャル砲台ほうだいめていたある技師ぎし回想かいそうせられ、ハンリーが1864ねん2がつ17にち最後さいご任務にんむ出港しゅっこうするまえ鉄製てつせいパイプの構造こうぞう調整ちょうせいしたとべている。鉄製てつせいパイプ円柱えんちゅうはデイビッドタイプの装置そうち肯定こうていするものであり、潜水せんすいかん軍事ぐんじ初期しょき出版しゅっぱんぶついくつかに掲載けいさいされた。

USSフーサトニックへの攻撃こうげき[編集へんしゅう]

ハンリーは1864ねん2がつ17にちよるに、その最初さいしょ最後さいごきた標的ひょうてきへの攻撃こうげきおこなった。その標的ひょうてきUSSフーサトニックだった。USSフーサトニックは排水はいすいりょう1,240 ショートトン(1,124 メトリックトン[2])、蒸気じょうき駆動くどう大砲たいほう12もん搭載とうさいしたスループ・オブ・ウォーであり、チャールストンこう入口いりくち沖合おきあいやく5マイル(8 km)に停泊ていはくしていた。チャールストンの海上かいじょう封鎖ふうさやぶるためのうごきとして、ジョージ・E・ディクソン海軍かいぐん大尉たいいと7にん志願しがんへい乗組のりくみいんがフーサトニックにいどみ、そのふねからにうまくかぎはり外装がいそう水雷すいらいっかけさせた。ハンリーが十分じゅうぶんとおざかってから水雷すいらい爆発ばくはつさせ、それから5ぶんないにフーサトニックをしずませた。フーサトニックの乗組のりくみいん5にんかん運命うんめいともにしたが、のこりは救命きゅうめいボートにうつったり、マストにのぼって救出きゅうしゅつったりしてたすかった。

ハンリーの沈没ちんぼつ[編集へんしゅう]

ハンリーは攻撃こうげき成功せいこうさせたが、そのまま帰還きかんとなった。攻撃こうげき開始かいしした午後ごご845ふんから、やく1あいだまではハンリーが健在けんざいだったとする証言しょうげんがある。攻撃こうげき翌日よくじつ、マーシャル砲台ほうだい指揮しきかん潜水せんすいてい帰投きとうしつつあるという「所定しょてい信号しんごう」を受信じゅしんしたと報告ほうこくした[3]。その信号しんごう具体ぐたいてきなにだったのかはしめされていない。戦後せんご記事きじによればその信号しんごうとは「ふたつのあおひかり」であり[4]、フーサトニックの見張みはりいんもフーサトニックの沈没ちんぼつ海上かいじょうあおひかりたとべている[5]。1864ねん当時とうじべい海軍かいぐんで「あおひかり」とえば発火はっか信号しんごうしたが[6][7]後世こうせい出版しゅっぱんぶつではあやまってあお角灯かくとうだとされた。発見はっけんされたハンリーの角灯かくとうのレンズはあおではなく無色むしょくだった[8]あお発火はっか信号しんごうであれば、ハンリーがフーサトニックを攻撃こうげきした地点ちてんとマーシャル砲台ほうだいあいだ距離きょりやく4マイルなら容易ようい視認しにんできたはずである[9][10]

ディクソンは信号しんごう発信はっしんサリバンとうまでもどるためてい潜航せんこうさせたはずだが、そのなにがあったのかはわかっていない。ハンリーの発見はっけんしゃらはフーサトニックの乗員じょういん救助きゅうじょしに連邦れんぽう軍艦ぐんかんカナンダイグアごう意図いとせず衝突しょうとつされたのではないかと指摘してきしたが、げられたハンリーのていたいにそのような損傷そんしょう見当みあたらなかった[11]

もう1つの可能かのうせいとして、水雷すいらい攻撃こうげきちゅう故障こしょうして意図いとどおりに爆発ばくはつしなかったのかもしれない。もと想定そうていでは、水雷すいらいはハンリーが150フィート(46m)ほどはなれた時点じてん爆発ばくはつするようかんがえられていた[12]。しかしフーサトニックじょうにいた乗組のりくみいん目撃もくげき証言しょうげんによれば、水雷すいらい爆発ばくはつ時点じてんでハンリーは100フィート(31m)もはなれていなかった。

2008ねん10がつ科学かがくしゃたち報告ほうこくによると、ハンリーの乗組のりくみいん排水はいすいポンプを作動さどうさせておらず、浸水しんすいしていなかったらしい。サウスカロライナ・ハンリー調査ちょうさ委員いいんかい委員いいんちょうは「こうなると、乗組のりくみいん酸素さんそ不足ふそく失神しっしんしたとするせつ信憑しんぴょうせいたかまる」とかたった。「乗組のりくみいんはクランクをまわしてかんうごかしていたはずで、酸素さんそざんりょう計算けいさんちがいしていたのかもれない」[13]

2013ねん1がつ、ハンリーの管理かんりいんであるポール・マーディキアンは、ハンリーのていくびからびるなが支持しじぼう先端せんたんどうせいスリーブの痕跡こんせき見付みつけた。これによりハンリーの水雷すいらい支持しじぼう直接ちょくせつ装着そうちゃくされていたことがわかり、水雷すいらい爆発ばくはつ時点じてんでハンリーはフーサトニックから6mもはなれていなかったことが判明はんめいした[14]。この結果けっかあきらかに乗員じょういん爆傷ばくしょう即死そくししたものだとする論文ろんぶんが2017ねん8がつ出版しゅっぱんされた[15]乗員じょういん死因しいん臓器ぞうき損傷そんしょう推測すいそくされ、とくはい挫傷ざしょうのう挫傷ざしょうかんがえられる[16]

ハンリーの乗組のりくみいん全滅ぜんめつしたが、戦闘せんとうで1せき艦船かんせんしずめた最初さいしょ潜水せんすいかんとして、海中かいちゅう戦闘せんとう歴史れきしかくたる足跡あしあとのこした。

ハンリーの残骸ざんがい[編集へんしゅう]

ハンリーの発見はっけんについて、海軍かいぐん歴史れきしセンターの海軍かいぐんディレクター、ウィリアム・ダドレー博士はかせは、「おそらく20世紀せいきのアメリカでもっと重要じゅうよう水中すいちゅう考古学こうこがくてき発見はっけん」と表現ひょうげんした[17]。このちっぽけな潜水せんすいかんとその中身なかみは4,000まんドル以上いじょう価値かちがあるとされてきており、その発見はっけんとそれにつづ寄付きふは、サウスカロライナしゅうがかつて経験けいけんしたこともないような重要じゅうよう価値かちある貢献こうけんとしている。

H・L・ハンリー、チャールストンこうでクレーンでげられているところ、2000ねん8がつ8にち写真しゃしんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく海軍かいぐん歴史れきしセンター提供ていきょう

ハンリー発見はっけんについては2人ふたり個人こじん別々べつべつ報告ほうこくしている。海洋かいよう研究けんきゅう協会きょうかい水中すいちゅう考古こうこ学者がくしゃE・リー・スペンスが1970ねんにハンリーを発見はっけんしたとされている[18][19]。これには1980ねん7がつ8にち市民しみん海事かいじ裁判所さいばんしょ審理しんり[20]ふくめ、いくつかの立証りっしょう証拠しょうこもある[21]

1976ねん9がつ13にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国立こくりつ公園こうえんきょく海洋かいよう研究けんきゅう協会きょうかい(スペンス)の報告ほうこくしたH・L・ハンリーのしずんでいる場所ばしょを、国定こくてい歴史れきし登録とうろくざいふくめることを提案ていあんした。H・L・ハンリーを登録とうろくざいせることが1978ねん12月29にち公式こうしきのものとなり、スペンスの主張しゅちょうするその場所ばしょ公式こうしき記録きろくとなった。1995ねん1がつ出版しゅっぱんされたスペンスの著書ちょしょみなみぐん海岸かいがん宝物ほうもつ』ではハンリー発見はっけんに1しょういており、残骸ざんがい場所ばしょしめす"X"しるしはいった地図ちずせられている[22]

1995ねん4がつ小説しょうせつクライブ・カッスラー資金しきんした国立こくりつ海中かいちゅう海洋かいよう機関きかん潜水せんすいチームを潜水せんすいおっとラルフ・ウィルバンクスがひきいているときに、残骸ざんがい発見はっけんしたと主張しゅちょうした[23]。クライブ・カッスラーはこれはあたらしい発見はっけんであると主張しゅちょう[24]はじめその場所ばしょはフーサトニックよりも1マイル(1.6 km)以上いじょう海岸かいがんがわ水深すいしんやく18フィート(5 m)であると主張しゅちょうしたが、のちにこれはあやまりだったとみとめた[25]実際じっさいにはスペンスが地図ちずして報告ほうこくしていたように、フーサトニックよりも沖合おきあい水深すいしんやく27フィート(8 m)にあった[26]。ウィルバンクスは潜水せんすいかんすうフィートの沈泥にまっており、それが100ねん以上いじょうていたいかく保護ほごしていたと主張しゅちょうした。この潜水せんすいおっと前方ぜんぽうハッチと通気つうきばこ(シュノーケルをけるための空気くうきばこ)をすなからして、潜水せんすいかん特定とくていした。潜水せんすいかん右舷うげんがわやく45かたむいており、あつさ4ぶんの1ないし4ぶんの3インチ(0.6- ないし 1.9-cm)のさびおおわれ、すな貝殻かいがら破片はへんいていた。考古こうこ学者がくしゃ船体せんたい左舷さげんがわし、船首せんしゅ潜航せんこうようつばさ発見はっけんした。さらなる調査ちょうさ全長ぜんちょうやく37フィート(11 m)のていがそのまま沈泥のした保存ほぞんされていることがかった[27]

1995ねん9がつ14にち、サウスカロライナ・ハンリー調査ちょうさ委員いいんかい委員いいんちょうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく上院じょういん議員ぎいんのグレン・F・マコネルの公式こうしき要請ようせいこたえて[28]、E・リー・スペンスはサウスカロライナしゅう検事けんじ総長そうちょうチャールズ・M・コンドンとともにハンリーをサウスカロライナしゅう寄付きふする調印ちょういんおこなった[29][30][31]。そのあいだもなく国立こくりつ海中かいちゅう海洋かいよう機関きかん政府せいふ当局とうきょくにウィルバンクスによって沈船があるとされた場所ばしょあきらかにし、それが2000ねん10がつおおやけにされたとき、スペンスが1970ねんしめした場所ばしょ標準ひょうじゅんてき地図ちず誤差ごさないにあることがかった[32]。スペンスは1970ねんにハンリーを発見はっけんしただけでなく、1971ねんとさらには1979ねんにもそこをおとずれて地図ちずし、1995ねん著書ちょしょでその場所ばしょ掲載けいさいしたのちは、国立こくりつ海中かいちゅう海洋かいよう機関きかん実際じっさいにはクライブ・カッスラーではなく、マーク・M・ニューウェル博士はかせ指導しどうしたサウスカロライナしゅう考古学こうこがく考古学こうこがく人類じんるいがく研究所けんきゅうじょ遠征えんせいたい一部いちぶだった[33][34])が独自どくじにハンリーとして残骸ざんがい発見はっけんしたことをあきらかにし、国立こくりつ海中かいちゅう海洋かいよう機関きかんはそれを発見はっけんしたと主張しゅちょうすべきではないとしている。ニューウェル博士はかせはスペンスの地図ちず使つかって国立こくりつ海中かいちゅう海洋かいよう機関きかんとサウスカロライナしゅう考古学こうこがく人類じんるいがく研究所けんきゅうじょ合同ごうどうチームに指示しじしたこと、最初さいしょ発見はっけんこうはスペンスにあること、かれ探査たんさチームは公式こうしき確認かくにんのためのみに行動こうどうしたことを宣誓せんせいのもとに証言しょうげんした[35]。このことはのち政治せいじ操作そうさ陳述ちんじゅつ役所やくしょ職権しょっけん乱用らんよう、およびその疑問ぎもんのある行動こうどうともな議論ぎろんつづかせるもとになった。

ハンリーをそこにいたままでの水中すいちゅう考古学こうこがくてき調査ちょうさ掘削くっさくのちで、2000ねん8がつ8にちにハンリーをげることになった。海軍かいぐん歴史れきしセンターの水中すいちゅう考古こうこ学部がくぶアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国立こくりつ公園こうえんきょく、およびサウスカロライナしゅう考古学こうこがく人類じんるいがく研究所けんきゅうじょからの学者がくしゃチームに様々さまざま個人こじんくわわって、まえ潜水せんすいかん調査ちょうさし、測量そくりょうし、文書ぶんしょした。現地げんち調査ちょうさ完了かんりょうすると、鋼索こうさく潜水せんすいかんしたとおし、オーシャニアリング会社かいしゃ設計せっけいしたトラスがけられた。最後さいご鋼索こうさくけられたのちせんカーリッサ・Bのクレーンで海底かいていからハンリーをげた[36][37]。ハンリーはチャールストン港口こうこうそとにあるサリバンとうから3.5海里かいり(6 km)以上いじょう外側そとがわにある大西洋たいせいよう海原うなばらがってきた。30ねんまえに沈船の場所ばしょ特定とくていするために六分儀ろくぶんぎ携帯けいたいコンパスを使つかっていたにもかかわらずスペンス博士はかせしめした地点ちてん精度せいど誤差ごさ52 m で、その場所ばしょ全長ぜんちょう64 m のげバージの範囲はんいないにあることがかった[38][39]。2000ねん8がつ8にち午前ごぜん827ふん、この潜水せんすいかんは136ねんねむりののちはじめて水面すいめんあらわれ、きし群衆ぐんしゅう周辺しゅうへん水上すいじょうせん歓呼かんこむかえられた。ハンリーは一旦いったん輸送ゆそうようバージに固定こていされ、チャールストンに曳航えいこうされた。この回収かいしゅう作業さぎょうはハンリーがもとチャールストン海軍かいぐん造船ぞうせんしょ現在げんざいはウォーレン・ラッシュ保管ほかんセンターの特別とくべつ設計せっけいされた清水しみずタンク内部ないぶ保管ほかんされたときにわり、その保存ほぞんされている。

乗組のりくみいん[編集へんしゅう]

ハンリーの乗組のりくみいんは、指揮しきかんのジョージ・E・ディクソン海軍かいぐん大尉たいい、フランク・コリンズ、ジョセフ・F・リッジャウェイ、ジェイムズ・A・ウィックス、アーノルド・ベッカー、C・F・カールソン伍長ごちょう、C・ランプキンおよびミラー(ファーストネームはいまあきらかでない)という男性だんせいだった[40]

指揮しきかんであるジョージ・E・ディクソン海軍かいぐん大尉たいいべつとして、ハンリーの志願しがん乗組のりくみいん出自しゅつじについてはながあいだ解明かいめいされないままだった。スミソニアン博物館はくぶつかん国立こくりつ自然しぜん博物館はくぶつかんはたらいている自然しぜん人類じんるいがくものダグラス・オーズリーが遺骸いがい調査ちょうさおこない、食物しょくもつ主成分しゅせいぶんによってそのほねのこされた化学かがくてき特長とくちょうもとづき、4にんはアメリカまれ、の4にんはヨーロッパまれと結論けつろんけた。4にんはアメリカしょくであるトウモロコシを豊富ほうふべており、の4にんはヨーロッパしょくである小麦こむぎライ麦らいむぎおおべていた。法医学ほういがく系図けいず学者がくしゃのリンダ・エイブラムスが南北戦争なんぼくせんそうちゅう記録きろく調しらべ、血縁けつえんしゃ可能かのうせいがあるものとのDNAがた鑑定かんていおこなうことにより、ディクソンとコリンズ、リッジャウェイおよびウィックスの4にんのアメリカじん遺体いたい特定とくていできた。ヨーロッパじん乗組のりくみいん特定とくてい困難こんなんだったが、2004ねん後半こうはん解決かいけつされた。遺骸いがいのあった位置いちからは、乗組のりくみいんがそのんでおり、しずみゆく潜水せんすいかんから脱出だっしゅつしようとはしていなかったことがかった。

2004ねん4がつ17にち、ハンリーの乗組のりくみいん遺骸いがいぐんそうれいでチャールストンのマグノリア墓地ぼち埋葬まいそうされた。「みなみぐん最後さいご葬礼そうれい」ともばれたこのときの会葬かいそうしゃは35,000にんとも50,000にんともわれ、なかには1まんにん軍人ぐんじん市民しみん時代じだい再現さいげんしゃもいた。ジョージ・E・ディクソン海軍かいぐん大尉たいいフリーメイソンだったので、当時とうじ所属しょぞくしたアラバマしゅうモービルの支部しぶメンバーによってフリーメイソンの典礼てんれいしたがってほうむられた。ディクソンの祈念きねんのために毎年まいとし4がつにモービル湾口わんこうにあるドーフィンとう南北戦争なんぼくせんそう史跡しせきであるゲインズとりで特別とくべつ屋外おくがい行事ぎょうじおこなわれている。この行事ぎょうじには毎年まいとし全国ぜんこくのフリーメイソンがおおあつまってくる。

ハンリーはさらなる研究けんきゅう保存ほぞんのためにウォーレン・ラッシュ保管ほかんセンターにかれている。その研究けんきゅう潜水せんすいかんのバラストとポンプの仕組しくみ、かじ潜行せんこう装置そうちおよび最終さいしゅうてき組立くみたての構造こうぞうなど予期よきしなかった発見はっけんがあった。

2002ねんにある研究けんきゅうしゃがディクソン大尉たいいつかった場所ばしょちかくを検査けんさしているときに、いがんだ20ドル金貨きんかつけた。これは1850ねん鋳造ちゅうぞうであり、「シャイロー、1862ねん4がつ6にちわたしいのち守護しゅごしゃG・E・D」という刻印こくいんがあった。また法医学ほういがく系図けいず学者がくしゃがディクソンの腰骨こしぼね治癒ちゆされた傷跡きずあとつけた。これはディクソンの家系かけいつたえられた伝説でんせつ一致いっちしており、ディクソンの恋人こいびとクィーニー・ベネットがかれまもるためにその金貨きんかわたしていた。ディクソンはシャイローのたたかのときにその金貨きんかにつけており、1862ねん4がつ6にち太腿ふともも負傷ふしょうしていた。弾丸だんがんがそのポケットにあった金貨きんかたり、かれあしおそらくはいのちさえもすくった。ディクソンはその金貨きんか刻印こくいんち、おまもりとして携行けいこうした[41][42]

ハンリーの見学けんがく[編集へんしゅう]

毎週まいしゅうまつ、ウォーレン・ラッシュ保管ほかんセンターのハンリーを収容しゅうようしている保存ほぞん研究けんきゅうしつにはガイドきツアーではいることができる。ここではハンリーのなかつかった工作こうさくぶつ潜水艦せんすいかんかんする展示てんじひんおよびビデオをることができる。

大衆たいしゅう文化ぶんかなか[編集へんしゅう]

  • CBSテレビの番組ばんぐみ『グレート・アドベンチャー』のだい1かいで、ハンリーの最後さいご任務にんむとそれにつながる出来事できごと脚色きゃくしょくして放送ほうそうした。ディクソンのやくジャッキー・クーパーえんじた[43]
  • 1999ねんターナー・ネットワーク・テレビジョンがケーブルテレビよう映画えいが『ザ・ハンリー』(The Hunley,邦題ほうだいは『潜水せんすいかんCSSハンレー』)を制作せいさくした。これはチャールストンの基地きちにおけるH・L・ハンリーの最後さいご任務にんむ映像えいぞうしたものである。ディクソンやくアーマンド・アサンテ、ディクソンの上官じょうかんでハンリー計画けいかく指導しどうしたボーリガード将軍しょうぐんやくドナルド・サザーランド出演しゅつえんした[44]
  • みなみぐん古参こさんへい息子むすこたちのH・L・ハンリー若年じゃくねん予備よびやく将校しょうこう訓練くんれん司令しれいしょうはハンリーの事跡じせきちなむものであり、学校がっこう時代じだいにその部隊ぶたいおおきな価値かち栄誉えいよ勇気ゆうき行動こうどうしめした士官しかん候補こうほせいあたえられている[45]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b Pizzuto 2001.
  2. ^ a b https://web.archive.org/web/20041030065502/http://www.history.navy.mil/danfs/h8/housatonic-i.htm
  3. ^ The Official Records of the Union and Confederate Navies in the War of the Rebellion; Series I – Vol. 15, p. 335.
  4. ^ Jacob N. Cardozo, Reminiscences of Charleston (Charleston, 1866) p. 124
  5. ^ Proceedings of the Naval Court of Inquiry on the Sinking of the Housatonic NARA Microfilm Publication M 273, reel 169, Records of the Judge Advocate General (Navy) Record Group 125
  6. ^ Noah Webster, International Dictionary of the English Language Comprising the issues of 1864, 1879 and 1884, ed. Noah Porter, p. 137.
  7. ^ George Marshall, Marshall’s Practical Marine Gunnery: Containing a View of the Magnitude, Weight, Description and Use of Every Article Used in the Sea Gunner’s Department in the Navy of the United States (Norfolk, 1822), pp. 22 and 24.
  8. ^ Tom Chaffin (16 February 2010). The H. L. Hunley: The Secret Hope of the Confederacy. Farrar, Straus and Giroux. pp. 225–242. ISBN 978-1-4299-9035-6. https://books.google.com/books?id=pQcjlDMjXFoC 
  9. ^ Capt. J.G. Benton, A Course of Instruction in Ordnance and Gunnery Compiled for the Use of the Cadets of the United States Military Academy second ed., 1862, p. 369
  10. ^ H. L. Hunley Limited 24 Inch - Civil War Replicas, Civil War Frigate Models - Wooden Model Ships
  11. ^ National Geographic channel television program, September 17, 2011
  12. ^ Friends of Hunley, THE HISTORIC MISSION, Friends of Hunley, オリジナルの2010-12-17時点じてんにおけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20101217094447/http://www.hunley.org/main_index.asp?CONTENT=MISSION 2017ねん8がつ28にち閲覧えつらん 
  13. ^ Smith, Bruce (2008ねん10がつ18にち). “Scientists have new clue to mystery of sunken sub”. Associated Press. オリジナルの2015ねん8がつ29にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150829193657/http://usatoday30.usatoday.com/news/topstories/2008-10-17-1838690743_x.htm 
  14. ^ Smith, Bruce (2013ねん1がつ28にち). “Experts find new evidence in submarine mystery”. Associated Press. https://news.yahoo.com/experts-evidence-submarine-mystery-203606783.html 2017ねん8がつ28にち閲覧えつらん 
  15. ^ Lance, Rachel M.; Stalcup, Lucas; Wojtylak, Brad; Bass, Cameron R. (2017-08-23), Air blast injuries killed the crew of the submarine H.L. Hunley, PLOS ONE, https://doi.org/10.1371/journal.pone.0182244 2017ねん8がつ28にち閲覧えつらん 
  16. ^ Coxworth, Ben (2017-08-24), “Mystery of Civil War sub's sinking may be solved”, New Atlas, http://newatlas.com/hl-hunley-submarine-sinking/51049/ 2017ねん8がつ28にち閲覧えつらん 
  17. ^ Facts
  18. ^ Cover Story: Time Capsule From The Sea - U.S. News & World Report, July 2-9, 2007
  19. ^ 'Ghosts from the Coast, "Dr. E. Lee Spence, The Man Who Found the Hunley" by Nancy Roberts, UNC Press, 2001, ISBN 978-0-8078-2665-2, pp. 89-94
  20. ^ United States District Court, District of Charleston, Case #80-1303-8, Filed July 8, 1980
  21. ^ Attachments to Spence's sworn Affidavit of Discovery
  22. ^ Treasures of the Confederate Coast: The "Real Rhett Butler" & Other Revelations by Dr. E. Lee Spence, Narwhal Press, Charleston/Miami, c 1995, p.54
  23. ^ Raising the Hunley: The Remarkable History and Recovery of the Lost Confederate Submarine by B. Hicks and S. Kropf, Ballantine Publishing, NY, c 2002, p. 131
  24. ^ NUMA News release, Austin, Texas, May 11, 1995
  25. ^ "Salvaging Hunley clues: Cussler fibs about sub's depth" by Schuyler Kropf, The Post and Courier, Charleston, SC, May 11, 1996
  26. ^ "Spence Vindicated" by Schuyler Kropf, The Post and Courier," Charleston, SC, May 14, 1996
  27. ^ H.L. Hunley Site Assessment, NPS, NHC and SCIAA, edited by Larry Murphy (SCRU), 1998, pp. 6-13, 63-66
  28. ^ Minutes of the Hunley Commission Meeting of September 14, 1995
  29. ^ donation
  30. ^ "Assignment of Interest," September 14, 1995, signed by E. Lee Spence and Charles Molony Condon, Attorney General State of South Carolina
  31. ^ "Hunley claimant signs over rights to state" by Sid Gaulden, The Post and Courier, Charleston, SC, September 15, 1995
  32. ^ 'Whose X marks the spot?' by W. Thomas Smith Jr., Charleston City Paper, Charleston, SC, October 4, 2000, p. 16
  33. ^ "News," official press release by NUMA, listing Clive Cussler as a contact, Austin, Texas, May 11, 1995
  34. ^ The Hunley: Submarines, Sacrifice & Success in the Civil War by Mark Ragan, Narwhal Press Inc., ISBN 1-886391-04-1, p. 186
  35. ^ The Andy Thomas Show, live radio interview by Andy Thomas with Dr. Newell, Dr. Spence and Claude Petrone, Columbia, SC, August, 2001
  36. ^ http://www.prolamsausa.com/pdf/casestudies/HunleyCS.pdf
  37. ^ http://juniorhistory.com/karlissa.html
  38. ^ http://www.titansalvage.com/jackupbarges/jackupspecs.pdf
  39. ^ http://www.shipwrecks.com/mapHunleySitefield1979.htm
  40. ^ Friends of the Hunley
  41. ^ Ron Franscell (2002ねん11月18にち). “Civil War legends surface with sub Fort Collins expert studies exhumed sailors”. The Denver Post. p. A1 
  42. ^ The Legend of the gold coin
  43. ^ The Great Adventure The Hunley (TV Episode 1963) - IMDb
  44. ^ The Hunley (TV Movie 1999) - IMDb
  45. ^ http://www.scscv.com/publications/JROTCHunleyAward.pdf

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]