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SL-1

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
SL-1 Nuclear Meltdown
1961:原子げんし建屋たきのやからされる原子げんし容器ようき現代げんだい原子力げんしりょく施設しせつ使用しようされる格納かくのう容器ようき実質じっしつてき同様どうよう役割やくわりたした。オペレーターを放射線ほうしゃせんから保護ほごするため、60トンマニトワック英語えいごばん3900がたクレーンには5.25-インチ (13.3 cm)の鋼鉄こうてつせいシールドと9-インチ (23 cm)のあつさのなまりガラスまどけられていた。
日付ひづけ1961ねん1がつ3にち
場所ばしょアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくアイダホしゅうアイダホフォールズ西にし国立こくりつ原子げんし試験場しけんじょう
座標ざひょう北緯ほくい4331ふん06びょう 西経せいけい11249ふん25びょう / 北緯ほくい43.5182 西経せいけい112.8237 / 43.5182; -112.8237座標ざひょう: 北緯ほくい4331ふん06びょう 西経せいけい11249ふん25びょう / 北緯ほくい43.5182 西経せいけい112.8237 / 43.5182; -112.8237
結果けっか国際こくさい原子力げんしりょく事象じしょう評価ひょうか尺度しゃくどレベル4(事業じぎょう所外しょがいへのおおきなリスクをともなわない事故じこ
死者ししゃ3にん
SL-1の位置(アメリカ合衆国内)
SL-1
SL-1
Location in the United States
SL-1の位置(アイダホ州内)
SL-1
SL-1
Location in Idaho

SL-1えい: Stationary Low-Power Reactor Number One)またはALPR(えい: Argonne Low Power Reactor)は、アメリカ陸軍りくぐん実験じっけんよう原子げんし米国べいこく西部せいぶアイダホフォールズ西にしやく40マイル(65 km)にあるアイダホしゅう国立こくりつ原子げんし試験場しけんじょう(NRTS、National Reactor Testing Station)ー現在げんざいアイダホ国立こくりつ研究所けんきゅうじょ(Idaho National Laboratory)ーに存在そんざいした。

1961ねん1がつ3にち水蒸気すいじょうき爆発ばくはつにより3めい運転うんてんいん死亡しぼうし、うち1めい原子げんし格納かくのう容器ようきプラグにきされ天井てんじょう固定こていされる事故じこ発生はっせいした[1][2][3][4]。この事故じこはアメリカ国内こくないにおいて唯一ゆいいつ即死そくししゃした原子げんし事故じこである[5]

SL-1は、陸軍りくぐん原子力げんしりょく発電はつでんプログラム英語えいごばん一部いちぶであり、北極圏ほっきょくけんちかくやDEWラインにおけるレーダー基地きちのような小規模しょうきぼ遠隔えんかく軍事ぐんじ施設しせつ電力でんりょくねつ供給きょうきゅうすることを目的もくてきとした原子げんしのプロトタイプであった[6]設計せっけい出力しゅつりょくは3 MWであった[7]が、事故じこすうげつあいだまえに4.7 MWの出力しゅつりょくテストがおこなわれた。運転うんてん出力しゅつりょく電気でんき200 kW、空間くうかん暖房だんぼうようねつ出力しゅつりょく400 kWであった[7]

事故じこ発生はっせいした瞬間しゅんかん、わずか4ミリびょう炉心ろしん出力しゅつりょくは20 GWちかくにたっし、爆発ばくはつこした[8][9][10][11]直接ちょくせつ原因げんいんは、炉心ろしん中性子ちゅうせいし吸収きゅうしゅうする中央ちゅうおう制御せいぎょぼう過剰かじょうきであった。事故じこによりやく80キュリー(3.0 TBq)のヨウもと131放出ほうしゅつされたが[12]、アイダホしゅう東部とうぶ人里ひとざとはなれた高地たかち砂漠さばく位置いちしていたため、重大じゅうだい事故じことはみなされなかった。やく1,100キュリー(41 TBq)の核分裂かくぶんれつ生成せいせいぶつ大気たいきちゅう放出ほうしゅつされた[13]

設計せっけい

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1954ねんから1955ねんにかけて、アメリカ陸軍りくぐん北極圏ほっきょくけん遠隔えんかく運用うんよう可能かのう原子げんしプラントを必要ひつようとしていた。 原子げんしは、陸軍りくぐんのレーダー基地きち電気でんき暖房だんぼう供給きょうきゅうするディーゼル発電はつでんとボイラーをえるものであった。陸軍りくぐん原子げんし部門ぶもんはこのプロジェクトのガイドラインを作成さくせいし、アルゴンヌ国立こくりつ研究所けんきゅうじょ(ANL)にアルゴンヌてい出力しゅつりょく原子げんし(ALPR)とばれるプロトタイプ原子げんしプラントの設計せっけい建設けんせつ、テストを依頼いらいした[14]陸軍りくぐんもとめた性能せいのう以下いかとお

  • すべての部品ぶひん空輸くうゆできること[7]
  • すべての部品ぶひんをパッケージしたとき7.5 x 9 x 20フィート(2.3 m×2.7 m×6.1 m)、重量じゅうりょう20,000ポンド (9,100 kg)におさまること[7]
  • 標準ひょうじゅんてき部品ぶひん使用しようすること
  • 現場げんばにおいて最小限さいしょうげん人員じんいん手間てま建設けんせつできること[7]
  • 簡易かんいかつ信頼しんらいせいがあること[7]
  • 北極ほっきょく永久えいきゅう凍土とうど地域ちいき適応てきおう可能かのうであること[7]
  • 炉心ろしん燃料ねんりょう交換こうかんせずとも3年間ねんかん連続れんぞく運転うんてんできること[7][14]

プロトタイプは1957ねん7がつから1958ねん7がつまで、アイダホフォールズ西にしにある国立こくりつ原子げんし試験場しけんじょう建設けんせつされた。1958ねん8がつ11にち臨界りんかい状態じょうたいになり[14]、10月24にちから運転うんてん開始かいしされ、12月2にち正式せいしき就役しゅうえきした[14]。3 MW沸騰水ふっとうすいがた原子げんし(BWR)であり、93.20%のこう濃縮のうしゅくウラン燃料ねんりょう使用しようした[15]冷却れいきゃくざい減速げんそくざいとして軽水けいすい使用しようし、自然しぜん循環じゅんかん運転うんてんされた。ANL は BORAX実験じっけん英語えいごばん経験けいけん利用りようして原子げんし設計せっけいした。循環じゅんかんすいは300ポンドごと平方へいほうインチ (2,100 kPa) の圧力あつりょく運転うんてんされ、ウランアルミニウム合金ごうきんでできた燃料ねんりょうばんあいだ通過つうかした。プラントは広範こうはん試験しけんのち、1958ねん12月に訓練くんれん運転うんてん経験けいけんのために陸軍りくぐんわたされ、1959ねん2がつ5にちからはコンバッション・エンジニアリングしゃ(CEI)がしゅ請負うけおい業者ぎょうしゃとなった[16]

CEIは、SL-1実際じっさい運転うんてん陸軍りくぐん関係かんけいしゃ日常にちじょう訓練くんれん開発かいはつ研究けんきゅうプログラムを担当たんとうした。

この請負うけおい業者ぎょうしゃは、プロジェクト・マネージャー、オペレーション・スーパーバイザー、テスト・スーパーバイザー、そしてやく6にん技術ぎじゅつスタッフを現地げんち派遣はけんした。ここ最近さいきん数カ月すうかげつ、プロジェクト・マネージャーはやく半分はんぶん時間じかん現地げんちごし、半分はんぶんはコネチカットしゅうにある請負うけおい業者ぎょうしゃ事務所じむしょごした。プロジェクト・マネージャーが不在ふざいのときは、オペレーション・スーパーバイザーかテスト・スーパーバイザーがプロジェクト・マネージャーをつとめた。

...委員いいんかいでの証言しょうげんにあるように、定常ていじょう作業さぎょうおこなわれるシフトではCEIが監督かんとくおこなうと理解りかいされていた。

...AECのアイダホ事務所じむしょ陸軍りくぐん原子げんし事務所じむしょは、定型ていけい作業さぎょうしかない夜間やかんシフトに監督かんとくしゃくわえることは、既存きそんめのした原子げんし運転うんてんする目的もくてき一部いちぶ、すなわち、軍人ぐんじんだけでプラントの運転うんてん経験けいけんむこと、を台無だいなしにするとあきらかにかんがえていた。
Report on the SL-1 Incident, January 3, 1961、pp. 6–8[17]

陸軍りくぐん原子げんし訓練くんれんプログラムの訓練くんれんせいには、幹部かんぶ(cadre)ばれる陸軍りくぐんのメンバーがふくまれており、かれらはプラントの主要しゅようなオペレーターであった。空軍くうぐん海軍かいぐんすうめいとともに、おおくの海事かいじ関係かんけいしゃ訓練くんれんけた[16]。プラントの運転うんてん通常つうじょう幹部かんぶ2人ふたり1くみおこなったが、原子げんし開発かいはつはCEIのスタッフが直接ちょくせつ監督かんとくした。CEIは、1960ねん後半こうはん原子げんし開発かいはつ作業さぎょうおこなうことを決定けっていし、PL-1コンデンサー試験しけんのために原子げんしを4.7 MWthermal運転うんてんすることになった[18]原子げんし炉心ろしん老朽ろうきゅうし、ホウ素ほうそ中性子ちゅうせいしどくストリップが腐食ふしょくしてがれちるにつれて、CEIは炉心ろしんないホウ素ほうそやく18%がうしなわれたと計算けいさんした。1960ねん11月11にち、CEIは原子げんし停止ていしマージンをやすためにいくつかのティースロット位置いちカドミウムシート(これも中性子ちゅうせいしどくである)をけた[19]

事故じこまえのALPR。おおきな円筒えんとうがた建物たてもの下部かぶ砂利じゃりうずもれた原子げんし中央ちゅうおう主要しゅよう運転うんてんエリアと運転うんてんフロア、上部じょうぶ付近ふきんにコンデンサーファンルームがある。周囲しゅういには各種かくしゅサポートとう管理かんりとうっている。

プラント設備せつびのほとんどは、ARA-602とばれる円筒えんとうがた鋼鉄こうてつせい原子げんし建屋たきのやおさめられていた。直径ちょっけい38.5フィート (11.7 m)、全高ぜんこう 48フィート (15 m)で[7]鋼鉄こうてつあつさは14インチ (6.4 mm)であった。建物たてものへのアクセスは、支援しえん施設しせつとうであるARA-603から密閉みっぺいされた外部がいぶ階段かいだんとおり、通常つうじょうのドアをけることでおこなわれた。非常口ひじょうぐちのドアは地上ちじょうへのそと階段かいだんつうじていた[7]原子げんし建屋たきのやは、人口じんこう密集みっしゅう地域ちいきにある原子げんし使用しようされるような圧力あつりょくがた格納かくのう容器ようきではなかった。それにもかかわらず、この建物たてものは、最終さいしゅうてき爆発ばくはつによって放出ほうしゅつされた放射ほうしゃせい粒子りゅうしのほとんどをふうめることができた。

原子げんし炉心ろしん構造こうぞうは、59燃料ねんりょう集合しゅうごうたい、1たい起動きどうよう中性子ちゅうせいしげんアセンブリ、および9ほん制御せいぎょぼう収納しゅうのうするように建設けんせつされた。実際じっさい使用しよう炉心ろしんには40燃料ねんりょう集合しゅうごうたいがあり、5ほん十字じゅうじがた制御せいぎょぼうによってコントロールされていた[7]。5ほん制御せいぎょぼうは、断面だんめんがプラス記号きごう(+)のかたちをしており、中央ちゅうおうに1ほん(ロッド9)、炉心ろしん外周がいしゅうに4ほん(ロッド1、3、5、7)あった[7]。これら制御せいぎょぼうは、あつさ60ミル (1.5 mm)のカドミウムせいで、あつさ80ミル (2.0 mm)のアルミニウムで被覆ひふくされていた。かく制御せいぎょぼう吸収きゅうしゅうスパンは14インチ (36 cm)であり吸収きゅうしゅうながさは34インチ (86 cm)であった[7]。40燃料ねんりょう集合しゅうごうたいはそれぞれ9まい燃料ねんりょうばん構成こうせいされていた[7]燃料ねんりょうばん全体ぜんたいあつさは120ミル (3.0 mm) で、あつさ50ミル (1.3 mm) のウランアルミニウム合金ごうきんの「にく」をあつさ35ミル (0.89 mm) のX-8001アルミニウム被覆ひふくかんおおったものであった[7]。「にく」のたかさは25.8インチ (66 cm) 、はばは3.5インチ (8.9 cm)であった。燃料ねんりょう板間いたのまのウォーターギャップは310ミル (7.9 mm)であった[7]初期しょきの40集合しゅうごうたいは93.2%のこう濃縮のうしゅくウラン235を装荷そうかしており、31ポンド (14 kg)のU-235をふくんでいた[7]

装荷そうかされた燃料ねんりょう集合しゅうごうたいを59かららしたことでまけ反応はんのうせい効果こうかちいさくなった[7]。4ほん外側そとがわ制御せいぎょぼうは、テストの結果けっか必要ひつようないと判断はんだんされたため、小型こがたしんでは使つかわれなかった[7][17]運転うんてんちゅうのSL-1炉心ろしんでは、ロッド2、4、6、8はダミーロッドであり、カドミウムシムをあらたにけたりテストセンサーをれたりしており、大文字おおもじのTのようなかたちをしていた[18]炉心ろしんサイズを最小さいしょうする努力どりょく結果けっか、ロッド9の反応はんのう異常いじょうおおきくなった。

事故じこ

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1961ねん1がつ3にち年末年始ねんまつねんし休暇きゅうかわりSL-1では11日間にちかん運転うんてん停止ていしからの業務ぎょうむ再開さいかい準備じゅんびおこなっていた。メンテナンス手順てじゅんでは、駆動くどう機構きこうさい接続せつぞくするためにロッド9を手動しゅどうすうインチ必要ひつようがあった。山岳さんがく標準時ひょうじゅんじ午後ごご91ふん、このロッドが突然とつぜんかれすぎたため、SL-1は即座そくざ臨界りんかいたっした。4ミリびょうで、燃料ねんりょうない巨大きょだい出力しゅつりょくからしょうじたねつが、炉心ろしん溶融ようゆうさせ爆発ばくはつてき蒸発じょうはつさせた。膨張ぼうちょうした燃料ねんりょう極端きょくたん圧力あつりょく発生はっせいさせ、みず上方かみがたげ、原子げんし容器ようき上部じょうぶをピーク圧力あつりょく10,000ポンドごと平方へいほうインチ (69,000 kPa)で直撃ちょくげきした。みず弾丸だんがんは、やく 500ポンドごと平方へいほうインチ (3,400 kPa)の平均へいきん圧力あつりょくともなって、速度そくど160フィート毎秒まいびょう (49 m/s)ですすんだ[15]。この極端きょくたんウォーターハンマーは、原子げんし容器ようき全体ぜんたいを27フィート毎秒まいびょう (8.2 m/s)の速度そくど上昇じょうしょうさせ、シールドプラグは85フィート毎秒まいびょう (26 m/s)の速度そくどんだ[15]原子げんし容器ようき上部じょうぶに6つのあなひらき、こうあつみず蒸気じょうき放射ほうしゃせいデブリを損傷そんしょうした炉心ろしんから部屋へや全体ぜんたいけた。調査ちょうさでは、重量じゅうりょう26,000-ポンド (12,000 kg)の容器ようきは9フィート1インチ (2.77 m)ジャンプし、その一部いちぶもと位置いち着地ちゃくちするまえ原子げんし建屋たきのや天井てんじょう衝突しょうとつ[9][20][15]断熱だんねつざい砂利じゃり運転うんてんフロアに堆積たいせきさせたと結論けつろんづけられた[15]。もし容器ようきのシールハウジング5が天井てんじょうクレーンに衝突しょうとつしていなければ、それは10フィート (3.0 m)上昇じょうしょうしていただろう[15]出力しゅつりょく暴走ぼうそう水蒸気すいじょうき爆発ばくはつ容器ようき移動いどうこった時間じかんは2びょうから4びょうであった[15]

みず蒸気じょうき2人ふたり作業さぎょういんをフロアにたたきつけ、1人ひとり死亡しぼう、もう1人ひとり重傷じゅうしょうった。原子げんし容器ようき上部じょうぶのNo.7シールドプラグが3にん男性だんせい股間こかん貫通かんつうし、かたからけて天井てんじょう固定こていされた[9]犠牲ぎせいしゃ陸軍りくぐん特技とくぎへいリチャード・リーロイ・マッキンリー(27さい)とジョン・A・バーンズ(22さい)、海軍かいぐん建設けんせつ工兵こうへいたい建設けんせつ電気でんき技師ぎし英語えいごばん一等いっとう兵曹へいそうリチャード・C・レッグ(26さい)であった[21][22]のち作家さっかのトッド・タッカーによって、バーンズ(原子げんし運転うんてんいん)がぼうげて出力しゅつりょく暴走ぼうそうこしたこと、レッグ(シフト監督かんとくしゃ)が原子げんし容器ようきうえっていてきされ天井てんじょう固定こていされたこと、マッキンリー(訓練くんれんせい)がちかくにっていたことが解明かいめいされた。マッキンリーだけが、意識いしき不明ふめいふかショック状態じょうたいながらきているのを救助きゅうじょたい発見はっけんした[9]。このことは、SL-1調査ちょうさ委員いいんかい分析ぶんせき[23]や、バーンズとレッグは即死そくしであったがマッキンリーは頭皮とうひないにびまんせい出血しゅっけつ徴候ちょうこうがあり負傷ふしょうによって死亡しぼうするまでやく2あいだ生存せいぞんしていたことを示唆しさする検死けんし結果けっか一致いっちしていた[24] 3にん全員ぜんいん身体しんたいてき外傷がいしょう死亡しぼうした[9][24]

反応はんのう原理げんり事象じしょう

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初期しょき報道ほうどうでは、爆発ばくはつ化学かがく反応はんのうによるものかもしれないとされていたが、それはすぐに否定ひていされた。室内しつない様々さまざま物質ぶっしつ高速こうそく中性子ちゅうせいし放射ほうしゃこっており、適切てきせつ運転うんてんされている原子げんしとはことなり、原子力げんしりょく暴走ぼうそうしめしていた。

SL-1のようなねつ中性子ちゅうせいしでは、核分裂かくぶんれつプロセスを制御せいぎょし、ウラン235燃料ねんりょう核分裂かくぶんれつ可能かのうせいたかめるために、中性子ちゅうせいし減速げんそくされる。十分じゅうぶん減速げんそくざいがなければ、SL-1のような炉心ろしんかく連鎖れんさ反応はんのう維持いじできない。減速げんそくざい炉心ろしんからのぞかれると、連鎖れんさ反応はんのう減少げんしょうする。減速げんそくざいとして使用しようされるみずは、液体えきたいたもつためにこうあつ維持いじされる。かく燃料ねんりょうまわりの水路すいろ蒸気じょうき形成けいせいされると連鎖れんさ反応はんのう抑制よくせいされる。

もうひとつの制御せいぎょは、炉心ろしんでの連鎖れんさ反応はんのうたいするおそはつ中性子ちゅうせいし英語えいごばん作用さようである。ほとんどの中性子ちゅうせいし即発そくはつ中性子ちゅうせいし英語えいごばん)はU-235の核分裂かくぶんれつによってほぼ瞬時しゅんじ生成せいせいされる。しかし、しょうすう定常ていじょう運転うんてんをしているU-235燃料ねんりょう原子げんしではやく0.7%)の中性子ちゅうせいしは、あるしゅ核分裂かくぶんれつ生成せいせいぶつ比較的ひかくてきおそ放射ほうしゃせい崩壊ほうかいによって発生はっせいする。(これらの核分裂かくぶんれつ生成せいせいぶつは、ウラン235燃料ねんりょう近接きんせつした燃料ねんりょうばん内側うちがわめられる。)おそはつ中性子ちゅうせいし生成せいせいにより、原子げんし出力しゅつりょく変化へんか人間にんげん機械きかいてきした時間じかんスケールで制御せいぎょすることが可能かのうになる[25]

制御せいぎょ装置そうち中性子ちゅうせいしどくのぞかれた場合ばあい即発そくはつ中性子ちゅうせいしだけで臨界りんかいになる(即発そくはつ臨界りんかい可能かのうせいがある。原子げんし即発そくはつ臨界りんかいになる場合ばあい出力しゅつりょくが2ばいになるまでの時間じかんは10マイクロびょうのオーダーである。温度おんど出力しゅつりょくレベルに追従ついしょうするのに必要ひつよう時間じかんは、炉心ろしん設計せっけい依存いぞんする。通常つうじょう一般いっぱんてき軽水炉けいすいろでは、出力しゅつりょくたいする冷却れいきゃくざい温度おんどのラグは3~5びょうである。SL-1の設計せっけいでは、蒸気じょうき形成けいせいはじまるまでやく6ミリびょうであった[15]

SL-1は、中央ちゅうおうしゅ制御せいぎょぼう完全かんぜんはずすと、非常ひじょうおおきな過剰かじょう反応はんのう発生はっせいさせることができるようにつくられた[26]追加ついか制御せいぎょぼう存在そんざいは、59燃料ねんりょう集合しゅうごうたいのうち40だけにかく燃料ねんりょう装荷そうかするという決定けっていによるもので、その結果けっか炉心ろしん中央ちゅうおうでより活発かっぱつになった。通常つうじょう運転うんてんでは、制御せいぎょぼうは、持続じぞくてきかく反応はんのうねつ出力しゅつりょく反応はんのう発生はっせいさせるのに十分じゅうぶん距離きょりだけされる。しかし、この事故じこでは、付加ふかされた反応はんのうは、推定すいてい4ミリびょう以内いない原子げんしすみやかに臨界りんかいみちびくのに十分じゅうぶんであった[27]。この時間じかんは、燃料ねんりょうからのねつがアルミニウム被覆ひふくかん浸透しんとうし、まけ減速げんそくざい温度おんどとボイドフィードバックをかいして炉心ろしんのすべての部分ぶぶん出力しゅつりょく増加ぞうか完全かんぜん停止ていしするのに必要ひつようりょうみず沸騰ふっとうさせるにははやすぎた[15][27]

事故じこ分析ぶんせきによると、最終さいしゅうてき制御せいぎょ方法ほうほう(すなわち即発そくはつ臨界りんかい状態じょうたい消滅しょうめつ持続じぞくてきかく連鎖れんさ反応はんのう終了しゅうりょう)は、破局はきょくてき炉心ろしん分解ぶんかい破壊はかいてき溶融ようゆう気化きか、その結末けつまつとしての炉心ろしん最大さいだい熱量ねつりょうもっとはや発生はっせいした部分ぶぶん爆発ばくはつてき膨張ぼうちょう)によってもたらされたと結論けつろんづけられた。この炉心ろしん加熱かねつ蒸発じょうはつのプロセスは、反応はんのう停止ていしさせるのに十分じゅうぶん蒸気じょうき生成せいせいされるまでのやく7.5ミリびょうあいだこったと推定すいていされ、蒸気じょうきシャットダウンよりすうミリびょうさきんじた。ある重要じゅうよう統計とうけいが、炉心ろしん崩壊ほうかいした理由りゆうあきらかにしている。3 MWの出力しゅつりょく想定そうていして設計せっけいされた原子げんしが、瞬間しゅんかんてきやく20 GWのピーク出力しゅつりょく運転うんてんされた。これは、安全あんぜん動作どうさ限界げんかいの6,000ばい以上いじょう出力しゅつりょく密度みつどである[11] 。この臨界りんかい事故じこは、4.4 × 1018かい核分裂かくぶんれつ[11]、すなわち133メガジュール (32 TNT換算かんさんキログラム)のエネルギーを生成せいせいしたと推定すいていされている[27]


事故じこ発生はっせい経過けいか

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アメリカ国道こくどう20号線ごうせん英語えいごばん近辺きんぺん放射能ほうしゃのう汚染おせん調査ちょうさしている様子ようす

事故じこ発生はっせい時刻じこく午後ごご91ふん山岳さんがく標準時ひょうじゅんじ)、原子げんし上部じょうぶねつセンサーがNRTSの保安ほあん施設しせつにあるアラームを作動さどうさせた。誤報ごほう同日どうじつ午前ごぜん午後ごご発生はっせいしていた。6にん消防しょうぼう隊員たいいん(ケン・ディアーデンふく署長しょちょう、メル・ヘスふく署長しょちょう、ボブ・アーチャー、カール・ジョンソン、エゴン・ランプレヒト、ジェラルド・スチュアート、バーン・コンロン)からなる対応たいおうチームは、誤報ごほう予想よそうしつつ9ふん到着とうちゃくした[28]かれらは最初さいしょ建物たてものからすこ蒸気じょうきがっている程度ていどで、6 °F (−14 °C)のさむよるとしては普通ふつうであり、とく異常いじょうはないと認識にんしきした。消防しょうぼうたちは、SL-1施設しせつないだれとも連絡れんらくがとれず、警備けいびいんにゲートをけてもらった。かれらはスコット・エアパック英語えいごばん着用ちゃくようし、確認かくにんのために支援しえん施設しせつとう到着とうちゃくした。

建物たてものはいつもとおりにえたが、無人むじんだった。休憩きゅうけいしつにはあたたかいコーヒーのはいったマグカップが3つ、ちかくには上着うわぎが3ちゃくけられていた[9]かれらは原子げんし制御せいぎょしつはいり、放射線ほうしゃせん警告けいこくとうづいた。かれらがSL-1の原子げんし運転うんてんフロアかいまで階段かいだんのぼっているとき、かれらの携帯けいたいがた放射線ほうしゃせん検出けんしゅつがその最大さいだい範囲はんい急激きゅうげき上回うわまわった。このため、2だい放射線ほうしゃせん検出けんしゅつりに退却たいきゃくした[9]。2だい放射線ほうしゃせん検出けんしゅつも、ふたた階段かいだんのぼっているさい毎時まいじ200レントゲン(R/hr)の最大さいだいしめした[26]かれらは撤退てったいするまえ原子げんししつのぞんだ[28]

午後ごご917ふん保健ほけん物理ぶつり学者がくしゃ到着とうちゃくした。かれとモシュバーガーふく主任しゅにんは、潜在せんざいてき汚染おせん物質ぶっしつ強制きょうせいてき除去じょきょするために、エアタンクとマスクにあつをかけ、原子げんし建屋たきのや階段かいだんちかづいた[9]階段かいだんのぼはじめると、二人ふたり検出けんしゅつ毎時まいじ25レントゲン(R/hr)をしめし、二人ふたり退却たいきゃくした[29]。より測定そくていスケールのひろイオンチェンバー検出けんしゅつ発見はっけんし、二人ふたり階段かいだん最上階さいじょうかい到達とうたつし、行方ゆくえ不明ふめいの3にんつけようと原子げんししつなか見回みまわした[30]二人ふたりつJordan Radector AG-500メーターは、のぼ途中とちゅうで500 R/hrを記録きろくした[20][30]二人ふたりにしたのは、薄暗うすぐらく、湿度しつどたかく、れており、いわ鋼鉄こうてつ破片はへん、ねじれた金属きんぞく、デブリが散乱さんらんした運転うんてんフロアであった。

担架たんかリグ。ダグウェイ実験じっけんじょう化学かがく放射線ほうしゃせん特別とくべつ部隊ぶたい陸軍りくぐん志願しがんへいたちは、原子げんし容器ようき真上まうえ天井てんじょう固定こていされた男性だんせい(レッグ)の遺体いたい回収かいしゅうするため、クレーンでリグをSL-1原子げんし建屋たきのや搬入はんにゅうするまえ練習れんしゅうおこなった。

午後ごご10時半じはんごろ、アイダホフォールズ近郊きんこうからSL-1の主任しゅにん保健ほけん物理ぶつり学者がくしゃエド・ヴァラリオとSL-1オペレーション・スーパーバイザーのポール・ダックワースがSL-1に到着とうちゃくした。二人ふたりはエアパックを装着そうちゃくし、管理かんりとうから支援しえんとうとおり、階段かいだんのぼって原子げんしフロアにかった。階段かいだん途中とちゅうで、ヴァラリオはマッキンリーのうめきごえいた。2人ふたりは、かれあきらかに死亡しぼうしている2人ふたりのオペレーターがゆかたおれているのを発見はっけんし、出血しゅっけつしているマッキンリーのためにチェックポイントにもどって救護きゅうごもとめることにした[30]

2人ふたりは3にん保健ほけん物理ぶつり学者がくしゃ合流ごうりゅうし、エアパックを装着そうちゃくして原子げんしフロアにもどった。エアパックのマスクはくもって視界しかいわるかった。マッキンリーはかすかにうごいていたが、からだ一部いちぶ金属きんぞくへんおおわれていたため、ストレッチャーではこぶためにレスキューたいのぞかなければならなかった。ヴァラリオも行方ゆくえ不明ふめい乗組のりくみいんつけようとして瓦礫がれきうごかした。バーンズは部分ぶぶんてき鉄片てっぺんおおわれていた[31]べつ男性だんせいがバーンズのみゃく確認かくにんし、死亡しぼうげた[31]

3にん男性だんせいそと階段かいだん使つかってマッキンリーをはこそうとし、1人ひとり男性だんせいそとしてトラックでむかえにきたさせた[31]。しかし、運転うんてんフロアを横切よこぎって出口でぐちまでマッキンリーをはこんだのち設備せつび非常口ひじょうぐちのドアをふさいでいるのを発見はっけんした。このため、救助きゅうじょたいはコースを逆戻ぎゃくもどりし、メイン階段かいだん使つかうことを余儀よぎなくされた[31]

マッキンリーの移動いどうちゅう2人ふたり男性だんせいっていたスコット・エアパックがフリーズしてうごかなくなった。ダックワースは故障こしょうのため退避たいひし、ヴァラリオはマスクをはずして汚染おせんされた空気くうきいながらもマッキンリーの避難ひなん完了かんりょうさせた[32][30]救助きゅうじょにはやく3分間ふんかんかかった[31]

マッキンリーの避難ひなんは、すぐに放射線ほうしゃせんがくじょうだい問題もんだい発展はってんした。マッキンリーはまずパネルトラックにせられ、つぎ救急きゅうきゅうしゃ後部こうぶ収容しゅうようされた[33][30]救急きゅうきゅうしゃ後部こうぶ患者かんじゃ看護かんごにあたっていた待機たいきちゅう看護かんごヘレン・ライゼンは、すくなくともかすかな呼吸こきゅう、おそらく最後さいご呼吸こきゅういた。しかし、車両しゃりょうちかくのアメリカ国道こくどう20号線ごうせん到着とうちゃくするまえに、AECの医師いし看護かんご避難ひなんさせ、救急きゅうきゅうしゃなかはいってみゃくがないことをみとめた。午後ごご1114ふん医師いし男性だんせい死亡しぼう宣告せんこくした。マッキンリーの遺体いたいせた汚染おせんされた救急きゅうきゅうしゃ砂漠さばくはこばれ、数時間すうじかん放置ほうちされた[30]

午後ごご1038ふん、4にん男性だんせい原子げんし建屋たきのやはいり3にん犠牲ぎせいしゃ(レッグ)を発見はっけんした[33]:105。レッグが最後さいご発見はっけんされたのは、かれがシールドプラグによって原子げんしうえ天井てんじょう固定こていされており、容易ようい認識にんしきできなかったからである[9]

そのよるだい規模きぼ除染じょせんおこなわれた。だいいち対応たいおうしゃのうちやく30にんがシャワーをび、マンガンさんカリウムをこすり、ふく交換こうかんした[33][30]救急きゅうきゅう車内しゃない遺体いたいはそのふくがされて救急きゅうきゅうしゃもどされ、保管ほかん解剖かいぼうのためにちかくの施設しせつはこばれた[33]

1がつ4にちよる、6にん志願しがんチームが2人ふたり1くみでSL-1の運転うんてんフロアからバーンズの遺体いたい回収かいしゅうした。遺体いたい救急きゅうきゅうしゃおな施設しせつはこばれた[33]

4日間にちかん作業さぎょう計画けいかくのちもっと汚染おせんされていた3たい回収かいしゅうされた。原子げんししつ修繕しゅうぜんは、クレーンにけられたなまりシールドボックスのなか溶接ようせつこうおこなわなければならなかった[29]。1月9にちいちに2にんずつのリレーで、一人ひとりあたり65びょう以上いじょうばくをゆるされた10にんのチームが、ながいポールのさきについたフックを使つかってレッグの遺体いたいを7ばんシールドプラグからき、建屋たきのやそとにあるクレーンにけられた5 by 20フィート (1.5 m × 6.1 m) の担架たんか落下らっかさせた[9][20][29]

マッキンリーのシガレットライターのネジやバーンズの真鍮しんちゅう時計とけいバンドのバックルから放射ほうしゃせいどう64Cuが検出けんしゅつされ、原子げんし即発そくはつ臨界りんかいおちいったことが証明しょうめいされた[33]。このことはレッグの結婚けっこん指輪ゆびわから198Auが検出けんしゅつされたことをふくむ、のいくつかの測定そくてい結果けっかでもしめされた。原子げんしプラントない原子力げんしりょく事故じこ線量せんりょうけい被害ひがいしゃ衣服いふくから採取さいしゅされたウラン粒子りゅうしもまた、臨界りんかい証拠しょうことなった。これらの遺留いりゅうひんから中性子ちゅうせいし放射ほうしゃされた元素げんそ発見はっけんされる以前いぜんは、科学かがくしゃたちは原子げんし本質ほんしつてき安全あんぜんであるとしんじ、かく爆発ばくはつ発生はっせいうたがっていた。主要しゅよう核分裂かくぶんれつ生成せいせいぶつである91Srもウラン粒子りゅうし一緒いっしょ発見はっけんされた[33]。 これらの発見はっけんは、化学かがく爆発ばくはつ事故じここしたという初期しょき推測すいそく否定ひていした[20]

いくつかの資料しりょう目撃もくげき証言しょうげんは、それぞれの犠牲ぎせいしゃ名前なまえ位置いち混同こんどうしている[9]書籍しょせきIdaho Falls: The untold story of America's first nuclear accident[30]なかで、著者ちょしゃは、救助きゅうじょたいがバーンズを生存せいぞんして発見はっけんされた男性だんせい認識にんしきし、レッグの遺体いたい原子げんしシールドのよこ発見はっけんされ事故じこよくよる回収かいしゅうされたものであり、原子げんし真上まうえ天井てんじょう制御せいぎょぼうさっていたのはマッキンリーであるとしんじていたことを指摘してきしている。この誤認ごにんは、爆風ばくふうによる犠牲ぎせいしゃのひどい損傷そんしょうによってこされたもので、クラレンス・ラッシュボー英語えいご: Clarence Lushbaughおこなった検死けんし修正しゅうせいされたが、このことはしばらくのあいだ混乱こんらんこした[30][34]

マッキンリーをはこんだ7にん救助きゅうじょ隊員たいいんカーネギー・ヒーロー基金ききん英語えいごばんからカーネギー・ヒーローしょう授与じゅよされた[35]

  • SL-1オペレーション・スーパーバイザーのポール・ダックワース
  • SL-1テスト・スーパーバイザーのシドニー・コーエン
  • SL-1アシスタント・オペレーション・スーパーバイザーのウィリアム・ラウシュ
  • SL-1保健ほけん物理ぶつり学者がくしゃのエド・ヴァラリオ
  • 当直とうちょくのAECサイト調査ちょうさチーフのウィリアム・ガミル
  • 保健ほけん物理ぶつり学者がくしゃのラヴェル・J・キャリスター
  • 保健ほけん物理ぶつり技術ぎじゅつしゃのデロス・E・リチャーズ

原因げんいん

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必要ひつよう保守ほしゅ手順てじゅんのひとつで、はなされた自動じどう制御せいぎょ機構きこうけるため、ロッド9をやく4インチ (10 cm)手動しゅどうくことがもとめられた。事故じこ計算けいさんやロッド9のきず調査ちょうさから、実際じっさいにはやく20インチ (51 cm)かれ、原子げんしそく臨界りんかいになり、水蒸気すいじょうき爆発ばくはつこしたと推定すいていされている。ロッドがかれたもっと一般いっぱんてきせつは、(1)運転うんてんいん一人ひとりによるサボタージュまたは自殺じさつ、(2)運転うんてんいん一人ひとりつまとの不倫ふりんふく殺人さつじん自殺じさつ、(3)しゅ制御せいぎょぼう注意ちゅういによるき、(4)ロッドを”運動うんどう”させる(さやないでよりスムーズにうごくようにする)意図いとてきこころみ、である[36][37][9][30]保守ほしゅ記録きろく技術ぎじゅつしゃなにをしようとしていたのかにれていないため、事故じこ実際じっさい原因げんいんはわからない。しかし、自殺じさつであった可能かのうせいひくいとおもわれる[38][より情報じょうほうげん必要ひつよう]

事故じこおなおもさの模擬もぎ制御せいぎょぼう使つかった実験じっけんおこなわれ、1人ひとりまたは2人ふたり男性だんせいがロッド9を20インチくことが可能かのうであったかが判断はんだんされた。実験じっけんには、48ポンド (22 kg)[7]中央ちゅうおうのロッドがうごかなくなり、1人ひとりおとこ自分じぶんでそれを解放かいほうしたという可能かのうせいのシミュレーションもふくまれ、調査官ちょうさかん最適さいてき説明せつめいかんがえたシナリオが再現さいげんされた:バーンズが制御せいぎょぼうゆるめ、あやまってき、3にん全員ぜんいん死亡しぼうした[9] 。ロッド9が手動しゅどう急速きゅうそくかれたというせつ検証けんしょうするさい、3にん男性だんせい時間じかんはかった試験しけん参加さんかし、かれらの努力どりょくとその結果けっか発生はっせいしたかく爆発ばくはつのエネルギーが比較ひかくされた[33]

予備よびのSL-1制御せいぎょぼうアクチュエータ・アセンブリを模擬もぎ実験じっけん使用しようし、すうめい被験者ひけんしゃ手動しゅどう速度そくど測定そくていした。制御せいぎょぼう以外いがいはSL-1のものとおなじで、水中すいちゅうでのSL-1可動かどうアセンブリの正味しょうみ重量じゅうりょうである84ポンドのそう可動かどう荷重かじゅうあたえるためにおもり模擬もぎされている。(中略ちゅうりゃく)テストは、被験者ひけんしゃにできるだけはやくロッドをげるよう指示しじし、そのあいだ電気でんきタイマーがロッドのうごはじめから所定しょてい距離きょりきまでの経過けいか時間じかん計測けいそくすることでおこなわれた。30インチまでの距離きょり測定そくていされた。

(中略ちゅうりゃく)

以上いじょう推論すいろんから、5.3ミリびょうというみじか周期しゅうきすために必要ひつようなロッドの速度そくどは、人間にんげん能力のうりょく限界げんかいない十分じゅうぶんおさまることがわかった。
IDO-19300、SL-1 Reactor Accident on January 3, 1961, Interim Report, May 15, 1961[33]

SL-1では、制御せいぎょぼう制御せいぎょぼうチャンネルにはまりむことがあった。制御せいぎょぼう適切てきせつ動作どうさしていることを確認かくにんするため、制御せいぎょぼう評価ひょうかするおおくの手順てじゅん実施じっしされた。通常つうじょう運転うんてんのための定期ていきてきなロッド運動うんどうとロッドのきにくわえて、かくロッドのロッド落下らっか試験しけんとスクラム試験しけんおこなわれた。1959ねん2がつから1960ねん11月18にちまでに、スクラムテストとロッド落下らっかテストで制御せいぎょぼううごかなくなったケースが40けんあり、故障こしょうりつやく2.5%であった。1960ねん11月18にちから12月23にちまでは、スタックしたロッドが激増げきぞうし、この期間きかんに23けん故障こしょうりつは13.0%であった。これらのテスト失敗しっぱいのほかに、1959ねん2がつから1960ねん12がつまでに21けんのロッド固着こちゃく事故じこがあった。このうち4けんは、運転うんてん最後さいごつきに、定期ていきてきなロッドちゅう発生はっせいしたものであった。ロッド9は、のどのロッドよりも頻繁ひんぱん動作どうさされたにもかかわらず、もっと良好りょうこう動作どうさ実績じっせきであった。

ロッドの固着こちゃくは、ミスアライメント、腐食ふしょく生成せいせいぶつ蓄積ちくせき、ベアリングの磨耗まもう、クラッチの磨耗まもう駆動くどう機構きこうのシールの磨耗まもう起因きいんしている。試験しけんちゅうにロッドがうごかなくなった故障こしょうモード(ベアリングやクラッチの摩耗まもうなど)のおおくは、制御せいぎょぼう駆動くどう機構きこうおこな動作どうさにのみてはまる。No.9のロッドは中央ちゅうおう位置いちしているため、固着こちゃくしやすいNo.1、No.3、No.5、No.7よりもアライメントがかったのかもしれない。事故じこ、バーンズがおこなっていたさい接続せつぞく作業さぎょうちゅうにロッドの固着こちゃくがなかったかどうかを調しらべるため、日誌にっし確認かくにんもとプラントオペレーターへのききと調査ちょうさおこなわれた。あるものやく300かいべつものやく250かいこの作業さぎょうおこなっていたが、どちらもこの手順てじゅんちゅう手動しゅどう制御せいぎょぼうげたときに、制御せいぎょぼう固着こちゃくしたとかんじたことはなかった[33]。さらに、手動しゅどうさい接続せつぞくちゅうにロッドが固着こちゃくしたと報告ほうこくしたものはいなかった。

1961ねん6がつ議会ぎかい公聴こうちょうかいで、SL-1プロジェクト・マネジャーのW.B.オルレッドは、SL-1プラントの運転うんてんをCEIが「24あいだ体制たいせい」で監督かんとくしなかったのは、原子力げんしりょく委員いいんかい(AEC)が「予算よさん関係かんけいで」拒否きょひしたからだとみとめた。オルレッドは、1960ねん11月16にちから12月23にち最終さいしゅうシャットダウンまでのあいだに、ロッドの固着こちゃくえたことについても質問しつもんされた。この増加ぞうかについて、オルレッドは、「わたし大幅おおはば増加ぞうか完全かんぜん認識にんしきしていたわけではない」、「このような急激きゅうげき増加ぞうかこったとはらなかった」とべた。固着こちゃく問題もんだいらせた責任せきにんしゃだれかという質問しつもんたいし、オルレッドは、SL-1オペレーション・スーパーバイザーのポール・ダックワースが報告ほうこくすべきだったが、しなかったとこたえた。オルレッドは、もし制御せいぎょぼう固着こちゃく増加ぞうかしていることをっていたら、「もっとくわしく調しらべるためにプラントを停止ていししただろう」とこたえた[18]

機械きかいてき物質ぶっしつてき証拠しょうこかく化学かがくてき証拠しょうことがあいまって、かれらは中央ちゅうおう制御せいぎょぼう非常ひじょう急速きゅうそくかれたとかんがえざるをなかった。(中略ちゅうりゃく科学かがくしゃたちはSL-1のもと運転うんてんいん質問しつもんした: 「中央ちゅうおう制御せいぎょぼうかれたら、原子げんし臨界りんかいたっすることをっていましたか?こたえはこうだった: 「もちろんです!レーダー基地きちにいてロシアぐんたらどうするか、よくはなしていました。制御せいぎょぼうくんだ」。"
Susan M. Stacy、Proving the Principle, 2000[20]

その

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この事故じこにより、SL-1の設計せっけい放棄ほうきされ、将来しょうらい原子げんしは、制御せいぎょぼうを1ほんいただけでは非常ひじょうおおきな過剰かじょう反応はんのうしょうじないように設計せっけいされることになった。今日きょう、これは"one stuck rod"という基準きじゅんとしてられ、もっと反応はんのうせいたかぼう完全かんぜんかれた位置いちまっていても、完全かんぜんなシャットダウン能力のうりょく要求ようきゅうされる。原子げんし運転うんてん必要ひつよう文書ぶんしょ手順てじゅん大幅おおはば拡大かくだいし、はるかに形式けいしきてきになった。放射線ほうしゃせん測定そくていは、緊急きんきゅう対応たいおう活動かつどうのために、よりたか範囲はんい測定そくていできるように変更へんこうされた。

SL-1の炉心ろしん中心ちゅうしん一時いちじてき蒸発じょうはつしたものの、炉心ろしん溶融ようゆうぶつはほとんど回収かいしゅうされなかった。燃料ねんりょうばん空洞くうどうのこして破局はきょくてき破壊はかいされた形跡けいせきしめしたが、相当そうとうりょう溶融ようゆう物質ぶっしつ回収かいしゅうされず、観察かんさつもされなかった。さらに、板間いたのま溶融ようゆうぶつながした形跡けいせきはない。炉心ろしん急速きゅうそく冷却れいきゃくされたことが、溶融ようゆうぶつ少量しょうりょうであった原因げんいんかんがえられている。炉心ろしん溶融ようゆうぶつ原子げんし容器ようきそこ到達とうたつしたり浸透しんとうしたりするには、発生はっせいした熱量ねつりょう不十分ふじゅうぶんだった。

SL-1原子げんし建屋たきのや放射能ほうしゃのうだい部分ぶぶん保持ほじしていたが、風下かざしもにあるプラント建屋たきのやヨウもと131レベルは、数日すうじつあいだのモニタリングでバックグラウンドレベルの50ばいたっした。たとえば、支援しえん施設しせつとう放射線ほうしゃせん調査ちょうさでは、ホールの汚染おせんたかかったが、オフィスの汚染おせんひくかった。事故じこまえ放射線ほうしゃせん被曝ひばく限度げんどは、人命じんめい救助きゅうじょで100レントゲン、貴重きちょうひん保護ほごで25レントゲンだった。事故じこへの対応たいおうちゅう、22にんが3~27レントゲンの全身ぜんしん被曝ひばくけた[39]放射ほうしゃせい廃棄はいきぶつ除去じょきょと3たい遺体いたい処理しょりは、最終さいしゅうてきに790にん有害ゆうがいなレベルの放射線ほうしゃせんさらした[40]。 1962ねん3がつ、AECは対応たいおう参加さんかした32にん英雄えいゆう証明しょうめいしょ授与じゅよした。

手順てじゅん検証けんしょうおこなうための一時いちじ中断ちゅうだんのち陸軍りくぐん原子げんし使用しよう継続けいぞくし、1963ねん2がつ28にちぜん出力しゅつりょく運転うんてん開始かいしした移動いどうしきてい出力しゅつりょく原子げんしML-1英語えいごばん)を稼働かどうさせ、記録きろくじょう最小さいしょう原子力げんしりょく発電はつでんしょとなった。この設計せっけいは、腐食ふしょく問題もんだい最終さいしゅうてき放棄ほうきされた。試験しけん結果けっか原子力げんしりょく発電はつでんほうそう費用ひようひくくなる可能かのうせいたかいことがしめされていたが、ベトナム戦争せんそう財政ざいせいてきあつりょくにより、陸軍りくぐん初期しょき費用ひようひくさを優先ゆうせんするようになり、既存きそん原子げんし稼働かどうつづけたものの、1965ねん原子げんし計画けいかく開発かいはつ中止ちゅうしした。

撤去てっきょ作業さぎょう

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ゼネラル・エレクトリックしゃは、原子げんし容器ようき撤去てっきょし、SL-1プロジェクトサイトの汚染おせんされた建物たてもの解体かいたい清掃せいそうするためにやとわれた[15]敷地しきちは1961ねんから1962ねんにかけて清掃せいそうされ、汚染おせんされた瓦礫がれきだい部分ぶぶんのぞかれ、められた[15]。このおおがかりな清掃せいそう作業さぎょうには、原子げんし容器ようきちかくの「ホットショップ」にはこび、徹底的てっていてき分析ぶんせきすることもふくまれていた[15]。その重要じゅうようひくいものは処分しょぶんされるか、さまざまな洗浄せんじょうのために除染じょせん場所ばしょはこばれた。SL-1サイトの清掃せいそうには、べいぐん原子力げんしりょく委員いいんかいのボランティアをふくやく475にん参加さんかした[15]

回収かいしゅう作業さぎょうでは、運転うんてんしつフロアの放射ほうしゃせい瓦礫がれき除去じょきょおこなわれた。原子げんし容器ようきとその真上まうえにあるファンルームの周囲しゅうい放射線ほうしゃせんりょう非常ひじょうたかいため、原子げんし容器ようき回収かいしゅう困難こんなんきわめた。遠隔えんかく操作そうさ装置そうち、クレーン、ブームトラック、安全あんぜん対策たいさく開発かいはつし、回収かいしゅうチームがテストする必要ひつようがあった。放射線ほうしゃせん調査ちょうさ写真しゃしん分析ぶんせきによって、どのようなものを最初さいしょ建物たてものからのぞ必要ひつようがあるかが決定けっていされた[15]強力きょうりょくなバキュームクリーナーは、男性だんせいチームによって手動しゅどう操作そうさされ、大量たいりょう瓦礫がれき回収かいしゅうした[15]運転うんてんフロアのうえにある手動しゅどう天井てんじょうクレーンを使つかって、おもさ19,600ポンド (8,900 kg)にもなる多数たすう重量じゅうりょうぶつ移動いどうさせ、そと地面じめん投棄とうきした[15]毎時まいじ400レントゲンにたっするホットスポットが発見はっけんされ、作業さぎょうエリアからのぞかれた。

運転うんてんしつフロアは比較的ひかくてききれいで放射線ほうしゃせんじょう管理かんりしやすいため、手動しゅどうしき天井てんじょうクレーンを使つかって原子げんし容器ようき試験しけんてきげた[15]。クレーンにはダイヤルしき荷重かじゅうけいけられ、原子げんし容器ようきすうインチげられた。この試験しけんで、原子げんし容器ようき推定すいてい23,000ポンド (10,000 kg)に未知みち瓦礫がれきくわえたおもやく26,000ポンド (12,000 kg)であることが判明はんめいした。原子げんし容器ようきうえにある建物たてもの構造こうぞうぶつだい部分ぶぶんのぞいたのち、60トンマニトワック3900がたクレーンが原子げんし容器ようき建物たてものからし、容量ようりょう60トンのローボーイトレーラーとつながったトラクタートレーラーにけられた輸送ゆそうキャスクにろした[15]。 45ほん送電そうでんせん電話でんわせん、および支線しせん走行そうこう予定よてい道路どうろからげまたは撤去てっきょしたのち、トラクタートレーラーは、多数たすう監視かんしいん監督かんとくしゃともなって、やく35マイル (56 km) はなれたテストエリアノース英語えいごばんとしてられるNRTSの遠隔えんかく位置いちするANPホットショップ(もともとは航空機こうくうきよう原子げんし推進すいしん英語えいごばんプログラムに関連かんれんしていた)へ時速じそくやく10マイル毎時まいじ (16 km/h) ですすんだ[14]廃棄はいきぶつ埋設まいせつしたことで、SL-1から放射ほうしゃせい廃棄はいきぶつ処理しょり施設しせつまで16マイル (26 km)の一般いっぱん道路どうろ汚染おせん瓦礫がれき運搬うんぱんするさいしょうじる、一般いっぱん市民しみん作業さぎょういん被曝ひばく最小限さいしょうげんおさえることができた。敷地しきちない最初さいしょ清掃せいそうにはやく24ヶ月かげつようした。原子げんし建屋たきのや全体ぜんたい近隣きんりん建屋たきのや汚染おせん物質ぶっしつ浄化じょうか作業さぎょうちゅう汚染おせんされた土壌どじょう砂利じゃり埋設まいせつめられた。埋設まいせつぶつだい部分ぶぶん土壌どじょう砂利じゃりである[41][42]

リップラップ英語えいごばんおおわれた2003ねんのSL-1埋設まいせつ

燃料ねんりょうふく炉心ろしん回収かいしゅうされた部分ぶぶんと、事故じこ調査ちょうさ重要じゅうよう原子げんしほかのすべての部分ぶぶんは、研究けんきゅうのためにANPホットショップにまれた。事故じこ調査ちょうさ終了しゅうりょう原子げんし燃料ねんりょうさい処理しょりのためアイダホ化学かがく処理しょり工場こうじょうおくられた。燃料ねんりょうのぞいた炉心ろしんは、研究けんきゅうのためにホットショップにおくられたほか部品ぶひんとともに、最終さいしゅうてき放射ほうしゃせい廃棄はいきぶつ管理かんり施設しせつ処分しょぶんされた[41]

SL-1の残骸ざんがい現在げんざい北緯ほくい4331ふん17.8びょう 西経せいけい11249ふん04.8びょう / 北緯ほくい43.521611 西経せいけい112.818000 / 43.521611; -112.818000もと場所ばしょちかくにめられている[43]埋設まいせつ場所ばしょは3つの掘削くっさくあなから構成こうせいされており、合計ごうけい99,000立方りっぽうフィート (2,800 m3)の汚染おせん物質ぶっしつ埋設まいせつされた。掘削くっさくは、使用しようされた機材きざいゆるかぎ玄武岩げんぶがんちかくまでられ、ふかさは8 - 14フィート (2.4 - 4.3 m)であった。すくなくとも2フィート (0.61 m)の汚染おせんされていない盛土もりつちかく掘削くっさくあなうえかれた。1962ねん9がつ浄化じょうか活動かつどう完了かんりょうに、掘削くっさくあなうえあさのマウンドが追加ついかされた。敷地しきち埋設まいせつは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく環境かんきょう保護ほごちょうスーパーファンド英語えいごばんOperable Unit 5-05として総称そうしょうされている[41][44]

SL-1事故じこからすう年間ねんかん埋設まいせつとその周辺しゅうへん地域ちいき地表ちひょう放射線ほうしゃせん調査ちょうさ清掃せいそう数多かずおお実施じっしされた。航空こうくう調査ちょうさは1974ねん、1982ねん、1990ねん、1993ねんEG&G英語えいごばんラスベガスしゃによって実施じっしされた。放射線ほうしゃせん環境かんきょう科学かがく研究所けんきゅうじょは、1973ねんから1987ねんまでは3~4ねんごとに、1987ねんから1994ねんまでは毎年まいとしガンマ線がんません調査ちょうさ実施じっしした。1985ねんと1993ねんには、現場げんば粒子りゅうし採取さいしゅおこなわれた。調査ちょうさ結果けっかセシウム137とその子孫しそん核種かくしゅ崩壊ほうかい生成せいせいぶつ)が表層ひょうそう土壌どじょうおも汚染おせん物質ぶっしつであることがしめされた。1994ねん6がつ表層ひょうそう土壌どじょう調査ちょうさでは、埋設まいせつないに「ホットスポット」とばれる放射能ほうしゃのう濃度のうどたか場所ばしょつかり、その放射能ほうしゃのう濃度のうど毎時まいじ0.1~50ミリレントゲン(mR)であった。1994ねん11月17にち、SL-1埋設まいせつ地表ちひょうから2.5フィート (0.76 m)で測定そくていされた最高さいこう放射線ほうしゃせんりょう毎時まいじ0.5mRで、地域ちいきのバックグラウンド放射線ほうしゃせんりょう毎時まいじ0.2mRであった。EPAによる1995ねん評価ひょうかでは、埋設まいせつあなにキャップをかぶせることが推奨すいしょうされた。SL-1のおも対処たいしょさくは、おも天然てんねん材料ざいりょう構築こうちくされた人工じんこうバリアでぶたをすることによるふうめであった[41]。この措置そちは2000ねん完了かんりょうし、2003ねんにEPAによってはじめてさい評価ひょうかおこなわれた[44]

映像えいぞう書籍しょせき

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アメリカ原子力げんしりょく委員いいんかい制作せいさくしたフィルムのアニメーション。インターネットアーカイブから利用りよう可能かのう

アメリカ政府せいふは1960年代ねんだい、この事故じこかんする映画えいが内部ないぶよう制作せいさくした。このビデオはその公開こうかいされ、インターネットアーカイブ[45]YouTubeることができる。SL-1は、ダイアン・オアーとC・ラリー・ロバーツが脚本きゃくほん監督かんとくつとめた、原子げんし爆発ばくはつ題材だいざいにした1983ねん映画えいがのタイトルである[40]。この映画えいがでは、科学かがくしゃへのインタビュー、記録きろくフィルム、どう時代じだい映像えいぞう、スローモーション・シーケンスなどが使用しようされている[46][47]。この事故じこにまつわる出来事できごとは1さつほん題材だいざいにもなっているIdaho Falls: The untold story of America's first nuclear accident (2003)[30]。またProving the Principle – A History of The Idaho National Engineering and Environmental Laboratory, 1949–1999 (2000)[48]の2しょうでもげられている[48]。

1975ねんジョン・G・フラー英語えいご: John G. Fullerちょはん原発げんぱつほん我々われわれはデトロイトをうしなうところであった英語えいご: We Almost Lost Detroit日本語にほんご翻訳ほんやくばん原子げんし災害さいがい : ドキュメント』)が出版しゅっぱんされ、アイダホフォールズの事故じこについて言及げんきゅうされた。Prompt Criticalは、ジェームズ・ローレンス・シカードが脚本きゃくほん監督かんとくがけ、SL-1事故じこにまつわる出来事できごとをドラマした、YouTubeで視聴しちょう可能かのうな2012ねん短編たんぺん映画えいがのタイトルである[49]ヒストリーチャンネルでは、この事故じこかんするドキュメンタリーが放映ほうえいされた[50]

溶融ようゆうしたSL-1の炉心ろしんえがいた、エンジニアリングオフィスようにデザインされた安全あんぜんポスター[51]

著者ちょしゃ、トッド・タッカーはこの事故じこ研究けんきゅうし、べいぐんかく部隊ぶたい原子げんし計画けいかく歴史れきしてき側面そくめん詳述しょうじゅつしたほん出版しゅっぱんした。タッカーは、情報じょうほう公開こうかいほう英語えいごばん使つかって犠牲ぎせいしゃ検死けんしふく報告ほうこくしょ入手にゅうしゅし、各人かくじんがどのように死亡しぼうし、遺体いたい一部いちぶがどのように切断せつだんされ、分析ぶんせきされ、放射ほうしゃせい廃棄はいきぶつとしてめられたかを詳細しょうさいしるした[9]検死けんしおこなったのは、セシル・ケリー臨界りんかい事故じこ仕事しごとられる病理びょうり学者がくしゃである。タッカーは、検死けんしにおいて犠牲ぎせいしゃからだ一部いちぶ切断せつだんした理由りゆうを、表面ひょうめん毎時まいじ1,500レントゲンをはっしていたからだと説明せつめいする。SL-1の事故じこでは、現場げんばにいた3にん軍人ぐんじん全員ぜんいん死亡しぼうしたため、タッカーはこれを「米国べいこく史上しじょう最悪さいあく原子げんし事故じこ」とんでいる[52]

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ “3 die in reactor blast”. Spokane Daily Chronicle. Associated Press ((Washington)): p. 1. (January 4, 1961). https://news.google.com/newspapers?id=EaASAAAAIBAJ&pg=4433%2C513325 
  2. ^ Hale, Steve (January 4, 1961). “3 killed in severe blast at Idaho A-reactor site”. Deseret News ((Salt Lake City, Utah)): p. A1. https://news.google.com/newspapers?id=uHkvAAAAIBAJ&pg=6455%2C479786 
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