SL-1 (英 えい : Stationary Low-Power Reactor Number One )またはALPR(英 えい : Argonne Low Power Reactor )は、アメリカ陸軍 りくぐん の実験 じっけん 用 よう 原子 げんし 炉 ろ 。 米国 べいこく 西部 せいぶ 、アイダホフォールズ の西 にし 約 やく 40マイル(65 km)にあるアイダホ州 しゅう の国立 こくりつ 原子 げんし 炉 ろ 試験場 しけんじょう (NRTS、National Reactor Testing Station)ー現在 げんざい のアイダホ国立 こくりつ 研究所 けんきゅうじょ (Idaho National Laboratory)ーに存在 そんざい した。
1961年 ねん 1月 がつ 3日 にち 、水蒸気 すいじょうき 爆発 ばくはつ により3名 めい の運転 うんてん 員 いん が死亡 しぼう し、うち1名 めい は原子 げんし 炉 ろ 格納 かくのう 容器 ようき プラグに突 つ きされ天井 てんじょう に固定 こてい される事故 じこ が発生 はっせい した[ 1] [ 2] [ 3] [ 4] 。この事故 じこ はアメリカ国内 こくない において唯一 ゆいいつ 、即死 そくし 者 しゃ を出 だ した原子 げんし 炉 ろ 事故 じこ である[ 5] 。
SL-1は、陸軍 りくぐん 原子力 げんしりょく 発電 はつでん プログラム(英語 えいご 版 ばん ) の一部 いちぶ であり、北極圏 ほっきょくけん 近 ちか くやDEWライン におけるレーダー基地 きち のような小規模 しょうきぼ で遠隔 えんかく の軍事 ぐんじ 施設 しせつ に電力 でんりょく と熱 ねつ を供給 きょうきゅう することを目的 もくてき とした原子 げんし 炉 ろ のプロトタイプであった[ 6] 。設計 せっけい 出力 しゅつりょく は3 MWであった[ 7] が、事故 じこ の数 すう か月 げつ 間 あいだ 前 まえ に4.7 MWの出力 しゅつりょく テストが行 おこな われた。運転 うんてん 出力 しゅつりょく は電気 でんき 200 kW、空間 くうかん 暖房 だんぼう 用 よう の熱 ねつ 出力 しゅつりょく 400 kWであった[ 7] 。
事故 じこ が発生 はっせい した瞬間 しゅんかん 、わずか4ミリ秒 びょう で炉心 ろしん 出力 しゅつりょく は20 GW近 ちか くに達 たっ し、爆発 ばくはつ を引 ひ き起 お こした[ 8] [ 9] [ 10] [ 11] 。直接 ちょくせつ の原因 げんいん は、炉心 ろしん で中性子 ちゅうせいし を吸収 きゅうしゅう する中央 ちゅうおう 制御 せいぎょ 棒 ぼう の過剰 かじょう な引 ひ き抜 ぬ きであった。事故 じこ により約 やく 80キュリー (3.0 TBq )のヨウ素 もと 131 が放出 ほうしゅつ されたが[ 12] 、アイダホ州 しゅう 東部 とうぶ の人里 ひとざと 離 はな れた高地 たかち 砂漠 さばく に位置 いち していたため、重大 じゅうだい な事故 じこ とはみなされなかった。約 やく 1,100キュリー(41 TBq)の核分裂 かくぶんれつ 生成 せいせい 物 ぶつ が大気 たいき 中 ちゅう に放出 ほうしゅつ された[ 13] 。
1954年 ねん から1955年 ねん にかけて、アメリカ陸軍 りくぐん は北極圏 ほっきょくけん の遠隔 えんかく 地 ち で運用 うんよう 可能 かのう な原子 げんし 炉 ろ プラントを必要 ひつよう としていた。 原子 げんし 炉 ろ は、陸軍 りくぐん のレーダー基地 きち に電気 でんき と暖房 だんぼう を供給 きょうきゅう するディーゼル発電 はつでん 機 き とボイラーを置 お き換 か えるものであった。陸軍 りくぐん 原子 げんし 炉 ろ 部門 ぶもん はこのプロジェクトのガイドラインを作成 さくせい し、アルゴンヌ国立 こくりつ 研究所 けんきゅうじょ (ANL)にアルゴンヌ低 てい 出力 しゅつりょく 原子 げんし 炉 ろ (ALPR)と呼 よ ばれるプロトタイプ原子 げんし 炉 ろ プラントの設計 せっけい 、建設 けんせつ 、テストを依頼 いらい した[ 14] 。陸軍 りくぐん が求 もと めた性能 せいのう は以下 いか の通 とお り
すべての部品 ぶひん が空輸 くうゆ できること[ 7]
全 すべ ての部品 ぶひん をパッケージしたとき7.5 x 9 x 20フィート(2.3 m×2.7 m×6.1 m)、重量 じゅうりょう 20,000ポンド (9,100 kg)に収 おさ まること[ 7]
標準 ひょうじゅん 的 てき な部品 ぶひん を使用 しよう すること
現場 げんば において最小限 さいしょうげん の人員 じんいん と手間 てま で建設 けんせつ できること[ 7]
簡易 かんい かつ信頼 しんらい 性 せい があること[ 7]
北極 ほっきょく の永久 えいきゅう 凍土 とうど 地域 ちいき に適応 てきおう 可能 かのう であること[ 7]
炉心 ろしん 燃料 ねんりょう を交換 こうかん せずとも3年間 ねんかん 連続 れんぞく 運転 うんてん できること[ 7] [ 14]
プロトタイプは1957年 ねん 7月 がつ から1958年 ねん 7月 がつ まで、アイダホフォールズ の西 にし にある国立 こくりつ 原子 げんし 炉 ろ 試験場 しけんじょう に建設 けんせつ された。1958年 ねん 8月 がつ 11日 にち に臨界 りんかい 状態 じょうたい になり[ 14] 、10月24日 にち から運転 うんてん が開始 かいし され、12月2日 にち に正式 せいしき に就役 しゅうえき した[ 14] 。3 MW沸騰水 ふっとうすい 型 がた 原子 げんし 炉 ろ (BWR)であり、93.20%の高 こう 濃縮 のうしゅく ウラン燃料 ねんりょう を使用 しよう した[ 15] 。冷却 れいきゃく 材 ざい と減速 げんそく 材 ざい として軽水 けいすい を使用 しよう し、自然 しぜん 循環 じゅんかん で運転 うんてん された。ANL は BORAX実験 じっけん (英語 えいご 版 ばん ) の経験 けいけん を利用 りよう して原子 げんし 炉 ろ を設計 せっけい した。循環 じゅんかん 水 すい は300ポンド毎 ごと 平方 へいほう インチ (2,100 kPa) の圧力 あつりょく で運転 うんてん され、ウランアルミニウム合金 ごうきん でできた燃料 ねんりょう 板 ばん の間 あいだ を通過 つうか した。プラントは広範 こうはん な試験 しけん の後 のち 、1958年 ねん 12月に訓練 くんれん と運転 うんてん 経験 けいけん のために陸軍 りくぐん に引 ひ き渡 わた され、1959年 ねん 2月 がつ 5日 にち からはコンバッション・エンジニアリング 社 しゃ (CEI)が主 しゅ 請負 うけおい 業者 ぎょうしゃ となった[ 16] 。
CEIは、SL-1
炉 ろ の
実際 じっさい の
運転 うんてん 、
陸軍 りくぐん 関係 かんけい 者 しゃ の
日常 にちじょう 訓練 くんれん 、
開発 かいはつ 研究 けんきゅう プログラムを
担当 たんとう した。
この請負 うけおい 業者 ぎょうしゃ は、プロジェクト・マネージャー、オペレーション・スーパーバイザー、テスト・スーパーバイザー、そして約 やく 6人 にん の技術 ぎじゅつ スタッフを現地 げんち に派遣 はけん した。ここ最近 さいきん 数カ月 すうかげつ 、プロジェクト・マネージャーは約 やく 半分 はんぶん の時間 じかん を現地 げんち で過 す ごし、半分 はんぶん はコネチカット州 しゅう にある請負 うけおい 業者 ぎょうしゃ の事務所 じむしょ で過 す ごした。プロジェクト・マネージャーが不在 ふざい のときは、オペレーション・スーパーバイザーかテスト・スーパーバイザーがプロジェクト・マネージャーを務 つと めた。
...委員 いいん 会 かい での証言 しょうげん にあるように、非 ひ 定常 ていじょう 作業 さぎょう が行 おこな われるシフトではCEIが監督 かんとく を行 おこな うと理解 りかい されていた。
...AECのアイダホ
事務所 じむしょ と
陸軍 りくぐん 原子 げんし 炉 ろ 事務所 じむしょ は、
定型 ていけい 作業 さぎょう しかない
夜間 やかん シフトに
監督 かんとく 者 しゃ を
加 くわ えることは、
既存 きそん の
取 と り
決 き めの
下 した で
原子 げんし 炉 ろ を
運転 うんてん する
目的 もくてき の
一部 いちぶ 、すなわち、
軍人 ぐんじん だけでプラントの
運転 うんてん 経験 けいけん を
積 つ むこと、を
台無 だいな しにすると
明 あき らかに
考 かんが えていた。
—
Report on the SL-1 Incident, January 3, 1961、pp. 6–8[ 17]
陸軍 りくぐん 原子 げんし 炉 ろ 訓練 くんれん プログラムの訓練 くんれん 生 せい には、幹部 かんぶ (cadre) と呼 よ ばれる陸軍 りくぐん のメンバーが含 ふく まれており、彼 かれ らはプラントの主要 しゅよう なオペレーターであった。空軍 くうぐん や海軍 かいぐん の数 すう 名 めい とともに、多 おお くの海事 かいじ 関係 かんけい 者 しゃ も訓練 くんれん を受 う けた[ 16] 。プラントの運転 うんてん は通常 つうじょう 、幹部 かんぶ が2人 ふたり 1組 くみ で行 おこな ったが、原子 げんし 炉 ろ の開発 かいはつ はCEIのスタッフが直接 ちょくせつ 監督 かんとく した。CEIは、1960年 ねん 後半 こうはん に原子 げんし 炉 ろ の開発 かいはつ 作業 さぎょう を行 おこな うことを決定 けってい し、PL-1コンデンサー試験 しけん のために原子 げんし 炉 ろ を4.7 MWthermal で運転 うんてん することになった[ 18] 原子 げんし 炉 ろ の炉心 ろしん が老朽 ろうきゅう 化 か し、ホウ素 ほうそ 中性子 ちゅうせいし 毒 どく ストリップが腐食 ふしょく して剥 は がれ落 お ちるにつれて、CEIは炉心 ろしん 内 ない のホウ素 ほうそ の約 やく 18%が失 うしな われたと計算 けいさん した。1960年 ねん 11月11日 にち 、CEIは原子 げんし 炉 ろ 停止 ていし マージンを増 ふ やすためにいくつかのティースロット位置 いち にカドミウム シート(これも中性子 ちゅうせいし 毒 どく である)を取 と り付 つ けた[ 19] 。
事故 じこ 前 まえ のALPR。大 おお きな円筒 えんとう 形 がた の建物 たてもの の下部 かぶ に砂利 じゃり に埋 うず もれた原子 げんし 炉 ろ 、中央 ちゅうおう 部 ぶ に主要 しゅよう 運転 うんてん エリアと運転 うんてん フロア、上部 じょうぶ 付近 ふきん にコンデンサーファンルームがある。周囲 しゅうい には各種 かくしゅ サポート棟 とう や管理 かんり 棟 とう が建 た っている。
プラント設備 せつび のほとんどは、ARA-602と呼 よ ばれる円筒 えんとう 形 がた の鋼鉄 こうてつ 製 せい 原子 げんし 炉 ろ 建屋 たきのや に収 おさ められていた。直径 ちょっけい 38.5フィート (11.7 m)、全高 ぜんこう 48フィート (15 m)で[ 7] 、鋼鉄 こうてつ の厚 あつ さは1 ⁄4 インチ (6.4 mm)であった。建物 たてもの へのアクセスは、支援 しえん 施設 しせつ 棟 とう であるARA-603から密閉 みっぺい された外部 がいぶ 階段 かいだん を通 とお り、通常 つうじょう のドアを抜 ぬ けることで行 おこな われた。非常口 ひじょうぐち のドアは地上 ちじょう への外 そと 階段 かいだん に通 つう じていた[ 7] 。原子 げんし 炉 ろ 建屋 たきのや は、人口 じんこう 密集 みっしゅう 地域 ちいき にある原子 げんし 炉 ろ に使用 しよう されるような圧力 あつりょく 型 がた 格納 かくのう 容器 ようき ではなかった。それにもかかわらず、この建物 たてもの は、最終 さいしゅう 的 てき な爆発 ばくはつ によって放出 ほうしゅつ された放射 ほうしゃ 性 せい 粒子 りゅうし のほとんどを封 ふう じ込 こ めることができた。
原子 げんし 炉 ろ の炉心 ろしん 構造 こうぞう は、59個 こ の燃料 ねんりょう 集合 しゅうごう 体 たい 、1体 たい の起動 きどう 用 よう 中性子 ちゅうせいし 源 げん アセンブリ、および9本 ほん の制御 せいぎょ 棒 ぼう を収納 しゅうのう するように建設 けんせつ された。実際 じっさい の使用 しよう 時 じ 、炉心 ろしん には40個 こ の燃料 ねんりょう 集合 しゅうごう 体 たい があり、5本 ほん の十字 じゅうじ 型 がた 制御 せいぎょ 棒 ぼう によってコントロールされていた[ 7] 。5本 ほん の制御 せいぎょ 棒 ぼう は、断面 だんめん がプラス記号 きごう (+)の形 かたち をしており、中央 ちゅうおう に1本 ほん (ロッド9)、炉心 ろしん の外周 がいしゅう に4本 ほん (ロッド1、3、5、7)あった[ 7] 。これら制御 せいぎょ 棒 ぼう は、厚 あつ さ60ミル (1.5 mm)のカドミウム製 せい で、厚 あつ さ80ミル (2.0 mm)のアルミニウムで被覆 ひふく されていた。各 かく 制御 せいぎょ 棒 ぼう の吸収 きゅうしゅう スパンは14インチ (36 cm)であり吸収 きゅうしゅう 長 なが さは34インチ (86 cm)であった[ 7] 。40個 こ の燃料 ねんりょう 集合 しゅうごう 体 たい はそれぞれ9枚 まい の燃料 ねんりょう 板 ばん で構成 こうせい されていた[ 7] 。燃料 ねんりょう 板 ばん の全体 ぜんたい 厚 あつ さは120ミル (3.0 mm) で、厚 あつ さ50ミル (1.3 mm) のウランアルミニウム合金 ごうきん の「肉 にく 」を厚 あつ さ35ミル (0.89 mm) のX-8001アルミニウム被覆 ひふく 管 かん で覆 おお ったものであった[ 7] 。「肉 にく 」の高 たか さは25.8インチ (66 cm) 、幅 はば は3.5インチ (8.9 cm)であった。燃料 ねんりょう 板間 いたのま のウォーターギャップは310ミル (7.9 mm)であった[ 7] 。初期 しょき の40個 こ の集合 しゅうごう 体 たい は93.2%の高 こう 濃縮 のうしゅく ウラン235を装荷 そうか しており、31ポンド (14 kg)のU-235を含 ふく んでいた[ 7] 。
装荷 そうか された燃料 ねんりょう 集合 しゅうごう 体 たい を59個 こ から減 へ らしたことで負 まけ の反応 はんのう 性 せい 効果 こうか が小 ちい さくなった[ 7] 。4本 ほん の外側 そとがわ の制御 せいぎょ 棒 ぼう は、テストの結果 けっか 、必要 ひつよう ないと判断 はんだん されたため、小型 こがた 炉 ろ 心 しん では使 つか われなかった[ 7] [ 17] 。運転 うんてん 中 ちゅう のSL-1炉心 ろしん では、ロッド2、4、6、8はダミーロッドであり、カドミウムシムを新 あら たに取 と り付 つ けたりテストセンサーを入 い れたりしており、大文字 おおもじ のTのような形 かたち をしていた[ 18] 。炉心 ろしん サイズを最小 さいしょう 化 か する努力 どりょく の結果 けっか 、ロッド9の反応 はんのう 度 ど は異常 いじょう に大 おお きくなった。
1961年 ねん 1月 がつ 3日 にち 、年末年始 ねんまつねんし の休暇 きゅうか が終 お わりSL-1では11日間 にちかん の運転 うんてん 停止 ていし からの業務 ぎょうむ 再開 さいかい に向 む け準備 じゅんび を行 おこな っていた。メンテナンス手順 てじゅん では、駆動 くどう 機構 きこう に再 さい 接続 せつぞく するためにロッド9を手動 しゅどう で数 すう インチ引 ひ き出 だ す必要 ひつよう があった。山岳 さんがく 部 ぶ 標準時 ひょうじゅんじ 午後 ごご 9時 じ 1分 ふん 、このロッドが突然 とつぜん に引 ひ き抜 ぬ かれすぎたため、SL-1は即座 そくざ に臨界 りんかい に達 たっ した。4ミリ秒 びょう で、燃料 ねんりょう 内 ない の巨大 きょだい な出力 しゅつりょく から生 しょう じた熱 ねつ が、炉心 ろしん を溶融 ようゆう させ爆発 ばくはつ 的 てき に蒸発 じょうはつ させた。膨張 ぼうちょう した燃料 ねんりょう は極端 きょくたん な圧力 あつりょく 波 は を発生 はっせい させ、水 みず を上方 かみがた に吹 ふ き上 あ げ、原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき の上部 じょうぶ をピーク圧力 あつりょく 10,000ポンド毎 ごと 平方 へいほう インチ (69,000 kPa)で直撃 ちょくげき した。水 みず の弾丸 だんがん は、約 やく 500ポンド毎 ごと 平方 へいほう インチ (3,400 kPa)の平均 へいきん 圧力 あつりょく を伴 ともな って、速度 そくど 160フィート毎秒 まいびょう (49 m/s)で突 つ き進 すす んだ[ 15] 。この極端 きょくたん なウォーターハンマー は、原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき 全体 ぜんたい を27フィート毎秒 まいびょう (8.2 m/s)の速度 そくど で上昇 じょうしょう させ、シールドプラグは85フィート毎秒 まいびょう (26 m/s)の速度 そくど で吹 ふ き飛 と んだ[ 15] 。原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき の上部 じょうぶ に6つの穴 あな が開 ひら き、高 こう 圧 あつ の水 みず と蒸気 じょうき が放射 ほうしゃ 性 せい デブリを損傷 そんしょう した炉心 ろしん から部屋 へや 全体 ぜんたい に吹 ふ き付 つ けた。後 ご の調査 ちょうさ では、重量 じゅうりょう 26,000-ポンド (12,000 kg)の容器 ようき は9フィート1インチ (2.77 m)ジャンプし、その一部 いちぶ は元 もと の位置 いち に着地 ちゃくち する前 まえ に原子 げんし 炉 ろ 建屋 たきのや の天井 てんじょう に衝突 しょうとつ し[ 9] [ 20] [ 15] 、断熱 だんねつ 材 ざい と砂利 じゃり を運転 うんてん フロアに堆積 たいせき させたと結論 けつろん づけられた[ 15] 。もし容器 ようき のシールハウジング5が天井 てんじょう クレーンに衝突 しょうとつ していなければ、それは10フィート (3.0 m)上昇 じょうしょう していただろう[ 15] 。出力 しゅつりょく 暴走 ぼうそう 、水蒸気 すいじょうき 爆発 ばくはつ 、容器 ようき の移動 いどう が起 お こった時間 じかん は2秒 びょう から4秒 びょう であった[ 15] 。
水 みず と蒸気 じょうき が2人 ふたり の作業 さぎょう 員 いん をフロアにたたきつけ、1人 ひとり が死亡 しぼう 、もう1人 ひとり が重傷 じゅうしょう を負 お った。原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき 上部 じょうぶ のNo.7シールドプラグが3人 にん 目 め の男性 だんせい の股間 こかん を貫通 かんつう し、肩 かた から抜 ぬ けて天井 てんじょう に固定 こてい された[ 9] 。犠牲 ぎせい 者 しゃ は陸軍 りくぐん 特技 とくぎ 兵 へい リチャード・リーロイ・マッキンリー(27歳 さい )とジョン・A・バーンズ(22歳 さい )、海軍 かいぐん 建設 けんせつ 工兵 こうへい 隊 たい の建設 けんせつ 電気 でんき 技師 ぎし (英語 えいご 版 ばん ) 一等 いっとう 兵曹 へいそう リチャード・C・レッグ(26歳 さい )であった[ 21] [ 22] 。後 のち に作家 さっか のトッド・タッカーによって、バーンズ(原子 げんし 炉 ろ 運転 うんてん 員 いん )が棒 ぼう を持 も ち上 あ げて出力 しゅつりょく 暴走 ぼうそう を引 ひ き起 お こしたこと、レッグ(シフト監督 かんとく 者 しゃ )が原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき の上 うえ に立 た っていて突 つ きされ天井 てんじょう に固定 こてい されたこと、マッキンリー(訓練 くんれん 生 せい )が近 ちか くに立 た っていたことが解明 かいめい された。マッキンリーだけが、意識 いしき 不明 ふめい で深 ふか いショック 状態 じょうたい ながら生 い きているのを救助 きゅうじょ 隊 たい が発見 はっけん した[ 9] 。このことは、SL-1調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい の分析 ぶんせき [ 23] や、バーンズとレッグは即死 そくし であったがマッキンリーは頭皮 とうひ 内 ない にびまん性 せい 出血 しゅっけつ の徴候 ちょうこう があり負傷 ふしょう によって死亡 しぼう するまで約 やく 2時 じ 間 あいだ 生存 せいぞん していたことを示唆 しさ する検死 けんし 結果 けっか と一致 いっち していた[ 24] 3人 にん 全員 ぜんいん が身体 しんたい 的 てき 外傷 がいしょう で死亡 しぼう した[ 9] [ 24] 。
初期 しょき の報道 ほうどう では、爆発 ばくはつ は化学 かがく 反応 はんのう によるものかもしれないとされていたが、それはすぐに否定 ひてい された。室内 しつない の様々 さまざま な物質 ぶっしつ に高速 こうそく 中性子 ちゅうせいし 放射 ほうしゃ 化 か が起 お こっており、適切 てきせつ に運転 うんてん されている原子 げんし 炉 ろ とは異 こと なり、原子力 げんしりょく の暴走 ぼうそう を示 しめ していた。
SL-1のような熱 ねつ 中性子 ちゅうせいし 炉 ろ では、核分裂 かくぶんれつ プロセスを制御 せいぎょ し、ウラン235 燃料 ねんりょう の核分裂 かくぶんれつ の可能 かのう 性 せい を高 たか めるために、中性子 ちゅうせいし が減速 げんそく される。十分 じゅうぶん な減速 げんそく 材 ざい がなければ、SL-1のような炉心 ろしん は核 かく 連鎖 れんさ 反応 はんのう を維持 いじ できない。減速 げんそく 材 ざい が炉心 ろしん から取 と り除 のぞ かれると、連鎖 れんさ 反応 はんのう は減少 げんしょう する。減速 げんそく 材 ざい として使用 しよう される水 みず は、液体 えきたい を保 たも つために高 こう 圧 あつ に維持 いじ される。核 かく 燃料 ねんりょう の周 まわ りの水路 すいろ で蒸気 じょうき が形成 けいせい されると連鎖 れんさ 反応 はんのう は抑制 よくせい される。
もう一 ひと つの制御 せいぎょ は、炉心 ろしん での連鎖 れんさ 反応 はんのう に対 たい する遅 おそ 発 はつ 中性子 ちゅうせいし (英語 えいご 版 ばん ) の作用 さよう である。ほとんどの中性子 ちゅうせいし (即発 そくはつ 中性子 ちゅうせいし (英語 えいご 版 ばん ) )はU-235の核分裂 かくぶんれつ によってほぼ瞬時 しゅんじ に生成 せいせい される。しかし、少 しょう 数 すう 個 こ (定常 ていじょう 運転 うんてん をしているU-235燃料 ねんりょう の原子 げんし 炉 ろ では約 やく 0.7%)の中性子 ちゅうせいし は、ある種 しゅ の核分裂 かくぶんれつ 生成 せいせい 物 ぶつ の比較的 ひかくてき 遅 おそ い放射 ほうしゃ 性 せい 崩壊 ほうかい によって発生 はっせい する。(これらの核分裂 かくぶんれつ 生成 せいせい 物 ぶつ は、ウラン235燃料 ねんりょう に近接 きんせつ した燃料 ねんりょう 板 ばん の内側 うちがわ に閉 と じ込 こ められる。)遅 おそ 発 はつ 中性子 ちゅうせいし の生成 せいせい により、原子 げんし 炉 ろ の出力 しゅつりょく 変化 へんか を人間 にんげん や機械 きかい に適 てき した時間 じかん スケールで制御 せいぎょ することが可能 かのう になる[ 25] 。
制御 せいぎょ 装置 そうち や中性子 ちゅうせいし 毒 どく が取 と り除 のぞ かれた場合 ばあい 、即発 そくはつ 中性子 ちゅうせいし だけで臨界 りんかい になる(即発 そくはつ 臨界 りんかい )可能 かのう 性 せい がある。原子 げんし 炉 ろ が即発 そくはつ 臨界 りんかい になる場合 ばあい 、出力 しゅつりょく が2倍 ばい になるまでの時間 じかん は10マイクロ秒 びょう のオーダーである。温度 おんど が出力 しゅつりょく レベルに追従 ついしょう するのに必要 ひつよう な時間 じかん は、炉心 ろしん の設計 せっけい に依存 いぞん する。通常 つうじょう 、一般 いっぱん 的 てき な軽水炉 けいすいろ では、出力 しゅつりょく に対 たい する冷却 れいきゃく 材 ざい 温度 おんど のラグは3~5秒 びょう である。SL-1の設計 せっけい では、蒸気 じょうき の形成 けいせい が始 はじ まるまで約 やく 6ミリ秒 びょう であった[ 15] 。
SL-1は、中央 ちゅうおう の主 しゅ 制御 せいぎょ 棒 ぼう を完全 かんぜん に取 と り外 はず すと、非常 ひじょう に大 おお きな過剰 かじょう 反応 はんのう 度 ど を発生 はっせい させることができるように作 つく られた[ 26] 。追加 ついか の制御 せいぎょ 棒 ぼう の存在 そんざい は、59個 こ の燃料 ねんりょう 集合 しゅうごう 体 たい のうち40個 こ だけに核 かく 燃料 ねんりょう を装荷 そうか するという決定 けってい によるもので、その結果 けっか 、炉心 ろしん は中央 ちゅうおう 部 ぶ でより活発 かっぱつ になった。通常 つうじょう の運転 うんてん では、制御 せいぎょ 棒 ぼう は、持続 じぞく 的 てき な核 かく 反応 はんのう と熱 ねつ 出力 しゅつりょく に足 た る反応 はんのう 度 ど を発生 はっせい させるのに十分 じゅうぶん な距離 きょり だけ引 ひ き出 だ される。しかし、この事故 じこ では、付加 ふか された反応 はんのう 度 ど は、推定 すいてい 4ミリ秒 びょう 以内 いない に原子 げんし 炉 ろ を速 すみ やかに臨界 りんかい に導 みちび くのに十分 じゅうぶん であった[ 27] 。この時間 じかん は、燃料 ねんりょう からの熱 ねつ がアルミニウム被覆 ひふく 管 かん に浸透 しんとう し、負 まけ の減速 げんそく 材 ざい 温度 おんど とボイドフィードバックを介 かい して炉心 ろしん のすべての部分 ぶぶん の出力 しゅつりょく 増加 ぞうか を完全 かんぜん に停止 ていし するのに必要 ひつよう な量 りょう の水 みず を沸騰 ふっとう させるには早 はや すぎた[ 15] [ 27] 。
事故 じこ 後 ご の分析 ぶんせき によると、最終 さいしゅう 的 てき な制御 せいぎょ 方法 ほうほう (すなわち即発 そくはつ 臨界 りんかい 状態 じょうたい の消滅 しょうめつ と持続 じぞく 的 てき な核 かく 連鎖 れんさ 反応 はんのう の終了 しゅうりょう )は、破局 はきょく 的 てき 炉心 ろしん 分解 ぶんかい (破壊 はかい 的 てき 溶融 ようゆう 、気化 きか 、その結末 けつまつ としての炉心 ろしん の最大 さいだい 熱量 ねつりょう が最 もっと も早 はや く発生 はっせい した部分 ぶぶん の爆発 ばくはつ 的 てき 膨張 ぼうちょう )によってもたらされたと結論 けつろん づけられた。この炉心 ろしん 加熱 かねつ と蒸発 じょうはつ のプロセスは、反応 はんのう を停止 ていし させるのに十分 じゅうぶん な蒸気 じょうき が生成 せいせい されるまでの約 やく 7.5ミリ秒 びょう の間 あいだ に起 お こったと推定 すいてい され、蒸気 じょうき シャットダウンより数 すう ミリ秒 びょう 先 さき んじた。ある重要 じゅうよう な統計 とうけい が、炉心 ろしん が崩壊 ほうかい した理由 りゆう を明 あき らかにしている。3 MWの出力 しゅつりょく を想定 そうてい して設計 せっけい された原子 げんし 炉 ろ が、瞬間 しゅんかん 的 てき に約 やく 20 GWのピーク出力 しゅつりょく で運転 うんてん された。これは、安全 あんぜん 動作 どうさ 限界 げんかい の6,000倍 ばい 以上 いじょう の出力 しゅつりょく 密度 みつど である[ 11] 。この臨界 りんかい 事故 じこ は、4.4 × 1018 回 かい の核分裂 かくぶんれつ [ 11] 、すなわち133メガジュール (32 TNT換算 かんさん キログラム)のエネルギーを生成 せいせい したと推定 すいてい されている[ 27] 。
アメリカ国道 こくどう 20号線 ごうせん (英語 えいご 版 ばん ) 近辺 きんぺん の放射能 ほうしゃのう 汚染 おせん を調査 ちょうさ している様子 ようす
事故 じこ 発生 はっせい 時刻 じこく の午後 ごご 9時 じ 1分 ふん (山岳 さんがく 部 ぶ 標準時 ひょうじゅんじ )、原子 げんし 炉 ろ 上部 じょうぶ の熱 ねつ センサーがNRTSの保安 ほあん 施設 しせつ にあるアラームを作動 さどう させた。誤報 ごほう は同日 どうじつ 午前 ごぜん と午後 ごご に発生 はっせい していた。6人 にん の消防 しょうぼう 隊員 たいいん (ケン・ディアーデン副 ふく 署長 しょちょう 、メル・ヘス副 ふく 署長 しょちょう 、ボブ・アーチャー、カール・ジョンソン、エゴン・ランプレヒト、ジェラルド・スチュアート、バーン・コンロン)からなる対応 たいおう チームは、誤報 ごほう を予想 よそう しつつ9分 ふん 後 ご に到着 とうちゃく した[ 28] 。彼 かれ らは最初 さいしょ 、建物 たてもの から少 すこ し蒸気 じょうき が上 あ がっている程度 ていど で、6 °F (−14 °C)の寒 さむ い夜 よる としては普通 ふつう であり、特 とく に異常 いじょう はないと認識 にんしき した。消防 しょうぼう 士 し たちは、SL-1施設 しせつ 内 ない の誰 だれ とも連絡 れんらく がとれず、警備 けいび 員 いん にゲートを開 あ けてもらった。彼 かれ らはスコット・エアパック (英語 えいご 版 ばん ) を着用 ちゃくよう し、確認 かくにん のために支援 しえん 施設 しせつ 棟 とう に到着 とうちゃく した。
建物 たてもの はいつも通 とお りに見 み えたが、無人 むじん だった。休憩 きゅうけい 室 しつ には温 あたた かいコーヒーの入 はい ったマグカップが3つ、近 ちか くには上着 うわぎ が3着 ちゃく 掛 か けられていた[ 9] 。彼 かれ らは原子 げんし 炉 ろ 制御 せいぎょ 室 しつ に入 はい り、放射線 ほうしゃせん 警告 けいこく 灯 とう に気 き づいた。彼 かれ らがSL-1の原子 げんし 炉 ろ 運転 うんてん フロア階 かい まで階段 かいだん を上 のぼ っているとき、彼 かれ らの携帯 けいたい 型 がた 放射線 ほうしゃせん 検出 けんしゅつ 器 き がその最大 さいだい 範囲 はんい を急激 きゅうげき に上回 うわまわ った。このため、2台 だい 目 め の放射線 ほうしゃせん 検出 けんしゅつ 器 き を取 と りに退却 たいきゃく した[ 9] 。2台 だい 目 め の放射線 ほうしゃせん 検出 けんしゅつ 器 き も、再 ふたた び階段 かいだん を上 のぼ っている際 さい に毎時 まいじ 200レントゲン (R/hr)の最大 さいだい 値 ち を示 しめ した[ 26] 。 彼 かれ らは撤退 てったい する前 まえ に原子 げんし 炉 ろ 室 しつ を覗 のぞ き込 こ んだ[ 28] 。
午後 ごご 9時 じ 17分 ふん 、保健 ほけん 物理 ぶつり 学者 がくしゃ が到着 とうちゃく した。彼 かれ とモシュバーガー副 ふく 主任 しゅにん は、潜在 せんざい 的 てき な汚染 おせん 物質 ぶっしつ を強制 きょうせい 的 てき に除去 じょきょ するために、エアタンクとマスクに陽 ひ 圧 あつ をかけ、原子 げんし 炉 ろ 建屋 たきのや の階段 かいだん に近 ちか づいた[ 9] 。 階段 かいだん を上 のぼ り始 はじ めると、二人 ふたり の検出 けんしゅつ 器 き は毎時 まいじ 25レントゲン(R/hr)を示 しめ し、二人 ふたり は退却 たいきゃく した[ 29] 。より測定 そくてい スケールの広 ひろ いイオンチェンバー 検出 けんしゅつ 器 き を発見 はっけん し、二人 ふたり は階段 かいだん の最上階 さいじょうかい に到達 とうたつ し、行方 ゆくえ 不明 ふめい の3人 にん を見 み つけようと原子 げんし 炉 ろ 室 しつ の中 なか を見回 みまわ した[ 30] 。二人 ふたり が持 も つJordan Radector AG-500メーターは、上 のぼ る途中 とちゅう で500 R/hrを記録 きろく した[ 20] [ 30] 。二人 ふたり が目 め にしたのは、薄暗 うすぐら く、湿度 しつど が高 たか く、濡 ぬ れており、岩 いわ や鋼鉄 こうてつ の破片 はへん 、ねじれた金属 きんぞく 、デブリが散乱 さんらん した運転 うんてん フロアであった。
担架 たんか リグ。ダグウェイ実験 じっけん 場 じょう の化学 かがく 放射線 ほうしゃせん 特別 とくべつ 部隊 ぶたい の陸軍 りくぐん 志願 しがん 兵 へい たちは、原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき の真上 まうえ で天井 てんじょう に固定 こてい された男性 だんせい (レッグ)の遺体 いたい を回収 かいしゅう するため、クレーンでリグをSL-1原子 げんし 炉 ろ 建屋 たきのや に搬入 はんにゅう する前 まえ に練習 れんしゅう を行 おこな った。
午後 ごご 10時半 じはん ごろ、アイダホフォールズ 近郊 きんこう からSL-1の主任 しゅにん 保健 ほけん 物理 ぶつり 学者 がくしゃ エド・ヴァラリオとSL-1オペレーション・スーパーバイザーのポール・ダックワースがSL-1に到着 とうちゃく した。二人 ふたり はエアパックを装着 そうちゃく し、管理 かんり 棟 とう から支援 しえん 棟 とう を通 とお り、階段 かいだん を上 のぼ って原子 げんし 炉 ろ フロアに向 む かった。階段 かいだん の途中 とちゅう で、ヴァラリオはマッキンリーのうめき声 ごえ を聞 き いた。2人 ふたり は、彼 かれ と明 あき らかに死亡 しぼう している2人 ふたり 目 め のオペレーターが床 ゆか に倒 たお れているのを発見 はっけん し、出血 しゅっけつ しているマッキンリーのためにチェックポイントに戻 もど って救護 きゅうご を求 もと めることにした[ 30] 。
2人 ふたり は3人 にん の保健 ほけん 物理 ぶつり 学者 がくしゃ と合流 ごうりゅう し、エアパックを装着 そうちゃく して原子 げんし 炉 ろ フロアに戻 もど った。エアパックのマスクは曇 くも って視界 しかい が悪 わる かった。マッキンリーはかすかに動 うご いていたが、体 からだ の一部 いちぶ が金属 きんぞく 片 へん で覆 おお われていたため、ストレッチャーで運 はこ ぶためにレスキュー隊 たい が取 と り除 のぞ かなければならなかった。ヴァラリオも行方 ゆくえ 不明 ふめい の乗組 のりくみ 員 いん を見 み つけようとして瓦礫 がれき を動 うご かした。バーンズは部分 ぶぶん 的 てき に鉄片 てっぺん と血 ち で覆 おお われていた[ 31] 。別 べつ の男性 だんせい がバーンズの脈 みゃく を確認 かくにん し、死亡 しぼう を告 つ げた[ 31] 。
3人 にん の男性 だんせい が外 そと 階段 かいだん を使 つか ってマッキンリーを運 はこ び出 だ そうとし、1人 ひとり の男性 だんせい を外 そと に出 だ してトラックで迎 むか えに来 きた させた[ 31] 。しかし、運転 うんてん フロアを横切 よこぎ って出口 でぐち までマッキンリーを運 はこ んだ後 のち 、設備 せつび が非常口 ひじょうぐち のドアを塞 ふさ いでいるのを発見 はっけん した。このため、救助 きゅうじょ 隊 たい はコースを逆戻 ぎゃくもど りし、メイン階段 かいだん を使 つか うことを余儀 よぎ なくされた[ 31] 。
マッキンリーの移動 いどう 中 ちゅう 、2人 ふたり の男性 だんせい が持 も っていたスコット・エアパックがフリーズして動 うご かなくなった。ダックワースは故障 こしょう のため退避 たいひ し、ヴァラリオはマスクを外 はず して汚染 おせん された空気 くうき を吸 す いながらもマッキンリーの避難 ひなん を完了 かんりょう させた[ 32] [ 30] 。救助 きゅうじょ には約 やく 3分間 ふんかん かかった[ 31] 。
マッキンリーの避難 ひなん は、すぐに放射線 ほうしゃせん 学 がく 上 じょう の大 だい 問題 もんだい に発展 はってん した。マッキンリーはまずパネルトラックに乗 の せられ、次 つぎ に救急 きゅうきゅう 車 しゃ の後部 こうぶ に収容 しゅうよう された[ 33] [ 30] 。救急 きゅうきゅう 車 しゃ の後部 こうぶ で患者 かんじゃ の看護 かんご にあたっていた待機 たいき 中 ちゅう の看護 かんご 師 し ヘレン・ライゼンは、少 すく なくともかすかな呼吸 こきゅう 、おそらく最後 さいご の呼吸 こきゅう を聞 き いた。しかし、車両 しゃりょう が近 ちか くのアメリカ国道 こくどう 20号線 ごうせん に到着 とうちゃく する前 まえ に、AECの医師 いし は看護 かんご 師 し を避難 ひなん させ、救急 きゅうきゅう 車 しゃ の中 なか に入 はい って脈 みゃく がないことを認 みと めた。午後 ごご 11時 じ 14分 ふん 、医師 いし は男性 だんせい の死亡 しぼう を宣告 せんこく した。マッキンリーの遺体 いたい を乗 の せた汚染 おせん された救急 きゅうきゅう 車 しゃ は砂漠 さばく に運 はこ ばれ、数時間 すうじかん 放置 ほうち された[ 30] 。
午後 ごご 10時 じ 38分 ふん 、4人 にん の男性 だんせい が原子 げんし 炉 ろ 建屋 たきのや に入 はい り3人 にん 目 め の犠牲 ぎせい 者 しゃ (レッグ)を発見 はっけん した[ 33] :105 。レッグが最後 さいご に発見 はっけん されたのは、彼 かれ がシールドプラグによって原子 げんし 炉 ろ の上 うえ の天井 てんじょう に固定 こてい されており、容易 ようい に認識 にんしき できなかったからである[ 9] 。
その夜 よる 、大 だい 規模 きぼ な除染 じょせん が行 おこな われた。第 だい 一 いち 対応 たいおう 者 しゃ のうち約 やく 30人 にん がシャワーを浴 あ び、過 か マンガン酸 さん カリウム で手 て をこすり、服 ふく を交換 こうかん した[ 33] [ 30] 。 救急 きゅうきゅう 車内 しゃない の遺体 いたい はその後 ご 、服 ふく を脱 ぬ がされて救急 きゅうきゅう 車 しゃ に戻 もど され、保管 ほかん と解剖 かいぼう のために近 ちか くの施設 しせつ に運 はこ ばれた[ 33] 。
1月 がつ 4日 にち の夜 よる 、6人 にん の志願 しがん チームが2人 ふたり 1組 くみ でSL-1の運転 うんてん フロアからバーンズの遺体 いたい を回収 かいしゅう した。遺体 いたい は救急 きゅうきゅう 車 しゃ で同 おな じ施設 しせつ に運 はこ ばれた[ 33] 。
4日間 にちかん の作業 さぎょう 計画 けいかく の後 のち 、最 もっと も汚染 おせん されていた3体 たい 目 め が回収 かいしゅう された。原子 げんし 炉 ろ 室 しつ の修繕 しゅうぜん は、クレーンに取 と り付 つ けられた鉛 なまり シールドボックスの中 なか で溶接 ようせつ 工 こう が行 おこな わなければならなかった[ 29] 。1月9日 にち 、一 いち 度 ど に2人 にん ずつのリレーで、一人 ひとり あたり65秒 びょう 以上 いじょう の被 ひ ばくを許 ゆる された10人 にん のチームが、長 なが いポールの先 さき についたフックを使 つか ってレッグの遺体 いたい を7番 ばん シールドプラグから引 ひ き抜 ぬ き、建屋 たきのや の外 そと にあるクレーンに取 と り付 つ けられた5 by 20フィート (1.5 m × 6.1 m) の担架 たんか に落下 らっか させた[ 9] [ 20] [ 29] 。
マッキンリーのシガレットライターのネジやバーンズの真鍮 しんちゅう の時計 とけい バンドのバックルから放射 ほうしゃ 性 せい 銅 どう 64 Cuが検出 けんしゅつ され、原子 げんし 炉 ろ が即発 そくはつ 臨界 りんかい に陥 おちい ったことが証明 しょうめい された[ 33] 。このことはレッグの結婚 けっこん 指輪 ゆびわ から198 Auが検出 けんしゅつ されたことを含 ふく む、他 た のいくつかの測定 そくてい 結果 けっか でも示 しめ された。原子 げんし 炉 ろ プラント内 ない の原子力 げんしりょく 事故 じこ 線量 せんりょう 計 けい と被害 ひがい 者 しゃ の衣服 いふく から採取 さいしゅ されたウラン粒子 りゅうし もまた、臨界 りんかい の証拠 しょうこ となった。これらの遺留 いりゅう 品 ひん から中性子 ちゅうせいし で放射 ほうしゃ 化 か された元素 げんそ が発見 はっけん される以前 いぜん は、科学 かがく 者 しゃ たちは原子 げんし 炉 ろ は本質 ほんしつ 的 てき に安全 あんぜん であると信 しん じ、核 かく 爆発 ばくはつ の発生 はっせい を疑 うたが っていた。主要 しゅよう な核分裂 かくぶんれつ 生成 せいせい 物 ぶつ である91 Sr もウラン粒子 りゅうし と一緒 いっしょ に発見 はっけん された[ 33] 。 これらの発見 はっけん は、化学 かがく 爆発 ばくはつ が事故 じこ を引 ひ き起 お こしたという初期 しょき の推測 すいそく を否定 ひてい した[ 20] 。
いくつかの資料 しりょう や目撃 もくげき 証言 しょうげん は、それぞれの犠牲 ぎせい 者 しゃ の名前 なまえ と位置 いち を混同 こんどう している[ 9] 。書籍 しょせき Idaho Falls: The untold story of America's first nuclear accident [ 30] の中 なか で、著者 ちょしゃ は、救助 きゅうじょ 隊 たい がバーンズを生存 せいぞん して発見 はっけん された男性 だんせい と認識 にんしき し、レッグの遺体 いたい は原子 げんし 炉 ろ シールドの横 よこ で発見 はっけん され事故 じこ 翌 よく 夜 よる に回収 かいしゅう されたものであり、原子 げんし 炉 ろ の真上 まうえ の天井 てんじょう に制御 せいぎょ 棒 ぼう で突 つ き刺 さ さっていたのはマッキンリーであると信 しん じていたことを指摘 してき している。この誤認 ごにん は、爆風 ばくふう による犠牲 ぎせい 者 しゃ のひどい損傷 そんしょう によって引 ひ き起 お こされたもので、クラレンス・ラッシュボー (英語 えいご : Clarence Lushbaugh ) が行 おこな った検死 けんし で修正 しゅうせい されたが、このことはしばらくの間 あいだ 混乱 こんらん を引 ひ き起 お こした[ 30] [ 34] 。
マッキンリーを運 はこ んだ7人 にん の救助 きゅうじょ 隊員 たいいん はカーネギー・ヒーロー基金 ききん (英語 えいご 版 ばん ) からカーネギー・ヒーロー賞 しょう を授与 じゅよ された[ 35] 。
SL-1オペレーション・スーパーバイザーのポール・ダックワース
SL-1テスト・スーパーバイザーのシドニー・コーエン
SL-1アシスタント・オペレーション・スーパーバイザーのウィリアム・ラウシュ
SL-1保健 ほけん 物理 ぶつり 学者 がくしゃ のエド・ヴァラリオ
当直 とうちょく のAECサイト調査 ちょうさ チーフのウィリアム・ガミル
保健 ほけん 物理 ぶつり 学者 がくしゃ のラヴェル・J・キャリスター
保健 ほけん 物理 ぶつり 技術 ぎじゅつ 者 しゃ のデロス・E・リチャーズ
必要 ひつよう な保守 ほしゅ 手順 てじゅん のひとつで、切 き り離 はな された自動 じどう 制御 せいぎょ 機構 きこう に取 と り付 つ けるため、ロッド9を約 やく 4インチ (10 cm)手動 しゅどう で引 ひ き抜 ぬ くことが求 もと められた。事故 じこ 後 ご の計算 けいさん やロッド9の傷 きず の調査 ちょうさ から、実際 じっさい には約 やく 20インチ (51 cm)引 ひ き抜 ぬ かれ、原子 げんし 炉 ろ が即 そく 臨界 りんかい になり、水蒸気 すいじょうき 爆発 ばくはつ を引 ひ き起 お こしたと推定 すいてい されている。ロッドが引 ひ き抜 ぬ かれた最 もっと も一般 いっぱん 的 てき な説 せつ は、(1)運転 うんてん 員 いん の一人 ひとり によるサボタージュまたは自殺 じさつ 、(2)他 た の運転 うんてん 員 いん の一人 ひとり の妻 つま との不倫 ふりん を含 ふく む殺人 さつじん 自殺 じさつ 、(3)主 しゅ 制御 せいぎょ 棒 ぼう の不 ふ 注意 ちゅうい による引 ひ き抜 ぬ き、(4)ロッドを”運動 うんどう ”させる(鞘 さや 内 ない でよりスムーズに動 うご くようにする)意図 いと 的 てき な試 こころ み、である[ 36] [ 37] [ 9] [ 30] 。保守 ほしゅ 記録 きろく は技術 ぎじゅつ 者 しゃ が何 なに をしようとしていたのかに触 ふ れていないため、事故 じこ の実際 じっさい の原因 げんいん はわからない。しかし、自殺 じさつ であった可能 かのう 性 せい は低 ひく いと思 おも われる[ 38] [より良 よ い情報 じょうほう 源 げん が必要 ひつよう ] 。
事故 じこ 後 ご 、同 おな じ重 おも さの模擬 もぎ 制御 せいぎょ 棒 ぼう を使 つか った実験 じっけん が行 おこな われ、1人 ひとり または2人 ふたり の男性 だんせい がロッド9を20インチ引 ひ き抜 ぬ くことが可能 かのう であったかが判断 はんだん された。実験 じっけん には、48ポンド (22 kg)[ 7] の中央 ちゅうおう のロッドが動 うご かなくなり、1人 ひとり の男 おとこ が自分 じぶん でそれを解放 かいほう したという可能 かのう 性 せい のシミュレーションも含 ふく まれ、調査官 ちょうさかん が最適 さいてき な説明 せつめい と考 かんが えたシナリオが再現 さいげん された:バーンズが制御 せいぎょ 棒 ぼう を緩 ゆる め、誤 あやま って引 ひ き抜 ぬ き、3人 にん 全員 ぜんいん が死亡 しぼう した[ 9] 。ロッド9が手動 しゅどう で急速 きゅうそく に引 ひ き抜 ぬ かれたという説 せつ を検証 けんしょう する際 さい 、3人 にん の男性 だんせい が時間 じかん を計 はか った試験 しけん に参加 さんか し、彼 かれ らの努力 どりょく とその結果 けっか 発生 はっせい した核 かく 爆発 ばくはつ のエネルギーが比較 ひかく された[ 33] 。
予備 よび のSL-1
制御 せいぎょ 棒 ぼう アクチュエータ・アセンブリを
模擬 もぎ 実験 じっけん に
使用 しよう し、
数 すう 名 めい の
被験者 ひけんしゃ の
手動 しゅどう 引 ひ き
抜 ぬ き
速度 そくど を
測定 そくてい した。
制御 せいぎょ 棒 ぼう 以外 いがい はSL-1のものと
同 おな じで、
水中 すいちゅう でのSL-1
可動 かどう アセンブリの
正味 しょうみ 重量 じゅうりょう である84ポンドの
総 そう 可動 かどう 荷重 かじゅう を
与 あた えるために
錘 おもり で
模擬 もぎ されている。(
中略 ちゅうりゃく )テストは、
被験者 ひけんしゃ にできるだけ
速 はや くロッドを
持 も ち
上 あ げるよう
指示 しじ し、その
間 あいだ に
電気 でんき タイマーがロッドの
動 うご き
始 はじ めから
所定 しょてい の
距離 きょり の
引 ひ き
抜 ぬ きまでの
経過 けいか 時間 じかん を
計測 けいそく することで
行 おこな われた。30インチまでの
距離 きょり が
測定 そくてい された。
(中略 ちゅうりゃく )
以上 いじょう の
推論 すいろん から、5.3ミリ
秒 びょう という
短 みじか い
周期 しゅうき を
生 う み
出 だ すために
必要 ひつよう なロッドの
引 ひ き
抜 ぬ き
速度 そくど は、
人間 にんげん の
能力 のうりょく の
限界 げんかい 内 ない に
十分 じゅうぶん 収 おさ まることがわかった。
—
IDO-19300、SL-1 Reactor Accident on January 3, 1961, Interim Report, May 15, 1961[ 33]
SL-1では、制御 せいぎょ 棒 ぼう が制御 せいぎょ 棒 ぼう チャンネルにはまり込 こ むことがあった。制御 せいぎょ 棒 ぼう が適切 てきせつ に動作 どうさ していることを確認 かくにん するため、制御 せいぎょ 棒 ぼう を評価 ひょうか する多 おお くの手順 てじゅん が実施 じっし された。通常 つうじょう 運転 うんてん のための定期 ていき 的 てき なロッド運動 うんどう とロッドの引 ひ き抜 ぬ きに加 くわ えて、各 かく ロッドのロッド落下 らっか 試験 しけん とスクラム試験 しけん が行 おこな われた。1959年 ねん 2月 がつ から1960年 ねん 11月18日 にち までに、スクラムテストとロッド落下 らっか テストで制御 せいぎょ 棒 ぼう が動 うご かなくなったケースが40件 けん あり、故障 こしょう 率 りつ は約 やく 2.5%であった。1960年 ねん 11月18日 にち から12月23日 にち までは、スタックしたロッドが激増 げきぞう し、この期間 きかん に23件 けん 、故障 こしょう 率 りつ は13.0%であった。これらのテスト失敗 しっぱい のほかに、1959年 ねん 2月 がつ から1960年 ねん 12月 がつ までに21件 けん のロッド固着 こちゃく 事故 じこ があった。このうち4件 けん は、運転 うんてん 最後 さいご の月 つき に、定期 ていき 的 てき なロッド引 ひ き抜 ぬ き中 ちゅう に発生 はっせい したものであった。ロッド9は、他 た のどのロッドよりも頻繁 ひんぱん に動作 どうさ されたにもかかわらず、最 もっと も良好 りょうこう な動作 どうさ 実績 じっせき であった。
ロッドの固着 こちゃく は、ミスアライメント、腐食 ふしょく 生成 せいせい 物 ぶつ の蓄積 ちくせき 、ベアリングの磨耗 まもう 、クラッチの磨耗 まもう 、駆動 くどう 機構 きこう のシールの磨耗 まもう に起因 きいん している。試験 しけん 中 ちゅう にロッドが動 うご かなくなった故障 こしょう モード(ベアリングやクラッチの摩耗 まもう など)の多 おお くは、制御 せいぎょ 棒 ぼう 駆動 くどう 機構 きこう が行 おこな う動作 どうさ にのみ当 あ てはまる。No.9のロッドは中央 ちゅうおう に位置 いち しているため、固着 こちゃく しやすいNo.1、No.3、No.5、No.7よりもアライメントが良 よ かったのかもしれない。事故 じこ 後 ご 、バーンズが行 おこな っていた再 さい 接続 せつぞく 作業 さぎょう 中 ちゅう にロッドの固着 こちゃく がなかったかどうかを調 しら べるため、日誌 にっし の確認 かくにん や元 もと プラントオペレーターへのき取 きと り調査 ちょうさ が行 おこな われた。ある者 もの は約 やく 300回 かい 、別 べつ の者 もの は約 やく 250回 かい この作業 さぎょう を行 おこな っていたが、どちらもこの手順 てじゅん 中 ちゅう に手動 しゅどう で制御 せいぎょ 棒 ぼう を持 も ち上 あ げたときに、制御 せいぎょ 棒 ぼう が固着 こちゃく したと感 かん じたことはなかった[ 33] 。さらに、手動 しゅどう 再 さい 接続 せつぞく 中 ちゅう にロッドが固着 こちゃく したと報告 ほうこく した者 もの はいなかった。
1961年 ねん 6月 がつ の議会 ぎかい 公聴 こうちょう 会 かい で、SL-1プロジェクト・マネジャーのW.B.オルレッドは、SL-1プラントの運転 うんてん をCEIが「24時 じ 間 あいだ 体制 たいせい 」で監督 かんとく しなかったのは、原子力 げんしりょく 委員 いいん 会 かい (AEC)が「予算 よさん の関係 かんけい で」拒否 きょひ したからだと認 みと めた。オルレッドは、1960年 ねん 11月16日 にち から12月23日 にち の最終 さいしゅう シャットダウンまでの間 あいだ に、ロッドの固着 こちゃく が増 ふ えたことについても質問 しつもん された。この増加 ぞうか について、オルレッドは、「私 わたし は大幅 おおはば な増加 ぞうか を完全 かんぜん に認識 にんしき していたわけではない」、「このような急激 きゅうげき な増加 ぞうか が起 お こったとは知 し らなかった」と述 の べた。固着 こちゃく 問題 もんだい を知 し らせた責任 せきにん 者 しゃ は誰 だれ かという質問 しつもん に対 たい し、オルレッドは、SL-1オペレーション・スーパーバイザーのポール・ダックワースが報告 ほうこく すべきだったが、しなかったと答 こた えた。オルレッドは、もし制御 せいぎょ 棒 ぼう の固着 こちゃく が増加 ぞうか していることを知 し っていたら、「もっと詳 くわ しく調 しら べるためにプラントを停止 ていし しただろう」と答 こた えた[ 18] 。
機械 きかい 的 てき ・物質 ぶっしつ 的 てき 証拠 しょうこ と核 かく ・化学 かがく 的 てき 証拠 しょうこ とが相 あい まって、彼 かれ らは中央 ちゅうおう 制御 せいぎょ 棒 ぼう が非常 ひじょう に急速 きゅうそく に引 ひ き抜 ぬ かれたと考 かんが えざるを得 え なかった。(中略 ちゅうりゃく )科学 かがく 者 しゃ たちはSL-1の元 もと 運転 うんてん 員 いん に質問 しつもん した: 「中央 ちゅうおう 制御 せいぎょ 棒 ぼう が引 ひ き抜 ぬ かれたら、原子 げんし 炉 ろ が臨界 りんかい に達 たっ することを知 し っていましたか?答 こた えはこうだった: 「もちろんです!レーダー基地 きち にいてロシア軍 ぐん が来 き たらどうするか、よく話 はな していました。制御 せいぎょ 棒 ぼう を引 ひ き抜 ぬ くんだ」。"
—
Susan M. Stacy、Proving the Principle, 2000[ 20]
この事故 じこ により、SL-1の設計 せっけい は放棄 ほうき され、将来 しょうらい の原子 げんし 炉 ろ は、制御 せいぎょ 棒 ぼう を1本 ほん 抜 ぬ いただけでは非常 ひじょう に大 おお きな過剰 かじょう 反応 はんのう 度 ど を生 しょう じないように設計 せっけい されることになった。今日 きょう 、これは"one stuck rod"という基準 きじゅん として知 し られ、最 もっと も反応 はんのう 性 せい の高 たか い棒 ぼう が完全 かんぜん に引 ひ き抜 ぬ かれた位置 いち で止 と まっていても、完全 かんぜん なシャットダウン能力 のうりょく が要求 ようきゅう される。原子 げんし 炉 ろ の運転 うんてん に必要 ひつよう な文書 ぶんしょ と手順 てじゅん は大幅 おおはば に拡大 かくだい し、はるかに形式 けいしき 的 てき になった。放射線 ほうしゃせん 測定 そくてい 器 き は、緊急 きんきゅう 時 じ 対応 たいおう 活動 かつどう のために、より高 たか い範囲 はんい を測定 そくてい できるように変更 へんこう された。
SL-1の炉心 ろしん の中心 ちゅうしん 部 ぶ は一時 いちじ 的 てき に蒸発 じょうはつ したものの、炉心 ろしん 溶融 ようゆう 物 ぶつ はほとんど回収 かいしゅう されなかった。燃料 ねんりょう 板 ばん は空洞 くうどう を残 のこ して破局 はきょく 的 てき に破壊 はかい された形跡 けいせき を示 しめ したが、相当 そうとう 量 りょう の溶融 ようゆう 物質 ぶっしつ は回収 かいしゅう されず、観察 かんさつ もされなかった。さらに、板間 いたのま に溶融 ようゆう 物 ぶつ が流 なが れ出 だ した形跡 けいせき はない。炉心 ろしん が急速 きゅうそく に冷却 れいきゃく されたことが、溶融 ようゆう 物 ぶつ が少量 しょうりょう であった原因 げんいん と考 かんが えられている。炉心 ろしん 溶融 ようゆう 物 ぶつ が原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき の底 そこ に到達 とうたつ したり浸透 しんとう したりするには、発生 はっせい した熱量 ねつりょう が不十分 ふじゅうぶん だった。
SL-1原子 げんし 炉 ろ 建屋 たきのや は放射能 ほうしゃのう の大 だい 部分 ぶぶん を保持 ほじ していたが、風下 かざしも にあるプラント建屋 たきのや のヨウ素 もと 131 レベルは、数日 すうじつ 間 あいだ のモニタリングでバックグラウンドレベルの50倍 ばい に達 たっ した。例 たと えば、支援 しえん 施設 しせつ 棟 とう の放射線 ほうしゃせん 調査 ちょうさ では、ホールの汚染 おせん 度 ど は高 たか かったが、オフィスの汚染 おせん 度 ど は低 ひく かった。事故 じこ 前 まえ の放射線 ほうしゃせん 被曝 ひばく 限度 げんど は、人命 じんめい 救助 きゅうじょ で100レントゲン、貴重 きちょう 品 ひん 保護 ほご で25レントゲンだった。事故 じこ への対応 たいおう 中 ちゅう 、22人 にん が3~27レントゲンの全身 ぜんしん 被曝 ひばく を受 う けた[ 39] 。放射 ほうしゃ 性 せい 廃棄 はいき 物 ぶつ の除去 じょきょ と3体 たい の遺体 いたい の処理 しょり は、最終 さいしゅう 的 てき に790人 にん を有害 ゆうがい なレベルの放射線 ほうしゃせん に曝 さら した[ 40] 。 1962年 ねん 3月 がつ 、AECは対応 たいおう に参加 さんか した32人 にん に英雄 えいゆう 証明 しょうめい 書 しょ を授与 じゅよ した。
手順 てじゅん の検証 けんしょう を行 おこな うための一時 いちじ 中断 ちゅうだん の後 のち 、陸軍 りくぐん は原子 げんし 炉 ろ の使用 しよう を継続 けいぞく し、1963年 ねん 2月 がつ 28日 にち に全 ぜん 出力 しゅつりょく の運転 うんてん を開始 かいし した移動 いどう 式 しき 低 てい 出力 しゅつりょく 原子 げんし 炉 ろ (ML-1 (英語 えいご 版 ばん ) )を稼働 かどう させ、記録 きろく 上 じょう 最小 さいしょう の原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ となった。この設計 せっけい は、腐食 ふしょく の問題 もんだい で最終 さいしゅう 的 てき に放棄 ほうき された。試験 しけん の結果 けっか 、原子力 げんしりょく 発電 はつでん の方 ほう が総 そう 費用 ひよう が低 ひく くなる可能 かのう 性 せい が高 たか いことが示 しめ されていたが、ベトナム戦争 せんそう の財政 ざいせい 的 てき 圧 あつ 力 りょく により、陸軍 りくぐん は初期 しょき 費用 ひよう の低 ひく さを優先 ゆうせん するようになり、既存 きそん の原子 げんし 炉 ろ は稼働 かどう を続 つづ けたものの、1965年 ねん に原子 げんし 炉 ろ 計画 けいかく の開発 かいはつ を中止 ちゅうし した。
ゼネラル・エレクトリック 社 しゃ は、原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき を撤去 てっきょ し、SL-1プロジェクトサイトの汚染 おせん された建物 たてもの を解体 かいたい ・清掃 せいそう するために雇 やと われた[ 15] 。敷地 しきち は1961年 ねん から1962年 ねん にかけて清掃 せいそう され、汚染 おせん された瓦礫 がれき の大 だい 部分 ぶぶん が取 と り除 のぞ かれ、埋 う められた[ 15] 。この大 おお がかりな清掃 せいそう 作業 さぎょう には、原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき を近 ちか くの「ホットショップ」に運 はこ び、徹底的 てっていてき に分析 ぶんせき することも含 ふく まれていた[ 15] 。その他 た の重要 じゅうよう 度 ど の低 ひく いものは処分 しょぶん されるか、さまざまな洗浄 せんじょう のために除染 じょせん 場所 ばしょ に運 はこ ばれた。SL-1サイトの清掃 せいそう には、米 べい 軍 ぐん や原子力 げんしりょく 委員 いいん 会 かい のボランティアを含 ふく む約 やく 475人 にん が参加 さんか した[ 15] 。
回収 かいしゅう 作業 さぎょう では、運転 うんてん 室 しつ フロアの放射 ほうしゃ 性 せい 瓦礫 がれき の除去 じょきょ も行 おこな われた。原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき とその真上 まうえ にあるファンルームの周囲 しゅうい は放射線 ほうしゃせん 量 りょう が非常 ひじょう に高 たか いため、原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき の回収 かいしゅう は困難 こんなん を極 きわ めた。遠隔 えんかく 操作 そうさ 装置 そうち 、クレーン、ブームトラック、安全 あんぜん 対策 たいさく を開発 かいはつ し、回収 かいしゅう チームがテストする必要 ひつよう があった。放射線 ほうしゃせん 調査 ちょうさ と写真 しゃしん 分析 ぶんせき によって、どのようなものを最初 さいしょ に建物 たてもの から取 と り除 のぞ く必要 ひつよう があるかが決定 けってい された[ 15] 。強力 きょうりょく なバキュームクリーナーは、男性 だんせい チームによって手動 しゅどう で操作 そうさ され、大量 たいりょう の瓦礫 がれき を回収 かいしゅう した[ 15] 。運転 うんてん フロアの上 うえ にある手動 しゅどう の天井 てんじょう クレーンを使 つか って、重 おも さ19,600ポンド (8,900 kg)にもなる多数 たすう の重量 じゅうりょう 物 ぶつ を移動 いどう させ、外 そと の地面 じめん に投棄 とうき した[ 15] 。毎時 まいじ 400レントゲンに達 たっ するホットスポットが発見 はっけん され、作業 さぎょう エリアから取 と り除 のぞ かれた。
運転 うんてん 室 しつ フロアは比較的 ひかくてき きれいで放射線 ほうしゃせん 場 じょう も管理 かんり しやすいため、手動 しゅどう 式 しき 天井 てんじょう クレーンを使 つか って原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき を試験 しけん 的 てき に持 も ち上 あ げた[ 15] 。クレーンにはダイヤル式 しき の荷重 かじゅう 計 けい が取 と り付 つ けられ、原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき は数 すう インチ持 も ち上 あ げられた。この試験 しけん で、原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき は推定 すいてい 23,000ポンド (10,000 kg)に未知 みち の瓦礫 がれき を加 くわ えた重 おも さ約 やく 26,000ポンド (12,000 kg)であることが判明 はんめい した。原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき の上 うえ にある建物 たてもの の構造 こうぞう 物 ぶつ の大 だい 部分 ぶぶん を取 と り除 のぞ いた後 のち 、60トンマニトワック3900型 がた クレーンが原子 げんし 炉 ろ 容器 ようき を建物 たてもの から取 と り出 だ し、容量 ようりょう 60トンのローボーイトレーラーと繋 つな がったトラクタートレーラーに取 と り付 つ けられた輸送 ゆそう キャスクに吊 つ り下 お ろした[ 15] 。 45本 ほん の送電 そうでん 線 せん 、電話 でんわ 線 せん 、および支線 しせん を走行 そうこう 予定 よてい 道路 どうろ から引 ひ き上 あ げまたは撤去 てっきょ した後 のち 、トラクタートレーラーは、多数 たすう の監視 かんし 員 いん と監督 かんとく 者 しゃ を伴 ともな って、約 やく 35マイル (56 km) 離 はな れたテストエリアノース (英語 えいご 版 ばん ) として知 し られるNRTSの遠隔 えんかく 地 ち に位置 いち するANPホットショップ(もともとは航空機 こうくうき 用 よう 原子 げんし 炉 ろ 推進 すいしん (英語 えいご 版 ばん ) プログラムに関連 かんれん していた)へ時速 じそく 約 やく 10マイル毎時 まいじ (16 km/h) で進 すす んだ[ 14] 。廃棄 はいき 物 ぶつ を埋設 まいせつ したことで、SL-1から放射 ほうしゃ 性 せい 廃棄 はいき 物 ぶつ 処理 しょり 施設 しせつ まで16マイル (26 km)の一般 いっぱん 道路 どうろ を汚染 おせん 瓦礫 がれき を運搬 うんぱん する際 さい に生 しょう じる、一般 いっぱん 市民 しみん や作業 さぎょう 員 いん の被曝 ひばく を最小限 さいしょうげん に抑 おさ えることができた。敷地 しきち 内 ない の最初 さいしょ の清掃 せいそう には約 やく 24ヶ月 かげつ を要 よう した。原子 げんし 炉 ろ 建屋 たきのや 全体 ぜんたい 、近隣 きんりん の建屋 たきのや の汚染 おせん 物質 ぶっしつ 、浄化 じょうか 作業 さぎょう 中 ちゅう に汚染 おせん された土壌 どじょう と砂利 じゃり が埋設 まいせつ 地 ち に埋 う められた。埋設 まいせつ 物 ぶつ の大 だい 部分 ぶぶん は土壌 どじょう と砂利 じゃり である[ 41] [ 42]
リップラップ (英語 えいご 版 ばん ) で覆 おお われた2003年 ねん のSL-1埋設 まいせつ 地 ち
燃料 ねんりょう を含 ふく む炉心 ろしん の回収 かいしゅう された部分 ぶぶん と、事故 じこ 調査 ちょうさ に重要 じゅうよう な原子 げんし 炉 ろ の他 ほか のすべての部分 ぶぶん は、研究 けんきゅう のためにANPホットショップに持 も ち込 こ まれた。事故 じこ 調査 ちょうさ 終了 しゅうりょう 後 ご 、原子 げんし 炉 ろ 燃料 ねんりょう は再 さい 処理 しょり のためアイダホ化学 かがく 処理 しょり 工場 こうじょう に送 おく られた。燃料 ねんりょう を除 のぞ いた炉心 ろしん は、研究 けんきゅう のためにホットショップに送 おく られた他 ほか の部品 ぶひん とともに、最終 さいしゅう 的 てき に放射 ほうしゃ 性 せい 廃棄 はいき 物 ぶつ 管理 かんり 施設 しせつ で処分 しょぶん された[ 41] 。
SL-1の残骸 ざんがい は現在 げんざい 、北緯 ほくい 43度 ど 31分 ふん 17.8秒 びょう 西経 せいけい 112度 ど 49分 ふん 04.8秒 びょう / 北緯 ほくい 43.521611度 ど 西経 せいけい 112.818000度 ど / 43.521611; -112.818000 の元 もと の場所 ばしょ の近 ちか くに埋 う められている[ 43] 。埋設 まいせつ 場所 ばしょ は3つの掘削 くっさく 坑 あな から構成 こうせい されており、合計 ごうけい 99,000立方 りっぽう フィート (2,800 m3 )の汚染 おせん 物質 ぶっしつ が埋設 まいせつ された。掘削 くっさく は、使用 しよう された機材 きざい が許 ゆる す限 かぎ り玄武岩 げんぶがん の近 ちか くまで掘 ほ られ、深 ふか さは8 - 14フィート (2.4 - 4.3 m)であった。少 すく なくとも2フィート (0.61 m)の汚染 おせん されていない盛土 もりつち が各 かく 掘削 くっさく 坑 あな の上 うえ に敷 し かれた。1962年 ねん 9月 がつ の浄化 じょうか 活動 かつどう の完了 かんりょう 時 じ に、掘削 くっさく 坑 あな の上 うえ に浅 あさ い土 ど のマウンドが追加 ついか された。敷地 しきち と埋設 まいせつ 地 ち は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 環境 かんきょう 保護 ほご 庁 ちょう スーパーファンド (英語 えいご 版 ばん ) Operable Unit 5-05として総称 そうしょう されている[ 41] [ 44] 。
SL-1事故 じこ から数 すう 年間 ねんかん 、埋設 まいせつ 地 ち とその周辺 しゅうへん 地域 ちいき の地表 ちひょう の放射線 ほうしゃせん 調査 ちょうさ と清掃 せいそう が数多 かずおお く実施 じっし された。航空 こうくう 調査 ちょうさ は1974年 ねん 、1982年 ねん 、1990年 ねん 、1993年 ねん にEG&G (英語 えいご 版 ばん ) ラスベガス社 しゃ によって実施 じっし された。放射線 ほうしゃせん 環境 かんきょう 科学 かがく 研究所 けんきゅうじょ は、1973年 ねん から1987年 ねん までは3~4年 ねん ごとに、1987年 ねん から1994年 ねん までは毎年 まいとし ガンマ線 がんません 調査 ちょうさ を実施 じっし した。1985年 ねん と1993年 ねん には、現場 げんば で粒子 りゅうし 採取 さいしゅ が行 おこな われた。調査 ちょうさ の結果 けっか 、セシウム137 とその子孫 しそん 核種 かくしゅ (崩壊 ほうかい 生成 せいせい 物 ぶつ )が表層 ひょうそう 土壌 どじょう の主 おも な汚染 おせん 物質 ぶっしつ であることが示 しめ された。1994年 ねん 6月 がつ の表層 ひょうそう 土壌 どじょう 調査 ちょうさ では、埋設 まいせつ 地 ち 内 ない に「ホットスポット」と呼 よ ばれる放射能 ほうしゃのう 濃度 のうど の高 たか い場所 ばしょ が見 み つかり、その放射能 ほうしゃのう 濃度 のうど は毎時 まいじ 0.1~50ミリレントゲン(mR)であった。1994年 ねん 11月17日 にち 、SL-1埋設 まいせつ 地 ち の地表 ちひょう から2.5フィート (0.76 m)で測定 そくてい された最高 さいこう 放射線 ほうしゃせん 量 りょう は毎時 まいじ 0.5mRで、地域 ちいき のバックグラウンド放射線 ほうしゃせん 量 りょう は毎時 まいじ 0.2mRであった。EPAによる1995年 ねん の評価 ひょうか では、埋設 まいせつ 孔 あな にキャップをかぶせることが推奨 すいしょう された。SL-1の主 おも な対処 たいしょ 策 さく は、主 おも に天然 てんねん の材料 ざいりょう で構築 こうちく された人工 じんこう バリアで蓋 ぶた をすることによる封 ふう じ込 こ めであった[ 41] 。この措置 そち は2000年 ねん に完了 かんりょう し、2003年 ねん にEPAによって初 はじ めて再 さい 評価 ひょうか が行 おこな われた[ 44] 。
アメリカ原子力 げんしりょく 委員 いいん 会 かい が制作 せいさく したフィルムのアニメーション。インターネットアーカイブ から利用 りよう 可能 かのう 。
アメリカ政府 せいふ は1960年代 ねんだい 、この事故 じこ に関 かん する映画 えいが を内部 ないぶ 用 よう に制作 せいさく した。このビデオはその後 ご 公開 こうかい され、インターネットアーカイブ [ 45] やYouTube で見 み ることができる。SL-1 は、ダイアン・オアーとC・ラリー・ロバーツが脚本 きゃくほん と監督 かんとく を務 つと めた、原子 げんし 炉 ろ 爆発 ばくはつ を題材 だいざい にした1983年 ねん の映画 えいが のタイトルである[ 40] 。この映画 えいが では、科学 かがく 者 しゃ へのインタビュー、記録 きろく フィルム、同 どう 時代 じだい の映像 えいぞう 、スローモーション・シーケンスなどが使用 しよう されている[ 46] [ 47] 。この事故 じこ にまつわる出来事 できごと は1冊 さつ の本 ほん の題材 だいざい にもなっているIdaho Falls: The untold story of America's first nuclear accident (2003)[ 30] 。またProving the Principle – A History of The Idaho National Engineering and Environmental Laboratory, 1949–1999 (2000)[ 48] の2章 しょう でも取 と り上 あ げられている[48]。
1975年 ねん 、ジョン・G・フラー (英語 えいご : John G. Fuller )著 ちょ の反 はん 原発 げんぱつ 本 ほん 我々 われわれ はデトロイトを失 うしな うところであった (英語 えいご : We Almost Lost Detroit ) (日本語 にほんご 翻訳 ほんやく 版 ばん 『原子 げんし 炉 ろ 災害 さいがい : ドキュメント』)が出版 しゅっぱん され、アイダホフォールズの事故 じこ について言及 げんきゅう された。Prompt Critical は、ジェームズ・ローレンス・シカードが脚本 きゃくほん と監督 かんとく を手 て がけ、SL-1事故 じこ にまつわる出来事 できごと をドラマ化 か した、YouTubeで視聴 しちょう 可能 かのう な2012年 ねん の短編 たんぺん 映画 えいが のタイトルである[ 49] 。ヒストリーチャンネル では、この事故 じこ に関 かん するドキュメンタリーが放映 ほうえい された[ 50] 。
溶融 ようゆう したSL-1の炉心 ろしん を描 えが いた、エンジニアリングオフィス用 よう にデザインされた安全 あんぜん ポスター[ 51] 。
他 た の著者 ちょしゃ 、トッド・タッカーはこの事故 じこ を研究 けんきゅう し、米 べい 軍 ぐん 各 かく 部隊 ぶたい の原子 げんし 炉 ろ 計画 けいかく の歴史 れきし 的 てき 側面 そくめん を詳述 しょうじゅつ した本 ほん を出版 しゅっぱん した。タッカーは、情報 じょうほう 公開 こうかい 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) を使 つか って犠牲 ぎせい 者 しゃ の検死 けんし を含 ふく む報告 ほうこく 書 しょ を入手 にゅうしゅ し、各人 かくじん がどのように死亡 しぼう し、遺体 いたい の一部 いちぶ がどのように切断 せつだん され、分析 ぶんせき され、放射 ほうしゃ 性 せい 廃棄 はいき 物 ぶつ として埋 う められたかを詳細 しょうさい に記 しる した[ 9] 。検死 けんし を行 おこな ったのは、セシル・ケリー臨界 りんかい 事故 じこ 後 ご の仕事 しごと で知 し られる病理 びょうり 学者 がくしゃ である。タッカーは、検死 けんし において犠牲 ぎせい 者 しゃ の体 からだ の一部 いちぶ を切断 せつだん した理由 りゆう を、表面 ひょうめん で毎時 まいじ 1,500レントゲンを発 はっ していたからだと説明 せつめい する。SL-1の事故 じこ では、現場 げんば にいた3人 にん の軍人 ぐんじん が全員 ぜんいん 死亡 しぼう したため、タッカーはこれを「米国 べいこく 史上 しじょう 最悪 さいあく の原子 げんし 炉 ろ 事故 じこ 」と呼 よ んでいる[ 52] 。
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単位 たんい 測定 そくてい 放射線 ほうしゃせん の種類 しゅるい 物質 ぶっしつ との相互 そうご 作用 さよう 放射線 ほうしゃせん と健康 けんこう
基本 きほん 概念 がいねん 放射線 ほうしゃせん の利用 りよう 放射線 ほうしゃせん と健康 けんこう 影響 えいきょう 放射能 ほうしゃのう 被害 ひがい
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